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更新日時 2017年09月19日

 煉瓦(れんが)は、粘土や頁岩、泥を型に入れ、窯で焼き固めて、あるいは圧縮して作られる建築材料。通常は赤茶色で直方体をしている。焼成レンガは、土の中に入っている鉄分の影響により赤褐色となる。耐火レンガは炉材にも使われる。日本において煉瓦建築の技術は、近代化とともに導入されたが、構造材として用いる場合は地震に弱いという難点があり、関東大震災では多くの被害を出したことから、煉瓦建築は小規模な建物を除いて激減した。ただし、建材には煉瓦風のタイルも様々な種類が存在し、仕上げ材としては現在でも多く用いられる。これは洋風の雰囲気を出すため、木造や鉄筋コンクリート造の表面に張り付けるものである。
上記イラストはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より借用。
煉瓦構造物 ねじりまんぽ 煉瓦塀
煉瓦樋管 ランプ小屋 煉瓦橋梁・隧道
煉瓦橋梁・煉瓦隧道写真集
アプトの道煉瓦構造物群
丸山変電所は碓氷線が幹線鉄道ではじめて電化されたことに伴い、明治45年に建設された。煉瓦造り建築の最盛期のもので、純煉瓦造り。建物2棟(蓄電池室、機械室)の煉瓦造からなる。軽井沢側の機械室には450kwの回転変流機2基と500kVAの変圧器2基が収められ、ここで交流6600ボルトを直流650ボルトに変換した。横川側の蓄電池室には312個の蓄電池が設置され、列車が通らない時に充電し、列車の登坂時に放電して電力を補っていた。
2016年09月03日探索。2017年09月09日追加探索。
別子銅山小足谷集落跡煉瓦構造群は愛媛県新居浜市の銅山峰嶺南にある過去に繁栄した別子銅山の跡である。1691年に開坑され1916年に東平に採鉱本部が移されるまで別子銅山の中心地であった。登山口は海抜約800m、銅山峰は約1300m、高低差約500m道程約3.2kmの間に元禄時代から1916年(大正5年)までの225年間に渡る無数の産業遺産が眠っている。新居浜市街から車で約20分でマイントピア別子さらに愛媛県道47号新居浜別子山線を約30分で駐車場(9台分)のある登山口に到着。そこから遊歩道を15分登ると円通寺の入口があり、さらに5分行き小足谷川を渡ると目の前にかつて小足谷集落があった地に着く。
大原隧道:この大原隧道は、昭和3年(1928年)関東大震災の復興事業に一環として水道本管を敷設するためのトンネルとして完成しました。延長は254m、高さ3.62m、幅2.44mの馬蹄形トンネルで1/200の勾配、改修工事により高さと幅に若干の変化があるものの現在でもトンネル内部には蒔田・磯子方面への水道本管(610mm)が埋設されています。このトンネルの大きな特色は、坑門に紫褐色の焼過煉瓦を一段に長手面と小口面を交互に見せるフランス積みとし、これと対照的に力強いアクセントとして花崗岩を門柱風に配置するなどデザインに工夫がなされ、独特な風格を持つトンネルの坑門となっていることです。
岡山県の煉瓦構造物写真集:山陽本線は当初山陽鉄道として発足し、1890年(明治23年)12月1日有年-仮三石間。1891年(明治24年) 3月18日三石-岡山間が開通した。1911年(明治44年)に第2線が開業したため、同じアーチ橋の上り線と下り線側で建設年代が異なり、その接合部には継ぎ目の跡が見られるのが特徴です。
別子銅山煉瓦構造物
別子銅山は、愛媛県新居浜市の山麓部にあった銅山。1690年(元禄3年)に発見され、翌年から1973年(昭和48年)までに約280年間に70万トンを産出し、日本の貿易や近代化に寄与した。一貫して住友家が経営し(閉山時は住友金属鉱山)、関連事業を興すことで発展を続け、住友が日本を代表する巨大財閥となる礎となった。最初の採鉱は海抜1,000メートル以上の険しい山中(旧別子山村)であったが、時代と共にその中心は新居浜市側へ移り、それにつれて山の様相も変化していった。坑道は全長700キロメートル、また最深部は海抜マイナス1,000メートルにもおよび、日本で人間が到達した最深部である。
琵琶湖疎水水路閣:琵琶湖疏水とは、琵琶湖の湖水を京都市へ流すために作られた水路(疏水)である。国の史跡に指定されている。水路閣は琵琶湖疏水の分線(蹴上以北)にある水路橋で1888年(明治21)完成。南禅寺境内を通過するため、周辺の景観に配慮して田辺朔郎が設計、デザインした。全長93.2メートル(幅4メートル、高9メートル)煉瓦、花崗岩造り、アーチ型橋脚の風格ある構造物で、静かな東山の風景にとけこんでいる。市指定史跡。
2016年12月11日探索。
秩父鉄道煉瓦橋台
秩父鉄道株式会社は、埼玉県北部に路線を有する鉄道事業、不動産業、観光事業を行う日本の会社である。本社は埼玉県熊谷市に所在する。社紋は「上」の文字6つを円形に並べたものであり、「上武」を意味するとされる。上武鉄道として設立された時に作られたもので、秩父鉄道に改称した後も引き続き使われている。1921年(大正10年) 北武鉄道が羽生 - 行田(現在の行田市)間を開業。1922年(大正11年) 熊谷 - 行田間が開業。秩父鉄道が北武鉄道を合併。2016年10月25日探索。
成田鉄道宗吾線第1、第2トンネル
成宗電車は、千葉県で初めて電気鉄道として明治43年12月に成田山門前から成田駅間を、翌44年1月に成田駅前から宗吾霊堂間を結ぶ形で全線複線により開通しました。車両の運航は5分〜15分間隔で行われ、利用客数などの状況に応じて弾力的に運用されていたようです。この電車は、当初参道に軌道を敷設する計画でしたが、町内会等の意見を踏まえ参道を迂回して門前に至るルートとなったため2つのトンネルが築造されました。戦争の激化により遊覧的色彩が強いこと等を理由として、政府の命令により営業廃止となりました。
2016年10月14日探索。
佐賀城跡佐賀西高「まんぽ」
竣工:不明
住所:佐賀県佐賀市城内1丁目3
佐賀城跡佐賀西高「まんぽ」は「ねじりまんぽ」では無かった。水路に対して斜めに排水路を造った関係で坑門端面を平滑にする手間を省いた為、坑門端面が鋸歯状態になったと思われる。アーチは2重に積まれている。
2016年07月17日探索。
旧九度山発電所水路橋 波状まんぽ(有肋斜歪穹窿穹窿)
竣工:1911年(明治44年)
住所:和歌山県伊都郡九度山町九度山
昭和28年7月18日の水害により有田川・日高川水系の発電所が壊滅的な打撃をうけ、6つの発電所が廃止となり旧九度山発電所も廃止となりました。
2016年07月10日探索。
南海高野線 大師第14号橋梁
竣工:1925年(大正14年)7月30日
住所:和歌山県伊都郡九度山町九度山
昭和28年7月18日の水害により有田川・日高川水系の発電所が壊滅的な打撃をうけ、6つの発電所が廃止となり旧九度山発電所も廃止となりました。その後坑口を煉瓦で塞いだのか?
2016年07月10日探索。
中舞鶴線は、日本国有鉄道が運営していた鉄道路線の通称。線路名称上は舞鶴線の支線であった。京都府舞鶴市にある舞鶴線東舞鶴駅からスイッチバックして入線し、同市の中舞鶴駅までを結ぶ路線であった。中舞鶴線の建設目的は、舞鶴鎮守府の兵員ならびに軍需資材の輸送を主な使命とし、舞鶴港線とともに国策として建設され、1919年(大正8年)に国鉄線として営業を開始した。戦後も特殊貨物輸送で賑わいを見せたが、その後に国道27号線が整備され、輸送量は減少、国鉄も鉄道の使命は終わったものとし、1972年(昭和47年)に廃止された。
2016年02月28日探索。
宮崎交通線は、かつて宮崎県宮崎市の南宮崎駅から内海駅までを結んでいた、宮崎交通が運営していた鉄道路線の通称である。日南線の前身にあたる。当初、宮崎軽便鉄道と称し、のち宮崎鉄道となった。陸路が不便な宮崎市の外港と目され、定期航路の寄港地であった内海港への連絡鉄道として大正時代初期に開業したが、内海港が堆砂しやすいなど港湾条件が悪かったことや、開業から10年後には国鉄日豊線が開通して海運からの輸送転移が生じたことから、経営難に苦しんだ。
2016年01月31日探索。
北陸本線旧線(浦本駅-直江津駅):明治時代に建設が開始、開通した糸魚川駅 - 直江津駅間は、フォッサマグナの西縁部にあたり、付近に存在する糸魚川静岡構造線の影響も相まって非常に複雑な地質条件を有する。このため、北陸本線は建設時から地すべり災害に悩まされてきた。浦本駅 - 能生駅間を浦本トンネルと木浦トンネル、能生駅 - 名立駅間を頸城トンネル、名立駅間 - 有間川駅間を名立トンネル、各地すべり土塊の下をくぐるルートが設定された。建設は、多くの破砕帯に直面し難航を極めた。突発的な出水はおろか石油が湧き出した地点もあったという。
2015年08月15日探索。
大都会東京に存在する旧陸軍砲兵工科学校跡地に隧道が現在でも存在することを知り見に行きました。後楽園駅近くの礫川公園と東京都戦没者慰霊園の境ぐらいの緑地の中に煉瓦造りの隧道ポータルがある。煉瓦造りの隧道ポータルは閉鎖されている。遺構調査機構のホームページでは中に入れる様なことが書かれていたが・・・
2011年08月13日探索。
ベッドフォード・ノーサンプトン線は、3つの郡(ノーサンプトンシア郡のノーサンプトン町とホートン町、バッキンガムシア郡のオルニー町、ベッドフォードシア郡のターベイ町とベッドフォード町)に駅が有るミッドランド鉄道の支線でした。1872年に開業。中間駅は1962年に旅客営業休止。ノーサンプトンとピディングトン駅間の短い区間が英国防省設立のために1981年まで残っていたが全線廃止。鉄道線路はノーサンプトンとブラックミルズの間に線路が残っていますがその他は残っていません。ベッドフォード・ノーサンプトン線の再開はフォードシア郡の鉄道と輸送協会によって提案されている。
2010年12月01日探索。
東野鉄道は、かつて栃木県那須郡西那須野町(現・那須塩原市)の西那須野駅から同郡黒羽町(現・大田原市)の黒羽駅を経て同郡小川町(現・那珂川町)の那須小川駅までを結んでいた鉄道路線およびその運営会社である。1924年には八溝山地の木材輸送を目的として黒羽から那珂川に沿って南下し那須小川まで延伸されたが、日中戦争後の不況で黒羽 - 那須小川間は1939年には廃止された。残る西那須野 - 黒羽間も、旅客・貨物輸送量の低下や災害復旧にかかる経費の問題から1968年に廃止された。
2010年05月03日探索。
東北本線旧線(宇都宮-蒲須坂)
1886年(明治19年)10月1日 - 宇都宮 - 那須(現・西那須野)間開業。このときの宇都宮 - 矢板間は、現・東北新幹線に近い経路であった。 1891年(明治24年)9月1日 - 宇都宮 - 長久保間に古田駅開業。 1897年(明治30年)2月25日 - 宇都宮 - 矢板間経路変更(当時未治水の鬼怒川の氾濫、橋梁被害により運休が多発し、大きく迂回する経路変更を余儀なくされた)。新線上に岡本駅、氏家駅開業。旧線上の古田駅、長久保駅廃止。矢板 - 西那須野間に野崎駅開業。
2010年05月03日探索。
北陸本線旧線:敦賀と今庄の間には海抜762mの鉢伏山がそびえ、その鞍部である木ノ芽峠(海抜628m)は、古くから北陸道の隘路であった。北陸トンネル開通前の北陸本線敦賀〜今庄間(1896年開通)は、海岸の山麓を縫いながら4カ所のスイッチバックを擁して25‰の急勾配を上り下りする厳しい条件の単線区間であった。途中には3箇所の駅、3箇所の信号場、12箇所のトンネルも存在し、列車の行き違いにも時間を要した。1962年には全長13,870mの北陸トンネルが開通し、敦賀 - 今庄間が新線に切り替えられ、杉津経由の旧線は無事故を記録したまま廃止された。
2010年02月20日探索。
三国線とは、福井県金津町(現在のあわら市)の金津駅(現在の芦原温泉駅)から福井県三国町(現在の坂井市)の三国港駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。1972年に廃止された。1944年には三国線も不要不急線として全線が休止されると、京福電鉄は三国線の三国 - 三国港間を電化して同区間に乗り入れを開始し、芦原 - 三国港間は京福電気鉄道が営業を継続することとなった。1972年に休止中の芦原 - 三国港間を含めて全線が廃止された。三国線は路線としては廃止されたものの、全駅がえちぜん鉄道の駅として存続している。
2010年02月19日探索。
常磐炭鉱中郷鉱曳索軌道大正06年(1917年):茨城無煙炭鉱第二坑から南中郷村日棚の茨城無煙炭鉱第三坑専用軌道に曳索軌道を接続し、南中郷駅に石炭を搬出する。全長1.5q 軌間508mm。昭和19年(1944年):入山採炭鰍ニ磐城炭鉱鰍フ合併により中郷無煙炭鉱椛譏Z坑から常磐炭鉱活城鉱業所中郷鉱第六坑。昭和30年(1955年)頃 第六坑閉山、曳索軌道廃止。
2010年02月07日探索。
好間炭鉱専用鉄道好間線明治37年(1904年) 白井遠平が設立した好間炭鉱は、好間村(当時)の北好間地区の籬(まがき)に坑口を開いた。明治39年(1906年)好間炭鉱株式会社を発足。好間炭鉱は蒸気巻上げ機を導入し綴駅(内郷駅)までの専用線を敷設するなどして近代的炭鉱へと発展する。 大正07年(1918年)好間炭鉱は現古河鉱業に買収され古河鉱業好間炭鉱となる。昭和02年(1927年) 北好間坑から撤退し上好間坑は継続。昭和39年、古河好間鉱は古河鉱業より分離され、好間炭鉱株式会社として再出発したが昭和44年(1969年) 上好間坑も閉山。鉄道は休止状態になるり、 昭和47年(1972年) 正式に廃止。
2010年01月09日探索。
アプトの道。国鉄信越本線横川駅〜軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間がアプト式鉄道時代に使われた。1891年着工。高崎駅と直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、上述の区間だけが未開通だったため急ピッチで工事が進められ、1893年に竣工。1963年に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用された。全長 91 メートル、川底からの高さ 31 メートル、使用された煉瓦は約 200 万個に及ぶ。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年には「碓氷峠鉄道施設」として、他の 4 つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定された。
2009年12月05日探索。
尾道鉄道は、かつて広島県の尾道市と御調郡御調町(現在の尾道市の一部)を結ぶ鉄道路線を有していた鉄道事業者である。尾道市街地と山中の集落を結ぶ盲腸線であり、営業成績は運行当初から余り芳しいものとは言えず、モータリゼーションの進行に伴い1964年までに廃止され、路線バスの運行に切り替えられた。会社自体はその後も社名を変更せずバス事業者として営業を続けたが、1970年にニコニコバスに吸収合併され解散。事業はニコニコバスから社名変更した中国バスに引き継がれた。
2009年08月10日探索。
住友金属鉱山下部鉄道は、1977年まで愛媛県新居浜市において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。「別子鉱山鉄道」や「別子鉄道」とも呼ばれた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として上部鉄道に先駆けること9ヶ月、当時住友財閥の初代総理人であり、別子銅山の総支配人でもあった広瀬宰平の専用鉄道として1893年(明治26年)3月15日に開業した。主に別子銅山から採掘された銅鉱石を製錬所や港湾へと輸送する役割を担ったが、1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで廃止された。
2009年07月11日探索。
静岡鉄道駿遠線は、かつて静岡県中部、藤枝市の大手駅から袋井市の東海道本線袋井駅(駿遠線は新袋井駅)を結んでいた静岡鉄道の鉄道路線。大手駅 - 新藤枝駅 - 新袋井駅は全長64.6kmと、軽便鉄道としては日本最長規模になった。その複雑な生い立ちと長大さから、使用される車両も引き継ぎ車、静岡鉄道自社製を中心に種々雑多で、鉄道ファンには人気の高い路線だったが、老朽化した大井川橋梁の架け替えに多額の費用を要することから、全通からわずか16年後の1964年(昭和39年)より区間廃止が始まり、1970年(昭和45年)8月1日付けで全線廃止。2009年07月11日探索。
2009年02月21日探索。
西武大宮線は、埼玉県川越市旧市街にあたる川越久保町駅と大宮市(現:さいたま市大宮区)の大宮駅とを結んでいた鉄道路線である。大宮線を運営していた西武鉄道の前身、川越馬車鉄道(川越電気鉄道)は入間郡川越町内(現川越市)に埼玉県下で初めて電灯を灯した電気事業者でもある。川越馬車鉄道(旧西武大宮線)は、1902年(明治35年)5月9日に第八十五銀行取締役の綾部利右衛門らの発起によって設立され、同日に開業した。設立時における役員構成は、取締役5名のうち社長の綾部をはじめ3名が川越町の商人であり、川越馬車鉄道は川越商人主導で経営されていた。
2008年12月21日探索。
横川 アプトの道(めがね橋) 横川鉄道文化村
碓氷峠鉄道文化むらは、群馬県安中市松井田町にある体験型鉄道テーマパークである。東日本旅客鉄道(JR東日本)の信越本線横川駅-軽井沢駅間の廃止と共に役目を終えた、横川駅に隣接した横川運転区跡地に建設された。1999年(平成11年)4月18日に開園。一般財団法人碓氷峠交流記念財団が運営する。碓氷峠の歴史や資料、碓氷峠で活躍した鉄道車両、国鉄時代の貴重な車両などを展示・公開している。また、信越本線の廃線跡を利用してEF63形電気機関車の体験運転が行われたり、トロッコ列車が運行されている。
2007年02月04日探索。
工事中 1
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
煉瓦橋梁・煉瓦隧道写真集