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更新日時 2018年05月18日

 煉瓦(れんが)は、粘土や頁岩、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料。通常は赤茶色で直方体をしている。焼成レンガは、土の中に入っている鉄分の影響により赤褐色となる。耐火レンガは炉材にも使われる。日本において煉瓦建築の技術は、近代化とともに導入されたが、構造材として用いる場合は地震に弱いという難点があり、関東大震災では多くの被害を出したことから、煉瓦建築は小規模な建物を除いて激減した。ただし、建材には煉瓦風のタイルも様々な種類が存在し、仕上げ材としては現在でも多く用いられる。これは洋風の雰囲気を出すため、木造や鉄筋コンクリート造の表面に張り付けるものである。
上記イラストはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より借用。
煉瓦構造物 ねじりまんぽ 煉瓦塀
煉瓦樋管 ランプ小屋 煉瓦橋梁・隧道
煉瓦塀写真集
勝光寺煉瓦塀:勝光寺は石川県小松市にある真宗大谷派の寺院。真宗大谷派は、浄土真宗の宗派の1つで、宗教法人法による宗教法人(包括宗教法人)である。 阿弥陀如来一佛を本尊とし、親鸞を宗祖とする。大谷派の根本道場である「真宗本廟」(通称:東本願寺)を、所属するすべての寺院および教会の本山とする。2014年12月31日現在の被包括宗教団体数は8,705。「大谷派」・「大派」・「谷派」と略称される。
東金市東金の煉瓦塀:この煉瓦塀の詳細はインターネットで検索しても解らなかったが、ちょいのりさんのレポートだと造り酒屋だったそうである。東金市は、千葉県の中東部、九十九里平野の房総台地との境界に位置し、古くから、農業・商業等の産業を中心に発展してきた山武郡市の中核都市である。首都圏の50km圏に位置し、東関東自動車道〜京葉道路〜千葉東金道路、あるいはJR京葉線直接乗り入れの東京行き快速電車等により都心への交通利便性の比較的高い地域である。
高崎市中紺屋町煉瓦塀:中紺屋町は紺屋職人が多くいる町で、元紺屋町と新紺屋町の間にあることからこの名前がつきました。旧城下の職人町のひとつで、市街地のほぼ中央に位置している町です。高崎市は1621年(元和7年)の大火から1945年(昭和20年)の高崎空襲被害まで24回の大火に有っている。その為かこの煉瓦塀は高さが非常に高い。
リバーカントリーガーデン京橋煉瓦塀:大阪市城東区新喜多1-2-7に在るリバーカントリーガーデン京橋は、JR大阪環状線の京橋駅から徒歩1分、京阪電鉄本線の京橋駅から徒歩2分。1999年9月に竣工したリバーカントリーガーデン京橋は、事業主がリバー産業株式会社、および施工が前田建設工業株式会社他により建設された。2000年度全国花のまちづくり第10回コンクール企業部門で最優秀賞を受賞。2001年大阪市が建物の敷地や屋上の優れた緑化に贈る緑化施設表彰で表彰されました。古代ローマ遺跡をイメージした広場に豊かな緑を配置したことなどが評価されました。
大阪城筋鉄門:元和6年(1620年)に開始された徳川幕府による大阪城再築工事では、同年の第1期工事により二の丸の北外側に北外曲輪(三の丸)が築かれた。筋鉄門はその西の入口で、門扉は筋状の鉄板で補強されていた。ここは鴫野方面への通路にあたることから一般の通行が許され、特に鴫野の弁財天の縁日には多数の市民がここを通った。門は明治維新後も残り、北外曲輪跡に設置された軍事工場(大阪砲兵工廠)の正門とされたが、、現在は左右の石組みだけが残る。
貞徳舎煉瓦塀:創業以来126年にわたり、耐火物(耐火レンガ、碍子)などを製造してきました。 そこで培ってきた耐熱・絶縁の技術を基に炉内800〜1200℃の高温領域かつ昇降温の激しい過酷な環境で稼働する電気炉用ヒータの設計・製作を得意としています。 また、新たな技術・開発を常に追求しており、その時代に求められるニーズの先取りを目指しています。1891年創業以来125年がたちました。 当初から100年近くは耐火物製造専門メーカーとして、 また、最近の30年は各種電熱ヒータ製造にも進出しました。
造幣局煉瓦塀:独立行政法人造幣局は、硬貨の製造、勲章・褒章及び金属工芸品等の製造、地金・鉱物の分析及び試験、貴金属地金の精製、貴金属製品の品位証明などの事業を行う日本の行政執行法人である独立行政法人である。そのため、職員の身分は国家公務員である。本局は大阪市北区天満に位置し、構内に造幣博物館がある。
大阪偕行社附属小学校煉瓦塀:大阪偕行社附属小学校は、1888年、高島鞆之助(1844年〜1916年)が「国家有為の人材の育成」を目指し、大阪偕行社(陸軍将校の倶楽部)と在阪の財界人の支援を得て設立した。高島鞆之助は薩摩藩出身の陸軍軍人であり、、後に陸軍大臣・拓殖務大臣となった政治家である。1900年の小学校令および1907年の同令の改正に対応して小学校規則を変更し、私立小学校施行規則に則した学校教育を行った。
西大番頭小屋跡:江戸時代、徳川将軍直属の部隊の一つである大番は、1組50騎の計12組からなり、それぞれの部隊長である大番頭に率いられ、うち2組が1年交代で大阪城本丸の警備にあたった。彼らの小屋(宿営)は二の丸南側一帯に東西に分けられて置かれ、大手口枡形の南東側となるこの一帯には西大番頭の小屋があった。敷地には大番頭本人やその家臣、幕府から配属された与力・同心の居住する建物が建ち並んでいた。明治維新後、跡地には陸軍関連施設が建てられ、その頃の門柱や左右の塀が僅かに残る。
日本紡績本社工場跡煉瓦塀:1894年(明治27年)に日本紡績会社本社工場が建設されたときの赤煉瓦壁の一部が公園東側の境界に現存している。本社工場は大阪市下福島(大阪市北区西野田平松町)に建設された。この工場が後の福島工場であり、戦後はユニチカの本店社宅白鳳荘が敷地の一角に建設され、その後昭和53年4月からユニチカ建設不動産事業本部によって「ユニライフ福島」が分譲マンションとして建設され、今日に至っている。
延原倉庫株式会社:大阪府大阪市北区大淀北1-6-5にある貸倉庫で現在はヤマト運輸 大阪大淀センターが倉庫を借りて運営している。煉瓦倉庫及び煉瓦塀は明治から大正頃にかけて施工されたと推測される。戦後の1960年代の航空写真でも倉庫が確認出来る。煉瓦の刻印も確認出来た。
別府鉄道株式会社(べふてつどう)は、かつて兵庫県西南部で鉄道事業を行っていた会社。1984年に鉄道事業から撤退した後は、タクシーならびに貸切バス事業者として営業を続けた。本社は兵庫県加古川市。鉄道事業は貨物輸送が主体だったが、旅客営業も行っていた。輸送量の減少により、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正(操車場の廃止と貨物列車大整理)を機会に、貨物輸送の維持ができなくなり、全線が廃止された。
鳴門煉瓦製造所煉瓦塀:板野郡瀬戸町北泊にあった煉瓦製造所。始まりは天羽煉化製造所が明治23年1月に設立。その後、鳴門煉瓦製造所が大正6年3月に設立された。昭和10年代頃まで煉瓦を製造していた。江戸期から1889年(明治22年)にかけては板東郡および板野郡の村であった。寛文4年より板野郡に属した。明治22年の町村制施行に伴い同郡瀬戸村、昭和3年に瀬戸町の大字となった。
寂静山無為院圓勝寺:浄土真宗本願寺派 寂静山無為院圓勝寺は、今から約四百年前の戦国時代、古津神浦城の城主であった篠原肥前守自遁の三男右近が開基したと伝えられています。篠原肥前守自遁は、阿波の戦国大名三好氏の家臣であり、三好三人衆の一人、篠原長房の実弟と言われています。織田信長と戦っていた石山本願寺の顕如上人は篠原長房を重視し、永禄二年(1559年)、蓮如上人の孫娘(富田教行寺実誓の娘)を嫁がせています。
函館市青柳町民家煉瓦塀:函館市青柳町14の民家に赤煉瓦及び焼き過ぎ煉瓦で造られた煉瓦塀が築造されている。煉瓦塀の竣工年月は不明。
函館中華山荘:函館には、幕末から中国人が住み始めており、大半は海産物の貿易に携わっていた。この墓地は、明治9年(1876年)に、青森県下に漂着した中国人の遺体を埋葬するために、開拓使から土地を借りたことに始まる。当初の面積は、184坪(607u)しかなかったが、大正8年(1919年)に隣接の土地を買収し、466坪(1,538u)となった。この時に、周りをレンガ塀で囲み、現在のような体裁となった。
国華山高龍寺煉瓦塀:国華山高龍寺は、北海道函館市にある曹洞宗の寺院。函館市内にある最古の寺院である。北面と西面に設けられたレンガ造りの防火塀。度重なる大火の歴史から、厚さ60cmにもなる重厚なレンガ塀で延焼を防止しました。1910年(明治43年)の建築とされていますが、上方の塀には明治40年の大火の跡らしい焼け焦げがあり、それ以前(明治10年代)に造られたものと思われます。レンガの積み方は、上部はフランス積みで下部はイギリス積み。
前橋刑務所:前橋刑務所は、法務省矯正局の東京矯正管区に属する刑務所。1888年(明治21年)前橋監獄として東群馬郡宗甫分村(1889年に同郡前橋町に合併)の現在地に開設。 開設時から1889年(明治22年)にかけ、レンガ積みの塀が整備された。歴史の古い刑務所であり、明治時代の開設時こそ市街地から離れた場所であったが、その後の都市化進行によって西側の利根川を除く三方を住宅地に囲まれる状態となっている。
高崎市 山田文庫煉瓦塀:旧中山道が常盤町で直角に向きを変える角地に、レンガ塀に囲まれた財団法人山田文庫があります。明治以前の建物と思われる母屋、土蔵二棟、明治16年移築の茶室、それを囲むレンガ塀は高崎都市景観重要建築物等に指定されています。明治・大正・昭和と産業界で中心的な役割を担った山田昌吉と、その娘夫婦の山田勝次郎(旧姓蝋山)ととくが、ここを自邸として活躍しました。高崎の歴史にとって欠くことのできない遺産であり、地域の歴史を将来に伝える商都高崎の歴史的シンボルといえます。
善通寺煉瓦塀:永禄年間(1558-69)覚阿上人の開基と伝えています。もとは時宗四条派大本山金蓮寺末三大寺の一寺としてたびたび法主を出した由緒ある寺院です。本堂は宝永3年(1706)の大修理を受けていますが、移築当時の様式をそのまま伝えているようです。本堂前には秦武文の碑が建てられ、境内八角堂には首無地蔵尊がまつられて信仰を集めています。 時宗の四条派金蓮寺の末寺ですが、尼崎は一遍上人遊行の地として深い関わりがあり、近在の時宗寺院の筆頭の位置を占めていました。
大物川緑地煉瓦の花壇:昭和11年〜47年に、九州や山口県で貨物列車として活躍していた蒸気機関車D 51(通称デゴイチ)がある公園。機関車の長さは19・5m、高さは約4mで、当時に走った距離は地球と月の間を3往復したぐらいになるそうです。0m地帯を流れる大物川は自然流下ができず、浄化作用が働かないことが汚染に拍車をかけ、高度経済成長期にはゴミ溜めのような状態となります。
広瀬歴史記念館煉瓦塀:広瀬歴史記念館は明治維新の動乱から別子銅山を守り、さらに近代化を促進した広瀬宰平の業績やその生活ぶりを後世に伝えるために愛媛県新居浜市が設置した博物館である。展示館と旧広瀬邸からなり広瀬公園の中にある。広瀬宰平は1828年に近江の北脇家に生まれ、9歳で別子銅山に勤務し28歳の時に広瀬義右衛門の養子となった。
山陽煉瓦・吉名煉瓦・東亜煉瓦
竹原市吉名では、明治28年(1895年)に松本勝太郎が登り窯を築い たのを皮切りに、レンガの生産が始まった。吉名は、鉄分を 多く含む良質な赤土が豊富な土壌であったため、品質が高く、 日清・日露戦争による需要の拡大とあわさり、瞬く間にレン ガの産地として名を馳せることとなった。大正14年(1925年)には、従来の登り窯より熱効率に優れたホフマン式輪環窯が建てられ、大量生産が可 能となった。
旧松山堂・旧岩崎邸煉瓦
旧松山堂の煉瓦。既存の蔵から切り出した煉瓦壁をその記憶を継承する目的で展示しています。旧岩崎邸の煉瓦塀。この煉瓦塀はこの場所に有った岩崎邸・三菱社の擁壁の煉瓦を再利用して造られたものです。岩崎邸・三菱社の擁壁は明治時代に築造されたもので、煉瓦の平面には桜印の刻印が有ることから、小菅集治監で製造された物で有ることが解る。煉瓦の製法は型造りではなく鉄線で切り取って製作されたもので、1個1個微妙に大きさが異なる。
讃岐煉瓦の煉瓦塀
讃岐煉瓦は香川県観音寺市で煉瓦の製造を行っていた会社で、讃岐煉瓦の名前の会社は現在でも残っていて、現在は自動車教習所の経営、温浴施設の経営、建築資材の卸、不動産の賃貸・管理、宅地造成並びに分譲、損害保険代理行などの事業を行っている。讃岐煉瓦は広島の原爆ドームで使われている。
住所:香川県観音寺市有明町5
加藤味噌製造煉瓦。この煉瓦は旧加藤味噌製造の煉瓦である。
住所:東京都荒川区南千住6-12
田中煉瓦田中邸の煉瓦塀と煉瓦蔵:明治初年武蔵國豊島郡船方村字前田八番屋敷 田中榮蔵(文化十二年生)は、明治維新より文明開化の進展に伴い西洋建築が興隆し煉化石の需要増大に着目 河川の便益と立地条件に適した同地荒川岸に煉化石製造工場を建設し獨力をもって明治二年二月吉日煉化石製造を創業。主に工部省陸軍省歩兵工廠等諸官廳及び会社工場に建設資材として販売。
加藤研磨工業所煉瓦塀
住所:東京都荒川区荒川8-18-8
加藤研磨工業所は1957年(昭和32年)に創業、50年以上の長きに渡り下町情緒の残る東京・荒川区で研磨業に勤しんできました。 現在では創業者の息子である兄弟2人が中心となり、ベテランと若い世代と一緒に技術を磨いています。
荒川区民家の煉瓦塀
住所:東京都荒川区東尾久8-12
下部が煉瓦塀で上部はコンクリートブロックで積まれている。コンクリートブロックは後年に積まれたものか?建物は洋風の建物。
2016年12月18日探索。
板橋区の煉瓦塀
現在はマンションの煉瓦塀になっているが詳細は不明である。戦後の1940年代の航空写真を見ると大きな工場等は無かったようなので個人の住宅跡と思われる。
住所:東京都板橋区板橋3-40
2016年12月18日探索。
佐藤病院の煉瓦塀
表側は焼き過ぎ煉瓦。
沿 革
・明治42年7月佐藤医院創設
・大正7年9月佐藤病院に改称
・昭和20年3月東京大空襲により、病院建物は全焼
・昭和20年6月佐藤診療所再開
・昭和23年10月佐藤病院に改称
・昭和45年7月増改築工事完了
2016年12月18日探索。
千住製絨所は、かつて東京都荒川区南千住にあった官営の工場。明治新政府によって設立され、被服生地を製造していた。1945年(昭和20年)、敗戦により一切の操業を停止し、土地建物併せて足立区の民間企業・大和毛織に売却されたが、業績不振により1960年(昭和35年)に操業停止となり閉鎖、製絨所は80余年の歴史に幕を閉じた。現在、ライフ店舗横に数メートル残され、産業遺構として保存されている。2016年12月18日探索。
凸版印刷煉瓦塀:1938年(昭和13年)東京市板橋区志村(現 東京都板橋区志村一丁目)に板橋工場を竣工、操業開始ニューヨーク株式市場に端を発する世界恐慌は、日本の産業界を深刻な不振に追い込みました。新工場の板橋工場は、総面積約6万6000平方メートル。工場の建物は4万平方メートルあり、洋風庭園と運動設備を備え、当時の工場のイメージを一新する近代的な工場でした。第1期工事が終了した1938年に操業を開始、すべて完成したのは1940年でした。2016年12月18日探索。
大阪織物煉瓦遺構:大阪織物株式会社は1906年(明治39年)に設立。木綿縮の生産から始まり、1911年(明治44年)に原糸紡績機を新設。従業員は大正期を通じて堺市で1、2位を争うほどの規模を誇ったが、紡績会社全体の中では中堅規模に位置図けられる。沖縄出身の女工を多く雇い、1913年の女工数は427人だったが、大戦時の好景気に約1700人までに急増している。終戦後は女工数を900人台まで減らしたが、その後徐々に持ち直し1937年には1500人近くになっている。
日本赤十字社医療センターの前身の日本赤十字社病院は、1886年(明治19年)に東京飯田町に開院し、1891年(明治24年)に現在地に移転した。病院の建設の際に道路沿いに長い煉瓦塀が造られた。特別に注文した煉瓦を使ったという。煉瓦塀は現在の病棟新築の際に取り壊されたが、日本赤十字看護大学新校舎建築の際に、煉瓦を利用した校門が造られた。また医療センター入口付近にも煉瓦塀の一部が復元され、共に往時の煉瓦塀を偲ばせている。2016年11月27日探索。
桐生市藤江醫院煉瓦塀:日本織物会社を設立した佐羽家と友人で、日本織物の発電所の為に製造された桐生煉瓦製造の煉瓦を分けてもらったとの噂がある。 桐生煉瓦製造会社は明治21、22年の2年だけ存在していた会社。
2016年11月20日探索。
足利市旧木村浅七邸:明治初期に竣工。煉瓦塀及び敷地内部に須長藤吉煉瓦製造所の刻印が見つかる。初代・木村浅七は、上州山田郡須永村の生糸商・星野家の三男として生まれ、織物業の木村家の養子となり家督を継ぎます。足利模範撚糸合資会社の初代社長や、足利銀行・渡良瀬水力電気・足利瓦斯鰍フ役員としても活躍しています。
住所:栃木県足利市助戸仲町453
2016年11月20日探索。
東京煉瓦刻印探索2016
住所:東京都渋谷区上原1丁目33
ガンタ積みの煉瓦擁壁。
2016年09月11日探索。
三菱電線工業箕島製作所(旧紀伊莫大小紡績)
住所:和歌山県有田市箕島663
竣工:大正15年
赤煉瓦の塀。
この地に初めに工場を建設したのは紀伊莫大小紡績でした。その後大正14年(1925年)に和歌山紡織が、工場を機械ともで買収し、敷地造成して敷地を広め、昭和3年(1928年)1月より箕島工場として操業した。
2016年09月06日探索。
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煉瓦塀写真集