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更新日時 2017年06月07日

別子銅山東平煉瓦構造群
 別子銅山東平煉瓦構造群:標高750m付近にあり、それまで旧別子の東延にあった別子銅山の採鉱本部が大正5年に移って来てから、銅山設備の周りに社宅・小学校・娯楽場・接待館が建てられ、昭和5年に採鉱本部が端出場に移された後も、昭和43年に閉山するまで賑わった。 その生活の様子を模型や映像を使い紹介したり、銅にまつわる品々を展示する「東平歴史資料館」、レンガ造りの旧保安本部を活用して銅板レリーフなどを体験できる「マイン工房」、その他数々の産業遺跡が整備されている。また、旧東平中学校跡地に「銅山の里自然の家」が建設されており、古の面影を残しながら豊かな自然に囲まれた中で宿泊研修が行える。 現在は天空の歴史遺産「東洋のマチュピチュ」との宣伝文句で利用者数を増やしている。
住友金属鉱山下部鉄道住友別子鉱山上部鉄道住友金属鉱山軌道別子銅山東平
@第三通洞:1902年(明治35年)完成の標高747m延長1795m幅3.35m高さ3.73mの主要運搬坑道。
@別子銅山の第三通洞内部。
@別子銅山の第三通洞前の橋梁にはトロッコの軌条が残る。
@別子銅山の第三通洞と橋梁の間には六角形の煉瓦構造物が残る。内部は八角形で1m程で埋まっている。この構造物は何に使われていたかは不明。
@この六角形の構造物の天端に丹治煉瓦の刻印を確認出来た。
@この六角形の構造物の天端に讃岐煉瓦の刻印も確認。
A旧東平第三変電所:明治37年完成。落し水力発電所から送電されてきた電力の電圧調整と明治38年に第三通洞に坑内電車が導入されたことに伴い、その坑内電車用に直流変換するために設置されたものとされています。
A旧東平第三変電所の手前には煉瓦の基礎が残る。
A旧東平第三変電所の手前には煉瓦の基礎に堺煉瓦と讃岐煉瓦の煉瓦の刻印が確認出来た。
堺煉瓦の刻印の真ん中にマの文字を確認。
A旧東平第三変電所入口上部に三相交流の碍子が残る。煉瓦はイギリス積みで積まれている。
A旧東平第三変電所1階内部。
A旧東平第三変電所2階内部。
A旧東平第三変電所には釜戸も残っている。
A旧東平第三変電所のトイレ。
A旧東平第三変電所裏側。右の小屋がトイレ。
A旧東平第三変電所の軒下。
A旧東平第三変電所の軒下に讃岐煉瓦の煉瓦の刻印を確認。
A旧東平第三変電所の上には謎の煉瓦構造物が残る。パイプが接続されているため、給水塔か?
B旧火薬庫:1912年(明治45年)から設置。坑口が横向きに掘られ爆発事故の際に爆風が直接出ない構造。
B旧火薬庫。東平の地図によると奥行きは大マンプと同じ位なので、100mほど有りそうだ。
B大マンプの入口。採鉱本部跡側。
B大マンプの入口。採鉱本部跡側。意外と内部は確りしているので、一般公開して欲しいところだ。
C大マンプの入口。旧保安本部側。
C大マンプの入口。旧保安本部側。内部はしかりしている。
Dこの設備は貯水槽か排水処理設備の様に思える。
D貯水槽又は排水処理設備。
D貯水槽又は排水処理設備は新しい煉瓦タイルのようだ。
E小マンプ。短い方のトンネルで、現在は鉱山運搬機器展示場となっている。内部の様子は東洋のマチュピチュ別子銅山東平を見てください。
E゚(からみ)煉瓦:゚で作った煉瓦、重さは1個約60kg。゚とは、鉱石の製錬過程で生ずる廃棄物で、スラグ、鉱滓ともいう。この゚煉瓦は、明治38年(1905年)に創業を開始した。四阪島製錬所で造られた物で有ろう。銅製錬では、銅鉱石中の鉄分を取り除くため珪石を混ぜ、珪酸鉄(゚)として銅を分離させたのち、型に入れて゚煉瓦を造った。
F旧保安本部:1904年(明治37年)頃完成。マイン工房として利用中。
F旧保安本部:1904年(明治37年)頃完成。マイン工房として利用中。
F旧保安本部の軒下を確認したが、煉瓦の刻印は確認出来なかった。
F旧保安本部裏山の煉瓦構造物。
G旧インクライン跡:大正5年(1916年)頃、東平・端出場索道の物資運搬の接続施設として、東平工場中心地・電車ホームと索道基地との間に、斜長95m、仰角21度でインクラインが設置された。動力は電気巻上であった。複線の斜路は連動していて、片方が上がれば片方が下がる仕組みになっており、必要な物資や生活品などが引き上げられ、坑木などが引き下ろされていた。インクライン跡の傾斜を利用して、平成6年マイントピア別子・東平ゾーンの整備時に220段の長大階段が作られた。
H東平貯鉱庫跡:重厚な花崗岩造り。明治38年ころに建設されたと思われます。第三通洞経由で運ばれてきた鉱石と、新太平坑と東平を結ぶ太東索道から運ばれてきた鉱石を、一時的に貯蔵するものでした。坑内から運び出された鉱石は、索道基地から下部鉄道黒石駅(昭和10年からは端出場)に搬送されるまでの間、ここに貯められていました。
H東平貯鉱庫跡。煉瓦の平面が出ている部分が多く有る。
H東平索道停車場跡:東平と端出場を結ぶ主要輸送機関でした。鉱石は隣接する貯鉱庫から搬器に移され、端出場へと運ばれていました。 明治26年(1893年)から鉱石の運搬経路は、上部鉄道と石ヶ山丈〜端出場間の索道を経由して下部鉄道に搬出されていたが、明治35年(1902年)第三通洞(東平坑口〜東延斜坑底間(3,575m)にドイツ人の索道技師ブライヘルトにより自動複式索道が設置された。途中、新道と六号の2箇所に中継所が設置され、押し出し作業による中継がされていた。新道の中継所跡のレンガ造りの建物は今も残っている。
H索道の基礎跡の平面が出ている天端に讃岐煉瓦の刻印が確認出来た。
H索道の基礎跡の平面が出ている天端に讃岐煉瓦の刻印が確認出来た。
I社宅跡:鉱山で働く人々の社宅がここにありました。基礎のコンクリートを生かし、骨組み(スケルトン)で実物大に復元しています。現在も「かまど」が残っており、往時をしのばせています。
I社宅跡の釜戸裏の煉瓦。
I機械成型の煉瓦のため、後年に補修されたのか?煉瓦の刻印は見つからなかった。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『新居浜市』を掲載」