更新日時 2012年08月12日

廃線探索 標津線
 標津線(しべつせん)は、北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道川上郡標茶町の標茶駅で釧網本線から分岐し、標津郡標津町の根室標津駅に至る本線と同郡中標津町の中標津駅で分岐し根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線からなっていた。国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線に指定された。JR北海道に承継されたが1989年(平成元年)4月に廃止された。根釧原野の林産資源並びに鉱産資源の開発を目的として建設された鉄道で、改正鉄道敷設法別表第149号に規定する「根室国厚床付近ヨリ標津ヲ経テ北見国斜里ニ至ル鉄道」の一部並びに第150号「根室国中標津ヨリ釧路国標茶ニ至ル鉄道」である。当時は北海道庁などによる殖民軌道が敷設されていたが、輸送力の限度と馬の維持にかかる経費が問題になり、輸送力の増強が求められていた。交通の不便さから開拓地を放棄せざるを得ないものも現れ、深刻の度を増していた。開拓民の度重なる請願により、先述の鉄道敷設法の改正を見た。開拓民の間でも海沿いを走る「海岸線」と内陸部を走る「原野線」の両派に分かれた激論があった。結果的に原野線が建設ルートとして選択された。標津線と標茶線を接続し、標津線を標茶線に編入のうえ全体を標津線とした。これは釧路港を擁する釧路までの需要があり、標津から釧路に行くには厚床を経由するより標茶を経由した方が近いという理由があったためとされる。分岐駅の中標津周辺の発展と日本海軍標津第一航空基地(中標津飛行場)・標津第二航空基地(川北飛行場)、日本陸軍計根別飛行場の建設と観光ブームによって注目を浴びた時期もある。 しかし、終点である標津町や起点である根室市の求心力の低下と、釧路市への所要時間などの諸問題により、利用客と貨物取扱高が1965年頃をピークに減少をはじめた。道路の整備に伴い、沿線にもモータリゼーションが進み旅客営業も低迷した。既に1950年代には、閑散区対策として開発されたレールバスであるキハ03系が投入されている。1968年には赤字83線に選定され、廃止論議が持ち上がった(当時の営業係数は219)。一時は廃止を免れたものの、1970年には営業係数が405に悪化するなど、年々赤字が増えていった。いくつかの駅を直営駅から業務委託駅に転じさせ、経費の圧縮を試みたが焼け石に水であった。1980年に国鉄再建法が成立すると、第2次特定地方交通線に指定されたが、冬季の代替輸送に問題があるとして他の3線(天北線、池北線、名寄本線)とともに一時、廃止承認が留保された。しかし、結局1985年に問題がなくなったとして追加廃止承認され、国鉄分割民営化後の1989年に廃止された(沿線自治体は第三セクターによる鉄路維持を検討していたが、鉄路維持の場合は運営基金が7年で枯渇するという試算があり、バス転換に同意したもの)。
標津線(廃線)
標茶駅 - 多和駅 - 泉川駅 - 光進駅 - 西春別駅 - 上春別駅 - 計根別駅 - 開栄駅 - 当幌駅 - 中標津駅 - 上武佐駅 - 川北駅 - 根室標津駅
 @標茶駅(しべちゃえき)は、北海道川上郡標茶町にある北海道旅客鉄道(JR北海道)釧網本線の駅。駅番号はB61。電報略号はシチ。冬期はSL冬の湿原号が発着する。かつては標津線が分岐していたが、現在は廃止されている。駅名の由来はアイヌ語の「シペッ・チャ(大きな川のほとり)」に由来する。大きな川とは、釧路川のこと。
 @標茶駅構造は2面3線の単式ホーム・島式ホームがある地上駅。かつては副本線や貨物ホーム、多くの側線を有していた。摩周駅管理の業務委託駅(ジェイ・アール道東トラベルサービス委託)。みどりの窓口(営業時間7時00分 - 16時50分)、自動券売機1台設置。かつて2・3番のりばから標津線中標津・根室標津方面の列車が発着しており、3番のりば(旧4番線)は標津線の本線として使用されていた。そのホーム上には、標津線の接続駅の証となっているSLの形をした木製のオブジェが現在も残っている。
@標津線起点の標識。 @標茶駅ふる里の鐘。
A標津線(釧網本線)の標茶駅 - 多和駅間の廃線跡。旭町踏切より撮影。
B標津線(釧網本線)の標茶駅 - 多和駅間の廃線跡。モセウシ踏切より撮影。
C標津線(釧網本線)の標茶駅 - 多和駅間の廃線跡。多和14号踏切より撮影。
C釧網本線多和14号踏切近くの釧網本線脇に標津線のコンクリート製橋梁が残る。
 D多和駅(たわえき)は、北海道川上郡標茶町にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅(廃駅)である。駅の構造は単式ホーム1面1線を有する無人駅で、元々は後述する仮乗降場だったことから、木造木板張りの簡易型ホームが北東側(標茶に向かって右側)に、ホームへの階段手前に待合室が設けられていた。なお、この駅の近くには釧網本線が走っているものの、釧網本線側に当駅が設けられることはなかった。
 E標津線の多和駅 - 泉川駅間の廃線跡。左写真(泉川駅方向)築堤が残る。右写真(多和駅方向)の木が生えている所が廃線跡。
 F泉川駅(いずみかわえき)は、北海道野付郡別海町泉川にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅(廃駅)である。電報略号はイツ。駅の構造は相対式ホーム2面2線を有する、列車行き違い可能駅であった。駅舎は南東側(標茶に向かって左側)の中標津寄りに有り、駅舎と各ホームは中標津側端部で線路上を横切る形で連絡していた。貨物及び荷物取扱い廃止までは駅舎横の標茶寄り敷地が貨物積降場として使用され、駅舎側ホームは島状になっており、ホームと敷地間に標茶側から留置きを兼ねた貨物積降線が引き込まれていた。また、駅舎と反対側のホームが石造りなのに対し、駅舎側ホームは鉄骨製木板張りの簡易型であった。国鉄末期の無人化後は駅舎側のホームおよび線路が撤去され棒線化されていた。右看板の泉川と書かれている右側には駅の文字が有った。左写真は別海町鉄道記念公園に保存される駅名標。
 F泉川駅周辺は戦前は全く人の住まない山奥の地帯であったが、戦時需要によって木材等の資材や沿線基地への人員輸送が増加すると、交換設備のある隣駅まで22.5kmも離れ、さらに途中最大傾斜25パーミルの峠越えを有するこの時間の掛かる区間に交換設備が必要となり、中間地点に近いこの場所に信号所が設けられた。戦後になって昭和26年から満州からの引揚者がこの地に入植し、翌年に当駅が開設された。入植は1955年頃まであり、当面の生活の糧として原木や木炭を当駅から搬出していたが、資源枯渇により出荷量が減り続けると共に人口も減り、1961年には貨物取扱が廃止となった。残っていた入植者は酪農業に転換している。現在の駅跡地は雑草が鬱そうと生えていて駅跡の面影は全くない。
G標津線の泉川駅 - 光進駅間の廃線跡。
H標津線の泉川駅 - 光進駅間の廃線跡。西風蓮川に架かる西風蓮川橋梁。
H標津線の泉川駅 - 光進駅間の廃線跡。
 I光進駅(こうしんえき)は、北海道野付郡別海町泉川にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅(廃駅)である。左写真は別海町鉄道記念公園に保存される駅名標。
 I光進駅の構造は単式ホーム1面1線を持つ無人駅であった。ホームは鉄骨製コンクリート床の簡易型で南東側(標津に向かって左側)に有った。また中標津側に有ったホームへの階段の横に待合室が置かれていた。
J標津線の光進駅 - 西春別駅間の廃線跡。
K標津線の光進駅 - 西春別駅間の廃線跡。
L標津線の光進駅 - 西春別駅間の廃線跡。
 M西春別駅(にししゅんべつえき)は、北海道野付郡別海町西春別駅前西町にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅(廃駅)である。電報略号はニユ。西春別駅名の由来はアイヌ語の「シュム・ペツ」に由来するが、その意味は「西の川」「油の川」「溺死する川」など諸説ある。
 M西春別駅の構造は貨物及び荷物取扱い廃止までは、島式ホーム1面2線と、さらに駅舎側に貨物積降線1本、及び外側に中標津側から引き入れた行き止まりの留置線1本を有する、列車行き違い可能駅であった。駅舎は東側(標茶に向かって左側)の中標津寄りにあって地面に直接建てられ、駅舎正面とホームの中標津側端が、線路上を横断する形で連絡していた。駅舎横の標茶寄りにはホーム状の貨物積降場が設けられていた。貨物及び荷物扱い廃止後、駅舎側の貨物積降線が撤去された。廃止時点では、島式ホーム1面2線及び留置線1本を有する列車行き違い可能駅であった。
 MD51-27蒸気機関車:このD51-27蒸気機関車は、戦後日本からサハリン(樺太)へ輸出されたものを購入したものです。この形式は車両保存委員会調べの廃車体データーベース(1989年補遺版)では日本国内においては1両しかありません。このD51-27蒸気機関車は昭和24年(1949年)3月三菱重工業にて製作され、鉄鋼品貿易公団を通じ直ちにサハリンへ輸出されたものです。サハリンでは昭和24年から昭和40年頃迄、サハリン東海岸沿いで主に、石炭輸送に従事していたことが判明しています。形式は日本のD51に準拠していますが、防寒目的で、運転室は密閉式となっており、性能、装備等もほぼ同じ物でありますが、区別するために形式と番号の間にハイホンが入っており、日本のD51はD5127でありますが、サハリン向けはD51-27となっております。
 Mキ100形キ276:雪かき車/雪掻車(ゆきかきしゃ)とは、貨車の一種で、冬、線路の除雪を行うのに使われる事業用車である。 貨物は積載しないが、鉄道車両の分類上、便宜的に貨車の一種として分類されている。日本の国鉄における記号は「キ」。鉄道用の雪かき車としては最も一般的なもので、前方に排雪板(ブレード)を装着し、進行方向の片側もしくは両側に雪を掻き分ける雪かき車である。豪雪地域の初期除雪に活躍するほか、積雪がさほどひどくない降雪地でも用いられる。
 Mヨ4642:ヨ3500形は、1950年(昭和25年)から1958年(昭和33年)にかけて、日本国有鉄道(国鉄)に登場した事業用貨車(車掌車)である。ヨ3500形は、全く新規に製造された車両と、戦時中に大量配備されたものの走行性能の悪さや貨物輸送量の減少により多数が余剰となっていた3軸無蓋車トキ900形から改造された車両の2種類があり、新製車両については帝國車輛工業、新潟鐵工所、ナニワ工機、富士車輌等で715両が製作された。また、トキ900形からについては、新津工場、多度津工場、松任工場等の国鉄工場で630両が改造・製作された。
 Mキハ22 239:国鉄キハ20系気動車(こくてつキハ20けいきどうしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1957年に開発した一般形気動車である。キハ21形は北海道の酷寒地での防寒性能が不満足であったことから、酷寒地向けの耐寒仕様車として完全に新設計されたものである。1958年から製造開始され、北海道および東北地方に配置されていた。製造会社はキハ21形の帝車と新潟に加え、富士重工業と日本車輌製造が加わっている。キハ22 239富士重工製昭和40年製造。
M西春別駅跡地に建つ鉄道記念館。 M鉄道記念館に展示されている写真。
M保線用車両。 M軌道自転車。
Mポイントの切り換え機。 M閉塞器。
M腕章。 M旧国鉄の制服。
M保線の道具類。 Mさよなら標津線のヘッドマーク。
Mさよなら標津線のヘッドマーク。 Mさよなら標津線のヘッドマーク。
N標津線の西春別駅 - 上春別駅間の廃線跡。道路南側の草むらが築堤になっており廃線跡。
O標津線の西春別駅 - 上春別駅間の廃線跡。西別川に架かる西別川橋梁。
P標津線の西春別駅 - 上春別駅間の廃線跡。
Q標津線の西春別駅 - 上春別駅間の廃線跡。
R標津線の西春別駅 - 上春別駅間の廃線跡。
 S上春別駅(かみしゅんべつえき)は、北海道野付郡別海町本別にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅(廃駅)である。左写真は別海町鉄道記念公園に保存される駅名標。
 S上春別駅の構造は単式ホーム1面1線を有する無人駅であった。ホームは鉄骨製コンクリート床の簡易型で、北西側(標茶に向かって右側)に有った。また中標津側にあったホームへの昇降階段の前に待合室が置かれていた。
@標津線の上春別駅 - 計根別駅間の廃線跡。
 A計根別駅(けねべつえき)は、北海道標津郡中標津町にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。標津線の廃線とともに、廃駅となった。電報略号はケネ。駅名の由来 はアイヌ語の「ケネ・ベッ→ケネベッ(榛の木・川)」からきたもの。計根別駅の構造は貨物及び荷物取扱い廃止までは、国鉄型の2面3線の列車行き違い可能駅で、駅舎は北側(標茶に向かって右側)にあり、各ホームは標茶側端で線路上を横切る形で連絡していた。駅舎横の東側(中標津側)には切欠き状の貨物ホームが設けられて、貨物積降線が引込まれていた。また、島式ホームの外側線は主に貨物専用に使われ、そこから中標津側に留置線が1本伸びていた。貨物及び荷物取扱い廃止後は、貨物用に使われていた線路が取り払われて、相対式ホーム2面2線をもつ列車行き違い可能駅になった。さらに廃止時点では棒線化されて駅舎側ホーム1面1線となり、島式ホームの方は放置されていた。1936年から1960年頃まで貨物ホーム付近に、街を反時計回りに迂回して中標津町養老牛まで伸びる殖民軌道養老牛線の停車場が設けられていた。ちなみに、標茶から計根別までの殖民軌道標茶線、中標津駅逓から計根別までの殖民軌道計根別線は計根別駅が出来るまで存在して標津線の建設にも役立ったが、標津線全線開通と共に役割を終えて廃止された。
B標津線の計根別駅 - 開栄駅間の廃線跡。
C標津線の計根別駅 - 開栄駅間の廃線跡。
D標津線の計根別駅 - 開栄駅間の廃線跡。
E標津線の計根別駅 - 開栄駅間の廃線跡。
 F開栄駅(かいえいえき)は、北海道標津郡中標津町字当幌にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。標津線廃線とともに、廃駅となった。駅の構造 は単式ホーム1面1線を有する無人駅であった。ホームは中標津側で踏み切りに隣接する木造木板張りの簡易型で北側(標茶に向かって右側)に設置され、待合室が中標津寄りに有った。
G標津線の開栄駅 - 当幌駅間の廃線跡。
 H当幌駅(とうほろえき)は、北海道標津郡中標津町字当幌本通にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。電報略号はタホ。標津線の廃線とともに、廃駅となった。駅名の由来はアイヌ語の「トー・ポロ」(沼の川)に由来。駅の構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有した。駅舎は南東側(標茶に向かって左側)の中標津寄りに有った。貨物及び荷物取扱い廃止までは、駅舎側に貨物積降線がホームへの地上の連絡通路手前まで標茶側から引き込まれていた。荷扱い廃止後、貨物積降線が撤去されて島状の単式ホームとなった。また、北西側(駅舎とは本線を隔てて反対側)の敷地内に、ほぼ平行に殖民軌道計根別線の路盤跡が残されていた。
I標津線の当幌駅 - 中標津駅間の廃線跡。
J標津線の当幌駅 - 中標津駅間の廃線跡。
K標津線の当幌駅 - 中標津駅間の廃線跡。
L標津線の当幌駅 - 中標津駅間の廃線跡。
M標津線の当幌駅 - 中標津駅間の廃線跡。
N標津線の当幌駅 - 中標津駅間の廃線跡。
O標津線の当幌駅 - 中標津駅間の廃線跡。
P標津線の当幌駅 - 中標津駅間の廃線跡。
 Q中標津駅(なかしべつえき)は、北海道標津郡中標津町東2条南2丁目にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。電報略号はナヘ。1989年(平成元年)4月30日に廃駅となった。駅名の由来はアイヌ語の「シ・ペツ」(大きな川)より。駅の構造は廃止時点では2面3線のプラットホーム(国鉄型配線)を持つ地上駅であった。駅舎は北側(標茶に向かって右)に有った。貨物および荷物取扱い廃止までは、貨物積降場が2箇所有り、1箇所は北側(駅舎側)根室標津方面に有って切欠ホームへ貨物積降線が引かれ、もう一つは南側根室標津方面の貨物ホーム、後のコンテナ取扱い場へ引かれていた。 その他に、根室標津方面は本線左右に2本、標茶方面は南側に1本、計3本の留置線(引き上げ線)が有り、また根室標津方面の本線と南側貨物ホームの間に転車台と車庫へ向かう入出区線が1本有った。取扱い廃止後はこれらの内の南側2本に、新たに車庫が設けられた。 標津線厚床支線へ
R標津線の中標津駅 - 上武佐駅間の廃線跡。
S標津線の中標津駅 - 上武佐駅間の廃線跡。
@標津線の中標津駅 - 上武佐駅間の廃線跡。
A標津線の中標津駅 - 上武佐駅間の廃線跡。
B標津線の中標津駅 - 上武佐駅間の廃線跡。
C標津線の中標津駅 - 上武佐駅間の廃線跡。
D標津線の中標津駅 - 上武佐駅間の廃線跡。クテクンベツ川橋梁。
 E上武佐駅(かみむさえき)は、北海道標津郡中標津町字武佐にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。電報略号は、カム。1989年(平成元年)4月30日に標津線の廃止に伴って廃駅となった。駅名の由来はアイヌ語でイラクサを意味する「ムサ」に由来。アイヌ民族はイラクサの皮から繊維を取り出し、「レタルペ」(白いもの、の意)という着物を作っていた。
 E上武佐駅の構造は廃止時点で単式ホーム1面1線を有した。貨物及び荷物取扱い廃止までは、島状の単式ホーム1面1線を有し、駅舎とホームとの間に根室標津側から貨物積降線1本が引き入れられていた。 駅舎は西側(中標津に向かって右側)の中標津側に寄りにあって地面に直接建てられ、駅舎とホーム中標津寄りの階段が連絡していた。駅舎横の根室標津側には貨物積降場があった。荷物及び貨物取扱い廃止後は貨物積降線が撤去された。また、1944年から1954年まで、駅舎北側の貨物積降場に接して、駅前を横切って中標津町開陽まで通じる、殖民軌道根室線(標津線開通後の残存部から駅前まで引き直し)の停車場が置かれていた。
 E高倉健主演の映画「遙かなる山の呼び声」は、中標津町を舞台としており、当駅も映画に登場した。高倉が演ずる田島耕作が、函館に住む兄(鈴木瑞穂)と再会したのが上武佐駅であった。先に到着した兄は、駅前の家の前を箒ではいていた地元の人に「あのぅ。この駅前に食事が出来るところがありませんか」と尋ねるが、店舗などはなく、駅舎内で会話することとなる。当時の駅や駅前の状況などを映画によって確認することができる。駅前には、映画「遙かなる山の呼び声」の撮影ロケ地であったことを示す、中標津町が設置した標柱と、同映画の宣伝看板が設置されている。また、駅跡付近の木には、ホーム上の高倉健と鈴木瑞穂、山田洋次の写真(打ち合わせ中の様子)が付された「上武佐駅跡」の標識が付けられている。
 F川北駅(かわきたえき)は、北海道標津郡標津町字川北にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。電報略号はカキ。1989年(平成元年)4月30日に標津線の廃止に伴って廃駅となった。
 F川北駅の構造は貨物及び荷物取扱い廃止までは、島式ホーム1面2線と、さらに駅舎側に貨物積降線1本、及び外側に留置線1本を有する列車行き違い可能駅であった。駅舎は西側(中標津に向かって右側)の中標津寄りにあって地面に直接建てられ、駅舎正面とホームの中標津側端が、線路上を横断する形で連絡していた。駅舎横の根室標津側には貨物積降場が設けられていた。貨物及び荷物取扱い廃止後は、貨物積降線と留置線が撤去されて、島式ホーム1面2線の列車行き違い可能駅になった。さらに無人化に伴って、駅舎とは反対側の1本に棒線化された。したがって廃線時点では島式ホーム1面1線となっていた。1955年まで、駅舎側貨物積降線の北側に接して、標津町古多糠まで通じる殖民軌道忠類線の停車場が置かれていた。
G標津線の川北駅 - 根室標津駅間の廃線跡。
H標津線の川北駅 - 根室標津駅間の廃線跡。
I標津線の川北駅 - 根室標津駅間の廃線跡。
J標津線の川北駅 - 根室標津駅間の廃線跡。
K標津線の川北駅 - 根室標津駅間の廃線跡。
L標津線の川北駅 - 根室標津駅間の廃線跡。
 M根室標津駅(ねむろしべつえき)は、北海道標津郡標津町にあった北海道旅客鉄道(JR北海道)標津線の駅である。電報略号はネシ。1989年(平成元年)4月30日に標津線の廃止に伴って廃駅となった。駅名の由来は「シベツ」は、アイヌ語の「シ・ペッ→シペッ(大きい・川)」からきたもの。また、同じ北海道内に異字同音の士別(しべつ)駅が先に存在していたため、混同しないように「根室」を冠して命名された。根室標津駅の構造は廃止時点では、単式ホーム1面1線の地上駅であった。駅舎は東側(海側、中標津に向かって右側)にあった。貨物及び荷物取扱い廃止までは、ホーム南端東側に貨物積降場があったため切欠きホーム構造で、貨物積降線が1本南側から引き込まれていた。また、ホームの本線の他に西側に3本の留置線があり、その内一番西側の1本は入出区線となって構内南端西側に設けてあった転車台及び車庫へ伸び、さらに全ての線が構内南端東側で1本に纏まって折返線となっていた。
標津線厚床支線へ
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