更新日時 2021年09月24日
鬼穴:長径140m、短径120m、深さ85mの巨大なドリーネ。石灰岩層と頁岩層との境界面に発達したドリーネで、石灰岩側は断崖、頁岩側は侵食されて斜面となっている。地下はあぶくま洞と連結しており、鬼穴から流入した雨水はあぶくま洞経由で流出する。2004年以降、あぶくま洞内に生息するニホンテングコウモリ保護のため、鬼穴からこれに通じる穴には扉が設置されている。なお、鬼穴の長さ70mの横穴にはコキクガシラコウモリが生息している。鬼穴にはこれにまつわる伝説がある。西暦800年頃(平安時代初期、延暦年間)この地方は大多鬼丸なる豪族が治めていたが、朝廷と対立するに至り、朝廷軍として当時の征夷大将軍であった坂上田村麻呂が派遣されてきた。大多鬼丸は大滝根山に白金城を構えて田村麻呂と対峙したものの、次第に追い込まれて最後はこの鬼穴で自害したと言われている。大多鬼丸は仙台平の高台に葬られたが、今でも鬼穴最大のホール「大多鬼丸ホール」や同じく鬼穴内の「大多鬼丸の腰かけ石」などにその名を残している。大多鬼丸ホールは長さ100m、天井高は60m以上あり、壁面には45mにも及ぶ日本最大の高低差をもつフローストーン(流華石)が見られる。 | |
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B鬼穴の入口。道路脇に設置看板の消された部分に書かれていたのか? | |
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B鬼穴の入口。 | |
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B鬼穴。 | |
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B鬼穴。 | |
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B鬼穴。 | |
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B鬼穴。 | |
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B鬼穴。柵で閉鎖されている。 | |
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B鬼穴。柵の先の状態。あぶくま洞と繋がっている。 | |
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C仙台平ドリーネ入口。 | |
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C仙台平ドリーネ説明看板。石灰岩は水に溶けやすく、地表にはカルスト地形、地下には洞穴が形成されます。カルスト台地に降った雨は岩の割れ目て伝わって地下に流れ込みます。水は石灰岩を溶かすので、そこはドリーネと呼ばれる凹地ができます。仙台平ドリーネは直径62m、短径28m、深さ17mに達し、内部には高木が繁茂し底部にはコケ類が育成しており、自然の状態が保存されている貴重なドリーネです。この付近には起状のある石灰岩台地が浸食されてカルスト地形が形成され、たくさんのドリーネ(雨水が地下に流れ込む凹地)がありましたが、採草地にするために埋め立てられ現在のような草地になっています。ドリーネより流れ込む水脈によって形成された地下洞穴は神秘的なあぶくま洞や国の天然記念物である入水鍾乳洞をつくりました。 | |
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C仙台平ドリーネ。苔むした石灰岩。 | |
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C仙台平ドリーネ。 | |
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C仙台平ドリーネ。 | |
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C仙台平ドリーネ。 | |
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C仙台平ドリーネ。 | |
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D大多鬼丸首塚。昔むかし、陸奥国霧島山(現在の大滝根山)の白銀城に大多鬼丸という豪族が住み、七里ヶ沢(現在の滝根町周辺)を平和に治めていました。ある日、大多鬼丸の元に朝廷から、「この地と人を朝廷に差し出せ」という要求がありましたが、大多鬼丸はそれを拒否しました。怒った朝廷は、大多鬼丸を討伐するため、この地に坂上田村麻呂を大将とした大軍を送りました。こうして坂上田村麻呂と大多鬼丸との戦いが始まりました。大多鬼丸や部下の鬼五郎は勇猛に戦い、田村麻呂軍相手に善戦しましたが、兵で勝る田村麻呂に次第に追い詰められ、達谷窟で自決して果てました。かくして、大多鬼丸は悪鬼として後世に名を残すことになりました。 | |
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