更新日時 2013年10月05日

 三宅島(みやけじま)は、伊豆諸島の島。雄山(おやま)を中心としてしばしば激しく噴火をすることで知られ、日本の気象庁によって火山活動度ランクAの活火山、常時観測対象火山に指定されている。最近では2000年から活発な火山活動が続いている。島の全域が富士箱根伊豆国立公園となっており、行政区画は島全体が東京都三宅村に属する。東京の南海上175km、伊豆大島の南57kmに位置する。直径8kmのほぼ円形をした島。伊豆-小笠原海嶺の上にあり、第四紀更新世の後期(約1万〜15万年前)になってこの付近の海底で噴火が始まり、島が形成されたと考えられている。島名の由来はいくつかある。事代主命(ことしろぬしのみこと)が三宅島に来て、付近の島々を治めたという伝説から宮家島といった説、8世紀に多治比真人三宅麿が流されたことから三宅島とした説、火山が噴火することから御焼島に由来する説などがある。噴火活動が盛んで、1085年(応徳2年)以降、1154年(久寿元年)、1469年(文明元年)、1535年(天文4年)、1595年(文禄4年)、1643年(寛永20年)、1712年(正徳2年)、1763年(宝暦13年)、1811年(文化8年)、1835年(天保6年)、1874年(明治7年)、1940年(昭和15年)、1962年(昭和37年)、1983年(昭和58年)、2000年(平成12年)に噴火の記録がある。
@現在、八丈島航路に就航しているかめりあ丸。 @三宅島の錆ヶ浜港。
@錆ヶ浜港の新しい錆ヶ浜港船客待合所。
@三宅島観光復興モニュメント「シンビオシス」 @旧三宅島阿古(錆ヶ浜港)船客待合所。
@三宅島で生産されているテトラポッド。
A荒島神社。この神社には火牟須比命が祀られている。(富賀神社跡地)
A阿古地区消防署。 A三宅島阿古地区の駐在所。
A五洋建設三宅島工事事務所。 A鯨神社。
B三宅村仮庁舎。 B三宅島郷土資料館。
B三宅島の溶岩樹形を展示している。 B三宅島の模型。
B三宅島郷土資料館内の様子。
 C阿古地区の火山体験遊歩道。この火山体験遊歩道は1983年(昭和58年)に発生した噴火により阿古集落を飲み込んだ溶岩流の上に作られた遊歩道です。
 C阿古中学校校跡。当時、阿古中学校は生徒数61名、教職員数18名でした。噴火の当日10月3日は前日の運動会の振替休日で学校は休み。阿古地区に溶岩流が流れ込み、阿古小中学校はまるで溶岩をせき止めるかのように校舎の2階部分までを溶岩流に埋められてしまったのです。
Cプール(体育館?)の鉄骨が溶岩の熱で飴のように曲がっています。
 C阿古小学校跡。当時、阿古小学校は生徒99名、教職員16名でした。噴火の前日、10月2日は小中学校合同運動会が行われました。翌日、10月3日。噴火で発生した溶岩流は、窓枠を押し破り、校舎内まで侵入し、校舎の2階まで埋め尽くしました。残された3階は窓枠は変形しガラスは割られましたが、図書やグランドピアノは奇跡的に残されていました。
C阿古地区の火山体験遊歩道。
C阿古地区の黒い溶岩流の跡に赤い溶岩が有った。2000年の噴火時に火山弾として飛んできたか?
D三宅島の溶岩を利用したブロックで造られた石垣。赤と黒の2種類の溶岩が特長。
 D鉄砲場:1983年10月3日の噴火は、雄山南西山腹450mの二男山付近で噴火が始まり、割れ目が上下に拡がって、90ヶ所以上に及ぶ火口が開きました。噴出したマグマは、溶岩流となって3方向に谷を流れ下りました。桑の木平カルデラの最も低い所を超えた最大の溶岩流が、まさにこの場所を通過し阿古の集落へ押し寄せて行ったのです。この付近には自動車修理工場があったのですが、ここに放置された車も溶岩に飲み込まれてしまいました。噴火が始まったのは15時15分ごろ、ここに溶岩流が到達し都道を横切ったのが、17時20分頃。阿古集落からの島民を乗せた11台目の最終の避難バスが、北へ向かって通過してからわずか、10分後のことでした。
E当時の阿古集落。 E現在の阿古集落跡。
F為朝の袂石。 F井上正鐵の腰掛石。
G三宅村汚泥再生処理センター。 G三宅村クリーンセンター。
H三宅島の伊ヶ谷港。
 H処刑場跡及び陣屋・島牢跡。1623年徳川家光が三代将軍を継いだ年、幕府は伊ヶ谷大船戸湾が自然に恵まれた良港であることから、御用船の取扱を開始した。伊ヶ谷村はこれを契機として三宅島交通の要衝となり、御用船の入出港を管理監督するために1723年に至って陣屋が設置された。江戸中期になると流人の数が増加し、中には希望を失って自暴自棄になり、喧嘩、火付、窃盗などの再犯を重ねるものがしばしいた。これらの犯罪者を幕府または代官の決裁が到着するまで留置拘束するため、1765年に伊ヶ谷の大船戸湾に近い場所に公儀流人牢(島牢)が建てられた。
 I物見処(もれんど)遺跡は、大船戸湾を臨む地につくられた積石塚群です。おおよそ中世から近世にかけての遺跡と考えられています。石積遺構は大船戸の海岸辺りから石を運んで構築されており、その石に、中には仏教経典の文字を記した礫石経が含まれており、仏教的な経塚信仰と三宅島在来の石積信仰が融合した特殊な施設です。
 J伊豆岬灯台は明治42年6月1日に完成し、日本の灯台史上では古い部類に入り、昭和26年2月迄石油で点灯がなされていた。現在は電力を利用し15,000カンデラで光達距離は14.5浬(26.85q)で三宅島付近を航行する船舶の道標となっている。
J伊豆岬灯台駐車場の公共トイレはウオシュレット付だった。ホテルにも付いていなかったのに・・・
K三宅村立三宅小中学校。
 L三宅島の東京愛らんどシャトル(東邦航空)のヘリポート。島の北端部にあたる伊豆・神着地区に整備されたヘリポートである。帰島に備えて島内の防災工事を行う際に整備された、作業員宿舎のヘリポートを活用したものであり、宿舎は現在も残されている。宿舎には火山ガスを濾過する装置が備えられており、伊豆緊急避難施設として、火山ガス濃度が高まった際の避難所になっている。東京愛らんどシャトルでは、2005年(平成17年)6月に場外離着陸場発着にて大島空港便が暫定再開され、同年10月より御蔵島便も含めた定期運航が再開された。空港運用が再開された現在も引き続き場外離着陸場発着となっている。このヘリポートは不便ですね。タクシーも常駐していないし、バス停までも歩いてちょっとある。フェリーの錆ヶ浜港までもかなりあります。ANAの三宅島空港までもかなりあります。
M三宅島の大久保港。
M東京電力三宅島内燃力発電所。
 N島役所跡:この建物はもともと神着村東郷の地域にあったが、1516年に御笏神社が神託によって現在地に遷宮された関係から、18年後の1534年にこの地に移転したものである。建物の面積はおよそ46坪、現存している木造建築では伊豆諸島の中で最古最大の規模を誇り材質は全て椎の木が使われている。特に注目されているのは「カンナ」が全く使われていない建築様式で、主として「手斧」で仕上げられた貴重な建物として東京都の文化財に指定されている。
 N御笏(おしゃく)神社。この神社には、事代主命の后、佐枝多麻比当スが祀られている。御笏神社は延喜神名帳に記録されている式内社である。第60代醍醐天皇延喜年間に国が奉祀するに値する神社名を公に列記した延喜神名帳に記録されている極めて格式の高い神社であり、これを延喜式内社という。
O三宅島の湯ノ浜港。
P三宅島には砂防ダムがあちらこちらに有る。
Q火の山峠入口付近の海岸風景。
R火の山峠は展望台になっている。
R火の山峠から見るひょうたん山の火口跡。 R火の山峠から見る雄山方面。
S砂防ダムが見える。
@砂防ダムの上流部分は雨で岩も削られている。
 A泥流で埋まった鳥居と拝殿。椎取神社を取り囲む原生林は、三宅島の中でも特に深く神々しい森でした。2000年の噴火では、島の北東部に大量の火山灰が降り注ぎ、大雨になると水を含んだ火山灰が斜面を流れ下りました。さらに、中腹の山肌を削って土砂を巻き込んだものは土石流となって、山麓を襲いました。椎取神社の森は、泥流に埋まって根から呼吸が困難になり、その後の火山ガスの影響もあって、数年後には壊滅状態になりました。
A再建された椎取神社。
 B三七山から見たひょうたん山。1940年(昭和15年)に噴火を起こした「ひょうたん山」で、この景観は新東京百景に選ばれています。左手の高まりが昔の海岸線で、ひょうたん山は海中から誕生しました。1940年、1962年と続いた噴火で、この付近一帯は広く溶岩とその噴出物におおわれました。ひょうたん山左手の溶岩台地を赤場暁と呼んでいます。後方には噴石丘「三七山」があり、昭和37年の噴火で生じたスコリア丘です。1962年8月24日22時20分、1時間あまりの小地震が続いた後に、突然噴火が始まりました。噴火は海抜150〜200m付近の1ヶ所から始まり、数分後には火口が上下に拡がり、上部は雄山の8合目付近に達した後、山腹から海岸付近まで火柱が並びました。20余りの噴火口が新しく生まれ、噴火はおよそ30時間で収まりました。火山噴出物の総量はおよそ2000万トンと見積もられています。
 Cサタドー岬。「サタドー」の語源はヒンデェー語で「地獄」と言う説と、見通しの良い岬なので、「便りや知らせ」を意味する「沙汰」からきているという説があります。
D三宅村の三池地区。
E三池港は閉鎖されている。昔はこちら側がメインの港だったようだ。現在は錆ヶ浜港がメイン。
 F三宅島空港(みやけじまくうこう Miyakejima Airport)は、東京都三宅村(三宅島)にある第三種空港。2000年(平成12年)の火山噴火による全島避難に伴い、閉鎖された。2005年(平成17年)に島内一部地域で避難指示が解除されたが、空港の一部は高濃度火山ガスのために立入禁止区域となっており、閉鎖は継続された。2007年(平成19年)8月24日、東京都は条件次第での運航が可能と判断し、2008年(平成20年)4月26日より当面1日1便、最終的には噴火前と同じ1日2便の定期便運航を再開する方針を固め、予定通り4月26日より火山ガスの濃度に問題がない場合に限り1日1往復の運航を再開した。
F三宅島空港の待合室は何も無い。売店も有りません。
G坪田漁港。 H三宅高校。
 H三宅高校裏の砂防ダム堰堤。
I大路池。 I迷子椎。
 I大路池は、二千年以前に水蒸気爆発によって形成された火口湖で、四季を通じて満々たる水をたたえており、現在は村の簡易水道の貴重な水源として活用されている。周囲2.1q、水辺から斜面一帯は椎の木等の原始林び覆われ、小鳥の楽園としても知られている。その為野鳥の保護区にも指定されると共に、富士箱根国立公園の特別保護地域に指定されている。またこの池には、昭和12年に発見された「たいろ藻」と称する水藻の固有種の繁殖地と知られていたが、昭和58年10月の噴火の際大量の降灰があり、今では絶滅の危機に瀕している。
 J立根の仮橋は平成12年の三宅島火山噴火災害により、島民の暮らしに最も大切な一週道路(都道三宅循環線)は泥流の発生により多くの被害を受けました。このうち、立根については、泥流により新たな沢が出現し、都道全てが崩壊して交通が遮断され、島内の復旧事業を進める上で大きな障害となりました。これを受けて、立根橋の工事に先立ち、応急的に島内を周回する都道の通行を確保するため、平成13年4月に仮橋を設置した。三宅島の復興の礎として災害復旧のシンボル的存在の「立根の仮橋」を人道橋として保存し、困難を極めた災害復旧事業を後世に伝えます。
 K旧新澪池の西側に開いた火口群は、まもなく新澪池と連なり、高温のマグマと多量の水が接触して、激しい「マグマ水蒸気爆発」を引き起こしました。新澪池は一瞬にして干上がり、周囲の深い森は吹き飛ばされた岩塊とスコリア(軽石)の放出で壊滅的な打撃を受けました。その時に放出された岩塊は、この付近を広く覆い、現在でも都道沿いや、道際の壁に積み上げてある石として確認できます。
L薄木溶岩流。
M牧場公園は現在は誰も居ない廃墟と化している。現在立ち入れるぎりぎりのライン。
Mレストハウスは立入禁止エリアにある。
 N富賀神社。この神社には、事代主命(三島大明神)、伊古奈比当ス(后)及び阿米津和気命(王子)の三人が祀られている。事代主命は、父大国主命と共に出雲国島根半島から紀伊国に渡り、更に三宅島に渡ってこの神社付近に居住し、島々に漁業や農業を伝えて島の基盤を築いたと言われている。伊豆七島の総鎮守でもあり、静岡県三島神社発祥の地として名高い。
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