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更新日時 2016年12月21日

煉瓦構造物 出汐倉庫:広島陸軍被服支廠
 広島陸軍被服支廠:出汐倉庫は、広島県広島市南区出汐にある大日本帝国陸軍の被服廠の施設。被服廠が取り扱っていた品目は軍服や軍靴だけでなく、マント・下着類・帽子・手袋・靴下等の外、背嚢・飯盒・水筒・ふとん・毛布・石鹸・鋏・小刀・軍人手帳等の雑貨まで含まれていた。大正・昭和時代に入り戦線が拡大すると、武器や戦備の多様化に対応して防寒服・防暑服・航空隊用・落下傘部隊用・挺身隊用被服あるいは防毒用被服なども取り扱うようになった。これらの物品のうち、被服廠では軍服の縫製と軍靴の製造が主となり、その他の物品の製造については民間工場に依託され、被服廠では受発注業務・品質管理・貯蔵・配給業務を主として行っていた。陸軍向けの軍服や軍靴の生産、被服類全般及び小物や雑貨の調達・貯蔵・配給を行う一方で、中国・四国・九州地区におけるこれらの物資を生産する民間工場の管理指導、国民の被服監督なども行っていた。
@兵員の軍服や軍靴などを製造していた。戦後、建物は様々なものに転用されたが1997年以降閉鎖され遺構として放置されている。現在は「出汐倉庫」の名で通り、基本的に立入禁止であり、見学の際には事前に広島県財産管理課に連絡する必要がある。内部の見学は届け出をして鍵を借りに行かなくてはならないので、今回は外部から見学。
@広島陸軍被服支廠の被爆建物の看板。
@1905年(明治38年)4月陸軍被服廠広島出張所として開設され、同年12月市内皆実町(当時)の現在地に建物を全面竣工した。1907年(明治40年)11月に支廠に昇格する。創設当時は、東京・大阪と全国に3ヶ所のみ存在し、3所ともに連携を図りながら業務を図る。敷地は大正初期時点で7万坪。近隣には1906年、北側の東新開町(現在の霞町)に移転してきた陸軍兵器支廠[6]のほか、陸軍要塞砲兵連隊(のち電信第2連隊 / 比治山本町)・演習砲台などの陸軍施設が多く所在していた。
@擁壁は下部及び柱、天端部分が焼きすぎ煉瓦を使用。壁の部分は普通の赤煉瓦を使用。天端の笠石は花崗岩を使用。
@天端下部を確認したが、煉瓦の刻印は見つからなかった。
A倉庫外壁はイギリス積み。
A倉庫外壁の柱部分。
A倉庫外壁の窓は鉄扉。
B現存する10 - 13番庫は1913年(大正2年)8月に竣工したものである。4つの棟からなり、L字型に並び、1棟の長辺94m・3階建て高さ17mの鉄筋コンクリート造り煉瓦張り。1997年以降完全に閉鎖され現在は遺構つまり未使用である。現在、1-3号棟は県が、4号棟のみ中国財務局が所有し、4棟とも県が一括管理している。延床面積約21,700m2。
C11番倉庫。
C11番倉庫と12番倉庫の間には通用門がある。
C11番倉庫と12番倉庫の間には通用門の上部煉瓦を確認したが、煉瓦の刻印は見つからなかった。
C11番倉庫と12番倉庫の間。
C12番倉庫。
D12番倉庫。
D12番倉庫。
E12番倉庫。
E12番倉庫。
E13番倉庫。
E12番倉庫のと13番倉庫の下部には用水路のアーチに要石が嵌められている。
E12番倉庫のと13番倉庫。
F13番倉庫。
F13番倉庫。
F13番倉庫。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『広島市』を掲載」
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