更新日時 2015年01月04日
与論島(よろんじま)は、奄美群島のひとつで、鹿児島県最南端の島である。奄美群島のなかでも沖縄に近く、南には沖縄本島最北端の辺戸岬が望める。島の周囲はリーフで囲まれた、美しいサンゴ礁の島である。一島一町で、鹿児島県大島郡与論町。人口は約6,000人で、主な産業は農業と観光である。1983年(昭和58年)にはミニ独立国、「パナウル王国」を設立した。島で唯一製造されている黒糖焼酎「有泉」は、ほとんどが島で消費され、客人をもてなす時などには 「与論献奉」と呼ばれる島流の飲み方で有泉を飲む。与論献奉(よろんけんぽう)と呼ばれる与論島への客人をもてなす習慣で、焼酎を人数分まわし飲みをする儀式。最初に、親(ホスト)となる人が大きな杯に親が決めた量の焼酎を入れて、自己紹介を兼ねた口上を述べてから飲み干す(この時に、杯をひっくり返して残っていない事を見せる)。また、飲み干した杯に数滴残った焼酎を手のひらにとって自分の頭につけ、神(髪)に返す。次に、親が注いだ焼酎を子(ホスト以外の人)が飲み、杯を親に返す(このとき、子は受け取った杯を手から離して置いてはいけない)。親はこれを子の人数分繰り返し、それが終わると親が交代しこれを繰り返す(これと似たものに、宮古島の「オトーリ」がある)。ただし飲酒を無理強いするものでは無く、親が焼酎を注いでいる時に「トォー(与論の方言で止めの意味)」と言えば注ぐのを止めるほか、飲めない場合は杯をそのまま親に返しても良い(その場合は親が代わりに飲む)。 | |
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マルエーフェリー株式会社(マルエーフェリー、英称:A-Line Ferry Co.,Ltd.)'は、鹿児島県鹿児島市泉町に本部を置く海運会社。本社は鹿児島県奄美市名瀬入舟町にある。旧社名は大島運輸株式会社。鹿児島新港 - 奄美大島(名瀬港・新港地区) - 徳之島(亀徳港) - 沖永良部島(和泊港) - 与論島(与論港) - 本部港 - 那覇港(那覇ふ頭) 特等・1等船室を貸切で利用の場合は、運賃の75%を加算。「フェリーあけぼの」は、1等の相部屋使用が可能。また、「フェリーなみのうえ」は、1等の個室(1人部屋)が1部屋ある。当航路に限り、乗船手続き後1週間以内なら最終目的地までの間、追加料金なしで途中下船が可能。 | |
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フェリー波之上の船内の様子。 | |
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鹿児島から沖縄までの航路で距離が長いため食堂もあります。 | |
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売店の開いている時間は限られています。 | 自動販売機は24時間対応。 |
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2等和室です。 | ロビーに座席があります。 |
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トイレはウオシュレット付でした。 | 最上階の甲板です。 |
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マリックスライン (英語: Marix Line Co., Ltd.) は、鹿児島県鹿児島市錦江町に本社を置く海運会社。鹿児島から奄美群島・沖縄へのフェリー航路を運営している。 鹿児島通運グループの一社である。鹿児島新港 - 奄美大島(名瀬新港) - 徳之島(亀徳港) - 沖永良部島(和泊港) - 与論島(与論港) - 本部港 - 那覇港 乗船手続きから一週間以内なら、最終目的地までの間で追加料金なしで途中下船できるサービスがある。全区間にて、マルエーフェリー(鹿児島航路限定)と相互利用可能。鹿児島港 - 奄美大島(名瀬港)の区間のみ、奄美海運と相互利用可能。奄美大島名瀬港以外各離島とも使用港が外海と面していて天候などの影響を受けやすく、欠航しないまでも寄港地の変更や寄港しないこと(抜港)などの条件付き運航もあり荒天が予想されるときには大きな影響が出ることがある。台風や冬場の季節風などによる荒天によって、欠航便が発生した後、運航再開時に臨時便や変則運航が設定されることがある。フェリーとして各離島間の物流の要として機能しているため、農繁期や引っ越し時期など貨物量が増加する時期は各離島経由する運航形態により各寄港地の停泊予定時間を超過し、遅延が寄港する度に加算され最終目的地で大幅に遅延することもある。 | |
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クーンコーラルプラスの2等和室。 | |
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売店と食堂です。食堂は食事の時間以外はパソコン等が利用できます。 | |
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24時間営業の自販機です。 | 最上部の甲板です。 |
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@与論港旅客待合所。 | |
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@与論港と旅客待合所とは結構の距離が有ります。雨等の時は不便ですね。 | |
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A与論駅と表示があったが、与論島に鉄道?と疑問を持ちながら、産廃処理場の脇を通り抜ける。 | |
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Aヨロン駅(ヨロンえき)は、鹿児島県大島郡与論町(与論島)にあるオブジェクト。与論島の西側に位置する。日本国有鉄道(国鉄)の周遊券指定地に与論島が含まれるようになって10周年になったのを記念し、鉄道のない奄美大島・沖縄県へのPRという意味も込め、与論町が駅名標・モニュメントなどを設置したものである。5メートルばかりのレールの上に車輪が乗っているが、車両はない。駅名標の文字は、片方が「鹿児島」、もう片方が「沖縄」となっていた。 | |
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A与論駅の直ぐ裏がフバマビーチ。 | |
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Aフバマビーチの左の岩場に洞窟(ダンジョン?)が在ったので入ってみた。地下への迷宮の入口かと思ったが、奥行きはそれほど無かった。この洞窟は満潮の時には入れないような感じだ。 | |
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B与論空港(よろんくうこう、英: Yoron Airport)は、鹿児島県大島郡与論町(与論島)にある地方管理空港である。島西部に位置している。島中心部やフェリーターミナルも近くわかりやすい。年間利用客数は、数年来70,000人前後で推移している。2013年度は、国内66,584人。 | |
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B与論空港内の待合室の雰囲気。小さな喫茶店ブルースカイもあります。 | |
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B保安検査後の待合室はウオシュレット付。 | B日本エアコミューターのQ400。 |
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B副操縦士は女性のパイロットだった。 | |
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C与論郵便局 | C与論島製糖株式会社。 |
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C与論牛。 | C与論猫。 |
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D与論町立図書館。 | D化石の木かと思ったが、人工に作られたようだ。 |
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E宿泊したホテルは与論島パークホテル。ウオシュレットもドライヤーも無かった。 | |
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E宿泊した与論島パークホテルの朝食です。与論島はスキューバーダイビングがメインで、食べ物関係は期待できませんね。 | |
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E晩飯は居酒屋ひょうきん。冷蔵庫が無かった時は、刺身にお酢をかけて食べたそうだ。 | |
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F琴平神社。 | Fサザンクロスセンター。 |
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F文政7年に旅行、海上安全の為に、金毘羅大権現として小祠を建立、天保6年に、今の場所に移り、明治になり「琴平神社」に改称した。大国主之命、市杵島姫之命、菅原道真公を合祀、三柱の神が祀られている。昭和20年に米軍の空襲により焼失するものの、昭和25年に島民の寄付により再建、のちに鉄筋コンクリートで作られた。 | |
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F琴平神社。 | |
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F琴平神社。 | F与論島の鳥。 |
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Fザンクロスセンターに隣接する長い石垣が1405〜1416年の間に琉球北山王の三男王舅(オーシャン)によって築城されたといわれています。北山滅亡のため未完成であったと考察されていますが、伏竜の形に積み上げられた石垣は、高台から与論島と沖縄を悠然と眺めているかのようです。 | |
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G高千穂神社。 | |
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H按司根津栄神社:今より800年ほど前、男は剣術や弓はもとより全ての武術に長けていた。26歳の時琉球に渡り琉球国王に謁見し、王はその勇敢異様な様を見て「汝の如き武術に優れた若者を部下に持つことは王として幸福である。よって与論島より北の地を汝に与える」と言い按司(地頭)の位を与えられた。王は按司根津栄(アジニッチェー)という名を授けた。按司根津栄は王の側で仕えていたが、島に帰ることを願い出た。何度も断られたが「それほど言うなら仕方がない。そのかわり形見を残していくように」といわれた。形見というものを持ち合わせていなかったので、仕方なく妹から借りてきた大切な弓を残すことになった。按司根津栄は何としても琉球の王から弓を取り戻し妹を元気づけようと決心し沖縄へ渡り、弓を取り返して島に帰った。王は「こんなことができるのは按司根津栄しかいない」と兵を1000人与論島に差し向けた。按司根津栄は太刀を抜き右に左に斬りまくり敵を退却させた。「もう二度とこの島に兵を向けるな。そのように王に伝えろ」と叫び、帰ろうとし後ろを向いたとき老兵が太陽に向かって放った一矢が偶然にも按司根津栄の頭に突き刺ささり立ったまま死を遂げた。これを見た船番の老兵は喜び報告した。それを聞いた王は「お前のような者が按司根津栄が倒されるわけがない、もう一度兵を千人差し向けろ」そのように伝えた。琉球兵は茶花の沖から辺りを伺っていると丘の上に按司根津栄が武装し仁王立ちしていた。その勇ましい格好は生米を噛みながら近寄る軍船を睨み付け、上陸するものは一刀のもとに切り捨てる構えに見えた。恐れをなした琉球兵は上陸する気力もなく、そのまま引き返せば王の怒りに触れるということで大混乱となり海に飛び込むものや自害するものも続出し全滅した。按司根津栄の戦いぶりは後に「生きて千人、死んで千人」と語り継がれるようになった。 その後琉球の王は按司根津栄が死んだことを知り安心したが、一族を生きて残しておくと仇討しに来るかもしれないと、さらに精兵1000人差し向けた。琉球の兵は上陸し一族のいる根津栄の地に攻め上った。妹のインジュルキは女性ながら武装し勇ましく、強い弓をひき奮戦した。しかし多勢に無勢ついに斬られてしまった。不思議なことにインジュルキの首が斬り落とされると、その首が呪文を歌いながら空高く舞い上がり、右に左に転がった。その光景を見た琉球兵は気が狂わんばかりに恐れおののき、琉球に引き返した。しかし途中で大嵐になり船は一隻も残らず沈没してしまい琉球に帰り着いたものは一人もいなかった。 | |
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I赤崎鍾乳洞:与論島は珊瑚礁が隆起してできた島。その大地が地下水によって侵食され、長い年月をかけて造り上げられた大自然の彫刻、それが赤崎鍾乳洞です。一滴一滴の雫が造り上げた神秘的な造形と輝きで人々を魅了してくれます。ここは、昭和40年に日本大学芸術学部の学生4名によって調査・発見されたもので、本洞120m、支洞130mと小さく、ゆっくり見て回っても所要時間20分ほど。洞内には「幸福の門」「雪の棚田」「剣の間」など、大自然が造り上げた見どころがいっぱいです。赤崎と呼ばれるこの近辺は、与論に人が住みはじめた最初の地だといわれております。 | |
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I赤崎鍾乳洞。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。最初は左側の南支洞へ。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。南支洞入口。南支洞は距離的には短く閉塞しているため湿度が高い。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。雨が降ると水没するために、ポンプがセットされている。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。この通路は人工的に開鑿された様だ。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。赤崎鍾乳洞は全般的に鍾乳石が赤茶けている。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。元来た所に戻り今度は右側の鍾乳洞。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。剣の間。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。 | |
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I赤崎鍾乳洞内部。貫通穴が開いているが、ここで引き返し元来た入口に戻る。 | |
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Jアマンジョウ:与論島に初めての人類が渡来してきたとき、このアマンジョウの水を発見し、住み着いたと伝えられている。 | |
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K赤崎海水浴場。 | |
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L百合ヶ浜海水浴場。 | |
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