更新日時 2019年05月10日
胆振線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道伊達市(胆振支庁管内)の伊達紋別駅で室蘭本線から分岐し、虻田郡倶知安町(後志支庁管内)の倶知安駅で函館本線に接続する。国鉄再建法の制定に伴い、第2次特定地方交通線に指定され、1986年に廃止された。胆振線は、歴史的に軽便鉄道法によって建設された京極以北と、私鉄を買収した京極以南に分かれる。倶知安 - 京極 - 脇方間は、改正鉄道敷設法制定以前に軽便鉄道法により計画された路線で、1919年から翌年にかけて京極軽便線(きょうごくけいべんせん。1922年、軽便鉄道法の廃止により京極線に改称)として全通した。京極以南は、改正鉄道敷設法別表第131号に規定する予定線「膽(胆)振國京極ヨリ喜茂別、壯瞥ヲ經テ紋鼈至ル鐵道」に沿い、京極線の延長の形で胆振鉄道(いぶりてつどう)が建設し、1928年に喜茂別(初代)まで開業した。1940年には、胆振縦貫鉄道(いぶりじゅうかんてつどう)によって伊達紋別 - 徳瞬瞥(とくしゅんべつ=後の新大滝)間が開業、翌年には胆振鉄道を合併、そして西喜茂別(後の喜茂別(2代))まで延伸され、伊達紋別 - 京極間が全通した。1944年には、胆振縦貫鉄道が戦時買収され、京極線と合わせて胆振線となっている。枝線となった京極 - 脇方間については、鉱山の閉山により輸送量が減少し、赤字83線の取組みの中で1970年に廃止された。残った伊達紋別 - 倶知安間についても、1980年に国鉄再建法が成立すると、有珠山噴火による運休のあった昭和52年度を含む54年度までの3カ年の輸送密度をもとに、第2次特定地方交通線に指定され、1986年に廃止された。 | |
日本国有鉄道 胆振線(廃線) 伊達紋別駅 - 上長和駅 - 壮瞥駅 - 久保内駅 - 蟠渓駅 - 北湯沢駅 - 優徳駅 - 新大滝駅 - 尾路遠(仮)駅 - 御園駅 - 北鈴川駅 - 喜茂別駅 - 留産駅 - 南京極駅 - 東京極駅 - 京極駅 - 北岡駅 - 寒別駅 - 参郷駅 - 六郷駅 - 倶知安駅 支線:京極駅 - 脇方駅 |
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@伊達紋別駅(だてもんべつえき)は北海道伊達市山下町にある北海道旅客鉄道(JR北海道)室蘭本線の駅である。駅番号はH38。電報略号はタテ。伊達市の代表駅であり、1925年(大正14年)8月20日、国有鉄道長輪東線(現在の室蘭本線)の駅として開設された。1940年(昭和15年)12月15日に胆振縦貫鉄道(後の胆振線)が開業し、同線との分岐駅となった。1986年(昭和61年)11月1日に胆振線が廃止され、現在は室蘭本線の単独駅となっている。駅名の由来は当駅の所在する地名より。伊達の名は伊達成実の後裔である亘理伊達氏当主・伊達邦成とその家臣団が1870年(明治3年)に入植したことから付けられた。1900年(明治33年)に伊達村となる前の地名は紋鼈(もんべつ)であり、字を紋別と変えて伊達と併せ駅名に採用した。 | |
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@伊達紋別駅構造は単式ホーム・島式ホーム複合型の2面3線を有する地上駅。互いのホームは中央部分に位置する跨線橋で連絡している。他の駅とは異なり、3番線側に改札口がある。社員配置駅で、みどりの窓口(営業時間:7時00分 - 19時30分)が設置されている。駅舎は開業時のものが手直しされて利用されている。外観は白壁、こげ茶色の柱、梁を有し、天井は大型枡格天井となっている。駅舎内にはキヨスク及び「サンプルショップ」という店舗が入店し、トイレも有する。駅スタンプも設置されている。 | |
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A胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。ここから自転車道(市道胆振長輪線)になっている。 | |
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A胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。廃線跡のモニュメントに警報機が設置されている。 | |
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B胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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C胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。跨線橋より撮影。 | |
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D胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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E胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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F胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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G胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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H胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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I胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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J胆振線の伊達紋別駅 - 上長和駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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K上長和駅(かみながわえき)は、北海道(胆振支庁)伊達市上長和町にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっており、駅舎は無いがホーム出入口附近にスーパーハウスの待合所を有した。駅名の由来は当駅の所在する地名より。 | |
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L胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の廃線跡。自転車道はこの辺で終わり。 | |
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@胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の昭和新山噴火に伴う旧線の廃線跡。 | |
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A胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の昭和新山噴火に伴う旧線の廃線跡。 | |
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B胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の昭和新山噴火に伴う旧線の廃線跡。 | |
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C胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の昭和新山噴火に伴う旧線の廃線跡。 | |
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D胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の昭和新山噴火に伴う旧線の廃線跡。 | |
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D胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の昭和新山噴火に伴う旧線の廃線跡。 | |
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E胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の昭和新山噴火に伴う旧線の廃線跡。 | |
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F胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の昭和新山噴火に伴う旧線の廃線跡。 | |
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M胆振線の上長和駅 - 壮瞥駅間の廃線跡。 | |
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N壮瞥駅(そうべつえき)は、北海道(胆振支庁)有珠郡壮瞥町字滝之町にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はソツ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)10月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。駅構造は廃止時点で、島式ホーム片面使用の1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北東側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった駅舎側の1線は交換設備運用廃止後も倶知安方の転轍機と一部の線路が撤去された状態で側線として残っており、保線用モーターカーの留置に使用されていた。業務委託駅となっており、駅舎は構内の北東側に位置し、ホームとは側線を渡る構内踏切で連絡した。駅前広場にはオンコ(櫟)の木を囲んだロータリーがあった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ソーペツ」(滝の川)に由来する。この滝とは、洞爺湖から壮瞥川が流れ出す地点にかかる壮瞥滝のことである。 | |
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O胆振線の壮瞥駅 - 久保内駅間の廃線跡。 | |
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P胆振線の壮瞥駅 - 久保内駅間の廃線跡。 | |
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Q胆振線の壮瞥駅 - 久保内駅間の廃線跡。 | |
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R久保内駅(くぼないえき)は、北海道(胆振支庁)有珠郡壮瞥町字久保内にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はクホ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)10月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム2面2線を有する地上駅であった。ホームが千鳥式に配置された列車交換可能な交換駅であった。互いのホームは駅舎側ホーム東側と対向ホーム西側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側ホーム(南側)が上りの1番線、入口部分に短い上屋とベンチが設置された対向ホーム(北側)が下りの2番線となっていた。そのほか1番線の伊達紋別方から駅舎側に分岐する行き止まりの側線を1線有し、保線用モーターカーの留置に使用されていた。最終日まで無人駅扱いの運転取扱い要員のみが配置されていた駅であった。駅舎は構内の南側に位置し、ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。乗車券類は簡易委託化されていた。かつては鉄鉱石の積み出し駅であった。線路の有効長は貨物列車の行き違いに備えて長かった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「クオ・ナイ」(弓の川)に由来する。 | |
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S胆振線の久保内駅 - 蟠渓駅間の廃線跡。この先一部割堀になっている。 | |
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@胆振線の久保内駅 - 蟠渓駅間の廃線跡。レルコマベツ川に架かるガーター橋が残る。 | |
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A胆振線の久保内駅 - 蟠渓駅間の廃線跡。 | |
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B胆振線の久保内駅 - 蟠渓駅間の廃線跡。白水川に架かるガーター橋が残る。 | |
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C蟠渓駅(ばんけいえき)は、北海道(胆振支庁)有珠郡壮瞥町字蟠渓にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はハケ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)10月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「パンケ」(川下)に由来する。 | |
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C蟠渓駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった駅舎と反対側の1線は交換設備運用廃止後も伊達紋別方の転轍機と一部の線路が撤去された状態で側線として残っていた。但し1983年(昭和58年)時点ではホームは撤去されていた。無人駅(簡易委託駅)となっており、有人駅時代の駅舎は一部改修され、正面の事務室部分の窓は塞がれていた。駅舎は構内の北西側に位置し、高台のホームとは階段付きの通路で連絡した。構内が緩くカーブしておりホームもカーブしていた。 | |
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D胆振線の蟠渓駅 - 北湯沢駅間の廃線跡。 | |
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E胆振線の蟠渓駅 - 北湯沢駅間の廃線跡。 | |
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F胆振線の蟠渓駅 - 北湯沢駅間の廃線跡。隧道が残る。 | |
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G胆振線の蟠渓駅 - 北湯沢駅間の廃線跡。 | |
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H北湯沢駅(きたゆざわえき)は、北海道有珠郡大滝村字昭園(現・伊達市大滝区)にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はキユ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)10月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅(簡易委託駅)となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の西側に位置しホーム中央部分に接していた。駅舎入口はホームに対し90度の角度で設置されていた。ホームは駅前広場と地続きで、柵で仕切っていた。駅名の由来は旧駅名の優園(ゆうえん)は、当駅の所在地近辺の地名より。 | |
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I胆振線の北湯沢駅 - 優徳駅間の廃線跡。ここから自転車道に転用されている。 | |
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I胆振線の北湯沢駅 - 優徳駅間の廃線跡。長流川に架かる胆振線おもいで橋。 | |
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I胆振線の北湯沢駅 - 優徳駅間の廃線跡。国道の跨線橋を潜る。 | |
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J胆振線の北湯沢駅 - 優徳駅間の廃線跡。ツースナイ川に架かる橋梁。 | |
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K胆振線の北湯沢駅 - 優徳駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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M胆振線の優徳駅 - 新大滝駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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N胆振線の優徳駅 - 新大滝駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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O胆振線の優徳駅 - 新大滝駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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P胆振線の優徳駅 - 新大滝駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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Q胆振線の優徳駅 - 新大滝駅間の廃線跡。自転車道に転用されている。 | |
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R新大滝駅(しんおおたきえき)は、北海道(胆振支庁)有珠郡大滝村字本町(現・伊達市大滝区本町)にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はシオ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)10月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。駅構造[は廃止時点で、単式ホーム2面2線を有する地上駅であった。ホームが千鳥式に配置された列車交換可能な交換駅であった[1]。互いのホームは駅舎側ホーム南側と対向ホーム北側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側ホーム(東側)が上りの1番線、対向ホーム(西側)が下りの2番線となっていた。そのほか2番線の倶知安方から2番線ホーム外側(乗降不可)に分岐し末端部で2線になる行き止まりの側線、その側線途中から分岐する行き止まりの側線を1線有した。9600形蒸気機関車が入線していた当時は、転車台を備えていた。業務委託駅となっており、駅舎は構内の南東側に位置し、ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。駅舎の左手側に別棟でトイレを有した。かつては徳舜瞥鉱山からの鉄鉱石(褐鉄鉱)や硫黄鉱の積み出し駅であった。駅名の由来は当駅の所在する地名に「新」を冠する。地名(村名)は、村の名所である三階滝に由来した。 | |
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S胆振線の新大滝駅 - 御園駅間の廃線跡。 | |
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@胆振線の新大滝駅 - 御園駅間の廃線跡。 | |
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A胆振線の新大滝駅 - 御園駅間の廃線跡。 | |
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B胆振線の新大滝駅 - 御園駅間の廃線跡。我妻の沢林道と斜めにクロスしていた。 | |
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C胆振線の新大滝駅 - 御園駅間の廃線跡。ガーター橋が残る。 | |
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D御園駅(みそのえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡喜茂別町字金山にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はミソ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)10月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム2面2線を有する地上駅であった。ホームが千鳥式に配置された列車交換可能な交換駅であった[1]。互いのホームは駅舎側ホーム北側と対向ホーム南側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側ホーム(西側)が下りの1番線、入口部分に短い上屋とベンチが設置された対向ホーム(東側)が上りの2番線となっていた。そのほか1番線と2番線の間に伊達紋別方、倶知安方両方の転轍機が撤去された中線を1線有した。最終日まで無人駅扱いの運転取扱い要員のみが配置されていた駅であった。駅舎は構内の西側に位置し、ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。乗車券類は簡易委託化されていた。駅名の由来は当駅の所在地近辺の地名より。地名は、アイヌ語の「オロ・ウェン・ヌプキ・ペッ」(orowen nupkipet 底の様子が悪い濁った川)に「御路園」の漢字を当て、それが「御園」に変わったという。付近の川はオロウェン尻別川と称する。また、地元には付近に金山があったことから駅名を「金山」とする希望があったようだが、根室本線に同名駅が存在することから、断念されたという。 | |
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E胆振線の御園駅 - 北鈴川駅間の廃線跡。コンクリートの橋梁が残る。 | |
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F胆振線の御園駅 - 北鈴川駅間の廃線跡。 | |
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G胆振線の御園駅 - 北鈴川駅間の廃線跡。 | |
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H北鈴川駅(きたすずかわえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡喜茂別町字鈴川にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はキス。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった1線は交換設備運用廃止後に線路、ホーム共に撤去されていた。無人駅となっており、有人駅時代の駅舎は一部改修され、正面の事務室部分の窓は塞がれていた。駅舎は構内の北側に位置し、ホームから少し離れていた。駅名の由来は当駅の所在する地名に「北」を冠する。尚、当駅開業時点では、静岡県の東海道本線に鈴川駅(後の吉原駅)が存在していた。 | |
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I胆振線の北鈴川駅 - 喜茂別駅間の廃線跡。国道276号線を斜めにクロスしていた。 | |
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J胆振線の北鈴川駅 - 喜茂別駅間の廃線跡。 | |
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K胆振線の北鈴川駅 - 喜茂別駅間の廃線跡。 | |
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L胆振線の北鈴川駅 - 喜茂別駅間の廃線跡。 | |
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M喜茂別駅(きもべつえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡喜茂別町字喜茂別にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はキヘ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)10月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム2面2線を有する地上駅であった。ホームが千鳥式に配置された列車交換可能な交換駅であった。互いのホームは駅舎側ホーム西側と対向ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側ホーム(南側)が下りの1番線、対向ホーム(北側)が上りの2番線となっていた。この2つのホームはかなり離れていた。そのほか2番線の倶知安方から分岐し2番線ホームの外側(乗降可能)への行き止まりの側線を1線有していた。業務委託駅となっており、駅舎は構内の南西側に位置し、ホームとは通路及び構内踏切で連絡した。かつては鉄鉱石や農産物の集荷駅であった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「キム・オ・ペツ」(山より来る川)に由来する。 | |
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N胆振線の喜茂別駅 - 留産駅間の廃線跡。 | |
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O留産駅(るさんえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡喜茂別町字留産にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はルサ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった1線は交換設備運用廃止後に線路、ホーム共に撤去されていた。無人駅となっており、待合所機能のみの駅舎が残っていた。駅舎は構内の東側に位置しホームから少し離れていた。ホーム北側の出入口は階段となっていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ル・オ・サン・イ」(道が・そこで・下る・処)に由来する。 | |
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P胆振線の留産駅 - 南京極駅間の廃線跡。 | |
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Q南京極駅(みなみきょうごくえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡京極町字更進にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はミキ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅(簡易委託駅)となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の西側に位置しホームから少し離れていた。ホーム中央部分の出入口は階段となっていた。駅名の由来は当駅の所在する地(町名)の「南」に位置することから。旧駅名の川上温泉(かわかみおんせん)は、駅前に湧出する温泉の名に由来する。 | |
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R胆振線の南京極駅 - 東京極駅間の廃線跡。 | |
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S胆振線の南京極駅 - 東京極駅間の廃線跡。 | |
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@胆振線の南京極駅 - 東京極駅間の廃線跡。 | |
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A胆振線の南京極駅 - 東京極駅間の廃線跡。 | |
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B東京極駅(ひがしきょうごくえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡京極町字三崎にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅(簡易委託駅)となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の西側に位置しホームから少し離れていた。ホーム中央部分の出入口は階段となっていた。駅名の由来は当駅の所在する地(町名)の「東」に位置することから。 | |
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C胆振線の東京極駅 - 京極駅間の廃線跡。 | |
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D胆振線の東京極駅 - 京極駅間の廃線跡。 | |
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E京極駅(きょうごくえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡京極町字京極にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はケフ。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。1980年(昭和55年)10月まで運行されていた急行「いぶり」の停車駅であった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム・島式ホーム複合型2面3線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。互いのホームは駅舎側ホーム中央部分と対向ホーム南東側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側ホーム(西側)が下りの1番線、島式ホーム(東側)駅舎側が上りの2番線、外側が3番線(但し1983年(昭和58年)時点では側線扱い)となっていた。そのほか1番線の倶知安方から分岐し駅舎横までの行き止まりの側線を1線有していた。1970年(昭和45年)までは、脇方に至る支線の接続駅で、駅の南方で分岐していた。業務委託駅となっており、駅舎は構内の南西側に位置し単式ホームに接していた。駅名の由来は明治28年12月、旧丸亀藩主家の京極高徳子爵によって京極農場がこの地に開かれ、この農場を中心に周辺に沢山の開拓農場が開かれて徐々に発展してきたため、明治36年に道庁が新市街地として京極農場の一部返還を求め、通称「東倶知安」市街地が形成された。明治46年に倶知安村からの分村の際にこの市街地名を冠して東倶知安村となったが、行政的には市街地や当駅付近は字ワッカタサップであった。一方、当駅は地名とは全く無関係に、本村の先駆者である京極子爵の名前を採って「京極駅」となったが、このために一部の村民から「村長と京極農場管理人の専横である」との強烈な反対運動が起こっている。後に東倶知安駅(後の東京極駅)が開設されると、その駅が村の中心地と誤解して当駅で乗り換えて向かう人が多くなった等、混乱をきたしていたため、昭和15年になって村名を京極村と改正した。 | |
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F胆振線の支線:京極駅 - 脇方駅間の廃線跡。 | |
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G胆振線の支線:京極駅 - 脇方駅間の廃線跡。道路に転用されている。 | |
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H胆振線の支線:京極駅 - 脇方駅間の廃線跡。道路に転用されている。 | |
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I胆振線の支線:京極駅 - 脇方駅間の廃線跡。 | |
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J胆振線の支線:京極駅 - 脇方駅間の廃線跡。 | |
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K胆振線の支線:京極駅 - 脇方駅間の廃線跡。 | |
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L胆振線の支線:京極駅 - 脇方駅間の廃線跡。 | |
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M脇方駅(わきかたえき)は、北海道虻田郡京極町にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。駅名の由来は近隣を流れるワッカタサップ川の前半部に、当て字をしたものから。国有鉄道京極軽便線の終着駅として開業した駅で、倶知安鉱山から産出する鉄鉱石の輸送のために設置された駅である。しかし、倶知安鉱山が閉山すると輸送量は客貨とも激減し、赤字83線廃止の取り組みの中で、1970年に廃駅となった。 | |
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M日鐵鉱業倶知安鉱山跡。 | |
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M日鐵鉱業倶知安鉱山の倉庫がのこつている。 | |
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N胆振線の京極駅 - 北岡駅間の廃線跡。 | |
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O胆振線の京極駅 - 北岡駅間の廃線跡。 | |
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P北岡駅(きたおかえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡京極町字北岡にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北東側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっており、駅舎は無いが出入口附近に待合所を有した。ホーム東側の出入口は階段となっていた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。 | |
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Q寒別駅(かんべつえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡倶知安町字寒別にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はカン。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北東側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった1線は交換設備運用廃止後に線路、ホーム共に撤去されていた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の北東側に位置しホーム東側に接していた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ヌプリ・カウン・ベツ」(山のうえに入っていく川)に由来し、前半が省略されたものである。 | |
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R参郷駅(さんごうえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡倶知安町字八幡にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北東側(倶知安方面に向かって右手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっており、駅舎は無いがホームの出入口附近に簡素な待合所を有した。ホームはコンクリート製の短いもので、西側の出入口は階段となっていた。駅名の由来は当駅の所在地近辺の地名「三号線」を「もじった」ものである。 | |
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S胆振線の参郷駅 - 六郷駅間の廃線跡。 | |
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@六郷駅(ろくごうえき)は、北海道(後志支庁)虻田郡倶知安町北4条東8丁目にあった日本国有鉄道(国鉄)胆振線の駅(廃駅)である。電報略号はロク。胆振線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅名の由来は開設時の住所が倶知安町6号線であったことに由来する。 | |
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@六郷駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の南西側(倶知安方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった1線は交換設備運用廃止後に線路、ホーム共に撤去されていた。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の南西側に位置しホーム中央部分に接していた。無人化後は正面の事務室部分の窓は板材が打ち付けられ閉鎖されていた。ホームに横付けする形で国鉄の旧型客車であるオハ46形オハ46 501とヨ6000形7900番代車掌車ヨ7913の2両が静態保存・展示されている[5]。また9600形蒸気機関車9669の動輪も記念碑として展示されている。 | |
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A胆振線の六郷駅 - 倶知安駅間の廃線跡。 | |
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B胆振線の六郷駅 - 倶知安駅間の廃線跡。 | |
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C胆振線の六郷駅 - 倶知安駅間の廃線跡。 | |
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D胆振線の六郷駅 - 倶知安駅間の廃線跡。 | |
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E胆振線の六郷駅 - 倶知安駅間の廃線跡。 | |
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F胆振線の六郷駅 - 倶知安駅間の廃線跡。 | |
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G胆振線の六郷駅 - 倶知安駅間の廃線跡。 | |
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H倶知安駅(くっちゃんえき)は北海道虻田郡倶知安町北3駅名の由来は、アイヌ語の「クチャ・ウン・ナイ(猟人のいる小屋のある沢)」から。条西4丁目3にある北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の駅である。駅番号はS23。電報略号はクチ。 | |
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H倶知安駅構造は地上駅である。元々はホームは2面3線であったが、胆振線廃止に伴い駅舎側の単式ホーム(1番のりば)を撤去し、2・3番のりばのみの1面2線島式ホームとなった。その他、構内に留置線がある。ホーム間の移動は跨線橋で行なう。社員配置駅。駅舎にはみどりの窓口(営業時間:4時45分 - 21時40分)、自動券売機、旅行相談室、キヨスクがある。立ち食いそば屋が駅舎内にあったが、2010年3月限りで閉店した。駅構内では夜間滞泊が行われる。 | |
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