更新日時 2016年06月02日

廃線探索 富内線
 富内線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道勇払郡鵡川町(現むかわ町、胆振支庁管内)の鵡川駅で日高本線から分岐し、沙流郡日高町(日高支庁管内)の日高町駅までを結んでいた。当初から根室本線金山駅と結ぶ計画があったものの、国鉄再建法の施行により1984年に第2次特定地方交通線に指定され、1986年11月1日に全線が廃止された。沿線から産出されるクロム鉱や石炭、森林資源の開発のため、北海道鉱業鉄道が金山線(沼ノ端 - 邊富内)として1922年から翌年にかけて開業したもので、1924年に北海道鉄道(2代)と改称。1943年に同社の札幌線(現在の千歳線)とともに戦時買収され、富内線となった。その際、日高本線と路線が近接していた沼ノ端 - 豊城間は不要不急線として休止(事実上の廃止)され、豊城 - 鵡川間に新線を建設して日高本線と接続させている。
日本国有鉄道 富内線(廃線)
鵡川駅 - 豊城駅 - 春日駅 - 芭呂沢駅 - 旭岡駅 - 栄駅 - 豊田駅 - 穂別駅 - ((貨)深牛駅) - 富内駅 - 幌毛志駅 - 振内駅 - 仁世宇駅 - 岩知志駅 - 日高岩内駅 - 日高三岡駅 - 日高町駅
1943年休止区間:沼ノ端駅 - 北松田駅 - 静川駅 - 上厚真駅 - 入鹿別駅 - 豊城駅
 @沼ノ端駅(ぬまのはたえき)は、北海道苫小牧市沼ノ端中央3丁目にある北海道旅客鉄道(JR北海道)の駅。駅番号はH17。電報略号はハタ。Kitaca利用可能エリアであるが、カードの販売は行っていない。
 @沼ノ端駅構造は島式ホーム2面3線の地上駅。苫小牧駅管理の無人駅。自動券売機・簡易Kitaca改札機設置。1番のりば階段前にある自動券売機は札幌までの「Sきっぷ」(当日使用開始分のみ)が購入できる(2・3番のりば階段前にあるのは簡易券売機)。駅を南北に結ぶ自由通路からホームに入る構造となっており、ホームは南口(旧駅舎)側から1・2・3番のりばとなっている。1番のりばは札幌・千歳方面からの上り列車、2番のりばは岩見沢・追分方面からの上り列車が使用する。3番のりばは千歳・札幌方面・追分・岩見沢方面の下り列車が共に使用する。2・3番のりばの間にある中線は貨物列車などの待避線となっており、ホームも架線もない。
A富内線1943年休止区間の沼ノ端駅 - 北松田駅間の廃線跡。
B富内線1943年休止区間の沼ノ端駅 - 北松田駅間の廃線跡。この先廃線跡は道路に転用されている。
C富内線1943年休止区間の沼ノ端駅 - 北松田駅間の廃線跡。道路転用は一端ここまで。
C富内線1943年休止区間の沼ノ端駅 - 北松田駅間の廃線跡。稔橋は富内線の橋梁を転用。
C富内線1943年休止区間の沼ノ端駅 - 北松田駅間の廃線跡。稔橋は富内線の橋梁を転用。
D富内線1943年休止区間の沼ノ端駅 - 北松田駅間の廃線跡。廃線跡は道路(廃道)に転用。
E富内線1943年休止区間の沼ノ端駅 - 北松田駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
 F北松田駅(きたまつだえき)は、北海道勇払郡苫小牧町(現苫小牧市)にあった鉄道省富内線の鉄道駅(廃駅)である。1943年11月1日に国有化とともに日高本線と並行することから不要不急線となって休止され、そのままとなった。
G富内線1943年休止区間の北松田駅 - 静川駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
H富内線1943年休止区間の北松田駅 - 静川駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
I富内線1943年休止区間の北松田駅 - 静川駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
 J静川駅(しずかわえき)は、北海道勇払郡苫小牧町(現苫小牧市)にあった鉄道省富内線の鉄道駅(廃駅)である。1943年11月1日に国有化とともに日高本線と並行することから不要不急線となって休止され、そのまま復活しなかった。
K富内線1943年休止区間の静川駅 - 上厚真駅間の廃線跡。廃線跡は道路(廃道)に転用。
L富内線1943年休止区間の静川駅 - 上厚真駅間の廃線跡。廃線跡は道路(廃道)に転用。
M富内線1943年休止区間の静川駅 - 上厚真駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
 N上厚真駅(かみあつまえき)は、北海道勇払郡厚真村(現厚真町)にあった鉄道省富内線の鉄道駅(廃駅)である。1943年11月1日に国有化とともに日高本線と並行することから不要不急線となって休止され、そのまま復活することはなかった。
O富内線1943年休止区間の上厚真駅 - 入鹿別駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
P富内線1943年休止区間の上厚真駅 - 入鹿別駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
 Q入鹿別駅(いりしかべつえき)は、北海道勇払郡厚真村(現むかわ町)にあった鉄道省富内線の鉄道駅(廃駅)である。1943年11月1日に日高本線と並行することから不要不急線となって休止され、そのまま復活することはなかった。
R富内線1943年休止区間の入鹿別駅 - 豊城駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
S富内線1943年休止区間の入鹿別駅 - 豊城駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
 @鵡川駅(むかわえき)は、北海道(胆振総合振興局)勇払郡むかわ町末広2-1にある北海道旅客鉄道(JR北海道)日高本線の駅である。電報略号はムカ。かつては富内線の分岐駅で、1986年(昭和61年)10月まで運行されていた急行「えりも」の停車駅であり、廃止後も日高本線の列車運行において重要な位置づけをされており、当駅発着の列車もいくつか設定されている。むかわ町の中心駅である。駅名の由来は当駅の所在する地名(旧・鵡川町)より。地名は、アイヌ語の「ムッカ・ペッ」(塞がる川)に由来する。上げ潮時、鵡川の河口が砂で塞がることから付いた。そのほか同じくアイヌ語の「ムカプ」(ツルニンジンがある所)、「ムカ」(水が滲み出す)など、由来には諸説ある。
 @鵡川駅構造は相対式ホーム2面2線を有する地上駅。互いのホームは少しずれた位置にあり、駅舎側ホーム西側と対向ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡する。富内線が営業していた頃は3番線まであり、3番線に同線の列車が発着していた。富内線廃止後、3番線の線路は撤去された。
A富内線の鵡川駅 - 豊城駅間の廃線跡。
B富内線の鵡川駅 - 豊城駅間の廃線跡。廃線跡は農道に転用されている。
C富内線の鵡川駅 - 豊城駅間の廃線跡。廃線跡は農道に転用されている。
D富内線の鵡川駅 - 豊城駅間の廃線跡。築堤が残る。
E富内線の鵡川駅 - 豊城駅間の廃線跡。小型の用水路に橋台が残る。
 F豊城駅(とよしろえき)は、北海道(胆振支庁)勇払郡鵡川町字豊城(現・むかわ町)にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北東側(日高町方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。かつては相対式ホーム2面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった1線は撤去されていた。無人駅となっており、駅舎は無いがホームから少し離れた場所に木造の小さな待合所を有した。
G富内線の豊城駅 - 春日駅間の廃線跡。廃線跡は道路及び歩道に転用されている。
H富内線の豊城駅 - 春日駅間の廃線跡。廃線跡は道路及び歩道に転用されている。
 I春日駅(かすがえき)は、北海道(胆振支庁)勇払郡鵡川町字春日(現・むかわ町)にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。電報略号はスカ。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。春日駅名の由来は当駅の所在する地名より。尚、地名より先に駅名が春日を名乗ったとする説もある。 旧駅名の萠別(もえべつ)は、アイヌ語の「モイ・ペツ」(静かな川)に由来する。由来には別説もある。
 I春日駅構造は廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(日高町方面に向かって左手側)に存在した。かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった駅舎側の1線は、交換設備運用廃止後も鵡川方の転轍機及びホーム端までの線路が側線として残っていた(但し1983年(昭和58年)時点では転轍機の先、ホームに至る間の部分に車止めが設置されていた)。無人駅(簡易委託駅)となっており、有人駅時代の駅舎は改築され、日高本線豊郷駅、清畠駅と同型の駅舎となっていた。駅舎は構内の東側に位置し、ホームから少し離れていた。駅自体は完全無人であるが、駅前の商店で乗車券を販売している簡易委託駅となっていた。
J富内線の春日駅 - 芭呂沢駅間の廃線跡。道路に転用。
K富内線の春日駅 - 芭呂沢駅間の廃線跡。道路に転用。この先車の通行は不可能?
L富内線の春日駅 - 芭呂沢駅間の廃線跡。
M富内線の春日駅 - 芭呂沢駅間の廃線跡。
 N芭呂沢駅(ばろさわえき)は、北海道(胆振支庁)勇払郡鵡川村空内[2](現・むかわ町旭岡二区)にあった北海道鉄道(2代)金山線(後の日本国有鉄道(国鉄)富内線)の駅(廃駅)である。1943年(昭和18年)8月1日の北海道鉄道国有化とともに廃駅となった。駅名の由来はアイヌ語の「パロ」(河口)に由来する。鵡川町史では現・イクベツ沢川の河口にかつてユクペツコタンがあり、酋長クエックの息子であるバロウカトク(後に本田バロカトク)が著名であったためバロ沢と呼ばれるようになったとされる。
O富内線の芭呂沢駅 - 旭岡駅間の廃線跡。
P富内線の芭呂沢駅 - 旭岡駅間の廃線跡。
Q富内線の芭呂沢駅 - 旭岡駅間の廃線跡。
R富内線の芭呂沢駅 - 旭岡駅間の廃線跡。
 S旭岡駅(あさひおかえき)は、北海道(胆振支庁)勇払郡鵡川町字旭岡(現・むかわ町)にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。電報略号はアオ。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、島式ホーム1面2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。駅舎側(南側)が上りの1番線、外側(北側)が下りの2番線となっていた。そのほか2番線の外側に鵡川方から分岐した行き止まりの側線を1線有していた。かつては蒸気機関車の給水設備が設置され、木材や木炭の出荷駅であった。最終日まで無人駅扱いの運転取扱い要員のみが配置されていた駅であった。乗車券類は簡易委託化されており、廃止時まで販売が行われていた。駅舎は構内の南側に位置し、ホーム西側とを結ぶ構内踏切で連絡した。かつては駅弁も販売されていたという。
@富内線の旭岡駅 - 栄駅間の廃線跡。ロックシェッドが残る。
@富内線の旭岡駅 - 栄駅間の廃線跡。ロックシェッドが残る。
A富内線の旭岡駅 - 栄駅間の廃線跡。ロックシェッドが残る。
B富内線の旭岡駅 - 栄駅間の廃線跡。ロックシェッドが残る。
C富内線の旭岡駅 - 栄駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
D富内線の旭岡駅 - 栄駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
 E栄駅(さかええき)は、北海道(胆振支庁)勇払郡穂別町字栄(現・むかわ町)にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。電報略号はサエ。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(日高町方面に向かって左手側)に存在した。かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった駅舎側の1線は、交換設備運用廃止後も鵡川方の転轍機及びホーム端までの線路が側線として残っていた(但し1983年(昭和58年)時点では転轍機の先、ホームに至る間の部分に車止めが設置されていた)。無人駅(簡易委託駅)となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の北側に位置した。駅名の由来は当駅の所在する地名より。旧駅名の似湾(にわん)は、アイヌ語の「ニ・アン・ペツ」(木の生えた川)に由来する。
F富内線の栄駅 - 豊田駅間の廃線跡。
G富内線の栄駅 - 豊田駅間の廃線跡。廃線跡は林道に転用。
H富内線の栄駅 - 豊田駅間の廃線跡。廃線跡は林道に転用。
I富内線の栄駅 - 豊田駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。
J富内線の栄駅 - 豊田駅間の廃線跡。
 K豊田駅(とよたえき)は、北海道(胆振支庁)勇払郡穂別町字豊田(現・むかわ町)にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。電報略号はヨタ。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、島式ホーム(片面使用)1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北西側(日高町方面に向かって左手側)に存在した。かつては島式ホーム1面2線を有する列車交換可能な交換駅であった。使われなくなった駅舎側の1線は、交換設備運用廃止後も日高町方の転轍機及びホーム近くまでの線路が側線として残っていた(但し1983年(昭和58年)時点では転轍機の先の部分に車止めが設置されていた)。無人駅となっていたが、有人駅時代の駅舎が残っていた。駅舎は構内の北西側に位置した。駅名の由来は当駅の所在する地名より。旧駅名の杵臼(きなうす)は、アイヌ語の「キナ・ウシ」(ガマやスゲなどの群生するところ)に由来する。
L富内線の豊田駅 - 穂別駅間の廃線跡。杵白川橋梁が残る。単線下路スルーガーター橋。
M富内線の豊田駅 - 穂別駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用。開拓沢川の新興橋。
N富内線の豊田駅 - 穂別駅間の廃線跡。道路脇の築堤が廃線跡。
O富内線の豊田駅 - 穂別駅間の廃線跡。小型の橋台が残る。
 P穂別駅(ほべつえき)は、かつて北海道(胆振支庁)勇払郡穂別町字穂別(現・むかわ町)にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。電報略号はホツ。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(日高町方面に向かって左手側)に存在した。そのほかホームを有さない副本線を1線、本線日高町方の構内端部分から分岐し副本線中間部分に合流する側線、副本線鵡川方から分岐し日高町方に延びる行き止まりの側線、本線日高町方のホーム手前から駅舎側に分岐し駅舎東側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を各1線有していた。職員配置駅となっており、駅舎は構内の北側に位置しホーム中央部分に接していた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ポン・ペッ」(pon-pet 小さな川)に由来するという説がある。門別や登別といった地名と同じく、アイヌ語の「ペッ」(pet 川)が含まれている。
Q富内線の穂別駅 - 富内駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
R富内線の穂別駅 - 富内駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
S富内線の穂別駅 - 富内駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
@富内線の穂別駅 - 富内駅間の廃線跡。梅ノ沢川に架かる多村橋。
A富内線の穂別駅 - 富内駅間の廃線跡。フカウシ沢川に架かる北上橋。
B富内線の穂別駅 - 富内駅間の廃線跡。
 C富内線の穂別駅 - 富内駅間の廃線跡。構内には側線を改造した、宇宙飛行士の毛利衛のアイデアによる銀河鉄道をイメージした、レールが空に向かっている作品が展示されている。
 D富内駅(とみうちえき)は、北海道(胆振支庁)勇払郡穂別町字富内(現・むかわ町)にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。富内駅名の由来は当駅の所在する地名より。旧駅名の辺富内(へとない)は、アイヌ語の「ケト・ウン・ナイ」(毛皮の干し枠のある川)、或いは「ペトムナイ」(股になった川)など、由来には諸説ある。さらに「辺富内」から「辺」を除き、読み方を変えて「とみうち」になった。
 D富内駅構造は廃止時点で、単式ホーム・島式ホーム複合型2面3線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。互いのホームは駅舎側ホーム中央部分と島式ホーム東側を結んだ構内踏切で連絡した。駅舎側単式ホーム(南側)が上りの1番線、島式ホーム駅舎側が下りの2番線、同外側が上下共用の当駅折り返し列車用(番線表示なし)となっていた。そのほか1番線の鵡川方から駅舎側に分岐し駅舎西側のホーム切欠き部分の貨物ホームへの貨物側線を1線有していた。最終日まで無人駅扱いの運転取扱い要員のみが配置されていた駅であった。乗車券類は簡易委託化されており、廃止時まで販売が行われていた。駅舎は構内の南側に位置しホーム中央部分に接していた。
 Dホームに横付けする形で[4]国鉄の旧型客車であるスハ45形とオハフ33形の2両が静態保存・展示されている。客車は富内線の写真パネル展示場としても利用されている。
D富内駅跡には他の駅の駅名標がある。 D穂別駅の駅名標。
D栄駅の駅名標。 D豊田駅の駅名標。
E富内線の富内駅 - 幌毛志駅間の廃線跡。レールが残る。
F富内線の富内駅 - 幌毛志駅間の廃線跡。踏切の信号機とレールが残る。
G富内線の富内駅 - 幌毛志駅間の廃線跡。踏切の看板が残る。
H富内線の富内駅 - 幌毛志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
I富内線の富内駅 - 幌毛志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
J富内線の富内駅 - 幌毛志駅間の廃線跡。幌毛志駅側の坑口が見える。
K富内線の富内駅 - 幌毛志駅間の廃線跡。ポロケシオマップ川にコンクリートの橋台が残る。
 L幌毛志駅(ほろけしえき)は、北海道(日高支庁)沙流郡平取町字幌毛志にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(日高町方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅で駅舎は無いが、ホーム中央部分に待合所を有していた。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「ホロケゥ・ウシ」(狼のいるところ)、或いは「ポロ・サル・ケシ」(葦原の末端)など、由来には諸説ある。
M富内線の幌毛志駅 - 振内駅間の廃線跡。
N富内線の幌毛志駅 - 振内駅間の廃線跡。
 O振内駅(ふれないえき)は、北海道(日高支庁)沙流郡平取町振内にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「フレ・ナイ」(赤い川)に由来する。
 O振内駅構造は廃止時点で、島式ホーム1面2線を有する地上駅で、列車交換可能な交換駅であった。駅舎側(南側)が上り線、外側(北側)が下り線となっていた(番線表示なし)。そのほか上下本線それぞれの外側に、安全側線を持った側線を各1線ずつ有し、上り線側の側線の駅舎傍には貨物用の短い単式ホームを有した。職員配置駅となっており、駅舎は構内の南側に位置し、ホーム東側とを結ぶ構内踏切で連絡した。
O仁世宇の駅銘板。 O幌毛志の駅銘板。
O岩知志の駅銘板。  Oスハ45形スハ45 37とスハフ42形スハフ42 519の2両も静態保存・展示されている。
 O旧ソ連向けに新製された、国鉄D51形蒸気機関車と同型機であるD51-23号機がサハリン(旧・樺太)から戻って来て静態保存・展示されている。
P富内線の振内駅 - 仁世宇駅間の廃線跡。この先廃線跡の痕跡が残る。
Q富内線の振内駅 - 仁世宇駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
R富内線の振内駅 - 仁世宇駅間の廃線跡。
 S仁世宇駅(にせうえき)は、北海道(日高支庁)沙流郡平取町字岩知志にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の南側(日高町方面に向かって右手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅で駅舎は無いが、ホーム東側出入口附近にホームに屋根が掛けられた形の待合所を有していた。駅名の由来は当駅の所在地近辺の地名より。地名は、アイヌ語の「ニセウ」(ドングリ)に由来する。当駅所在地の集落名は「瑞穂」であったが、同名の地名が各所にあるという理由により近くの集落名を駅名に採用したという。
@富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
A富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
B富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
C富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
 D岩知志駅(いわちしえき)は、北海道(日高支庁)沙流郡平取町字岩知志にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。電報略号はチシ。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の北側(日高町方面に向かって左手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。無人駅となっていたが、有人駅時代の小さな駅舎が残っていた。駅舎は構内の西側に位置し、ホーム西側とを結ぶ通路で連絡した。駅名の由来は当駅の所在する地名より。地名は、アイヌ語の「イワ・チシ」(山の中の窪み)に由来する。
E富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
F富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。
G富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
H富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。廃線跡の痕跡が残る。
I富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。隧道が残る。
I富内線の仁世宇駅 - 岩知志駅間の廃線跡。隧道が残る。
 J日高岩内駅(ひだかいわないえき)は、北海道(日高支庁)沙流郡日高町字三岩にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の南側(日高町方面に向かって右手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅で駅舎はないが、ホーム西側出入口附近にホームに屋根が掛けられた形の待合所を有していた。駅名の由来は当駅の所在地近辺の地名に旧国名の「日高」を冠する。旧国名が冠されたのは岩内線岩内駅に「遠慮した」と考えられるという。
K富内線の日高岩内駅 - 日高三岡駅間の廃線跡。
 L日高三岡駅(ひだかみつおかえき)は、北海道(日高支庁)沙流郡日高町字三岩にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、単式ホーム1面1線を有する地上駅であった。ホームは線路の東側(日高町方面に向かって右手側)に存在した。転轍機を持たない棒線駅となっていた。開業時からの無人駅で駅舎はないが、ホーム北側出入口附近にホームに屋根が掛けられた形の待合所を有していた。駅名の由来は当駅の所在地近辺の地名に旧国名の「日高」を冠する。旧国名が冠されたのは小海線三岡駅と重複するためと考えられるという。
M富内線の日高三岡駅 - 日高町駅間の廃線跡。
N富内線の日高三岡駅 - 日高町駅間の廃線跡。
 O日高町駅(ひだかちょうえき)は、北海道(日高支庁)沙流郡日高町字日高にあった日本国有鉄道(国鉄)富内線の駅(廃駅)である。電報略号はヒカ。富内線の廃線に伴い1986年(昭和61年)11月1日に廃駅となった。駅構造は廃止時点で、島式ホーム1面2線を有する地上駅で、富内線の終端駅であった[1]。駅舎側(東側)、外側(西側)共に上下共用(番線表示なし)となっていた。両線はホーム端で収束していた。そのほか旅客の本線それぞれの外側に副本線を各1線ずつ有し、駅舎側の副本線の駅舎傍には貨物用の単式ホームを有し途中で分岐し、本線に合流するほか、行き止まりの側線ともなっていた。職員配置駅となっており、駅舎は構内の東側に位置し、ホーム北側とを結ぶ構内踏切で連絡した。駅舎は鉄骨ブロック建て平屋の、明るく広い近代的な建物であった。駅前には左手側に公園が設置され、樹齢1,500年のイチイの巨木、池、日高町特産の銘石による庭石が配置されていた。予定では当駅から延伸し、占冠駅を経由して根室本線金山駅附近に接続することになっていたが、延伸部分の新線建設は凍結中で、そのまま廃線となった。貨物列車は木材の搬出が主体であった。駅名の由来は当駅の所在する地名より。
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出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『むかわ町・平取町』を掲載」