更新日時 2018年11月18日
猿島(正式名称は「えんとう」だが、広く一般的に「さるしま」と呼ばれる)は、神奈川県横須賀市、東京湾に浮かぶ無人島。湾内唯一の自然島である。島内からは縄文時代の土器や弥生時代の土器・人骨が出土し、また日蓮上人にまつわる伝説が残るなど、古くから人々に親しまれた島である。幕末から第二次世界大戦前にかけては、東京湾の首都防衛拠点となる。幕末には江戸幕府の台場が築造され、明治時代に入ると陸軍省・海軍省の所管となり、東京湾要塞の猿島砲台が築造された。実際に本施設が実戦に用いられたことはないが、島内の岩壁を掘って煉瓦で覆われた要塞跡は現在も残り、日本では数少ないフランドル積みが見られる。第二次世界大戦後は1961年(昭和36年)までの間は連合国の1国であるアメリカ軍に接収される。その間にも1947年(昭和22年)に渡船の運航が開始、1957年(昭和32年)には海水浴場が開かれる。その後1993年(平成5年)に海水浴場は閉鎖、航路も廃止され立ち入り禁止とされる。1995年(平成7年)、横須賀市が大蔵省から管理委託を受けて散策路等を整備し、航路も再開、翌1996年(平成8年)には海水浴場も再開された。2003年(平成15年)、横須賀市が国から猿島の無償譲与を受けた。 | |
![]() |
![]() |
猿島航路乗船券売場。大人1,200円小学生600円 | 船名:しーふれんど2 定員:150名 総t数 : 19t |
![]() |
![]() |
@猿島の由来:猿島は申島、去島とも書かれますが、鎌倉時代、建長5年(1253年)5月のこと、日蓮上人が上総(今の千葉県中部)から鎌倉へ船出したところ、急に天候が悪化し、船は荒波にもまれ沈没寸前となりました。日蓮は舳に立ち、海の神様である龍に題目を唱えました。すると不思議なことに大きな龍が出現し、あたりは嘘のように静けさを取り戻したのです。日蓮は猿島に流れ着き、その時現れた白猿の導きによって今の米ケ浜に無事上陸出来たと言われます。この伝説に因んで猿島と名づけられたようです。 | |
![]() |
![]() |
@海軍港碑(明治10年)(2011年01月09日撮影) | @海軍港碑(明治10年)(2016年04月23日撮影) |
![]() |
![]() |
A猿島管理棟:猿島の管理人室、猿島に関連する資料の展示、ミーティングに利用できるスペースなどもあり、島で見つかった弾薬や砲弾なども展示してあります。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
A猿島の煉瓦の刻印です。(2016年04月23日撮影) | |
![]() |
![]() |
A猿島の煉瓦の刻印です。(2016年04月23日撮影) | |
![]() |
![]() |
B猿島発電所:猿島には電気がありません。各施設の照明や自動販売機を動かすために三笠から燃料を運び、発電機を使用して発電しています。この建物は蒸気機関による発電所として、明治28年(1895年)に完成しました。建物の構造は煉瓦積みだけで自立した壁と木造キングポストトラスという小屋組の屋根で構成されています。建物内部には汽罐室と発電機室、石炭庫があり、汽罐室の下には蒸気機関で使う水を貯めていた地下水槽の存在が明らかになりました。ここで作られた電気は建物の裏から切通しを伝わって島の中央部高台にある照明所に送られていました。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
B2016年4月23日煉瓦散歩の時の写真。右写真は地下水を汲み上げているのでしょうか? | |
![]() |
![]() |
B煉瓦の粘土「荒木田土」の説明。 | B煉瓦の刻印は見つかりませんでした。 |
![]() |
![]() |
C通信用の配管跡だそうです。(2016年04月23日撮影) | |
![]() |
![]() |
C銃弾跡。猿島上陸時にカーブし先が見えないため威嚇射撃の跡。(2018年11月11日撮影) | |
![]() |
![]() |
C切通し。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
C要石と煉瓦造りの小窓。(2016年04月23日撮影) | |
![]() |
![]() |
D兵舎1。小窓のある部屋が兵舎。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
D兵舎1。棚跡。(2018年11月11日撮影) | |
![]() |
![]() |
D猿島要塞:要塞とは、外敵を防ぐための防御施設です。猿島の要塞は東京湾口の守りを固めることを目的として、明治時代中期に明治政府が建造しました。全ての施設が岸壁を堀込んで造られているので、島の外からは全く見えない構造になっています。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
D通路の左右で石の大きさが違います。左側の小さい方が新しい方だそうです。(2016年04月23日撮影) | |
![]() |
![]() |
D増山さんの説明ではトイレだそうです。 | D弾薬庫1。窓の無い部屋は弾薬庫。 |
![]() |
![]() |
D増山さんの煉瓦の積み方講座です。(2016年04月23日撮影) | |
![]() |
![]() |
D煉瓦の積み方。(2016年04月23日撮影) | D砲弾を吊した金具です。(2016年04月23日撮影) |
![]() |
![]() |
D弾薬庫1内部。弾薬庫のすみには真上の砲台に弾薬を運ぶためのものと思われる井戸のような穴が開いています。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
D弾薬庫1内部。(2018年11月11日撮影) | |
![]() |
![]() |
D弾薬庫1内部。砲弾を上げる穴。(2018年11月11日撮影) | |
![]() |
![]() |
E露天掘り幹道。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
F兵舎2。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
F弾薬庫2:切通しの東側には兵舎と弾薬庫が交互に並び、小窓の無いこの部屋は弾薬庫として使われました。アーチ状の入口はこの先のトンネルと同じフランス積みの煉瓦構造物です。この部屋の隅には井戸のような縦穴があり、これを使って真上の第二砲台へと弾薬を運んでいたと思われます。また別の弾薬庫の地上には、地下の弾薬庫と連絡を取るための円形の土管を利用した伝声管も見つかっています。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
F弾薬庫2内部。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
Fこれも増山さんの説明では大のトイレだそうです。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
F境界石?(2016年04月23日撮影) | F落書き。(2016年04月23日撮影) |
![]() |
![]() |
F愛のトンネルへの石積みの切通し。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
G愛のトンネル:フランス積みレンガのアーチ造り洋式トンネル。日本で2番目に古い歴史を持っています。トンネル内は外に比べて暗いので、中にはいると真っ暗。カップルが自然と手をつないで通るためいつしか「愛のトンネル」と呼ばれるようになりました。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
Hトンネルの壁沿いにも、壁を堀込んで二階建てのハヤが部屋が造られています。これらの部屋も兵舎や弾薬庫の他、病室や司令室として設けられたと考えられます。この様に猿島の要塞は、数々の工夫がされた見事な要塞でした。しかし関東大震災で一部が崩壊したことや、飛行機や長距離砲が急速に発達したことにより、実践で使われることはありませんでした。その後、猿島は第2次世界大戦中に軍事施設として復活しましたが、砲座や監視所などは新たに造られ、赤煉瓦の要塞は手を入れられることなく、現在まで残されたのです。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
H弾薬庫3。(2011年01月09日撮影) | H砲台地下施設説明板。 |
![]() |
![]() |
Hトンネル内にも地下施設が存在します。地下施設はフランス積み煉瓦構造の二階建てで、トンネルの西側に並んでいます。このアーチ状の開口部は二階と西側斜面へ上がるための階段の出入口で山頂付近に有った司令所や照明所への重要な連絡通路でした。これらの地下室の個々の用途はまだ不明ですが、猿島砲台全体の弾薬を貯蔵する大本の弾薬庫としての利用は確認されています。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
I愛のトンネル北側。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
I弾薬庫4。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
J弾薬庫4内部。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
Kこの部屋は向かい側の台地上に有った第一砲台の関連施設だったと考えられています。台地上の両側には27p加農砲が1門ずつ設置され、砲台下には弾薬庫や弾を上げるための井戸が陸軍によって建設されました。その後、海軍が高角砲を設置し、その通路として弾薬庫を貫いてトンネルとし現在に至っています。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
K愛のトンネルを出て右側へ行くトンネル。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
L反対側トンネル出口。出口が直角に曲がっていて海上から見えないように工夫されています。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
J砲台座へ行く道。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
M砲座跡:猿島には幕末、明治初期、昭和とほぼ3回にわたって砲台が築かれました。現在ではその砲座跡がいくつか残るだけです。百年近くもひっそりと自然と共存してきたため、今ではその自然と織りなす幻想的な風景のひとつとなっています。8p高角砲跡。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
N砲台跡:日本が鎖国をしていた19世紀中頃、江戸幕府は異国船の江戸湾進入を防ぐために、全国初の台場(大砲を据える台)を猿島に建設しました。以来、猿島は「要塞の島」として歴史を歩み始めたのです。やがて明治時代中期、明治政府は東京湾口の守りを固めるために、猿島に砲台と要塞を設けました。砲台には敵国の戦艦を迎え撃てるよう、フランスから輸入したカノン砲が配備されました。しかし、海から空へと戦法の主流が急速に変化したことなどにより、実践で使われることは有りませんでした。その後しばらくの間、猿島は軍事拠点としては忘れられていましたが、第2次世界大戦の激化と共に戦雲が本土へと迫り、再び防衛施設として活躍されることになりました。昭和16年頃より鉄筋コンクリート製の円形の砲座が5座造られ、その上には高射砲が配備されました。これが現存する高射砲の砲台跡です。高射砲は終戦を迎えるまで空に向かって火を吹き続けましたが、終戦と共に進駐軍に解体され、砲台だけが残されました。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
N日蓮洞までここから30m階段を降りて行く。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
O日蓮洞窟(古代居住跡)洞窟からは弥生式土器や石包丁、人骨なども見つかっているため、弥生時代から古墳時代にかけて住居やお墓として利用されていたと考えられています。日蓮上人の名前にちなんで日蓮洞窟。江ノ島まで続いているとの伝説もあります。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
P8p高角砲跡。 台場跡:この付近の斜面一帯には幕末に建設された砲台である卯の崎台場がありました。江戸幕府が異国船の江戸湾進入を抑えるため島の3箇所に建設した台場のうちの一つで、弘化4年(1847年)に完成しました。ここ卯の崎台場には3門の大砲が据えられ、普段は雨覆いが掛けられていました。その後嘉永6年(1853年)にはペリー提督が黒船を率いて猿島の脇を通過し、その際に猿島を「ペリー・アイランド」と命名したと伝えられています。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
P卯の崎台場跡・消磁場跡下の海岸。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
P公園の境界杭です。この公園の測量に関わった人も参加しています。(2016年04月23日撮影) | |
![]() |
![]() |
Q展望台:猿島のちょうど中央あたりに位置する展望台。広場で食べるお弁当は最高です。この展望台は知る人ぞ知る「仮面ライダー」初代ショッカーの基地として実際に撮影で使われていました。猿島らしいこの建物は人気スポットのひとつです。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
Q展望台広場。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
Rこの円形も台場跡。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
R横穴が空いています。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
![]() |
R木を伐採したので砲台跡が見やすくなりました。(2016年04月23日撮影) | |
![]() |
![]() |
E来た道へ降りる階段。 | S南側の広場へ降りる階段。 |
![]() |
![]() |
S南側の広場。(2011年01月09日撮影) | |
![]() |
|
戻る Copyright (C) 2006-2023 hotetu.net All Rights Reserved 外部から直接リンクで飛んできた方は右ホームページリンクへ http://www.hotetu.net/ 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 出典:株式会社トライアングル |