更新日時 2020年11月24日
軍艦島(端島)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していたが、閉山とともに島民が島を離れたため、現在は無人島である。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている。長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にある。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートルの距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。島は本来は、現在の3分の1ほどの面積しかない小さな瀬であった(当時の瀬の大きさは南北約320メートル、東西約120メートル)。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって拡張したものが、現在の端島である。その大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルで、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール、海岸線の全長は約1200メートル。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。 | |
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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より地図画像を拝借。 | |
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軍艦島コンシェルジュツアー発着ターミナル。 | 端島(軍艦島)で取れた石炭。 |
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端島(軍艦島)の模型。 | 常磐ターミナルに展示されている写真。 |
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常磐ターミナルに展示されている軍艦島の写真。 | |
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端島(軍艦島)の地下の坑道に敷設されていたトロッコ軌道。 | |
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端島(軍艦島)の地下の坑道に敷設されていたトロッコ。 | |
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軍艦島コンシェルジュツアーで使われている、マーキュリー 『旅客定員130名』この日は月曜日のため参加者21名でした。2月と9月はほぼ9割が上陸できているのに対し、7月の「上陸率」は僅か34%にとどまるり、上陸率が一番少ない7月でしたが、この日は天候に恵まれて最高の1日でした。 | |
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この日は豪華客船が入港していました。 | 自動車運搬船が建造されています。 |
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三菱重工業長崎造船所で修理されている(護衛艦こんごう)及び建造されているイージス艦。 | |
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長崎女神大橋。 | 伊王島大橋。 |
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三菱重工業長崎造船所香焼工場。 | |
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端島(軍艦島)に上陸前に反時計回りで1周します。 | |
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この方角から見る軍艦島が一番軍艦のシルエットに近いそうです。午前中の便は若干逆光になります。 | |
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70号棟(端島小中学校) | |
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65号棟は鉄筋コンクリート造の鉱員社宅で、端島で最大のアパートでもある。コの字型をしており、最初に建設された北側の7階建て『報国寮』は、第二次世界大戦中にも関わらず建設が進められ1945年(昭和20年)に完成した。その後8階・9階部分を増築(1947年)、東側を9階建てで増築(1949年)、東側に10階部分(屋上保育園)を増築(1953年)、南側を10階建てで増築(1958年)と、段階的に拡張している。最終的には317戸、総床面積16895.5平方メートル(屋上・地下含む)[50]となった。計画時は北側の棟にエレベーターが設置される予定だったが、中止となりそのスペースは住居に転用された。上層階には、1941年完成の中央住宅(14号棟)で本格的に採用されたキャンチレバー(張り出しベランダ)が設けられている。基本的な部屋の構造は2K(6畳2間)。4階と7階には緑道(山通り)への連絡通路が、地下1階には理容室がある。1958年(昭和33年)に完成した南側の棟は「新65号」と呼ばれていた。端島では最も高い建物(10階建て)で、各戸に水洗式のトイレが完備されていた(北側・東側の棟は共同トイレ)。 | |
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島の頂上にあるのは貯水槽。高島より海底の給水管を通して給水していたようです。 | |
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70号棟(端島小中学校) | |
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59号棟(鉱員社宅)及び日給社宅。日給社宅は1918年(大正7年)に建設された鉱員社宅、16号棟から20号棟の通称である。「日給社宅」という名前は、当時の鉱員が日給制だったことによる(職員は当時から月給制だった)。30号棟に続いて建てられた、島内でも特に古い住宅である。同じ向きに並んだ各棟の西側(海側)が「防潮大廊下」と呼ばれる連絡通路で繋がっており、全ての階が一体となっている。地下には店舗が、屋上には公園や農園があった。トイレは各棟の大廊下側に共同トイレが設置されていた。この住宅の特徴は、大廊下があったこともあって、戸外床面積の割合が約4割も占めていたことである(同時期の同潤会アパートや戦後の公団住宅では最大で2割ほど) | |
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端島(軍艦島)の桟橋です。1962年に完成した3代目のドルフィン桟橋。初代は完成後2年目に台風で流失、2代目も完成翌年の台風で破損した。 | |
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BSフジテレビの取材が来ていまして、桟橋に降りるところを撮影していました。 | |
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石炭の詰込桟橋橋台が残る。 | |
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島の反対側へズリを捨てるトンネル。 | |
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廃材のレールも利用されていたようです。 | |
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煉瓦造りの建物は総合事務所前の倉庫。 | |
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第2見学広場です。見学用に整備されていますが、私は整備されていないそのままの状態の方が良かったと思います。 | |
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お姉さん方2名で案内をしてくれます。 | |
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命の階段。この先に竪坑が有ったそうです。 | |
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協三工業製10tディーゼル機関車のレストア作業で再びメタボ体型になりました(笑) | |
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軍艦島(端島)の護岸は全て天川と呼ばれる接合剤で岩石を積んだ構造です。大正末期まではこの天川護岸が主となっていたようです。天川護岸壁を周囲から鉄筋コンクリートで包み込む形で補修、補強がなされました。 | |
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高島からの給水管の取り込み口だったそうです。水と電気は高島から供給されていたようです。 | |
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クレーンの台座です。 | |
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見学者用に整備された見学者通路。 | |
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30号棟は、1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパートである(日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートとも)。当初は4階建てであったが、完成後まもなく7階建てに増築されている。島の南西部、岩山の南端の山麓に位置する。中央に吹き抜けをもち、上から見るとほぼ正方形に近い「ロの字形」をした建物である。吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があり、階段も吹き抜けに面している。その周囲に巴形に住居が配置されている。鉱員社宅として建てられたが、閉山時には下請飯場として用いられていた。7階建てだが部分的に地階もあり、閉山時は売店が入っていた。戸数は140戸、総床面積は3808.0平方メートル。基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と1K(4畳)が1戸と共同トイレ。25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路で繋がっている。建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口がある。当時はまだ技術的に未熟であり、また材料や環境の悪さゆえ、最初に造られた下層階の劣化が速かったため、1953年(昭和28年)、上層階をそのままに下層階の鉄筋を取り替え、コンクリートを打ち直して改築している。 | |
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