更新日時 2019年01月01日

世界自然遺産 小笠原諸島 母島
 母島は、小笠原諸島の島。周囲の姉島、妹島などの島とともに母島列島を形成する。東京都小笠原村所属。小笠原村で一般住民が居住するのは父島とこの母島だけである。母島は父島の南約50kmにあり、父島二見港から定期船ははじま丸が約2時間で連絡している。島の南部の沖村に港があり、沖村は母島唯一の集落である。島内は南北に縦貫する都道241号線が通っているが、島内には公共交通機関はない。国産のラム酒を製造している、小笠原ラム・リキュール株式会社の工場がある。平塚製菓は約500本のカカオ栽培に成功した。 地球上で母島でしか見られないメグロが生息し、1999年4月より、ダイビングも解禁されました。
 @母島の北港。母島北端の入江。戦前はここに人口約600名の北村の集落があり、東京からの定期船も寄港していた。海中にはサンゴ礁が広がり、アオウミガメの遊泳が見られる。磯釣りのポイント。 岸壁の跡が残る。
@母島の北港。
@母島の北港にはトイレと公衆電話がある。北港は携帯電話の圏外です。(ソフトバンク・ドコモ)
A母島漁港の公衆トイレ。 A母島漁港に廃船が留置されていた。
 A母島漁港(東港)は第4種漁港。第4種漁港については、離島又は辺地にあって、次に掲げる要件のいずれかに該当するものとする。ア 漁場の開発上特に必要であること(その地域が、漁場開発の前進基地として現に利用されている漁業根拠地であること又は開発を要する漁場の前進根拠地として適当であると認められる地域であること)。イ 漁船の避難のため特に必要であること(その地域から概ね海上50km程度の範囲内に地元漁船以外の漁船をも安全に避難させることができる適当な漁港がなく、かつ、その地点が漁港修築により避難港としての目的を達しうる立地条件を備えるものであること)。ただし、50kmの距離的制限は、急潮、岬、気象、その他特有な海況上の難所については、この限りでない。ウ 漁港の配置上から特に必要であると認められる場所であること。エ 相当規模の静穏水域の確保が可能であり、かつ、近隣の2以上の漁港の安全性、機能性等の向上に相当な効果が期待でき、併せて、その地域の開発と防災にも寄与できる場所であること。
 A母島漁港。母島の北東部にある天然の湾形を利用した漁港であり、周辺海域で操業する漁船の避難漁港等としての役割を担っています。平成元年度から15年度まで整備を行い、船揚場、取付道路、防波堤が完成しています。母島漁港は携帯電話の圏外で、水道や電気のインフラも整備されていない為、近隣に人は住んでいない。以前は鯨の陸揚げ解体等が行われていた。
A母島漁港防波堤建設工事銘板と浚渫のバケット?
A母島漁港から見える穴は戦跡の跡か?
B母島漁港の銃眼に行くために波が引くタイミングで銃眼に近づきます。
B戦跡の銃眼が母島漁港に残る。
 B母島漁港の少し上にはコンクリートプラントがある。電気は発電機を使用していた。水は地下水又は沢の水を取水していると思われる。母島には他にもコンクリートプラントがあるが、母島漁港はこのコンクリートプラントの業者が一部施行している。母島漁港の建設のために造られてプラントか?
C砲台跡入口所々順路の看板が有るがルートが解りづらかった。3門の高角砲が残る。
C幻想的な風景の中に戦跡が残る。タコノキ目タコノキ科パンダヌス属の熱帯性常緑低木。
 C1門目の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)45口径三年式12cm砲(通称G型砲)を高角砲化したもので、1922年(大正11年)頃、正式採用された。昭和初期の主要高角砲。単装砲が当時の重巡洋艦各型に、機力、連装化されたものが赤城、加賀に搭載された。また太平洋戦争中には既に旧式化していたが、軽量で簡便に生産できることが買われ御蔵型以降の海防艦に搭載されたほか、陸上砲としても使用され1942年(昭和17年)から終戦までに2,000門以上が生産された。C型:人力。盾なし。大戦中量産用として開発。主として前進基地に陸上砲台として配備 。
C1門目の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)
C1門目の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)
C2門目の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)
C2門目の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)
C3門目の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)
C3門目の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)
C3門目の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)
D探照灯基地跡入口。強い光源と反射鏡によって遠方まで照らし出せるようにした灯。
D探照灯。96式150cm探照灯と思われる。フレームの形が↓の写真と似ている。
ボルネオ島のパリックパパンで放棄された移動式の150cm探照灯
D探照灯と電源自動車。
D探照灯の電源自動車。
 D探照灯。エンジンが落ちていた。エンジンは6気筒のようだ。台車はゴムのタイヤの残骸が在るために、電源自動車で探照灯を押し出していたようだ。
 D探照灯の発光はアーク放電によるもので、アーク放電は2つの電極に直流電圧をかけると放電し超高温の激しい光を放出する。発生した光を凹面鏡に反射させて平行な光束にし目標に照射する。 アークの生成に直流電源が必要で、直流発電機車載型の探照灯では、トラックのエンジンで直流発電機を回していた。
D電源自動車の台車の筒に電極の炭素棒が残っていた。
E母島には奥行き数m程度の簡易的な防空壕がたくさん有る。穴が有れば入ります。
F長浜トンネルの照明施設は太陽光発電を利用している。逆に言えばここまで電気が来ていない。
F長浜トンネルの母島漁港(東港)側。
G長浜トンネルの旧道部分は地滑りにより通行出来なくなり、長浜トンネルが出来た。
地図上では旧道は隧道になっているが間違いのようだ。
H長浜トンネルの沖港(集落)側。
 H長浜トンネル沖港(集落)側の旧道部分。母島は外来生物調査の為に、あちらこちらにセンサー付きのカメラがしかけられている。各所で私が撮影されたようです。
I猪熊谷トンネルの母島漁港(東港)側。
I猪熊谷トンネルの沖港(集落)側。
J母島には奥行き数mの防空壕が各所にたくさん有る。
K15cmカノン砲。
 L九六式二十五粍高角機銃は第二次世界大戦中に日本海軍で使用された対空機銃である。九六式二十五粍機銃はフランスのオチキス(ホチキス)製25mm機関砲を基に1935年(昭和10年)に開発されたガス圧作動方式の対空機関砲である。翌1936年に「九六式二十五粍機銃」として制式化されるに至った。九六式とは採用年(皇紀2596年)の下2桁を指す。海軍では口径40mm以下の連発可能な兵器を“機銃”と呼んだため、本銃は25mmの大口径であるが機銃と呼称される。陸軍もこの機銃を「海式機関砲」と呼称して少数を採用した。
 M静沢101高地防空砲台:当地周辺には、旧海軍の父島方面特別根拠地隊母島警備隊の施設として「静沢101高地防空砲台」が置かれていました。昭和19年(1944年)以降に建設され、四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)3門(原形を留めているのは1門)や九六式二十五粍高角機銃(残骸のみ)が確認出来ます。
 M四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)45口径三年式12cm砲(通称G型砲)を高角砲化したもので、1922年(大正11年)頃、正式採用された。昭和初期の主要高角砲。単装砲が当時の重巡洋艦各型に、機力、連装化されたものが赤城、加賀に搭載された。また太平洋戦争中には既に旧式化していたが、軽量で簡便に生産できることが買われ御蔵型以降の海防艦に搭載されたほか、陸上砲としても使用され1942年(昭和17年)から終戦までに2,000門以上が生産された。C型:人力。盾なし。大戦中量産用として開発。主として前進基地に陸上砲台として配備 。
 N九六式二十五粍高角機銃は第二次世界大戦中に日本海軍で使用された対空機銃である。九六式二十五粍機銃はフランスのオチキス(ホチキス)製25mm機関砲を基に1935年(昭和10年)に開発されたガス圧作動方式の対空機関砲である。翌1936年に「九六式二十五粍機銃」として制式化されるに至った。九六式とは採用年(皇紀2596年)の下2桁を指す。海軍では口径40mm以下の連発可能な兵器を“機銃”と呼んだため、本銃は25mmの大口径であるが機銃と呼称される。陸軍もこの機銃を「海式機関砲」と呼称して少数を採用した。
 O弾薬庫:安式四十口径十五糎砲の砲弾に炸薬(火薬)を詰めたり、薬莢に装薬(火薬)を詰めたりした弾薬庫と考えられています。付近には九六式二十五粍高角機銃(架台の残骸のみ残存)が確認出来ます。また、砲塔と弾薬庫の間には指揮所が置かれていたと考えられます。
O弾薬庫の照明は防爆用の照明器具が使われている。
O弾薬箱。蓋は無かったが貴重な戦跡。
P砲側弾薬庫、砲座。 Q砲側弾薬庫、砲座。
R海軍の御影石の境界石と思われる。 S母島警備隊関連施設の正門。
@沖港防備衛所の兵舎基礎と水タンク残骸。
@井戸があったが中は埋まっていてタコノキの根が伸びていた。
@井戸のポンプ。 @釜戸のロース石(母島産)
@煉瓦造りの釜戸。
@煉瓦は機械成型の煉瓦だが煉瓦の刻印は見つからなかった。
@釜戸の下部は耐火煉瓦又はロース石(母島産)で上部が赤煉瓦を使用している。
@釜戸下部で使用されていた耐火煉瓦又はロース石(母島産)
A沖港防備衛所の兵舎基礎。
A沖港防備衛所の水タンク。
B沖港防備衛所の兵舎基礎。
B沖港防備衛所の炊事場。給水のポンプも設置されている。
B沖港防備衛所の炊事場の釜戸。こちらの釜戸は道路近くの釜戸より小さい。
道路近くの釜戸と同じく煉瓦が使われている。
C沖港防備衛所の給水ポンプ?
D沖港防備衛所の兵舎基礎。この階段のみ角が丸く高級官舎か?
 E沖港防備衛所の順路先端部に「←順路」と書かれている部分を右側に降りて行く。降りる途中にロープが張られているので、そのロープを掴みながら降りて行く。登るときもロープがあったので簡単に登れた。
 Eロープを伝って降りたところから崖沿いに砲眼が見える。崖沿いの足元の巾は20cm程度で、その下は垂直の崖になっているので、崖にへばりつきながら何とか砲眼までたどり着いた。
Eははじま丸から撮影した砲眼。
E元々の入口は崩落していて閉塞しているので砲眼から入ります。上の写真の右側の砲眼。
E1門目の安式四十口径十五糎砲。
E安式四十口径十五糎の部屋に弾薬箱が置いてあった。炸薬の箱か?
E砲眼から奥を探索です。
E奥行きが短い横穴が幾つか有ります。
E分岐しています。分岐の右側を調査。
 E分岐右側の地質は若干軟らかい様で内部が一部崩壊していました。この先が実際の入口と思われます。後述の他の入口と繋がっていたと思われます。
F分岐左側を少し行くと左側に上へ登る通路があります。
F上へ登って行くと銃眼がありました。
F別の砲塔に電気設備の残骸が残っていました。
F2門目の安式四十口径十五糎砲。ははじま丸から見た左側の砲眼。
F2門目の安式四十口径十五糎砲。ははじま丸から見た左側の砲眼。
F2門目の砲塔の先の通路を進みます。
F3門目の砲塔跡。
G安式四十口径十五糎砲が設置されている砲塔への本来の入口と思われる。
G入口付近は固い岩盤で覆われている。通路は上へ登って行く。
 G途中からラテライトの赤土で途中で崩壊していた。この先に安式四十口径十五糎砲へ繋がっていたと思われる。
H鮫ヶ崎展望台。
H鮫ヶ崎展望台からの風景。
H鮫ヶ崎展望台から沖港を見る。
I鮫ヶ崎展望台への遊歩道の下に戦跡を発見。
I沖港を防備する砲塔のようだ。穴の奥行きは数m程度。
J今回宿泊したクラフトイン・ラ・メーフ食事等の詳細はリンクを見てください。
K母島沖港の客船待合所・乗船券売り場。
K父島と母島間を運行するははじま丸
 Lロース記念館:ロース石で作られた郷土資料館。ロース石は1869年(明治2年)頃、母島に定住し、開拓に貢献したドイツ人ロルフスによって発見された。大正時代、砂糖収納庫として使用されていた。返還後は小笠原農業協同組合母島支店、母島簡易郵便局として使用された後、1992年に郷土資料館として開館。
Lロース石を利用した2連の釜戸と製糖ローラー石。
Mロース石の休憩所とトイレ。北海道まで1000kmの看板。
ポケモンGOのポケストップでサニーゴが出ます。ここで10匹程ゲット。
N母島沖港の銃眼。
N母島沖港の銃眼内部。
O石次郎海岸。小さなプライベート海岸のようだ。
O石次郎海岸。
P横穴発見。奥行き数m程。ストリートビューで確認しても夏場は解らないですね。
Q防空壕の入口を発見。この防空壕は床にもコンクリートが打設されている。
Q最初に左側へ分岐する通路へ行くと突き当たり、その左側は別の坑口が見える。
Q最初の穴から直進すると突き当たり、左側へ直角に曲がる。
Q貯水槽と思われるコンクリート製のBOXば残る。
 Q金庫を発見した。当然ながら中身は入っていないが、床のコンクリート造りなどを考えると重要な防空壕だったことが推測できる。この場所はインターネットでも検索して出てこない案件だ。
 QYale社製の鍵を使用した金庫。Yaleは30ヶ国以上の市場で高い認知度があり、特にアメリカ、イギリス、イタリア、南アフリカ、メキシコ、マレーシア、香港の売上が多い。1900年頃世界的に拡大し、従業員12,000人以上の会社となる。ロック・グループ企業「ASSA ABLOY」が2000年にYaleを買収する。
Q缶詰の食糧倉庫だったのか?
Q缶詰の食糧倉庫だったのか?
R横穴発見。奥行き数m程。
S横穴発見。奥行き十数m程。
S横穴発見。奥行き十数m程先は水没していて確認出来ず。
@玉川ダム(潅漑用ダム)詳細はリンクを見てください。
A横穴発見。奥行き十数m。
A横穴発見。奥行き十数m。
B横穴発見。奥行き十数m。
B横穴発見。奥行き十数m。
C船木山の滝。年間降水量が少なく冬場なので殆ど水が無かった。
D東京電力母島発電所。
 E評議平の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)45口径三年式12cm砲(通称G型砲)を高角砲化したもので、1922年(大正11年)頃、正式採用された。昭和初期の主要高角砲。単装砲が当時の重巡洋艦各型に、機力、連装化されたものが赤城、加賀に搭載された。また太平洋戦争中には既に旧式化していたが、軽量で簡便に生産できることが買われ御蔵型以降の海防艦に搭載されたほか、陸上砲としても使用され1942年(昭和17年)から終戦までに2,000門以上が生産された。C型:人力。盾なし。大戦中量産用として開発。主として前進基地に陸上砲台として配備 。
E評議平の四十五口径十年式十二糎高角砲(通称12センチ高角砲)
F横穴があった奥行きは数m程度。
F横穴があった奥行きは数m程度で水没。
G横穴があった崩落していてそれより先に進めないが御幸浜の銃眼に繋がっていると思われる。
H母島の御幸浜。
H母島の御幸浜の銃眼。Gの穴と繋がっていると思われる。
I南京浜の海岸断崖では約5000万年前の大型有孔虫の化石である貨幣石を観察出来る。
I南京浜から銃眼が見える。
J母島ヘリポート。
Kヤドカリの看板。
K都道最南端看板とバイオトイレ。
 L蓮池:現在は陸化していますが、以前は蓮が栽培され蓮池と呼ばれていたようです。蓮に変わって繁茂しているのは、草丈が2mにもなるオオサンカクイといわれる植物です。この植物はインドからインドネシアにかけて分布し敷物などの材料として利用されてますが、小笠原固有の植物ではありません。
M蓬莱根海岸。海岸左側に銃眼が見える。
M無理をすれば銃眼から入れそうだったが時間の関係でやめておいた。
 Nすり鉢:ここは名前が示すとおり、すり鉢状の地形になっています。昔、島の子供達がオガサワラビロウの葉を敷いて滑って遊んだそうです。土が赤味を帯びているのは土に含まれる鉄やアルミニウムが酸化したためで、この様な土はラテライトと呼ばれ、熱帯、亜熱帯地方に特有の土壌です。母島は約6000万年前の第3紀の海底火山の堆積物が隆起してでき、雨や波によって浸食され現在のような姿になりました。岩石は安山岩質集鬼岩、凝灰岩が主体です。
O横穴発見。奥行き数m程度。
O横穴発見。奥行き数m程度。比較的新しいゴミが残っていた。
Pワイビーチ。
Pワイビーチ。
Q南崎海岸。小富士の下に砲眼が見える。
Q南崎海岸。小富士の下に砲眼が見える。
R横穴発見。穴は数十m程有ると思われるが途中で砲空きしていた。
R後で気がついたが、左写真に大きな蜘蛛がいた。タランチュラ?
S小富士(南崎)砲台への入口はこの部分からアクセスする。
S小富士(南崎)砲台入口及び内部。
S小富士(南崎)砲台内部。
S小富士(南崎)砲台内部。安式四十口径十五糎砲。1門目。
S小富士(南崎)砲台内部。安式四十口径十五糎砲。1門目。
S小富士(南崎)砲台内部。
S小富士(南崎)砲台内部。安式四十口径十五糎砲。2門目。
S小富士(南崎)砲台内部。安式四十口径十五糎砲。2門目。
S小富士(南崎)砲台内部。
S小富士(南崎)砲台内部。
S小富士(南崎)砲台内部。
S小富士(南崎)砲台内部。南崎海岸が一望できる。
S小富士に登るタラップ。このタラップは戦後に設置か?
S小富士に登るタラップの脇に奥行きが短い穴が有った。
 S九六式二十五粍高角機銃の砲座と思われる。九六式二十五粍高角機銃は第二次世界大戦中に日本海軍で使用された対空機銃である。九六式二十五粍機銃はフランスのオチキス(ホチキス)製25mm機関砲を基に1935年(昭和10年)に開発されたガス圧作動方式の対空機関砲である。翌1936年に「九六式二十五粍機銃」として制式化されるに至った。九六式とは採用年(皇紀2596年)の下2桁を指す。海軍では口径40mm以下の連発可能な兵器を“機銃”と呼んだため、本銃は25mmの大口径であるが機銃と呼称される。陸軍もこの機銃を「海式機関砲」と呼称して少数を採用した。
S小富士の展望台。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『小笠原村母島』を掲載」
出典: 小笠原村・小笠原母島観光協会