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更新日時 2017年02月17日

煉瓦構造物 別子銅山煉瓦構造物
 別子銅山は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化していった。坑道は全長700キロメートル、また最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよび、日本で人間が到達した最深部である。皇居前広場の公園内に現存する楠木正成像は、1900年(明治33年)に別子銅山の銅で献納された。また、1900年(明治33年)の銅山川鉱毒事件など、鉱毒事件が数回発生した。閉山後の今は植林事業の成果もあり緑深い自然の山へと戻って、夢の跡のような産業遺跡がひっそりと佇んでいる状態であるが、近年はそれらの歴史的意義を風化させないことを目的として活用したマイントピア別子など観光開発が進み、新居浜市の新たな資源として甦りつつある。また、別子山村の合併により一体的な観光開発にも弾みがついている。
@住友金属鉱山下部鉄道の王子町の隧道。
A住友金属鉱山下部鉄道の山根駅手前の橋台跡。
A住友金属鉱山下部鉄道の山根駅手前の橋台跡。
B別子銅山の旧端出場水力発電所。対岸のマイントピア別子より発電所を望む。発電所建屋左側の下掛け水車は比較的最近設置された。
B別子銅山の旧端出場水力発電所。
C別子銅山の第4通洞。輸送の合理化を図るため明治43年(1910年)に着工し大正4年(1915年)に開通した別子銅山の大動脈です。長さが約4,600mの水平通洞でアーチ型の堅固なトンネルの入り口には住友家15代家長住友吉左右衛門友純氏の筆による「第四通洞」の端正な文字が深々と刻まれています。
C別子銅山の第4通洞。
C別子銅山の煉瓦水路。坑内水流水路の一部です。ここから、また木製の水路に継ぎ、鉄道線路脇の坑水路で山根収銅所に流送して浄化処理をしました。明治35年(1902年)、標高約750mの所に第3通洞延長約1800mができると、上部地区の鉱石の運び出しが便利になると同時に、坑内水も排出されました。鉱水は地表から浸透した水が含銅硫化鉄鉱と接触して強い酸性となり、銅や鉄の折出金属を含んだ鉱毒水となります。この水を川に流すと土壌が汚染され環境が破壊されますので、坑口から木製の水路を連ね、途中、水流変更箇所には会所(水溜池)を、急流部分には煉瓦水路を作って急峻な山肌を延々と流して来ました。
C別子銅山の煉瓦水路にサヌキとカタカナで書かれた煉瓦の刻印が確認出来た。これは讃岐煉瓦の刻印と思われる。
C別子銅山の煉瓦水路に堺煉瓦の刻印。
刻印は二種類確認出来た。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『新居浜市』を掲載」