更新日時 2022年01月30日
茅沼炭鉱軌道は、かつて北海道後志支庁管内古宇郡泊村の茅沼炭鉱で運行されていた鉱山鉄道。後に索道を経由する日本国有鉄道(国鉄)岩内線岩内駅までの茅沼炭鉱専用鉄道が運行されたが敷設ルートは全く異なる。茅沼炭鉱軌道は日本で最初の鉄道といわれている。1856年(安政3年)、茅沼にて石炭が偶然発見された。開港まもない箱館にとって、欧米の蒸気船用の石炭の確保は重要であった。直ちに箱館奉行所は茅沼にて石炭の調査を開始する。1864年(元治元年)、箱館奉行所はアメリカ人技師を招き、茅沼炭鉱の採掘を開始した。そのような中、鶴嘴ともっこといった人力による採掘運搬を見て、イギリス人技師エラスムス・ガウワーが、効率化のために鉄道(トロッコ)の建設を提案。1866年(慶応2年)には測量が開始され、建設が始まる。しかし、1868年(明治元年)からの戊辰戦争の影響により建設は中止される。やがて建設は江戸幕府から明治政府に受け継がれ、1869年(明治2年)に開通する。1868年9月に現地を訪れたイギリス外交官アーネスト・サトウは、海岸から渓谷まで2マイルに枕木とその上の木製レールが敷かれていたと書き残している。開業したのは、茅沼炭鉱坑口 - 茅沼港(積み出し港)の2.8km。鉄道とはいっても、仮設軌道やトロッコに近い。記録によれば、枕木は約150mm×150mm×1500mmの角材を用い、約900mm間隔で並べていた。レールは枕木と同じ寸法の角材に、補強用の幅15mmの鉄板を取り付けたものを使用していた。軌間は約1,050mmであった。貨車(トロッコ)は大型と小型のものがあった。茅沼炭鉱坑口から積み出し港までは緩やかな傾斜であることを利用し、茅沼炭鉱坑口→積み出し港は、貨車の重さを利用して坂を下らせた。制御のため、人が1名乗車していたという。積み出し港から茅沼炭鉱坑口へは牛、馬の力、場合によっては人力で動かしたという。小型貨車は、茅沼炭鉱坑口に滑車を設置し、2台の貨車を長いロープで繋ぎ、井戸の釣瓶のように2台を交互に動かす方法をとっていたという(日本最初期のインクライン)。貨車は4トン積めた。廃藩置県前、北海道の分領支配で米沢藩が同地を任されており、馬廻組の山田民弥(たみや)と絵図方の浜崎八百寿(はまざきやおす)が1870年(明治3年)3月上旬に滞在。山田の『恵曽谷日誌』には、浜崎の描いた絵入りでこの様子が記録されている。 | |
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@茅沼炭鉱の石炭の積出港の石垣跡。 | |
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@茅沼炭鉱の石炭の積出港の石垣跡。 | |
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@茅沼港からは艀で海岸から運搬船に積み出していた。 | |
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@茅沼炭鉱軌道跡。 | |
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A茅沼炭鉱軌道跡。 | |
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A茅沼炭鉱軌道跡脇の石碑。 | |
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B茅沼炭鉱軌道跡。この辺が貯炭場だったのかも知れない。 | |
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C茅沼炭鉱軌道跡。 | |
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昭和30年代の茅沼地区 出典: 岩内町郷土資料館 | |
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D茅沼炭鉱軌道跡。 | |
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E茅沼炭鉱軌道跡。 | |
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F茅沼炭鉱軌道跡。 | |
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G茅沼炭鉱積出場跡。 | |
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G茅沼鉱山泊線の看板。 | |
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茅沼炭鉱。 出典: 岩内町郷土資料館 | |
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茅沼炭鉱軌道図 出典: 岩内町郷土資料館 | |
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