更新履歴

更新日時 2017年06月08日

 別子銅山小足谷集落跡煉瓦構造群は愛媛県新居浜市の銅山峰嶺南にある過去に繁栄した別子銅山の跡である。1691年に開坑され1916年に東平に採鉱本部が移されるまで別子銅山の中心地であった。登山口は海抜約800m、銅山峰は約1300m、高低差約500m道程約3.2kmの間に元禄時代から1916年(大正5年)までの225年間に渡る無数の産業遺産が眠っている。各所には当時の写真と説明の書かれた看板が整備されている。えひめ森林浴八十八ヶ所八十二番に銅山越えが選定されている。新居浜市街から車で約20分でマイントピア別子さらに愛媛県道47号新居浜別子山線を約30分で駐車場(9台分)のある登山口に到着。そこから遊歩道を15分登ると円通寺の入口があり、さらに5分行き小足谷川を渡ると目の前にかつて小足谷集落があった地に着く。
@旧別子登山口。駐車場があり、9台ほど駐められる。今回は案内板にある東延斜坑まで行く予定です。機会が有れば次回は歓喜坑まで行ってみたいです。
@旧別子登山口。八十二番に銅山越えもここからスタートする。
A旧別子登山道。登山道としてはかなり整備されている。
B住友のマークが入った境界杭。
C醸造所跡:この辺りは別子銅山でも最も新しく開かれた集落である。小足谷の集落は大きく分けて3つに分かれ、小足谷の橋を渡る手前とその対岸の朝日谷集落には労働者が住み、この辺りには往還に沿って商家が軒を連ねていた。そしてこの先に接待館地並みからは職員の集落で俗に上前集落といって商人の住む下前集落と区別されていた。小足谷醸造所でヰゲタ政宗(鬼ごろし)を製造していた。この煙突は醸造所の煙突。
C小足谷醸造所で1870年(明治3年)からヰゲタ政宗を最高期は年間100KL製造していた。醸造所跡には野良煉瓦がたくさん散乱している。
C醸造所跡に讃岐煉瓦の刻印がある煉瓦も落ちていた。
C醸造所跡に讃岐煉瓦の刻印がある煉瓦も落ちていた。讃岐煉瓦の刻印に1分の文字の入った煉瓦の刻印
C醸造所跡に堺煉瓦の刻印が確認出来た。
C醸造所跡に日本煉瓦の刻印が確認出来た。
D接待館跡:1901年(明治34年)から接待館として営業。その上に歴代採鉱課長の傭人社宅がある。
D煉瓦塀を廻らせた邸宅跡は歴代の鉱山課長が住んでいたと言われている。その隣が醸造課長宅で、これより小足谷に沿って20棟ほどの傭人社宅や倶楽部などが建ち並んでいた。
D醸造課長宅?の煉瓦塀。
D醸造課長宅?の煉瓦塀の十字ののぞき穴?には多数の煉瓦の刻印が確認された。
D醸造課長宅?の煉瓦塀。
D醸造課長宅?の煉瓦塀はイギリス積みで積まれている。
D醸造課長宅?の煉瓦塀の煉瓦の刻印。○にトの刻印。
D傭人社宅?の煉瓦塀の十字ののぞき穴?の煉瓦の刻印を確認したが、見つからなかった。煉瓦塀が設置された時期によって、使われた煉瓦のメーカーが違うのか?
D傭人社宅?の煉瓦塀。
D接待館跡の煉瓦塀。この煉瓦塀にも煉瓦の刻印は確認出来なかった。
D接待館跡の煉瓦塀。
E山神と書かれている。神社?が有ったのだろうか?煉瓦の基礎に廃屋を解体したような木材が散乱している。
F小学校と測候所跡:政府は明治5年に学制発布、これによって子女の初等教育が義務義務付けられるようになった。これを受けて別子銅山では明治8年(1875年)に勘場の下方、通称目出度町に私立の足谷小学校を創設した。その後も学校教育は次第に一般化し、明治19年5月には人口の急増もあって小足谷に尋常小学校を開校、さらに明治22年9月には、ここに私立小足谷尋常小学校を建設、続いて高等小学校も併設した。更に明治27年(1892年)に私立別子尋常高等小学校になった。最盛期の明治32年3月には生徒数は男女298名、教員7名であった。
F水準点の様だが国土地理院の地図を見ても表記が無い。廃水準点?
F石垣の上の測候所跡には野良煉瓦が散乱している。
G高橋製錬所と沈殿工場。
対岸に渡る橋のようだが、現在は渡るのは難しそうだ。
Hバイオトイレ。
Hダイヤモンド水:古くはこの辺りの地名はタカバシであったが、明治12年(1879年)頃この対岸に洋式の溶鉱炉が建設されてからはヨウコウロと呼ばれるようになった。ところが戦後(昭和20年代)、別子鉱床の他にもう一層ある金鍋鉱床というのを探し当てるためにボーリング調査を始め、ここでも昭和26年に掘削を行った。予定深度まであと僅かの82mほどの所で水脈に当たり多量の水が噴出し、ジャミングという事故が起きてロッドの先端部分がねじ切れ、掘削不能となった。ダイヤモンドをちりばめた先端部分が今も孔底に残っているので、誰言うことも無くダイヤモンド水と呼ばれる様になった。
I対岸の高橋溶鉱炉・病院が有った場所が有った場所。これは釜戸か?
J対岸の病院が有った場所に煉瓦が平面を前面に積まれている構造物があった。讃岐煉瓦の刻印が見える。
J対岸の病院が有った場所に讃岐煉瓦の刻印を確認。讃岐煉瓦の刻印の真ん中に5の文字。
J煉瓦の四角い穴があった。肥だめ?
J煉瓦の四角い穴の前に煉瓦の門柱が残っている。
K平面が多く出ている煉瓦の塊があったが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。
K煉瓦の塊。
L再び川を渡る。吊橋になっている。
M開口課金庫跡の煉瓦構造物。
M開口課金庫跡の煉瓦構造物。
金庫なので煉瓦の厚みもかなりある。
N第一通洞南口前に煉瓦が敷き詰められている場所があったが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。
N第一通洞南口。
N第一通洞南口。南口は10m程で閉塞している様に見える。
N第一通洞南口から外部を見る。
N第一通洞南口にレールが残る。
N第一通洞南口に落ちていた野良煉瓦に讃岐煉瓦の刻印を確認。
O東延地区:この谷の上部が東延地区である。明治7年(1874年)住友家が招いたフランス人鉱山技師ルイ・ラロックの構想に基づき明治9年から近代化の開発が始まった。あの見事な石垣の築造は2年の歳月を要して明治18年に完成したもので、面石は背後の山腹にある蛇紋岩を採石し築造した。谷川の水流は赤煉瓦30万枚を使って暗渠を構築し、用地の底を伏流させている。造成当時の用地面積は約6,600立米、造成に要した作業者は延べ23,000人であった。ただし、冬季4〜5ヶ月は積雪・凍結で工事を中断したが、その間に新居浜地区で暗渠用の煉瓦を作った。
O東延地区の暗渠。
O東延地区の暗渠内部。この暗渠内部は入ろうと思えば入れる暗渠で、奥に光が見えたのでもしかしたら、現役の坑道に繋がっているのではと期待したが・・・
O東延地区の暗渠内部から、外部を見る、暗渠の2m先は5m程の落差の滝になっている。登山道から第一通洞南口まで引いている水のパイプ沿いに辿ればここまで来られる。
O東延地区の暗渠の煉瓦は×状のひっかいた様な煉瓦の刻印が多数見受けられるが、先ほどの説明のように、冬場に新居浜地区で焼かれた煉瓦の様だ。
O東延地区の暗渠の下側はイギリス積みでアーチ部分は長手積みで積まれている。
O東延地区の暗渠内部。川床は岩盤がそのままむき出しになっている。水量が少なく長靴で無くても反対側まで出られた。
O東延地区の暗渠内部に分岐している部分があった。この先は探索していないので不明だがm明かりが見えないので閉塞?パイプは第一通洞南口への水を流しているパイプ。
P東延地区の暗渠出口。出口部分はコンクリート及び鋼板の覆いなので、後年に補強修復されたのであろう。
P東延地区の暗渠出口。水のパイプはこの先の会所からひかれていたので、坑内水では無く普通の川の水のようだ。
O東延地区の煉瓦造りの建物。
P東延地区の煉瓦造りの建物内部。内部に基礎及びアンカーボルトが見えるので、東延斜坑の巻上機があったのではないかと推測する。
P東延地区の野良煉瓦を確認したが煉瓦の刻印は確認出来なかった。
P東延地区の煉瓦造りの基礎。ワイヤーが撒かれているので、巻上機関連の基礎と思われる。
P東延斜坑入口。斜坑は鉄筋を持ち網状に溶接した物で塞がれている。どう見ても進入は出来そうにも無い。
P東延斜坑入口。斜坑用のレールが残る。この角度だとかなりの傾斜だったと思われる。
P東延斜坑内部。持ち網状の鉄筋の隙間から内部を撮影。完全に閉塞しているかは不明。持ち網状の鉄筋で塞いでいると言うことは完全には閉塞していないと推測する。通気のため?
P東延地区で野良煉瓦の堺煉瓦の刻印を確認。
P東延地区の煉瓦の基礎。これも巻上機の基礎か?
P東延地区で野良煉瓦の日本煉瓦の刻印を確認。
Copyright (C) 2008-2017 hotetu.net All Rights Reserved
外部から直接リンクで飛んできた方は右ホームページリンクへ http://www.hotetu.net/ 歩鉄の達人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『新居浜市』を掲載」
別子銅山小足谷集落跡煉瓦構造群