更新日時 2008年09月06日

白岡限定 Nashi Monaka-Ice 久伊豆社 村社が消されている・・・
 久伊豆神社の起こりは不詳であるが、祭神には大己貴命、豊宇気姫命、南方刀美命が祀られている。
 この神社には、市指定文化財である「小久喜ささら獅子舞が伝承されており、4月初旬の日曜日に地元保存会により奉納されている。 獅子舞の起源は明らかではないが、享保年間(1716年〜1736年)に諏訪社を勧請したさい、深作村(旧大宮市・現さいたま市)から受け継いだといわれ、豊作を祝い、疫病退散を祈念するため奉納する由緒あるものである。また、この舞を奉納すれば雨が降ると伝えられ、日照りの続いたときは、付近の沼で雨乞いの獅子舞を奉納したこともある。
 寿楽院は禅宗のうちの曹洞宗に属し、大本山永平寺、大本山総持寺を両本山としている。開山は、興善寺(白岡市大字白岡)三世孝天存舜大和尚によるとされており、鬼窪尾張繁政が開基となって元亀2年(1571年)に寺院を建立したと伝えられる。その後寛文2年(1662年)に薬師寺堂が建立された。
 当寺についての諸資料は、火災により消滅した物が多いが、明治の太政官届けの祭は、壱万坪余の寺有地があったと記されている。
 境内には、宝永5年(1708年)の地蔵菩薩、享保13年(1728年)銘のある六地蔵などがある。
寿楽院境内の花
寿楽院
白岡八幡宮 白岡八幡宮境内の井戸
 白岡八幡宮は、嘉祥2年(849年)に建てられたものと伝えられ、祭神は応神天皇(正八幡)、仲哀天皇(若宮八幡)、神功皇后(姫八幡)である。
 当社に伝えられている略縁起には、康平5年(1062年)源八幡太郎義家が奥州征討の途中、戦勝祈願のため寄りたったと記されており、また、建久6年(1195年)征夷大将軍源頼朝は、当社に佐々木四郎高網を代参させ、土着武士の鬼窪某に命じて社殿を造立させるとともに、百余貫の所領を寄進し、源家の守護神としてあがめたと伝えられている。戦国時代には一時衰えたが、氏子等の力により江戸、明治期にかけて徐々に復し、昭和45年に現在の社殿に改築した。当寺には享徳5年(1456年)銘の鰐口が現存し、古い歴史を物語っている。
 境内には、樹齢600年といわれる榧の木があり、また、参道脇に保存されている杉の枯れ木は、義家が馬をつないだ木と伝えられ、当社の御神木となっている。
大きな絵馬 杉の古木の跡を祭っている
杉の古木の跡を祭っている 白岡八幡宮の入口
 正福院は、白岡山西光寺杉本坊と号し、嘉祥2年(849年)慈覚大師円仁により草創されたと伝えられる。本尊は、慈覚大師の作といわれる薬師如来像である。創建当初より八幡宮の別当寺で天台宗であったが、建久6年(1195年に改宗され、新義真言宗となった。
 境内には、正徳3年(1713年)建立の寶きょう印塔や樹齢400年といわれる彼岸桜がある。また、当寺の梵鐘には宮沢賢治の詩が刻まれており、山門を入った右手には「ひぐらしの丘」と称する塚があって、室生犀星の詩碑が建てられている。
 この付近は、古くから開けたところで、当寺の墓地一帯が貝塚となっている。貝の種類はアサリ、オキシジミ、サルボウ、カキ、ハマグリなどで、出土する土器類は、縄文から弥生、古墳時代のものまでである。
正福院 川端康成文学碑
仏は営にいませどもうつつならぬぞあはれなるひとの音せぬ暁にほのかにゆめに見えたまふ 康成書
「梁塵秘抄」より
興善寺の観音堂(観世音菩薩) 興善寺
興善寺の十三重の塔  興善寺は、寺伝によれば慈覚大師円仁により、平安初期に天台宗の寺院として開かれたと伝えられている。
 その後室町時代中頃の文亀元年(1501年)になって季雲永岳大和尚により現在の曹洞宗興善寺が興された。
興善寺の達磨大師 興善寺
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駅からハイキング(白岡)