廃線探索 国鉄広尾線

更新日時 2013年11月29日

 広尾線(ひろおせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道十勝支庁管内の帯広市の帯広駅で根室本線から分岐し、十勝平野を南下して広尾郡広尾町の広尾駅に至る。国鉄再建法の制定にともない第2次特定地方交通線に指定され、国鉄民営化直前の1987年に廃止された。国鉄広尾線時代に愛国駅 - 幸福駅間の切符が「愛の国から幸福へ」として人気となり、一連の縁起切符ブームの火付け役となった。現在は引き続き十勝バスが硬券乗車券を発売している。2012年現在、待合室のみの駅をふくむ旧駅舎が5駅(愛国、幸福、忠類、大樹、広尾)残存しており、記念公園(愛国、幸福、忠類)やバス待合所(広尾)、他目的に転用されたもの(大樹)など様々であるが、その当時の面影を残している。羽幌線のように転換交付金を受けて、廃線後早々に駅舎を撤去して跡地の周辺整備を行ったため、駅舎跡や鉄道があったことすらわからなくなっている廃線もあるが、廃線から四半世紀近く経過するにもかかわらず、5駅もの旧駅舎が保存・活用されていることは特記に値する。
帯広駅 - 依田駅 - 北愛国駅 - 愛国駅 - 大正駅 - 幸福駅 - 中札内駅 - 更別駅 - 上更別駅 - 忠類駅 - 十勝東和駅 - 大樹駅 - 石坂駅 - 豊似駅 - 野塚駅 - 新生駅 - 広尾駅
 @帯広駅(おびひろえき)は、北海道帯広市西2条南12丁目にある北海道旅客鉄道(JR北海道)根室本線の駅である。帯広市の代表駅で、帯広市西2条南12丁目4にある。JR北海道の駅番号はK31。電報略号はオロ。札幌駅 - 帯広駅間の特急「スーパーとかち」の終点であり、札幌駅 - 釧路駅間の特急「スーパーおおぞら」を含め、すべての列車が停車する。正面には駐車場、タクシー乗り場、帯広駅バスターミナル(旧帯広駅バスタッチ後継施設)があり、帯広市内路線バス、帯広空港、都市間バスの乗降ができる。
 @帯広駅構造は島式ホーム2面4線を持つ高架駅である(ちなみにこの駅より東に有人高架駅はないため、当駅は日本最東端の有人高架駅である)。高架化以前からホテル事業と小売事業を行っていた帯広ステーションビル(1965年(昭和40年)発足 帯広市が筆頭株主の第三セクター)が、1996年(平成8年)エスタ帯広を開業したが、中心街の空洞化が進んだことなどから開店直後から集客難が続き、テナントの撤退が相次いだ結果、開業後わずか2年で自己破産した。現在もテナントに空きが見られる。終日社員配置駅。1・2番のりば改札口はジェイ・アール道東トラベルサービスが受託している。駅舎の1階はショッピングエリア・各種施設・待合室・みどりの窓口(営業時間6時00分 - 22時30分)・ツインクルプラザ・改札口(自動改札機(Kitaca非対応))があり、2階がホームとなる。駅弁は1階売店で販売している。また、ふるさと銀河線の廃止まで、連絡乗車券を買える自動券売機が設置されていた。改札口は当初駅中央部にあったため、連絡通路があったが、テナントの撤退が相次ぎ要望を受けて改札口が後退、中央部が開放された。このような方式は九州旅客鉄道(JR九州)宮崎駅にも見られる。コンコースに、からくり時計が設置されている。2番線と3番線の間は完全に吹き抜けとなっており、1番線と4番線も完全に覆う形にはなっていない(ホームは屋根で覆われている)。
 @このレールは、十勝の発展と共に歩んだ鉄道の歴史を記念し、明治38年(1905年)に最初に鉄道が敷設された位置に復元されたものです。
A広尾線の帯広駅 - 依田駅間の廃線跡。高架下の道路部分が廃線跡。
B広尾線の帯広駅 - 依田駅間の廃線跡。高架下の道路部分が廃線跡。
C広尾線の帯広駅 - 依田駅間の廃線跡。根室本線とこの辺で分かれて行く。
C広尾線の帯広駅 - 依田駅間の廃線跡。旧帯広線跡は光南緑地に転用されている。
D広尾線の帯広駅 - 依田駅間の廃線跡。旧帯広線跡は光南緑地に転用されている。
 E広尾線の帯広駅 - 依田駅間の廃線跡。旧帯広線跡の光南緑地はここで終了で、札内川を渡るためにこの手前で高度を上げて築堤になっていた。
F広尾線の帯広駅 - 依田駅間の廃線跡。札内川には橋台跡も無かった。
G広尾線の帯広駅 - 依田駅間の廃線跡。西和会館脇を通っていた。
 H広尾線の依田駅跡。依田駅(よだえき)は、北海道(十勝支庁)中川郡幕別町字依田にあった日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。広尾線の廃線に伴い1987年(昭和62年)2月2日に廃駅となった。一部の普通列車は通過した(1986年(昭和61年)11月1日改定の時刻(廃止時の時刻表)で朝一番の下り列車、及び最終の上り列車)。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(広尾方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅で、駅舎及び待合所は存在しなかった。上屋なども無かったがベンチのみ設置されていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、明治時代時代の開拓者である晩成社の依田勉三の名字に由来する。
I広尾線の依田駅 - 北愛国駅間の廃線跡。
J広尾線の依田駅 - 北愛国駅間の廃線跡。
 K広尾線の北愛国駅跡。北愛国駅(きたあいこくえき)は、北海道(十勝支庁)帯広市愛国町にあった日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。広尾線の廃線に伴い1987年(昭和62年)2月2日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(広尾方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅で駅舎は無いが、ホーム中央部分に待合所を有した。簡易委託駅として乗車券の販売が行われていた時期もあった(1981年(昭和56年)12月発行の乗車券が確認されている)。
 L愛国駅(あいこくえき)は、北海道帯広市愛国町にあった、日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。広尾線の廃止に伴い1987年に廃止された。 同線には幸福駅があり、「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズとともにブームを巻き起こした。1973年(昭和48年)3月、NHKの紀行番組で幸福駅と共に紹介され、一大ブームとなり、 愛国駅は、南へ2つ目の幸福駅とともに、縁起の良い地名として取り上げられ、「愛の国から幸福へ」のキャッチフレーズで全国的な人気を博した。1978年(昭和53年)7月、「愛国→幸福」の乗車券発売枚数が10,000,000枚を突破。釧路鉄道管理局により駅前に記念碑が設置される。
 L廃止時点では、単式ホーム1面1線を有する無人駅であったが、当初は相対式ホーム2面2線を有する列車行き違い可能駅であった。
 L愛国駅の駅舎は改修され、交通記念館となっている。館内では当時使用していた切符、パネル、蒸気機関車(19671号)を展示している。また記念館横には愛国駅から幸福駅までの片道乗車券を模したモニュメントが設置されている。
L愛国駅に展示されている写真。在りし日の広尾線。
L駅前の商店では現在でも乗車券のレプリカが専用のケース(キーホルダー)と共に販売されている。
 L愛国駅と国鉄広尾線のあゆみ:愛国町は、明治29年の入植が始まりです。この地名は、ここに愛国青年団という団体があったことに由来しています。愛国駅は、広尾線の開通と同時に昭和4年に設置されました。広尾線の開通は、南十勝発展の原動力となり、多大な功績を残すと共に「愛国・幸福ブーム」など数々の思い出を残しました。しかし、旧愛国駅は、ロマン溢れる広尾線を人々の心から消さないために、交通記念館として整備されました。
 L廃止時点では、単式ホーム1面1線を有する無人駅であったが、当初は相対式ホーム2面2線を有する列車行き違い可能駅であった。
 L日本国有鉄道 19671 号  蒸気機関車。 9600 貨物列車牽引用として国産の9580形での経験を基に国産で設計・製造されたテンダ型機関車。軸配置1D。運転整備重量59.83t,全長16186mm。775両が製造され,同時期に製造された8620形と共に国産機関車の製造技術を確立した。日本の蒸気機関車の末期まで使用された。
L駅名の由来となった地名は「愛国青年団」という名の団体(開拓団)があったことによる。
 M大正駅(たいしょうえき)は、北海道(十勝支庁)帯広市大正本町にあった日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。電報略号はイヨ。広尾線の廃線に伴い1987年(昭和62年)2月2日に廃駅となった。
 M大正駅構造は廃止時点で、単式ホーム・島式ホーム(片面使用)複合型2面2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。互いのホームは駅舎側ホーム中央部分と島式ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側単式ホーム(西側)が上りの1番線、島式ホーム(東側)が下りの2番線となっていた。島式ホームの外側1線は、側線として残っており、そのほか1番線の帯広方から分岐し駅舎北側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線、島式ホーム外側の側線からさらに分岐し広尾方も接続する側線を1線有していた。職員配置駅となっており、駅舎は構内の南西側に位置しホーム中央部分に接していた。「わたしの旅スタンプ」が設置されていた。「大正駅 - 幸福駅」の乗車券を「あやしげな語呂合わせ」とも評された「たいそう幸福」という縁起切符として発売し、売れ行きも良かった。駅舎のホーム側にはこの切符の宣伝文が書かれたパネルが掲示されていた。
N広尾線の大正駅 - 幸福駅間の廃線跡。
 O愛の国から幸福へ:幸福駅は、昭和4年の広尾旋回通から27年後の昭和31年に設置されました。広尾線の開通は、十勝南部の開拓を急速に進め、多大な功績を残すと共に、テレビで全国に紹介されてからは、「幸福行き」の切符に人気が出始め、「愛国・幸福ブーム」を呼ぶなど数々の思い出を残してきました。
 しかし、昭和62年、国鉄再建策の中で広尾線が廃止となり、幸福駅の歴史も閉じられましたが、夢とロマンに溢れるこの地を後世に伝えていく為この交通公園を造成したものであります。
O幸福駅は交通公園として整備されている。
 O幸福駅(こうふくえき)は、北海道帯広市幸福町にあった、日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。広尾線の廃止に伴い1987年に廃止された。駅名の縁起の良さから乗車券や入場券などで有名であり、廃止後も観光地として整備されている。
 Oもとはこの一帯はアイヌ語で「サチナイ(乾いた川の意)」と呼ばれていた。1897年(明治30年)、福井県大野から集団移住が行われ、入植者によって幸震の字があてられた。「ナイ」に震をあてたのは、地震のことを古語で「なゐ」といったことが理由である。これがのちに音読みされて「こうしん」となった。その後、幸震には福井からの移住者(「福井団体」という)が多かったことにちなみ、集落名が幸福と改められた。
 Oこの駅は一部の旅人に注目されていたが、1973年3月、NHKの紀行番組『新日本紀行』において『幸福への旅 〜帯広〜』として紹介されたことから知名度が上昇した。周りの駅は相次いで幸福駅までの乗車券を増刷し、幸福駅付近の商店も入場券の販売をするようになる。特に幸福駅より二つ帯広駅寄りの愛国駅と併せて、「愛国から幸福ゆき」という切符が一大ブームとなる。1974年にはこれを元にした歌「愛の国から幸福へ」(歌:芹洋子)も登場した。前年には7枚しか売れなかった愛国−幸福間の切符が、この年は300万枚、4年間で1000万枚も売れた。観光客が多数訪れるようになり、待合室の内外に利用者が名刺や使用済みの定期券などを記念に残すようになったのもこのころからである。
 O幸福駅に保存中のキハ22:国鉄キハ20系気動車(こくてつキハ20けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1957年に開発した一般形気動車である。1965年までに系列合計で1,100両以上が製造され、日本各地で広く使用された。
 Oなお、「キハ20系」の呼称は国鉄の正式系列呼称ではなく、同一の設計思想によって製造されたキハ20形・キハ21形・キハ22形・キハ25形・キハユニ25形・キハユニ26形・キハ52形の各形式、およびこれらの改造による派生形式群を趣味的・便宜的に総称したものである。
O軌道モーターカー(形式不明)
O軌道モーターカー(形式不明)運転室内と軌道モーターカー特有の転車装置。
O単式ホーム1面1線の棒線駅の構造であった。
O開駅 昭和31年11月1日
 O愛の国から幸福へ:幸福駅は、昭和4年の広尾旋回通から27年後の昭和31年に設置されました。広尾線の開通は、十勝南部の開拓を急速に進め、多大な功績を残すと共に、テレビで全国に紹介されてからは、「幸福行き」の切符に人気が出始め、「愛国・幸福ブーム」を呼ぶなど数々の思い出を残してきました。しかし、昭和62年、国鉄再建策の中で広尾線が廃止となり、幸福駅の歴史も閉じられましたが、夢とロマンに溢れるこの地を後世に伝えていく為この交通公園を造成したものであります。
O鉄子さんが帽子と制服を着て撮影している。
 イタラタラキ駅逓所跡:更別村字勢雄454-1 十勝は明治29年(1896年)植民地解放となり、下帯広(現帯広市)が十勝の中心として位置づけられて来た。しかし、道路は大津から一本道のみで、十勝川流域は船便に頼るしかなかった。 明治30年帯広から十勝で最も古くて当時繁栄を誇っていた、帯広に至る仮定県道設けることになり、途中礼内川、日方川など川幅の広いところは、渡船とし、道路幅を十二間として側溝が掘られた。この仮定県道の中間地点にイタラタラキ(以平)駅逓が、滋賀県野洲郡中洲村出身の吉川茂氏が取扱人となり、人跡未踏の原野に明治31年4月1日開設された。大正3年(1914年)拓殖道路が仮定県道に編入され、大正5年・イタラタラキ駅逓はその歴史に任務を終えた。駅逓の制度:長旅のため宿泊や人馬継立などの便宜を与えるもので、開拓途上の北海道にあって、この駅逓の果たした役目は大きい。駅逓には駅舎と官馬牝2頭、牡1頭・採草地が貸与された。
P広尾線の十勝東和駅 - 大樹駅間の廃線跡。
Q広尾線の十勝東和駅 - 大樹駅間の廃線跡。
R広尾線の十勝東和駅 - 大樹駅間の廃線跡。
 S大樹駅(たいきえき)は、北海道(十勝支庁)広尾郡大樹町寿通一丁目にあった日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。電報略号はイキ。広尾線の廃線に伴い1987年(昭和62年)2月2日に廃駅となった。愛国駅や幸福駅がブームになった頃には、当駅でも「新生駅 - 大樹駅」の乗車券が縁起切符として発売され、ブームを呼んだことがあった。大樹駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「タイキ・ウシ」(蚤が多いところ)に由来する。
 S大樹駅構造は廃止時点で、単式ホーム・島式ホーム(片面使用)複合型2面2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。互いのホームは駅舎側ホーム南側と島式ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡していた。駅舎側ホーム(東側)が下りの1番線、島式ホーム(西側)が上りの2番線となっていた。島式ホームの外側1線を側線として有し、そのほか1番線の広尾方から分岐し駅舎南側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線と、2番線の帯広方から分岐した短い行き止まりの側線を1線有していた。職員配置駅となっており、駅舎は構内の東側に位置しホーム中央部分に接していた。1976年(昭和51年)に大樹町が国鉄利用債を利用して改築された鉄筋造りの駅舎であった。
 @石坂駅(いしざかえき)は、北海道(十勝支庁)広尾郡大樹町字石坂にあった日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。電報略号はイサ。広尾線の廃線に伴い1987年(昭和62年)2月2日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(広尾方面に向かって右手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の西側に位置しホームから少し離れていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、大樹町石坂地区の開拓者石坂善七の名字に由来する。
A広尾線の石坂駅 - 豊似駅間の廃線跡。
B広尾線の石坂駅 - 豊似駅間の廃線跡。
 C豊似駅(とよにえき)は、北海道(十勝支庁)広尾郡広尾町字豊似にあった日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。電報略号はトニ。広尾線の廃線に伴い1987年(昭和62年)2月2日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(広尾方面に向かって右手側)に存在した。かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった駅舎と反対側の1線は、交換設備運用廃止後も側線として残っていた(但し1983年(昭和58年)時点ではプラットホームは撤去されていた)。そのほか本線帯広方から駅舎側に分岐し駅舎北側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の西側に位置しホームに接していた。
駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「トイ・オ・イ」(土があるところ)に由来する。この「土」とは、アイヌ民族が食用にしていた珪藻土のことらしい。
D広尾線の豊似駅 - 野塚駅間の廃線跡。道路に踏切跡が残る。
E広尾線の豊似駅 - 野塚駅間の廃線跡。築堤が残る。
F広尾線の豊似駅 - 野塚駅間の廃線跡。
 G野塚駅(のつかえき)は、北海道(十勝支庁)広尾郡広尾町字野塚にあった日本国有鉄道(国鉄)広尾線の駅(廃駅)である。電報略号はノカ。広尾線の廃線に伴い1987年(昭和62年)2月2日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(広尾方面に向かって右手側)に存在した。。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は無人化の際に改築され、スマートな駅舎になった。駅舎は構内の西側に位置しホームから少し離れていた。根室本線姉別駅に近い形状の駅舎であった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ヌプ・カ・ペツ」(野中の川)に由来する。
H広尾線の新生駅 - 広尾駅間の廃線跡。
I広尾線の新生駅 - 広尾駅間の廃線跡。
J広尾線の新生駅 - 広尾駅間の廃線跡。
K広尾線の新生駅 - 広尾駅間の廃線跡。
L広尾線の新生駅 - 広尾駅間の廃線跡。
M駅舎裏手の構内は駐車場と鉄道記念公園になっており、パークゴルフ場も併設している。
M鉄道記念公園。
 N広尾駅(ひろおえき)は、北海道広尾町西四条にあった日本国有鉄道広尾線の鉄道駅(廃駅)である。広尾線の廃線にともない、1987年に廃駅となった。盲腸線の末端駅であり、一時期は最長片道切符の起終点だった。宮脇俊三の『最長片道切符の旅』では始発駅として登場した。
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