更新日時 2014年06月06日

 奥尻島(おくしりとう)は、北海道南西部の日本海上に浮かぶ島。面積は142.97kuであり北海道では5番めに面積の広い島である(北方領土を除くと2位)。島全体で北海道奥尻郡奥尻町をなす。人口3,675人(2006年)。島内最高峰は神威山(標高584m)である。また西部では温泉が湧出する。町の町制施行は1966年1月1日。主な産業は漁業および観光。特に夏はとれたてのうにやいかが食べられる。奥尻空港があり、函館空港から1往復就航する。また奥尻港には江差町との間に通年で日に往復2便、せたな町との間に夏季のみ日に1便または2便、フェリーが運航する。1993年7月12日に起こった北海道南西沖地震では、島の南西部の青苗地区を中心に津波の被害を受け200人あまりの死者を出した。当時約4,700人ほどあった人口は、被害による転出などがあり減少傾向にある。北海道南西沖地震のあと、防波堤などの大規模な津波対策がなされた。スマトラ沖地震のあと、島における津波対策の先進地ということで各国の防災担当者から注目をあびることとなった。
 @SAAB340B:日本では自動車メーカーとして有名なサーブ・スカニア社(スウェーデン)で開発製造された双発ターボプロップ旅客機です。 航空界(コミューター部門)での代表機種として世界各国のエアラインで使用され、短中距離区間を数多く経由して飛行する路線に就航しやすいように設計されています。特にHAC での使用機はSAAB340B プラスともSAAB340BWT とも呼ばれる性能向上型です。 通常、運航乗務員2 名、客室乗務員1 名で運航します。SAAB340B の機体はジュラルミンと複合材(ファイバーグラス)が主体でナローボディーですがきれいな円形の断面をしています。強力な与圧装置のおかげで上空でもほとんど地上と同じ気圧を維持することができます。
 @奥尻空港(おくしりくうこう Okushiri Airport)は北海道奥尻町(奥尻島)にある地方管理空港 である。奥尻空港は、奥尻島の南部に位置する離島空港である。北海道南西沖地震で街ごと大津波に襲われた青苗地区の近くに位置する。奥尻島の空の玄関口として観光を中心とした地域振興を支える拠点の一つとしての役割が期待されている。利用客数は近年は若干の減少傾向で約1.1万人前後を推移している。当初は現在位置のやや南東側の隣接地に開港。旧空港の滑走路は12/30方向に800mであった。滑走路の延長に対応するため、2004年に現在位置に移設された。現在の滑走路は13/31方向に1500mである。平行誘導路は無く、ターニングパッドも備えていない。着陸帯の幅は150mと狭く、計器着陸には対応できない。空港ターミナルビルは滑走路北側に1棟あり、国内線で使用している。ボーディングブリッジは備えていない。空港ターミナルビルに隣接するエプロンにはプロペラ機用2バースを有する。手荷物検査は、X線照射装置が備えられていないため、検査係員による開披検査を実施している。
@手荷物検査後の待合室には無料の水が置いてあります。
A今回お世話になった旅館 青葉荘です。
B民俗資料館です。夏場のみの開館。 B奥尻島の震災時の仮設住宅跡。
C今回レンタカーを借りた竹田荘。 C奥尻町総合研修センター。
D奥尻島の青苗地区の駐在所と消防署。
E奥尻島の青苗地区の漁港。
F奥尻島の青苗地区の市街地のメイン通り。高台のため奥尻地震の時に津波被害は無かった。
G奥尻島の青苗地区の港沿いの低地。奥尻地震の時に津波被害があった地域。
G人工地盤の望海橋。
G人工地盤の望海橋。津波時の一時避難の為に造られました。
G南西沖地震の津波の高さは11.7mで高台の部分は助かった。
H津波時の高台への避難通路。
H津波後に復旧した青苗言代主神社。伊勢神宮の解体材を使い復旧された。
H奥尻町復興基金補助対象船
I奥尻島の青苗地区の港沿いの低地。奥尻地震の時に津波被害があった地域。
I奥尻島の青苗地区の高い防波堤。
J奥尻島の青苗岬灯台。奥尻地震の時に折れて倒壊した灯台。
J奥尻島の徳洋記念緑地公園。
 K時空翔:1993年7月12日午後10時17分、奥尻町が遭遇した北海道南西沖地震はマグニチュード7.8という日本海では観測史上最大級であり、奥尻町は地震・津波・火災により、198名(うち行方不明26名)の尊い命が犠牲となった。この慰霊碑「時空翔」は天へ逝った方々の霊を慰め、島の美しい自然と時間、空間の天空から島の安泰と自然災害の恐ろしさを異なる次元から残された人々に大切なメッセージとして永く後世に受け継がれることを信じている。壁には犠牲となった198名の名前が刻まれ、天皇陛下の歌と、奥尻島出身の詩人 麻生直子氏の詩が刻まれた石版があります。
 K奥尻島津波館。平成5年7月12日午後10時17分、奥尻島に大きな被害をもたらした北海道南西沖地震。その災害の記憶と教訓、そして全国から寄せられた復興支援への感謝。それらを後世に伝えるのが奥尻島津波館の役割です。展示スペースは災害によってなくなられた198名を悼む「198のひかり」や、災害の記録を映像で伝える「映像ホール」、そして震災の記憶だけでなく島の遺跡から発掘されたヒスイの勾玉(複製)や遺物を展示している「勾玉物語」など7つのテーマにわかれています。臨場感ある映像と音とで楽しめる「映像ホール」(50名収容)では、「災害の記憶」・・・北海道南西沖地震の発生メカニズムから災害の規模、そして復興への姿がつづられたドキュメント作品をご覧になれます。【開館時期】 4月〜11月末まで(期間中は無休) 【入館時間】 9:00〜17:15まで 【入 館 料】 大人500円・小中高生170円
K奥尻島津波館の災害の記録を映像で伝えるビデオの写真。
K奥尻島津波館の災害の記録を映像で伝えるビデオの写真。
K奥尻島津波館の災害の記録を映像で伝えるビデオの写真。
K奥尻島津波館の災害の記録を映像で伝えるビデオの写真。
K奥尻島津波館の「映像ホール」 K青苗砂丘遺跡・宮津遺跡の出土品。
K丁字頭勾玉。 K奥尻鉱山の当時の写真。
K奥尻島にも奥尻鉱山のトロッコ軌道が有ったのですね。
K奥尻島津波館の展示資料。
K奥尻島津波館の展示資料。
L何かの施設。 L公衆トイレ。
L奥尻島の徳洋記念緑地公園。
L奥尻島の徳洋記念緑地公園。
L津波の被害で倒壊した防波堤の残骸。
M青苗中学校。 N青苗小学校。
O奥尻島の千畳坂覆道。何のための覆道だろう?
P奥尻島の藻内地区。
P奥尻島の藻内地区の岩とカモメ。
 P見方によって数珠を持って祈っているお坊さんの姿に見え、その姿から、この岩にまつわる悲しい恋物語が伝わる島。夏場は周辺の海岸は海水浴に適しており、キャンプを張っている人々で賑わいます。北海道南西沖地震の津波で津波痕跡高23.3mを記録した場所。
Q北海道電力株式会社ホヤ石川発電所。
 Qホヤ岩:海に生息している「ホヤ」に似ていることからその名がつきました。高さ25mもあり、横から見るとマキを積んだかのように見えます。
 Rモッ立岩の由来は1人の未亡人が、この磯の岩のりを採りに来てこの岩を発見。亡くなった自分の亭主のからだの一部にあまりにも似ていたので、喜び懐かしみ、そのままの名を付けることに恥ずかしさを覚え、上の一文字を抜いて、「モッ立岩」と呼んだと言われています。
Rモッ立岩の周辺の外周道路。
 Sカブト岩:戦国武将の鎧兜に似ていることからその名がつきました。震災の時にはその半分が崩れ落ちました。 S奥尻島の奇岩。
S奥尻島の奇岩。
@奥尻島の鴨石トンネル。
@奥尻島の鴨石トンネル。
 A神威脇:彫刻家流政之氏の作品が建立されています。散策路が設置されており、キャンプ場適地でもあります。この北追岬のある神威脇に、北方領土祖先の切り開いた国後島を追われた住民が昭和21年に入植しました。戦争により、北方の島を負われた人たちは、数十年間望郷の念にかられながら亡くなった人、今だ帰らぬ北方領土に少しでも近づいていたい想いで他の地域へ移っていった人、そうした人たちの望郷の思いは、一部の住民のものだけでなく、島全体の願いでもありました。そうした願いが一人の芸術家の心をとらえ、「北追岬」という石彫が完成しました。
A奥尻観光ホテル 緑館。屋外には足湯があります。
A株式会社奥尻ワイナリー製造工場。屋外には葡萄畑があります。
B奥尻島の神威トンネル。
B奥尻島の奇岩。
C奥尻島の奇岩。
D奥尻島の湯の浜トンネル。
D奥尻島の幌内トンネル。
 E幌内温泉跡。北海道南西沖地震の津波で壊滅的な被害が出てから復旧されていない。それでも地図上では幌内温泉の地名が残る。また、温泉が出ていた井戸から現在も湧水が出ているが、触ってみたが冷たかった。
F奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
G奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
H奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
I奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
J奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。ここから砂利道。
K奥尻島の稲穂地区。
K奥尻島の稲穂地区の海岸線。防波堤の高さも高いですね。
K鴎崎神社。 K歴史民俗資料展示室。
L奥尻島の稲穂岬灯台。
L霊場賽の河原。 Lお土産屋が有ります。
 Lお土産屋にホヤが売っています。売店兼食堂をがあり、店の前にあわび、つぶ、さくら貝、ホヤなどが常時用意されていて、注文するとその場でお造り・焼きで食べれます。
 L霊場賽の河原ではバーベキューも出来るみたいですね。道南五霊場の一つ。約6ヘクタールにわたり石積みが広がっています。炊事場やトイレが設置されキャンプ場として整備されており、夏場は多くの観光客やキャンパーで賑わいを見せています。
L建物の中はお地蔵さんがたくさん祭られています。
 L【賽の河原】冥途にあるという河原。小児が死後に赴き,鬼から苦しみを受けると信じられている。《法華経》方便品にある〈童子戯れに砂を聚めて塔を造り,仏道を成ず〉から構想された鎌倉時代の偽経《地蔵十王経》や解脱上人(貞慶)作という《地蔵和讃》,また江戸時代の《賽の河原地蔵和讃》などにより,地蔵信仰のたかまりとともに,中世以降とくに江戸時代に普遍化した俗信である。《賽の河原地蔵和讃》は〈死出の山路の裾野なる賽の河原の物がたり〉で,十にも足らない幼き亡者が賽の河原で小石を積んで塔を造ろうとするが,地獄の鬼が現れて,いくら積んでも鉄棒で崩してしまうため,小児はなおもこの世の親を慕って恋い焦がれると,地蔵菩薩が現れて,今日より後はわれを冥途の親と思え,と抱きあげて救うようすがうたわれている。
 L賽の河原:三途川の河原は「賽の河原」(さいのかわら)と呼ばれる(「賽の河原」と呼ばれる場所も、後述の恐山のものをはじめとして、日本各地に存在する)。賽の河原は、親に先立って死亡した子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされる。そのような子供たちが賽の河原で、親の供養のために積み石(ケアン)による塔を完成させると供養になると言うが、完成する前に鬼が来て塔を破壊し、再度や再々度塔を築いてもその繰り返しになってしまうという俗信がある。このことから「賽の河原」の語は、「報われない努力」「徒労」の意でも使用される。しかしその子供たちは、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされる。ただし、いずれにしても民間信仰による俗信であり、仏教とは本来関係がない。賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点にある佐比の河原に由来し、地蔵の小仏や小石塔が立てられた庶民葬送が行われた場所を起源とする説もあるが、仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神である賽(さえ)の神が習合したものであるというのが通説である。
L霊場賽の河原風景。
M勘太渡覆道。
M宮津2号覆道。 M宮津1号覆道。
N奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
 O宮津弁天宮:その昔、ここに番所を置き対岸との連絡の拠点で、科人の逃亡監視の場所でもあったといいます。1831年(天保2年)、島民が大漁祈願の御神体として弁天様をここに奉納しました。
O宮津弁天宮。
 O宮津はアイヌ語のチャシ・コツ(砦の跡、意味は古くから山頂にあった古代の祭場の跡)から旧名茶津と呼ばれ、文政年間(1819年)芸洲厳島神社の祭神を奉間遷し天保2年(1831年)村民が当地の産土の神と仰ぎ大漁祈願のため鎮祭。大正2年現社殿に改殿された。
P奥尻漁港。
P奥尻漁港の船の陸揚げ用のレール。
P奥尻港の石油備蓄タンク。
P奥尻港のフェリーターミナル。
Q奥尻町役場。 Q奥尻町消防署。
Q奥尻小学校。 Q江差警察署奥尻駐在所。
 R鍋釣岩:奥尻島のシンボル。 自然に形成されたもので、ドーナツ型で鍋の弦に形が似ていることからその名がつきました。 高さが19.5mもの大きさで、夜間はライトアップされています。
R奥尻島はこの時期桜が満開です。
S佐藤義則野球展示室。 Sうにまるモニュメント。
@奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
A奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
B奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
C奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
D奥尻島の道道39号線の外周道路の雰囲気。
E奥尻町環境センター。 E奥尻島のコンクリートプラント。
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