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更新日時 2017年05月27日

 煉瓦(れんが)は、粘土や頁岩、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料。通常は赤茶色で直方体をしている。焼成レンガは、土の中に入っている鉄分の影響により赤褐色となる。耐火レンガは炉材にも使われる。日本において煉瓦建築の技術は、近代化とともに導入されたが、構造材として用いる場合は地震に弱いという難点があり、関東大震災では多くの被害を出したことから、煉瓦建築は小規模な建物を除いて激減した。ただし、建材には煉瓦風のタイルも様々な種類が存在し、仕上げ材としては現在でも多く用いられる。これは洋風の雰囲気を出すため、木造や鉄筋コンクリート造の表面に張り付けるものである。
上記イラストはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より借用。
煉瓦の刻印写真集 ねじりまんぽ写真集 煉瓦構造物写真集
重松倉庫株式会社。倉庫・運送業・産業廃棄物収集運搬業・派遣事業。大正13年(1924年)6月創業の「中央染工」という捺染工場を再利用し現在、重松倉庫が使用している。昭和8年(1933年)12月15日中央染工・松山染色(松山市)、捺染工業組合の申合せにより操業短縮実施(1カ月間)
松山聖アンデレ教会は、アングリカンコミュニオン (英国国教会系列) に属する、日本聖公会 神戸教区のパリッシュチャーチです。松山の地に在って、聖公会の教会として、神様の栄光を現すために、開き・集い・招く教会であることを目指します。1933年に現在地に移り、1956年、現存の煉瓦造りの礼拝堂が建てられました。 この礼拝堂は松山市に現存する唯一の煉瓦造りの建物です。2001年の芸予地震で東壁が倒壊しましたが、その後修復され、2004年に大洲城の構造設計をした増田一眞氏の構造計画によって、他では類を見ない、接着剤を使っていない杉板集成によるアーチが取り付けられ、耐震補強を行いました。
大原隧道:この大原隧道は、昭和3年(1928年)関東大震災の復興事業に一環として水道本管を敷設するためのトンネルとして完成しました。延長は254m、高さ3.62m、幅2.44mの馬蹄形トンネルで1/200の勾配、改修工事により高さと幅に若干の変化があるものの現在でもトンネル内部には蒔田・磯子方面への水道本管(610mm)が埋設されています。このトンネルの大きな特色は、坑門に紫褐色の焼過煉瓦を一段に長手面と小口面を交互に見せるフランス積みとし、これと対照的に力強いアクセントとして花崗岩を門柱風に配置するなどデザインに工夫がなされ、独特な風格を持つトンネルの坑門となっていることです。
呉市昭和町の煉瓦倉庫群。明治30年代に建設された「れんが倉庫」は、製品置場や大砲庫などに使われていました。呉海軍工廠の前身である呉海軍造兵廠時代に建てられたもので最高機密エリアでした。空襲により一部の建物が損壊しましが、戦後、国から購入した呉貿倉庫運輸株式会社が修理し、現在は倉庫として使用しています。
山陽煉瓦・吉名煉瓦・東亜煉瓦
竹原市吉名では、明治28年(1895年)に松本勝太郎が登り窯を築い たのを皮切りに、レンガの生産が始まった。吉名は、鉄分を 多く含む良質な赤土が豊富な土壌であったため、品質が高く、 日清・日露戦争による需要の拡大とあわさり、瞬く間にレン ガの産地として名を馳せることとなった。大正14年(1925年)には、従来の登り窯より熱効率に優れたホフマン式輪環窯が建てられ、大量生産が可 能となった。吉名町には、ホフマン式輪環窯煙突部が現在に残り、平成19年(2007年) に経済産業省の近代化産業遺産認定遺産リストへ掲載された。現在、吉名町にレンガ 工場が3社あり、高品質なレンガを作り続けている。
岡山県の煉瓦構造物写真集:山陽本線は当初山陽鉄道として発足し、1890年(明治23年)12月1日有年-仮三石間。1891年(明治24年) 3月18日三石-岡山間が開通した。1911年(明治44年)に第2線が開業したため、同じアーチ橋の上り線と下り線側で建設年代が異なり、その接合部には継ぎ目の跡が見られるのが特徴です。
岡山市水道記念館は、明治38年に建造された、煉瓦造桟瓦葺平屋、トラス小屋組の洋風建築。屋根の四周にパラペットをのせ、正面に切り妻、天然スレート葺きのポーチを設ける。三野浄水場として岡山市で最初に建設された浄水場で、明治38年(1905年)7月23日に通水を開始た。当時、動力室・送水ポンプ室として使用されていた建物を再利用し、岡山の水道について学べる施設になっています。建物は平成17年に国の登録有形文化財に登録されています。
新町駅のランプ小屋
新町駅は、群馬県高崎市新町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)高崎線の駅である。上野駅発着系統のほか、新宿駅経由で東海道線に直通する湘南新宿ライン、上野駅・東京駅経由で東海道線に直通する上野東京ラインが停車する。ランプ小屋は、鉄道の客車及び駅務や保線用の照明用ランプ、燃料等を収納していた倉庫のこと。ランプ庫、危険品庫と呼ばれることもある。危険物を取り扱うことから堅牢な煉瓦造りとなっている。明治時代に建設された旧日本国有鉄道(国鉄)などの主要駅には一般的に存在したが、用途の消滅や駅の増改築に伴い急速に姿を消していった。
佐賀県の煉瓦構造物写真集
佐賀県は唐津焼や伊万里焼などの焼き物のが多く製造されていた為、煉瓦製造も多く行われ、農家の倉庫や塀などに多くの煉瓦が使われている。反射炉に必要とされた耐火煉瓦の製造技術は、明治時代の洋式建築物に利用されるなど、歴史の転換に重要な役割を担った。反射炉の炉体は1500℃程度の高温に曝されるため、耐火煉瓦を如何に製造するかが重要であった。佐賀藩の反射炉では、煉瓦の焼成に有田焼の職人が持つ伝統技術が活用されたと考えられている。煉瓦の原料には、杵島郡や藤津郡の土が用いられた。また、煉瓦造りの現場では、瓦職人や左官が雇われてその技術が用いられた。
唐津鐵工所唐津工場旧発電所:唐津鐵工所から平成28年8月10日に株式会社唐津プレシジョンに商号を変更した。最新の製品開発は、5軸制御大型複合加工機、リニアモータ駆動のクランクシャフトグラインダ、大型ホブ盤、高性能大型歯車形削り盤など。竹内明太郎は炭坑経営の傍ら、明治39年から機械製造事業の準備を始める。要員、設備が整い、生産を開始したのは1909年(明治42年)4月15日。唐津鐵工所創業日とする。炭坑機械、船舶修理部品製造に次いで、本格的な工作機械製造に着手し、第一号製品、米国 Pratt & Whitneyモデルの14"スイング旋盤6台が1911年(明治44)11月完成したた。1916年(大正5年)4月には竹内鑛業の手を離れ、株式会社唐津鐵工所として独立。
別子銅山煉瓦構造物
別子銅山は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化していった。坑道は全長700キロメートル、また最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよび、日本で人間が到達した最深部である。
旧松山堂・旧岩崎邸煉瓦
旧松山堂の煉瓦。既存の蔵から切り出した煉瓦壁をその記憶を継承する目的で展示しています。旧岩崎邸の煉瓦塀。この煉瓦塀はこの場所に有った岩崎邸・三菱社の擁壁の煉瓦を再利用して造られたものです。岩崎邸・三菱社の擁壁は明治時代に築造されたもので、煉瓦の平面には桜印の刻印が有ることから、小菅集治監で製造された物で有ることが解る。煉瓦の製法は型造りではなく鉄線で切り取って製作されたもので、1個1個微妙に大きさが異なる。
三菱製紙中川工場煉瓦倉庫:三菱製紙株式会社は、三菱グループの製紙会社。日本の製紙業界では5位。塗工紙(高級光沢紙)などの印刷用紙を中心に、情報用紙、ティッシュペーパー、製紙用パルプ、写真、フィルター、感光剤などを製造し、近年は、不織布・ガラス繊維ペーパー、リチウムイオン電池セパレーターなどに注力している。1917年(大正6年)2月中川工場操業開始。2003年(平成15年)3月中川工場(東京都葛飾区)閉鎖。金町駅では2003年までは専用線発着の車扱貨物を取り扱っていた。
高松市水道資料館は、1980年(昭和55年)に設置された高松市文化振興会議において、水の文化の啓蒙を図るための「水の博物館建設」が提言されたことを受け、1987年(昭和62年)6月6日、高松市の近代水道発祥の地である御殿浄水場内に開館しました。建物は、高松市の近代水道創設のために建設された旧御殿水源地のポンプ室、事務室、倉庫を改装したものです。これらの建物は、1917年(大正6年)と1918年(大正7年)に建設されてから1986年(昭和61年)に現在の管理棟が完成するまで、約70年間に亘って使用されていました。
山地かまぼこ音楽堂。香川県観音寺市にある赤煉瓦倉庫(山地蒲鉾敷地内)山地蒲鉾は、1907年(明治40年)に初代、山地勇吉が、えびせんや天ぷらの行商として商いを始める。1977年(昭和52年)山地蒲鉾株式会社設立。上質のすり身を昔ながらの石臼で丁寧に練り上げる山地のこだわりを創業以来続けている。手練りとは、職人が手のひらにすり身の玉を取り、こねて形を整えます。それによりすり身本来のねばりや旨味が引き立ち、ふっくらと仕上がります。また、元祖へのこだわりとして原料には地元燧灘で獲れた新鮮な地えびを使用。旨味と甘み、パリッと噛み切る食感が特徴の一品に仕上がっている。
讃岐煉瓦の煉瓦塀
讃岐煉瓦は香川県観音寺市で煉瓦の製造を行っていた会社で、讃岐煉瓦の名前の会社は現在でも残っていて、現在は自動車教習所の経営、温浴施設の経営、建築資材の卸、不動産の賃貸・管理、宅地造成並びに分譲、損害保険代理行などの事業を行っている。讃岐煉瓦は広島の原爆ドームで使われている。
住所:香川県観音寺市有明町5
加藤味噌製造煉瓦。この煉瓦は旧加藤味噌製造の煉瓦である。
住所:東京都荒川区南千住6-12
田中煉瓦田中邸の煉瓦塀と煉瓦蔵:明治初年武蔵國豊島郡船方村字前田八番屋敷 田中榮蔵(文化十二年生)は、明治維新より文明開化の進展に伴い西洋建築が興隆し煉化石の需要増大に着目 河川の便益と立地条件に適した同地荒川岸に煉化石製造工場を建設し獨力をもって明治二年二月吉日煉化石製造を創業。主に工部省陸軍省歩兵工廠等諸官廳及び会社工場に建設資材として販売。就中明治二十三年東北本線鉄道工事用の煉瓦製造を請負い岩手県一戸町に工場を建設し二年間に亘り五百五十万本を生産納入せり。然るに大正時代になり煉瓦建築は衰退、時に関東大震災に因り工場倒壊のため煉瓦製造を廃止し昭和三年三月煉瓦営業を廃業す。2016年12月18日探索。
加藤研磨工業所煉瓦塀
住所:東京都荒川区荒川8-18-8
加藤研磨工業所は1957年(昭和32年)に創業、50年以上の長きに渡り下町情緒の残る東京・荒川区で研磨業に勤しんできました。 現在では創業者の息子である兄弟2人が中心となり、ベテランと若い世代と一緒に技術を磨いています。 バフ研磨ではバルブ、タンク、ポンプ等の内面研磨や小物から人の手では持ち上げられない大きなもの、表面が粗い鋳物なども研磨することができます。 電解研磨ではバフ研磨後に電解研磨をすることも多くなっています。
2016年12月18日探索。
荒川区民家の煉瓦塀
住所:東京都荒川区東尾久8-12
下部が煉瓦塀で上部はコンクリートブロックで積まれている。コンクリートブロックは後年に積まれたものか?建物は洋風の建物。
2016年12月18日探索。
北区清水質店煉瓦蔵
株式会社由清
住所:東京都北区滝野川2-3-1
代表者:清水直之
2016年12月18日探索。
理化学研究所板橋分所
1917年(大正6年)に渋沢栄一を設立者総代として皇室・政府からの補助金、民間からの寄付金を基に「財団法人理化学研究所」を東京都文京区駒込に設立。物理学、化学、工学、生物学、医科学など基礎研究から応用研究まで行う国内唯一の自然科学系総合研究所である。国際的に高い知名度と研究業績を持つ研究所であり、海外では"RIKEN"の名称で知られている。理研は1946年から2015年3月までの69年間、板橋の地に研究拠点を置いていました。
2016年12月18日探索。
板橋火薬製造所跡:東京砲兵工廠は、日本陸軍の兵器工廠である。1871年(明治4年)から1935年(昭和10年)にその機能を小倉工廠に移転するまで操業し、小銃を主体とする兵器の製造を行った。明治4年7月(旧暦)、造兵司本局は東京に移転し、大阪は大阪造兵司と名称を変更。陸軍省の発足とともに1872年4月15日(明治5年3月8日 (旧暦))大砲製造所と改称した。後に板橋火薬製造所・岩鼻火薬製造所・十条兵器製造所など関東の陸軍兵器工場を管下においた。
2016年12月18日探索。
板橋区の煉瓦塀
現在はマンションの煉瓦塀になっているが詳細は不明である。戦後の1940年代の航空写真を見ると大きな工場等は無かったようなので個人の住宅跡と思われる。
住所:東京都板橋区板橋3-40
2016年12月18日探索。
佐藤病院の煉瓦塀
表側は焼き過ぎ煉瓦。
沿 革
・明治42年7月佐藤医院創設
・大正7年9月佐藤病院に改称
・昭和20年3月東京大空襲により、病院建物は全焼
・昭和20年6月佐藤診療所再開
・昭和23年10月佐藤病院に改称
・昭和45年7月増改築工事完了
2016年12月18日探索。
千住製絨所は、かつて東京都荒川区南千住にあった官営の工場。明治新政府によって設立され、被服生地を製造していた。1945年(昭和20年)、敗戦により一切の操業を停止し、土地建物併せて足立区の民間企業・大和毛織に売却されたが、業績不振により1960年(昭和35年)に操業停止となり閉鎖、製絨所は80余年の歴史に幕を閉じた。現在、ライフ店舗横に数メートル残され、産業遺構として保存されている。
2016年12月18日探索。
板五米店(旧田中米店)は大正6年建造。店舗の裏にはレンガ蔵もある。
住所:板橋区仲宿40。
2016年12月18日探索。
凸版印刷煉瓦塀:1938年(昭和13年)東京市板橋区志村(現 東京都板橋区志村一丁目)に板橋工場を竣工、操業開始ニューヨーク株式市場に端を発する世界恐慌は、日本の産業界を深刻な不振に追い込みました。新工場の板橋工場は、総面積約6万6000平方メートル。工場の建物は4万平方メートルあり、洋風庭園と運動設備を備え、当時の工場のイメージを一新する近代的な工場でした。第1期工事が終了した1938年に操業を開始、すべて完成したのは1940年でした。
2016年12月18日探索。
築港住友倉庫は、大阪府大阪市港区海岸通2丁目にある赤レンガ倉庫のことである。大阪港の第1号岸壁に沿って、1923年(大正12年)10月に住友倉庫によって建設された。倉庫は2棟あり、北側の旧200倉庫は2階建・高さ13m・延床面積4,500平方メートルで、南側の旧300倉庫は1階建(当初2階建て)・高さ13m・延床面積2,800平方メートルである。昭和3年(1928年)に開通した臨港鉄道の側線が通り国内各地からの貨物列車が走りました。1999年(平成11年)に倉庫としての役割を終え、管理も住友倉庫から大阪市に移管された。
2016年12月11日探索。
大阪織物煉瓦遺構:大阪織物株式会社は1906年(明治39年)に設立。木綿縮の生産から始まり、1911年(明治44年)に原糸紡績機を新設。従業員は大正期を通じて堺市で1、2位を争うほどの規模を誇ったが、紡績会社全体の中では中堅規模に位置図けられる。沖縄出身の女工を多く雇い、1913年の女工数は427人だったが、大戦時の好景気に約1700人までに急増している。終戦後は女工数を900人台まで減らしたが、その後徐々に持ち直し1937年には1500人近くになっている。工場の敷地内に4棟の寄宿舎があった。女工たちの生活の場は、工場内の持ち場、寄宿舎、そして許可を得て出られる外の世界だった。
2016年12月11日探索。
藤本商店(旧丹治煉瓦製造所):明治期に入り間もなく設立された丹治煉瓦製造所は大阪府下最古の民間煉瓦製造所であるという。そのレンガ造り平屋建て倉庫と、レンガ造り2階建ての事務所が斜向いにあり、その面影を地域に残す。国道26号線の高架脇にある倉庫は、過度に目立つことなく、しっかりと、その重圧な趣を現在に引き継ぎ、商店の事務所として活用され今も現役である。事務所であった建物は、ステンドガラスや個性的な屋根形状を持ち、外壁や塀に使われているレンガなどでは、そのディテールへのこだわりが至る所に見受けられ、当時の高い技術がうかがえる。
2016年12月11日探索。
琵琶湖疎水水路閣:琵琶湖疏水とは、琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏水)である。国の史跡に指定されている。水路閣は琵琶湖疏水の分線(蹴上以北)にある水路橋で1888年(明治21)完成。南禅寺境内を通過するため、周辺の景観に配慮して田辺朔郎が設計、デザインした。全長93.2メートル(幅4メートル、高9メートル)煉瓦、花崗岩造り、アーチ型橋脚の風格ある構造物で、静かな東山の風景にとけこんでいる。市指定史跡。
2016年12月11日探索。
広島市牛田浄水場上屋:軍用水道の整備に合わせて軍用鉄管に市水道を接続して配水するという、全国でも珍しい整備方法がとられ、1898年(明治31年)に、牛田浄水場が創設されました。3連棟の汽関室や、高さ約16メートルのポンプ室などが整備されました。1924年には鉄筋コンクリート造の送水ポンプや濾過池調整機にレンガ造の上屋が、1935年には鉄筋コンクリート造の量水室が完成しました。爆心地から2.77キロメートルで被爆。木造建物の崩壊など大きな被害を出しました。イギリス積みレンガに花崗岩が筋状に挿入された濾過池調整機上屋が、現在、1棟だけ保存されています。2016年12月02日探索。
日本麻紡績給水塔:この給水塔は、1945年(昭和20年)8月6日の原爆にも耐えその姿を今日に残しています。1919年(大正8年)創業の日本麻紡績は、当時、己斐の山陽本線沿線の広大な敷地を持ち、多くの平屋建ての工場や倉庫が立ち並んでいました。工場内には4面にアーチをあしらった、レンガ造3階建の給水塔があり、近代的な工場の象徴となっていました。爆心地から2.83キロメートルで被爆。木造建物は半壊しましたが、給水塔と煙突、井戸は幸いにも残りました。現在は給水塔にはポンプが設置され、造園会社が経営している園芸店舗、己斐ガーデンスクエアのシンボル塔となっています。2016年12月02日探索。
旧広島陸軍糧秣支廠:現在宇品御幸の広島市郷土資料館は、1911年(明治44年)竣工した旧缶詰製造工場の一部にあたる。郷土資料館利用および市の指定重要文化財登録にあたり、1984年(昭和59年)に改修が行われている。缶詰製造工場建造時には南側に逆コの字形の南棟、北側にやや離れて桁行が南棟と同じ長さで平面が矩形の北棟、南棟の内側壁面と北棟の南壁面を内壁として鉄骨小屋組みの鋸屋根を架けた中央棟が造られた。現在は北棟・中央棟ならびに南棟の一部が解体され、跡地は宇品西公園になっている。屋根は竣工当時と同じ瓦棒葺を復元し、外壁は国産煉瓦でイギリス積みの他、細かな造形が施され、ほぼ当時のまま保存されている。2016年12月02日探索。
玖村民家の煉瓦倉庫
住所:広島県広島市安佐北区落合2-25-18
外周部の煉瓦塀は新しい煉瓦で出来ている。
住人にお願いして煉瓦蔵を見せて頂いた。
2016年12月02日探索。
広島陸軍兵器補給廠は、現在の広島市南区霞町に存在していた日本陸軍の施設(1940年以前の名称は「広島陸軍兵器支廠」)。戦後、広島県庁、ついで広島大学の医療系学部や広島大学病院が跡地に移転し、かつての補給廠の建物は医学部の食堂などに転用されていたが、1970年代以降次々と解体が行われ、最後まで「医学資料館」として使用し保存されていた11号館(第11兵器庫)も1999年(平成11年)に解体された。その際、外壁の一部が広島市中区の修道中学・高等学校で被爆建物として保存・展示されている。2016年12月02日探索。
日本赤十字社医療センターの前身の日本赤十字社病院は、1886年(明治19年)に東京飯田町に開院し、1891年(明治24年)に現在地に移転した。病院の建設の際に道路沿いに長い煉瓦塀が造られた。特別に注文した煉瓦を使ったという。煉瓦塀は現在の病棟新築の際に取り壊されたが、日本赤十字看護大学新校舎建築の際に、煉瓦を利用した校門が造られた。また医療センター入口付近にも煉瓦塀の一部が復元され、共に往時の煉瓦塀を偲ばせている。
2016年11月27日探索。
東京商船大学旧天体観測所(第一観測台)1903年(明治36年)6月建設。赤道儀室と呼ばれ、内部には東洋一と言われた天体望遠鏡を備え、教育研究に使用された。建物は1997年(平成9年)12月登録有形文化財に指定された。煉瓦造2階建,鉄板葺,建築面積26u。設計:三橋四郎(逓信省)東京商船大学旧天体観測所(第二観測台)第一観測台と同時に建設。子午儀室と呼ばれ、内部には子午線測定用の望遠鏡を備え教育研究に使用された。建物は1997年(平成9年)12月登録有形文化財に指定された。
2016年11月27日探索。
広島陸軍被服支廠:出汐倉庫は、広島県広島市南区出汐にある大日本帝国陸軍の被服廠の施設。被服廠が取り扱っていた品目は軍服や軍靴だけでなく、マント・下着類・帽子・手袋・靴下等の外、背嚢・飯盒・水筒・ふとん・毛布・石鹸・鋏・小刀・軍人手帳等の雑貨まで含まれていた。大正・昭和時代に入り戦線が拡大すると、武器や戦備の多様化に対応して防寒服・防暑服・航空隊用・落下傘部隊用・挺身隊用被服あるいは防毒用被服なども取り扱うようになった。これらの物品のうち、被服廠では軍服の縫製と軍靴の製造が主となり、その他の物品の製造については民間工場に依託され、被服廠では受発注業務・品質管理・貯蔵・配給業務を主として行っていた。2016年12月02日探索。
相老駅ランプ小屋
相老駅(あいおいえき)は、群馬県桐生市相生町二丁目にあるわたらせ渓谷鐵道と東武鉄道の駅である。わたらせ渓谷鐵道のわたらせ渓谷線と、東武鉄道の桐生線が乗り入れ、接続駅となっている。東武桐生線の駅番号はTI 56。駅名は、駅の所在地である旧相生村の地名をそのまま使用すると兵庫県の相生駅と重なることから、『生』を『老』に変更した。2016年11月20日探索。
ベーカリーカフェレンガ:大正時代に建てられ、国の登録有形文化財として残された、イギリス積みのレンガ造りののこぎり屋根工場の建物は、焼き立ての香ばしいパンの香りのする、ベーカリーカフェとして生まれ変わりました。 100年の時を経た建物の中で、ゆっくりとティータイムをお楽しみいただけます。 この地域は、平成24年度、桐生市桐生新町伝統的建造物群保存地区の重伝建地区選定されました。
2016年11月20日探索。
桐生市煉瓦倉庫:この煉瓦倉庫は民間の駐車場の脇にある煉瓦倉庫で、この場所には元工場が有ったようでその内の倉庫だけが残って現在でも転用され使われている様だ。
2016年11月20日探索。
桐生市藤江醫院煉瓦塀:日本織物会社を設立した佐羽家と友人で、日本織物の発電所の為に製造された桐生煉瓦製造の煉瓦を分けてもらったとの噂がある。 桐生煉瓦製造会社は明治21、22年の2年だけ存在していた会社。
2016年11月20日探索。
桐生市有鄰館は、桐生市桐生新町重要伝統的建造物群保存地区内である本町2丁目の南端に存在しています。かつては酒・味噌・醤油を醸造し、保管するために使用されていた江戸時代から昭和時代にかけての11棟の蔵群が、舞台や展示、演劇、コンサートなど様々な用途に使用されています。多くの人が訪れ、プロアマを問わず、それぞれの目的によって自ら会場を作り上げて行く独特の活用方法で「文化を発信する場」として、また、周辺に残る歴史的建造物や近代化遺産などと一体となったまちなみ保存の拠点にもなっています。2016年11月20日探索。
日本織物発電所跡:日本織物株式会社の工場建設には、そのために設立された「桐生煉瓦製造会社」製の「桐に生」の刻印を有する煉瓦が用いられここにある門柱状の煉瓦遺構は桐生産の煉瓦であり、水路を潜り発電所と工場を繋ぐトンネルの支えとして造られたものである。明治20年代における民間企業としての日本織物株式会社は、工場の規模、構造等の全てにおいて他に例をもないものであり、ここに遺された発電所跡や煉瓦遺構は、桐生の近代化を象徴するものである。2016年11月20日探索。
足利市旧木村浅七邸:明治初期に竣工。煉瓦塀及び敷地内部に須長藤吉煉瓦製造所の刻印が見つかる。初代・木村浅七は、上州山田郡須永村の生糸商・星野家の三男として生まれ、織物業の木村家の養子となり家督を継ぎます。足利模範撚糸合資会社の初代社長や、足利銀行・渡良瀬水力電気・足利瓦斯鰍フ役員としても活躍しています。
住所:栃木県足利市助戸仲町453
2016年11月20日探索。
トチセン煉瓦構造郡:トチセンは、足利が織物産業で隆盛していた大正2年(1913年)に足利織物株式会社として創業。大正8年(1919年)に明治紡織株式会社となり「明紡」として知られました。6連の鋸屋根が特徴の赤煉瓦捺染工場は、イギリス積みの煉瓦平屋建てで、鋸屋根破風部分の軒蛇腹や外壁側へ突出した付柱、出入口や窓等の開口部マグサ上に走る横材などに外観上の特長が有ります。
2016年11月20日探索。
千葉刑務所は、東京矯正管区所管の刑事施設である。刑期8年以上の初犯者(重罪初犯者)を収容する男子刑務所。正門及び本館は、司法省の山下啓次郎の設計で1907年に竣工。現存する。山下が中心になって設計した千葉、金沢、奈良、長崎、鹿児島の監獄は五大監獄といわれる。
2016年11月13日探索。
鉄道連隊材料廠機関車修理工場:この煉瓦建築は、明治41年鉄道連隊材料廠の機関車の修理工場として建築された物で、その後昭和20年日本国有鉄道が大蔵省から借り受けてレール等の修理工場として使用、昭和60年から千葉経済学園の所有となってものです。千葉県内に数少ない明治年間創建の大規模な煉瓦建築一つで有り特に内部の東西方向に二列に連なった十連の雄大なアーチ構造は、全国的にも比類がなく、この建物の主な特色となっている。煉瓦は機械成型のしわしわ煉瓦で上敷免製(日本煉瓦製造)の刻印が見つかっている。2016年11月13日探索。
第3回煉瓦散歩市川市の説明パンフレットの表紙に描かれた煉瓦くんです。普通煉瓦と焼きすぎ煉瓦で平面に「ホ」の刻印があります。
今回の主催者のAYAさんが描きました。
胡録神社煉瓦倉庫。
ザチャペルオブアドレーションの煉瓦構造物。
民家の敷地内に煉瓦造りの倉庫。
駐車場の敷地隅の煉瓦倉庫。
千葉県血清研究所跡の敷地内の煉瓦倉庫。
野戦重砲兵連隊の煉瓦塀。
柳原水閘。
2016年10月29日
秩父鉄道煉瓦橋台
秩父鉄道株式会社は、埼玉県北部に路線を有する鉄道事業、不動産業、観光事業を行う日本の会社である。本社は埼玉県熊谷市に所在する。社紋は「上」の文字6つを円形に並べたものであり、「上武」を意味するとされる。上武鉄道として設立された時に作られたもので、秩父鉄道に改称した後も引き続き使われている。1921年(大正10年) 北武鉄道が羽生 - 行田(現在の行田市)間を開業。1922年(大正11年) 熊谷 - 行田間が開業。秩父鉄道が北武鉄道を合併。2016年10月25日探索。
アプトの道煉瓦構造物群
丸山変電所は碓氷線が幹線鉄道ではじめて電化されたことに伴い、明治45年に建設された。煉瓦造り建築の最盛期のもので、純煉瓦造り。建物2棟(蓄電池室、機械室)の煉瓦造からなる。軽井沢側の機械室には450kwの回転変流機2基と500kVAの変圧器2基が収められ、ここで交流6600ボルトを直流650ボルトに変換した。横川側の蓄電池室には312個の蓄電池が設置され、列車が通らない時に充電し、列車の登坂時に放電して電力を補っていた。
2016年09月03日探索。
成田鉄道宗吾線第1、第2トンネル
成宗電車は、千葉県で初めて電気鉄道として明治43年12月に成田山門前から成田駅間を、翌44年1月に成田駅前から宗吾霊堂間を結ぶ形で全線複線により開通しました。車両の運航は5分〜15分間隔で行われ、利用客数などの状況に応じて弾力的に運用されていたようです。この電車は、当初参道に軌道を敷設する計画でしたが、町内会等の意見を踏まえ参道を迂回して門前に至るルートとなったため2つのトンネルが築造されました。戦争の激化により遊覧的色彩が強いこと等を理由として、政府の命令により営業廃止となりました。
2016年10月14日探索。
埼玉県川口市の個人住宅。川口市の鋳物産業に多大な貢献をされた方の旧邸宅。「永瀬家は市内本町一丁目の由緒ある旧家で、江戸後期には由緒ある宇田川家と交替で名主役を、また通称『本陣』といわれるように、日光御成道川口宿問屋を勤めた家である。」とあるのみ。
2016年09月19日探索。
旧田中家住宅は大正時代に建設された県下有数の本格的洋風住宅です。四代目田中コ兵衞は大正10年(1921年)から大正12年(1923年)にかけて、当時としては非常にモダンで立派な洋館を建設しました。自ら材木商を営んでいたことから建築資材にはこだわりがあり、当時入手できる最高級の木材を用い、煉瓦も建築現場の近くで専門の職人に焼かせたと伝えられています。建築費用の総額は18万円といわれています。これは現在の金額にするとおよそ2億5千万円程となり、この建物がいかに破格であったかを窺い知ることができます。2016年09月19日探索。
江の島サムエル・コッキング苑は、明治時代の英国人貿易商「サムエル・コッキング」に由来した和洋折衷で、南国ムード溢れる植物園で四季折々様々な花や植物をお楽しみ頂けます。2016年09月17日探索。
東京煉瓦刻印探索2016
住所:東京都渋谷区上原1丁目33
ガンタ積みの煉瓦擁壁。
2016年09月11日探索。
三菱電線工業箕島製作所(旧紀伊莫大小紡績)
住所:和歌山県有田市箕島663
竣工:大正15年
赤煉瓦の塀。
この地に初めに工場を建設したのは紀伊莫大小紡績でした。その後大正14年(1925年)に和歌山紡織が、工場を機械ともで買収し、敷地造成して敷地を広め、昭和3年(1928年)1月より箕島工場として操業した。
2016年09月06日探索。
瓦葺掛樋
住所:上尾市大字瓦葺字堤外286
設置から230年近い歳月の中で水路の変形や欠陥が甚大になり、流末地域の用水不足から昭和36年には伏越(ふせこし)に改変された。瓦葺掛樋跡は、見沼代用水路や明治時代の土木技術の歴史上、重要な文化財であるとともに、見沼代用水路の重要構造物の中で、唯一、明治時代の構造物が残る貴重な文化財。
2016年08月14日探索。
皿田樋管
住所:埼玉県蓮田市根金
皿田樋管は堤防の法線に対して斜めに設置されていて、川表の翼壁は左右非対称の複雑な形状をしている。元荒川からの逆流を心配して堤防に対しては、直角に設置しなかった。本樋管は排水用であるが、現代の合流工などと同じ考え。
2016年08月14日探索。
新久保用水樋管
住所:埼玉県久喜市菖蒲町三箇
新久保用水樋管は、備前堀川に架かる笊田橋(12号.川越栗橋線)の下流50mに位置する。この辺りは、菖蒲町三箇と久喜市北中曽根の境界で、南西2Kmには見沼代用水が流れている。新久保用水樋管の下流200mには、古笊田堰が存在する。
2016年08月14日探索。
古笊田堰
住所:埼玉県久喜市菖蒲町三箇
古笊田堰は備前堀川の中流部に設けられた農業用水の取水堰。清久工業団地の西端、NHKラジオ放送局と県道12号線の中間に位置する。見沼代用水で運ばれた水は、騎西領用水へと分水され、かんがいに使われた後、主に備前堀川へ流れ込む。古笊田堰は、その悪水をさらに取水するために設けられている。慢性的な水不足を少しでも解消したいと託された堰だ。堰名の笊田とはザル田で、漏水田のことだろう。
2016年08月14日探索。
山王樋管
住所:埼玉県比企郡川島町正直
山王樋管は農業用水路で、長楽用水の右岸に設けられた農業用水取水のための樋管である。長楽用水は都幾川の長楽堰(川島町長楽)から取水し、北東へと流れ、そのかんがい余水は市野川と入間川へ落とされる。
2016年08月14日探索。
京塚樋管
住所:埼玉県比企郡川島町長楽
京塚樋管は長楽地区からの農業排水を長楽用水へ放流するための施設。長楽地区は長楽用水の堰元であるが、用水は矢来堰用水に依存している。
2016年08月14日探索。
小剣樋管
住所:埼玉県東松山市正代
小剣樋管は、都幾川の最下流にある煉瓦造り樋管。東松山市正代と早俣の境に設けられ、正代地区の農業排水を都幾川へ放流している。現役の施設である。樋管名の小剣とは、この付近の小字名で、樋管に隣接して小剣神社建立されている。都幾川は小剣樋管の地点から600m下流で、越辺川の左岸へ合流する。
2016年08月14日探索。
鎌田樋管
住所:埼玉県東松山市正代
鎌田樋管は、九十九川の左岸堤防に設けられた煉瓦造りの樋管であり、農業用水を取水している(管理は高坂土地改良区)。樋管名は旧.比企郡高坂村大字正代字鎌田に設けられたことに由来する。九十九川はこの地点から700m下流で越辺川に合流する。管は内径490mm、長さ600mm、厚さ45mmの土管である。尾州上等焼土管を42本使用。面壁は管外径に合わせて、加工煉瓦が使われている。
2016年08月14日探索。
三原樋管
住所:埼玉県東松山市西本宿
三原樋管は都幾川の右岸三原堤に設けられた煉瓦造り樋門。明治35年に煉瓦造りへと改良。高坂土地改良区が施設を管理。三原樋管は農業用水の排水に使われている。
2016年08月14日探索。
奈目曽樋管
住所:埼玉県東松山市葛袋
奈目曽樋管は農業用水を送水する樋管で、主要地方道41号・東松山越生線の道路脇(葛袋神社の100m北側)に位置する。奈目曽樋管は明治36年(1903年)に比企郡唐子村と野本村で、一度に5基建設された煉瓦樋門のうちの1基。高坂用悪水路普通水利組合が唐子村大字奈目曽に建設した。
2016年08月14日探索。
永傳樋管
住所:埼玉県東松山市神戸
永傳樋管は、鞍掛堰から南東へ200mの道路脇、神戸用水にある。都幾川の右岸最上流にある煉瓦造り樋門で、鞍掛堰で取水した農業用水を送水している。樋管と命名されているが、現況の機能はカルバートである。唐子南部土地改良区が管理。
2016年08月14日探索。
高畑樋管
住所:埼玉県東松山市葛袋
高畑樋管は、都幾川の左岸最上流に設けられた煉瓦樋管であり、東松山市下青鳥、上野本地区の農業用水の取水口。都幾川には高畑樋管から200m上流に上用水堰が設けられていて、農業用水は都幾川の河川敷内を堤外水路で高畑樋管まで運ばれてくる。明治23年には埼玉県全域で大規模な洪水が発生しているので、樋管建設はその復旧工事として実施。
2016年08月14日探索。
矢来門樋
住所:埼玉県東松山市下青鳥
矢来門樋は都幾川の左岸に、前吐樋管・前樋管と隣接して設けられた悪水吐き門樋。高畑樋管、前樋管と同じく、上用水堰掛かりである。現在は上用水堰土地改良区が管理。翼壁の天端付近の煉瓦が変則積みで、東松山市に現存する煉瓦造り水門に多くみられる煉瓦の積み方。
2016年08月14日探索。
前樋管/前吐樋管
住所:埼玉県東松山市下青鳥
前吐樋管は農業用の施設であり、前樋管の上流右岸に隣接して設けられている。都幾川に設けられた上用水堰で取水した農業用水は、堤外水路で導水され、高畑樋管を経由して、前吐樋管、前樋管へと送られて来る。これらの施設は上用水堰土地改良区が管理している。前吐樋管は機能的には逃樋(余水吐)である。大雨などで水路の水位が上昇して、前樋管の通水能力を超えた場合に、余水を都幾川へ排水する。
2016年08月14日探索。
吉見町 四反田樋管
住所:埼玉県比企郡吉見町西吉見
四反田樋管は都幾川の左岸最下流の煉瓦樋管であり、矢来用水(農業用水)の取水口。矢来用水堰土地改良区が管理している。樋管名の四反田とは、この付近の旧字名。矢来用水堰で取水された水は四反田樋管を経由して、東松山市下野本、上下押垂、今泉などの区域と川島町長楽へ送水される。
2016年08月14日探索。
吉見町 永府門樋
住所:埼玉県比企郡吉見町西吉見
水路幅が5m前後で、明治20年から30年前半頃に造られた樋門は、開口部がアーチ型になるのが一般的です。明治34年築造の永府門樋は、アーチ型から桁型に移り変わる時期の例で、アーチ型の特徴(装飾性)と桁型の特徴(施工性・実用性)を合わせ持っていることが解ります。
2016年08月14日探索。
吉見町 天神沼樋管
住所:埼玉県比企郡吉見町久米田
天神沼樋管は、埼玉県の煉瓦樋門の建設史上、最も独特な形態の構造物で、形式は呑口側の集水枡(断面は楕円形)と吐口側の樋門を卵形管で連結した特異なもの。卵形管(明治時代初期に日本の近代下水道で導入された方式)の貴重な存在。
2016年08月14日探索。
吉見町 坂東樋管
住所: 埼玉県比企郡吉見町黒岩
翼壁の形状が非対称である。ゲートと戸当りは平成7年にゲートを改修。改修前は石造りの門柱だったようだ。天端の笠石は、建設当初からと思われる。右側の翼壁は、平成7年に改修され、煉瓦が新しく長手積み。
2016年08月14日探索。
加須市 落合門樋
住所:埼玉県加須市外田ケ谷
この門樋は、見沼代用水(星川)からの逆流を防ぐ水門として、明治36年に造られた。水が逆流してくると、木製の扉が閉じる仕組みで、行田方面の増水を防いだ。その為「逆さ門樋」とも呼ばれる。煉瓦造りのアーチは川を跨ぎ、橋の役目を兼ねる。近年、堀の改修に伴い、門樋の一部が姿を変えたが、煉瓦造りの建造物としては旧騎西町唯一のものである。なお、同一の設計者により建造されたものが行田市関根地内にもあった。
2016年06月19日探索。
行田市 小針落伏越
住所:埼玉県行田市小針
住所:埼玉県鴻巣市赤城
小針落伏越は、河川を横断する煉瓦造りの伏せ越しとしては、埼玉県に現存する唯一のもので、日本全体を見渡しても、一級河川を横断する煉瓦造りの伏越では唯一の存在。
2016年06月19日探索。
鴻巣市 榎戸堰組合用水樋管
住所:埼玉県鴻巣市榎戸2丁目7番
榎戸堰組合用水樋管は、榎戸堰から上流50mの元荒川右岸に設けられ、農業用水を送水している。かんがい受益地は荒川の左岸と元荒川の右岸に囲まれた地域である。榎戸樋管は現役の施設であり、管理は足立北部土地改良区がおこなっている。
2016年06月19日探索。
川越市 山田八幡神社 手水鉢(ちょうずはち)
住所:埼玉県川越市山田
明治28年(1895年)に奉納された煉瓦造りの手水鉢。幅(上端96cm、下端90cm)、奥行き47cm。使われている煉瓦は手抜き成形の赤煉瓦。隅部は鼻黒、アーチ部(直径55cm)は20個の異形煉瓦(楔形)で組まれている。アーチ部の曲率が大きいために、楔の形は上幅が53mm、下幅が30mmと極端である。煉瓦は形が歪んだ物が多く、平均実測寸法は222×108×55mm。目地厚は約9mm、仕上げは丁寧だ。
2016年06月19日探索。
川越市 笹原門樋
住所:埼玉県川越市古谷上
旧荒川の右岸堤防に明治三十四年(1901年)に設けられた制水施設で、八幡川(笹原排水)の排水や増水時の逆流を防ぐ水門の機能を果たしている。
2016年06月19日探索。
川越市 三軒家樋管
住所:埼玉県川越市渋井
明治43年(1910年)に設置された悪水を新河岸川に吐くための樋管で、上流側の呑口と下流側の吐口のアーチ数と型式が異なる。三軒家樋管は埼玉県に4基しか現存しない、呑口と吐口でアーチの数が異なる樋管である。現存する樋管の中で最も最後に建設されている。なお、竣工後の明治43年8月には、明治期最大の被害をもたらした大洪水が埼玉県全域を襲うのだが、竣工間もない煉瓦樋管は難を免れている。
2016年06月19日探索。
富士見市 水越門樋
住所:埼玉県富士見市上南畑
この煉瓦製の門樋は明治37年(1904年)に水越排水に新河岸川からの逆流を防ぐ為に造られたものです。通水口の断面形状は蒲鉾状のアーチ型、扉は水の流れに反応して開閉する観音開き構造となっています。
2016年06月19日探索。
さいたま市 千貫樋(せんがんぴ)
住所:埼玉県さいたま市桜区五関
明治37年(1904年)に鴨川落悪水路普通水利組合が、県税の補助(町村土木補助費)と埼玉県の技術指導を得て、北足立郡大久保村大字五関に建設した。
2016年06月19日探索。
田中藤左衛門商店:「七ツ梅」は株式会社田中藤左衛門商店が醸造していた清酒の銘柄であったが、平成16年(2004年)に田中藤左衛門商店が廃業した後は、深谷市の中山道沿いにある酒造跡の通称として使われている。「七ツ梅酒造跡」ともいわれる。
2016年06月19日探索。
深谷れんがホール」は、1933年(昭和8年)にリサイクル材を利用して建てられた、1階がレンガ造、2・3階が木造の倉庫でした。2003年から掃除・改修等を実施し(旧柳瀬商店レンガ倉庫再生プロジェクト)、2005年春から「深谷れんがホール」として新たな歩みを始めました。約100u(7m×14.5m)の広い板の間、6本の太い柱とレンガの壁が織り成す空間は、このれんがホールならではの独特の味わいのある雰囲気を醸し出しています。
2016年06月19日探索。
深谷市 小林商店
住所:深谷市西島町4-3-50
煉瓦蔵は大正元年竣工。奥の3階建の洋風の店舗は、昭和2年竣工の石造。砂糖問屋の事務所として使用されていました。材質の異なる2つの建物の対比が目を引きます。
2016年06月19日探索。
藤橋藤三郎商店は、中山道沿いにある老舗酒屋で、深谷の地酒として「東白菊」がよく知られている。創業者は、江戸時代の末期、嘉永元年(1848年)に越後の柿崎(現在の新潟県上越市)より現在の地に移り酒造りを始めた。店舗裏側の敷地には歴史的に価値のある深谷産のれんが煙突、蔵、井戸などが残っている。
2016年06月19日探索。
深谷市 塚本商店
住所:埼玉県深谷市本住町1
塚本商店(武州近江屋つかもと燃料)は、伝統的和風の町屋建築にレンガの「うだつ」をあしらった珍しい建築物で、大正元年(1912年)に建造された。レンガはイギリス積みレンガ様式といわれる積み方で、防火壁の役目を担っている。店の入り口にある大きな梁は秩父の山から切り出したものである。塚本商店は日本煉瓦製造株式会社に燃料の石炭を納めていた。
2016年06月19日探索。
深谷市 常盤園茶舗
住所:埼玉県深谷市仲町1
ときわ園は中山道とともに325年以上の歴史を持ちます。貞享2年(西暦1685年)の記録によりますと、既に中山道沿いに家を構え、現在の当家の菩提寺も建立しております。
2016年06月19日探索。
煉瓦構造物 長崎 西泊町建物:長崎は煉瓦建物が多く存在しますが、長崎市西泊町にも個人の住宅と蔵に煉瓦が使われている。蔵の下部は石造りだが、上部の合掌部に煉瓦が使われている。
2016年07月17日探索。
小菅修船場跡:幕末期、我が国には船体廻りの補修施設がなかったため、薩摩藩と英国商人トーマス・グラバーらが、明治元年12月(1869年1月)に小菅修船場を竣工した。小菅修船場は、我が国で初めて蒸気機関を動力としたスリップドック(船を陸上に曳き揚げて修理するドック)であり、曳揚げ機械やレールなどの一切の設備はグラバーが英国から輸入した。一方で、山裾の入り江という敷地の選定や土木工事は日本人主導によるものと考えられ、小菅修船場は日本と西洋の技術が融合した先進的な施設であった。
2016年07月17日探索。
佐賀城跡佐賀西高「まんぽ」
竣工:不明
住所:佐賀県佐賀市城内1丁目3
佐賀城跡佐賀西高「まんぽ」は「ねじりまんぽ」では無かった。水路に対して斜めに排水路を造った関係で坑門端面を平滑にする手間を省いた為、坑門端面が鋸歯状態になったと思われる。アーチは2重に積まれている。
2016年07月17日探索。
旧九度山発電所水路橋 波状まんぽ(有肋斜歪穹窿穹窿)
竣工:1911年(明治44年)
住所:和歌山県伊都郡九度山町九度山
昭和28年7月18日の水害により有田川・日高川水系の発電所が壊滅的な打撃をうけ、6つの発電所が廃止となり旧九度山発電所も廃止となりました。
2016年07月10日探索。
南海高野線 大師第14号橋梁
竣工:1925年(大正14年)7月30日
住所:和歌山県伊都郡九度山町九度山
昭和28年7月18日の水害により有田川・日高川水系の発電所が壊滅的な打撃をうけ、6つの発電所が廃止となり旧九度山発電所も廃止となりました。その後坑口を煉瓦で塞いだのか?
2016年07月10日探索。
宇都宮市水道 第六号接合井
住所:栃木県宇都宮市上金井町635-3
宇都宮市北部に位置し,日光街道にほぼ平行して敷設された延長約25kmの送水管にかかる水圧を調節するための施設。深さ2.3mのコンクリート造構造物の上に,西洋城郭風意匠をあしらう八角形平面の煉瓦造上屋を建てる。宇都宮市近代化の水道施設遺構のひとつ。
2016年07月03日探索。
神崎煉瓦ホフマン窯:京都府舞鶴市西神崎に位置する由良川河口右岸に設置された釜です。明治30年(1897年)9月、京都深草在住の山田宗三郎氏によって、京都竹村丹後製窯所として興業しました。当初は登り窯であったものを、煉瓦需要拡大に対応するため、大正の末頃に、窯の一部を再利用し、ホフマン式輪窯に改良しました。それにより、従来は、登り窯で煙突が1本で、一度焼く毎に火を消さなければならなかった仕組みから、現存する煙突11本を作り、それぞれに区割りして別々に作業が進められる仕組みに変わり、格段に効率がよく運用が出来るようになったものです。2016年06月25日探索。
琵琶湖疏水とは、琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏水)である。国の史跡に指定されている。琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/sを滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水運も行なわれた。水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。
2016年06月12日探索。
中川煉瓦製造所ホフマン窯は市街地北部の八幡堀と接する敷地に建つ。燃料商・柴屋を営んできた中川長九郎は明治16年(1883年)4月、東湖組を創立して煉瓦の焼成を開始する。これは滋賀県下の煉瓦製造の嚆矢をなす。東湖組は明治40年(1907年)前後に中川煉瓦製造所と改称し、さらに昭和9年(1934年)に大普煉瓦と社名を変更する。昭和42年(1967年)まで煉瓦を製造し、その後屋根瓦に転換したが、昭和45年以降休業する。長辺55m,短辺14mの南北に長い平面で,南寄りに約30m高の煙突を建てる。中央煙道の周囲にアーチ構造体をほぼ環状に廻らし,イギリス積の外壁にはアーチ形開口部を設ける。残存例少ないホフマン窯の一つ。2016年06月11日探索。
日本煉瓦製造は、かつて存在した日本の煉瓦製造・販売会社である。本社を東京に置き、埼玉で煉瓦製造工場を操業していた。渋沢栄一らによって日本煉瓦製造が設立され同工場が埼玉県榛沢郡上敷免村(後に大里郡大寄村上敷免を経て、現在の深谷市上敷免)に建設された。後に太平洋セメントの子会社となり、2006年、日本煉瓦製造は株主総会において自主廃業を決定、清算された。重要文化財に指定されていた「ホフマン輪窯」「旧事務所」「旧変電所」などを含めて所有権が深谷市に移転、同市によって保存・整備されることとなった。
2016年05月29日探索。
旧下野煉化製造会社煉瓦窯は、、栃木県下都賀郡野木町野木にある近代化遺産であり、赤煉瓦の製造に用いられた設備である。国の重要文化財に指定されている。明治21年(1888年)10月、赤煉瓦(レンガ)製造のために「下野煉化製造会社」が設立された。ホフマン式の東窯が現存している。西窯は1923年の関東大震災で倒壊した。大正期・昭和期にわたり、工場や鉄道建設のために赤煉瓦を供給した。昭和46年(1971年)、社名を「株式会社シモレン」に改め、昭和47年(1972年)に需要の衰退により、赤煉瓦製造販売が中止された。昭和54年(1979年)2月3日(文部省告示第8号)現存していたホフマン式の東窯が国の重要文化財に指定された。2016年05月28日探索。
猿島(正式名称は「えんとう」だが、広く一般的に「さるしま」と呼ばれる)は、神奈川県横須賀市、東京湾に浮かぶ無人島。湾内唯一の自然島である。島内からは縄文時代の土器や弥生時代の土器・人骨が出土し、また日蓮上人にまつわる伝説が残るなど、古くから人々に親しまれた島である。幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末には江戸幕府の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。実際に本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り、日本では数少ないフランドル積みが見られる。2016年04月23日探索。
赤れんが博物館は京都府舞鶴市にある、レンガについて様々な視点からの収集・展示を行っている博物館。1993年11月に開館した。舞鶴市が運営している。建物は1903年(明治36年)に竣工した旧日本海軍の兵器廠魚形水雷庫のを改装したもので、鉄骨構造であることや煉瓦の積み方がフランス積みであることなど、舞鶴の煉瓦建築物のなかでもユニークな存在である。現存する鉄骨構造の煉瓦建築物としては日本最古級とされている。
2016年02月28日探索。
中舞鶴線は、日本国有鉄道が運営していた鉄道路線の通称。線路名称上は舞鶴線の支線であった。京都府舞鶴市にある舞鶴線東舞鶴駅からスイッチバックして入線し、同市の中舞鶴駅までを結ぶ路線であった。中舞鶴線の建設目的は、舞鶴鎮守府の兵員ならびに軍需資材の輸送を主な使命とし、舞鶴港線とともに国策として建設され、1919年(大正8年)に国鉄線として営業を開始した。戦後も特殊貨物輸送で賑わいを見せたが、その後に国道27号線が整備され、輸送量は減少、国鉄も鉄道の使命は終わったものとし、1972年(昭和47年)に廃止された。
2016年02月28日探索。
宮崎交通線は、かつて宮崎県宮崎市の南宮崎駅から内海駅までを結んでいた、宮崎交通が運営していた鉄道路線の通称である。日南線の前身にあたる。当初、宮崎軽便鉄道と称し、のち宮崎鉄道となった。陸路が不便な宮崎市の外港と目され、定期航路の寄港地であった内海港への連絡鉄道として大正時代初期に開業したが、内海港が堆砂しやすいなど港湾条件が悪かったことや、開業から10年後には国鉄日豊線が開通して海運からの輸送転移が生じたことから、経営難に苦しんだ。
2016年01月31日探索。
都電煉瓦散歩2015
都電煉瓦散歩:たくあんさん 増山聖子さんと煉瓦の街を巡る旅。10月31日(土)北区立十条富士見中学、十条駐屯地、北区立中央図書館、北区立文化センター、酒造研究所、船方神社、荒川遊園、三河島水再生センター、他。参加者は、たくあんさん 増山聖子さん AYAさん カエルレアさん、BAKEさん、境界石さん、東京てくてく江口さん、ya_meiさん、鉄子さん、まりりんさん みわさん、SAKIさん  tssさん 山口先生 歩鉄の達人。
2015年10月31日探索。
北陸本線旧線(浦本駅-直江津駅):明治時代に建設が開始、開通した糸魚川駅 - 直江津駅間は、フォッサマグナの西縁部にあたり、付近に存在する糸魚川静岡構造線の影響も相まって非常に複雑な地質条件を有する。このため、北陸本線は建設時から地すべり災害に悩まされてきた。浦本駅 - 能生駅間を浦本トンネルと木浦トンネル、能生駅 - 名立駅間を頸城トンネル、名立駅間 - 有間川駅間を名立トンネル、各地すべり土塊の下をくぐるルートが設定された。建設は、多くの破砕帯に直面し難航を極めた。突発的な出水はおろか石油が湧き出した地点もあったという。
2015年08月15日探索。
岡山臨港鉄道は、かつて岡山県岡山市の大元駅と岡山港駅を結んでいた鉄道路線。1951年(昭和26年)8月1日に鉄道運輸事業を開始し、1984年(昭和59年)12月30日に廃止された。貨物ヤード方式を廃止し、全国の貨物取扱駅を半減した1984年(昭和59年)2月1日の国鉄ダイヤ改正の影響で鉄道の存続が困難になり、同年12月29日を最後に列車運行を休止。翌12月30日付で廃止された。開業から廃止までの34年間の累計輸送実績は貨物564万トン、旅客1,262万人だった。
2013年08月11日探索。
大都会東京に存在する旧陸軍砲兵工科学校跡地に隧道が現在でも存在することを知り見に行きました。後楽園駅近くの礫川公園と東京都戦没者慰霊園の境ぐらいの緑地の中に煉瓦造りの隧道ポータルがある。煉瓦造りの隧道ポータルは閉鎖されている。遺構調査機構のホームページでは中に入れる様なことが書かれていたが・・・
2011年08月13日探索。
宮浦石炭記念公園は1887年(明治20年)開坑の三池炭鉱の主力坑の一つで、約80年にわたり石炭を産出した宮浦坑跡に整備された歴史公園。現存する煙突は、1888年(明治21年)建造、高さ31.2m、上部直径2.9m、基部直径4.3mで、平成10年1月16日に国登録指定文化財(建造物)として登録された。この公園のシンボルである煙突は「炭坑節」に歌われたモデルとも言われている。また大牟田の各竪坑にそびえ立っていた煙突が残されるのもここだけになっています。現在は宮浦坑跡地の一部が宮浦石炭記念公園として整備され、敷地内には使用されていた坑内機械の展示があります。
2010年12月29日探索。
ベッドフォード・ノーサンプトン線は、3つの郡(ノーサンプトンシア郡のノーサンプトン町とホートン町、バッキンガムシア郡のオルニー町、ベッドフォードシア郡のターベイ町とベッドフォード町)に駅が有るミッドランド鉄道の支線でした。1872年に開業。中間駅は1962年に旅客営業休止。ノーサンプトンとピディングトン駅間の短い区間が英国防省設立のために1981年まで残っていたが全線廃止。鉄道線路はノーサンプトンとブラックミルズの間に線路が残っていますがその他は残っていません。ベッドフォード・ノーサンプトン線の再開はフォードシア郡の鉄道と輸送協会によって提案されている。
2010年12月01日探索。
東野鉄道は、かつて栃木県那須郡西那須野町(現・那須塩原市)の西那須野駅から同郡黒羽町(現・大田原市)の黒羽駅を経て同郡小川町(現・那珂川町)の那須小川駅までを結んでいた鉄道路線およびその運営会社である。1924年には八溝山地の木材輸送を目的として黒羽から那珂川に沿って南下し那須小川まで延伸されたが、日中戦争後の不況で黒羽 - 那須小川間は1939年には廃止された。残る西那須野 - 黒羽間も、旅客・貨物輸送量の低下や災害復旧にかかる経費の問題から1968年に廃止された。
2010年05月03日探索。
東北本線旧線(宇都宮-蒲須坂)
1886年(明治19年)10月1日 - 宇都宮 - 那須(現・西那須野)間開業。このときの宇都宮 - 矢板間は、現・東北新幹線に近い経路であった。 1891年(明治24年)9月1日 - 宇都宮 - 長久保間に古田駅開業。 1897年(明治30年)2月25日 - 宇都宮 - 矢板間経路変更(当時未治水の鬼怒川の氾濫、橋梁被害により運休が多発し、大きく迂回する経路変更を余儀なくされた)。新線上に岡本駅、氏家駅開業。旧線上の古田駅、長久保駅廃止。矢板 - 西那須野間に野崎駅開業。
2010年05月03日探索。
北陸本線旧線:敦賀と今庄の間には海抜762mの鉢伏山がそびえ、その鞍部である木ノ芽峠(海抜628m)は、古くから北陸道の隘路であった。北陸トンネル開通前の北陸本線敦賀〜今庄間(1896年開通)は、海岸の山麓を縫いながら4カ所のスイッチバックを擁して25‰の急勾配を上り下りする厳しい条件の単線区間であった。途中には3箇所の駅、3箇所の信号場、12箇所のトンネルも存在し、列車の行き違いにも時間を要した。1962年には全長13,870mの北陸トンネルが開通し、敦賀 - 今庄間が新線に切り替えられ、杉津経由の旧線は無事故を記録したまま廃止された。
2010年02月20日探索。
三国線とは、福井県金津町(現在のあわら市)の金津駅(現在の芦原温泉駅)から福井県三国町(現在の坂井市)の三国港駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。1972年に廃止された。1944年には三国線も不要不急線として全線が休止されると、京福電鉄は三国線の三国 - 三国港間を電化して同区間に乗り入れを開始し、芦原 - 三国港間は京福電気鉄道が営業を継続することとなった。1972年に休止中の芦原 - 三国港間を含めて全線が廃止された。三国線は路線としては廃止されたものの、全駅がえちぜん鉄道の駅として存続している。
2010年02月19日探索。
常磐炭鉱中郷鉱曳索軌道大正06年(1917年):茨城無煙炭鉱第二坑から南中郷村日棚の茨城無煙炭鉱第三坑専用軌道に曳索軌道を接続し、南中郷駅に石炭を搬出する。全長1.5q 軌間508mm。昭和19年(1944年):入山採炭鰍ニ磐城炭鉱鰍フ合併により中郷無煙炭鉱椛譏Z坑から常磐炭鉱活城鉱業所中郷鉱第六坑。昭和30年(1955年)頃 第六坑閉山、曳索軌道廃止。
2010年02月07日探索。
好間炭鉱専用鉄道好間線明治37年(1904年) 白井遠平が設立した好間炭鉱は、好間村(当時)の北好間地区の籬(まがき)に坑口を開いた。明治39年(1906年)好間炭鉱株式会社を発足。好間炭鉱は蒸気巻上げ機を導入し綴駅(内郷駅)までの専用線を敷設するなどして近代的炭鉱へと発展する。 大正07年(1918年)好間炭鉱は現古河鉱業に買収され古河鉱業好間炭鉱となる。昭和02年(1927年) 北好間坑から撤退し上好間坑は継続。昭和39年、古河好間鉱は古河鉱業より分離され、好間炭鉱株式会社として再出発したが昭和44年(1969年) 上好間坑も閉山。鉄道は休止状態になるり、 昭和47年(1972年) 正式に廃止。
2010年01月09日探索。
アプトの道。国鉄信越本線横川駅〜軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間がアプト式鉄道時代に使われた。1891年着工。高崎駅と直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、上述の区間だけが未開通だったため急ピッチで工事が進められ、1893年に竣工。1963年に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用された。全長 91 メートル、川底からの高さ 31 メートル、使用された煉瓦は約 200 万個に及ぶ。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年には「碓氷峠鉄道施設」として、他の 4 つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定された。
2009年12月05日探索。
尾道鉄道は、かつて広島県の尾道市と御調郡御調町(現在の尾道市の一部)を結ぶ鉄道路線を有していた鉄道事業者である。尾道市街地と山中の集落を結ぶ盲腸線であり、営業成績は運行当初から余り芳しいものとは言えず、モータリゼーションの進行に伴い1964年までに廃止され、路線バスの運行に切り替えられた。会社自体はその後も社名を変更せずバス事業者として営業を続けたが、1970年にニコニコバスに吸収合併され解散。事業はニコニコバスから社名変更した中国バスに引き継がれた。
2009年08月10日探索。
住友金属鉱山下部鉄道は、1977年まで愛媛県新居浜市において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。「別子鉱山鉄道」や「別子鉄道」とも呼ばれた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として上部鉄道に先駆けること9ヶ月、当時住友財閥の初代総理人であり、別子銅山の総支配人でもあった広瀬宰平の専用鉄道として1893年(明治26年)3月15日に開業した。主に別子銅山から採掘された銅鉱石を製錬所や港湾へと輸送する役割を担ったが、1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで廃止された。
2009年07月11日探索。
サッポロビール博物館サッポロビール博物館(サッポロビールはくぶつかん)は、北海道札幌市、サッポロガーデンパーク内に位置する博物館。日本で唯一のビール博物館であり、北海道遺産の一つにも指定されている。1987年7月開館、もともとは1890年に札幌製糖会社の工場として建設された赤レンガの建造物を利用したもの。建物にはサッポロビール園が併設されている。所在地は北海道札幌市東区北7条東9丁目1番1号。
2009年04月04日探索。
静岡鉄道駿遠線は、かつて静岡県中部、藤枝市の大手駅から袋井市の東海道本線袋井駅(駿遠線は新袋井駅)を結んでいた静岡鉄道の鉄道路線。大手駅 - 新藤枝駅 - 新袋井駅は全長64.6kmと、軽便鉄道としては日本最長規模になった。その複雑な生い立ちと長大さから、使用される車両も引き継ぎ車、静岡鉄道自社製を中心に種々雑多で、鉄道ファンには人気の高い路線だったが、老朽化した大井川橋梁の架け替えに多額の費用を要することから、全通からわずか16年後の1964年(昭和39年)より区間廃止が始まり、1970年(昭和45年)8月1日付けで全線廃止。2009年07月11日探索。
2009年02月21日探索。
西武大宮線は、埼玉県川越市旧市街にあたる川越久保町駅と大宮市(現:さいたま市大宮区)の大宮駅とを結んでいた鉄道路線である。大宮線を運営していた西武鉄道の前身、川越馬車鉄道(川越電気鉄道)は入間郡川越町内(現川越市)に埼玉県下で初めて電灯を灯した電気事業者でもある。川越馬車鉄道(旧西武大宮線)は、1902年(明治35年)5月9日に第八十五銀行取締役の綾部利右衛門らの発起によって設立され、同日に開業した。設立時における役員構成は、取締役5名のうち社長の綾部をはじめ3名が川越町の商人であり、川越馬車鉄道は川越商人主導で経営されていた。
2008年12月21日探索。
小樽市総合博物館 小樽市総合博物館は、北海道小樽市にある北海道の歴史や自然、交通(鉄道など)・科学などに関する展示を行う博物館である。2007年7月14日、色内にあった小樽市博物館(おたるしはくぶつかん)と緑にあった小樽市青少年科学技術館(2006年12月閉館)の機能を統合し、手宮にあった第三セクター運営の小樽交通記念館(おたるこうつうきねんかん。2006年3月閉館)の施設を活用する形で発足したもので、旧小樽交通記念館の施設に事務機能を集約し、本館とした。なお、旧・小樽市博物館は運河館と改称された。
2008年12月04日探索。
横川 アプトの道(めがね橋) 横川鉄道文化村
碓氷峠鉄道文化むらは、群馬県安中市松井田町にある体験型鉄道テーマパークである。東日本旅客鉄道(JR東日本)の信越本線横川駅-軽井沢駅間の廃止と共に役目を終えた、横川駅に隣接した横川運転区跡地に建設された。1999年(平成11年)4月18日に開園。一般財団法人碓氷峠交流記念財団が運営する。碓氷峠の歴史や資料、碓氷峠で活躍した鉄道車両、国鉄時代の貴重な車両などを展示・公開している。また、信越本線の廃線跡を利用してEF63形電気機関車の体験運転が行われたり、トロッコ列車が運行されている。
2007年02月04日探索。
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煉瓦構造物写真集