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更新日時 2016年09月21日

煉瓦構造物 瓦葺掛樋
@瓦葺掛樋。
住所:上尾市大字瓦葺字堤外286
設置から230年近い歳月の中で水路の変形や欠陥が甚大になり、流末地域の用水不足から昭和36年には伏越(ふせこし)に改変された。瓦葺掛樋跡は、見沼代用水路や明治時代の土木技術の歴史上、重要な文化財であるとともに、見沼代用水路の重要構造物の中で、唯一、明治時代の構造物が残る貴重な文化財。
2016年08月14日探索。
@瓦葺掛樋の翼壁。
@瓦葺掛樋の翼壁。
@瓦葺掛樋の橋台の端部(翼壁:土留めと浸水防止のために設ける)は、曲面施工されている。用水は橋台の間に固定された樋を、蓮田市から上尾市へ流れていた。
@瓦葺掛樋は煉瓦で構築された橋台・橋台翼壁・掛樋北翼壁は、明治41(1908)年に鉄製に改造されたものの一部である。橋脚には、上敷免村(深谷市)で作られた煉瓦が使用された。樋の寸法は、90尺(約27m)、幅は24尺7寸2分(約7m50cm)だった。
@瓦葺掛樋の翼壁はイギリス積み。日本煉瓦製造の綺麗な煉瓦が使われている。
@瓦葺掛樋は見沼代用水の流路には、途中に他の河川と交差する所があり、そこには樋や堰などを設けて水路をつなげた。綾瀬川と交差する地点にある瓦葺の掛樋もその一つに数えられる。掛樋は川の上に橋を架けて、その中を用水が流れるようにするものである。川の下をくぐって超える伏越という工法ではなく、掛樋を選んだ理由は、周辺の地盤が弱かったことや、通船があったためなどと考えられている。
@瓦葺掛樋は築造時は木製で、長さが24間(約44メートル)、幅が8間(約14・5メートル)あり、水路の底は板敷き、左右は土堤だった。その後、土堤を廃し全板囲いにするなど改修を繰り返し、天明七(1787)年には28間(約51メートル)に延長され、以後この規模で明治期まで続いた。明治四一(1908)年には、鉄製に改造され、橋脚には日本煉瓦製造株式会社上敷免工場(現深谷市)で作られた煉瓦が使用された。
@瓦葺掛樋は2スパンの水路橋であったが、綾瀬川の中に建てられていた橋脚は、現在は撤去されている。
@瓦葺掛樋の跡(上尾市、瓦葺掛樋公園内)掛樋に接続する旧水路(見沼代用水)の側壁部分の遺構(長さは約20m)。水路は漸拡(徐々に幅が広くなる)だが、平面形状は直線でなく曲線になっている。旧水路の左岸側の側壁は、撤去された。
@瓦葺掛樋の手前が旧水路の側壁。側壁は下段方向が厚くなっている。これは、土圧に対する抵抗を大きくするための根積みと呼ばれる構造。
@瓦葺掛樋は、見沼代用水路の重要構造物のひとつで、瓦葺の地で、見沼代用水路と綾瀬川が立体的に交差できるように、綾瀬川の上に架けられた。当初は長さ24間(約44m)、幅8間(約14.5m)で、水路の底は板敷き、左右は土堤であった。 その後、土堤を廃し全部板囲いにするなど改修を繰り返し、天明7(1787)年には28間(約51m)に延長され、以後この規模で明治期まで続き、舟運にも利用されてきた。
@瓦葺掛樋に日本煉瓦製造の上敷免製の刻印が確認された。
@瓦葺掛樋に右から左書きの上敷免製の刻印。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『上尾市』を掲載」
出典: フカダソフト\きまぐれ旅写真館\埼玉の煉瓦水門