更新日時 2009年12月31日

 1921年(大正10年)8月1日 - 東海道本線の馬場駅(現在の膳所駅) - 京都駅間が新ルートに改められた際に山科駅が開業。客貨取扱を開始。 新逢坂山トンネル・東山トンネルの開通によって現在の大津駅 - 京都駅間のルートが完成し、それに伴い開設。それまでは、馬場 - 大谷 -(旧)山科 - 稲荷 - 京都間のルートが東海道本線であった。旧線は新線開業と同時に廃止となった(稲荷 - 京都間は奈良線に転用)。 なお旧線に存在した(旧)山科駅は、京都 - 大津間鉄道のうち、京都 - 大谷間が開業した1879年(明治12年)8月18日に開設された。現行の駅のかなり南方にあり、現在は名神高速道路が通っている(地下鉄東西線小野駅付近)。徳富蘆花の『不如帰』や、萩原朔太郎の『夜汽車』でも描かれた。
東海道線旧線(1921年廃止)
膳所駅 (0.0km) - 大谷駅 (3.06km) - 大塚信号所 (6.12km) - 山科駅 (8.53km) - 稲荷駅 (13.36km) - 京都駅 (16.25km) ※稲荷 - 京都間は現在の奈良線。
 @大津駅は過去に何度か移転しており、現在は3代目になる。1921年完成の新逢坂山トンネル・東山トンネルを経由する現在の線路になって新設された駅である。国道1号線(国道1号線の部分が旧線と思われる)
@国道1号線を渡るトンネルと国道1号線築堤脇の道。
A国道1号線と京阪京津線。踏切左側の煉瓦が旧東海道線の橋台跡。
 A「逢坂」日本書紀によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。
 Aこの京都駅〜馬場駅間は両側共に25‰の急勾配区間であり、輸送上のネックとなったために、東海道本線の中でも優先して複線化が計画された。1897年3月5日大谷〜京都間下り線増設、1898年4月15日馬場〜大谷間上り線増設により上り隧道が開通。しかし、勾配を緩和した東山トンネルと新逢坂山トンネルが開通し、同区間の新線が1921年8月1日の開業とともに逢坂山隧道は鉄道トンネルとしての使命を終えた。が、太平洋戦争中の昭和20年・B29の爆撃に対しての工場疎開としてトンネル内に工作機械が置かれ航空機部品工場として敗戦まで使用された。現在はトンネル西口は「旧大谷駅」と共に名神高速道路の盛り土の下に埋まり、東口は京都大学がトンネル内に設置した地震計への通路となっている。
 A逢坂山トンネル(おうさかやまとんねる)は、いずれも、滋賀県(大津市)と京都府(京都市山科区)の間にある逢坂山に掘削されたトンネルである。なお、トンネル自体は滋賀県内に位置する。逢坂山には古代より逢坂関が置かれたが、京都のすぐ東方に設置され、東山道・北陸道が通過する逢坂関は交通の要衝であり、また平安時代以降、たびたび和歌に詠まれる名勝でもあった。
 A「逢坂山隧道」日本で掘削された最初の山岳隧道(トンネル)で、外国人技師に頼らず日本人だけで完成させた。工事の総監督は飯田俊徳が、現場の工事監督は国沢能長が務めた。
 A1877年2月6日に京都駅〜大阪駅〜神戸駅間が開業。その後敦賀まで延伸する計画があったが、西南戦争等の影響でなかなか着工できないでいた。1878年8月21日にようやく着工、この時京都と大津を一直線で結ぶと長大トンネルを2つも掘削しなければならなかった。さらに調査で東山は地質が不良だと判明し、東山を避ける形で現在の奈良線を通って南下し、稲荷駅経由で着工することとなった。1879年8月18日京都駅〜稲荷駅〜大谷駅間が仮開業。大谷〜大津間は逢坂山に隧道を掘らざるを得ないので大谷〜大津間を最短で結ぶ664.76mが掘削されることになった。これが逢坂山隧道である。1878年10月1日に東口、同年12月5日に西口から掘削開始。1880年6月1日に完成し同年7月15日に京都駅〜馬場駅(現・膳所駅)〜大津駅(現・京阪線浜大津駅付近)が全通した。
 B逢坂関(おうさかのせき)は、山城国と近江国の国境となっていた関所。東海道と東山道(後の中山道)の2本が逢坂関を越えるため、交通の要となる重要な関であった。その重要性は、平安時代中期(810年)以後には、三関の一つとなっていた事からも見てとれる。なお、残り二関は不破関と鈴鹿関であり、平安前期までは逢坂関ではなく愛発関が三関の一つであった。大化2年(646年)に初めて置かれた後、延暦14年(795年)に一旦廃絶された。その後、平安遷都にともなう防衛線再構築などもあり、斉衡4年(857年)に上請によって同じ近江国内の大石および龍花とともに再び関が設置された。寛平7年(895年)12月3日(12月26日)の太政官符では「五位以上及孫王」が畿内を出ることを禁じており、この中で会坂関を畿内の東端と定義している。関はやがて旅人の休憩所としての役割なども果すようになり、天禄元年(970年)には藤原道綱母が逢坂越を通った際に休息した事が蜻蛉日記に記されている。逢坂関は鎌倉時代以降も京都の東の要衝として機能し、南北朝時代以降には園城寺が支配して関銭が徴収されるようになった。しかし、貞治6年(1367年)に園城寺の衆徒が南禅寺所轄の関を破却したため、侍所頭人の今川貞世によって四宮川原関や松坂峠関(ともに現・京都市山科区)とともに焼払われた。その後、逢坂関は再設されたが、寛正元年(1460年)に伊勢神宮造替のために大津に新関が設置された際には、大谷・逢坂の両関が一時廃されており、経済上の理由から室町幕府が園城寺の関を支配下に置こうとしたと考えられる。なおその後も逢坂関は存在し、応永25年(1418年)に足利義持が伊勢神宮に参詣した際に通過したとの記録がある。
 B「関蝉丸神社」蝉丸は平安時代の琵琶の名手で、今昔物語や謡曲「蝉丸」によると、目が不自由であったにもかかわらず、音曲の神として崇められました。彼が詠んだ「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」という和歌はあまりにも有名です。神社の入口に「せきのしみず」という石標があり、拝殿の横には時雨灯籠(しぐれとうろう)と呼ばれる六角形の灯籠があって、風情に満ちています。また、本殿裏の細い山道の入ロに、絶世の美女といわれた小野小町塚があります。
 B「車石」大津と京都を結ぶ東海道は、米を始め多くの物資を運ぶ道として利用されてきました。江戸時代中期の安永8年(1778年)には牛車だけでも年間15894輌の通行がありました。この区間は、大津側に逢坂峠、京都側に日ノ岡峠があり、通行の難所でした。京都の心学者脇坂義堂は文化2年(1805年)に1万両の工費で、大津八丁筋から京都三条大橋にかけて約12qの間に牛車専用通路として車の轍を刻んだ花崗岩切石を敷き並べ牛車の通行に役立てました。これを「車石」と呼んでいます。
 B「逢坂山トンネル跡」明治13年日本に技術で初めてつくった旧東海道線、逢坂山トンネルの西口は名神高速道路建設に当たりこの地下18mの位置に埋没したここに当時の時代の推移を思い碑を建てて記念する。
B旧東海道線の大谷駅はこの辺に有った。
B京阪電車大谷駅。
B京阪電車。
C京阪電車の線路沿いに旧東海道線が走っていた。
 C「大津算盤の始祖・片岡庄兵衛」江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は慶長17年(1612年)片岡庄兵衛が、明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里塚)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家のご子孫が住まわれていた。
D40‰の勾配。京阪電車とこの部分で分かれていく。
D名神高速道路脇。(旧東海道線の用地は名神高速道路に転用されている)
E大塚変電所が有るのでこの辺が旧大塚信号所周辺?
E名神高速の旧大塚信号所周辺?
E東海道線の旧線は名神高速道路に用地が転用されている。
F名神高速道路の京都橋大学周辺。
F名神高速道路山科バス停(山科警察署前)は閉鎖されている様だ。
F名神高速道路の起工に地が有る部分に石碑がある。(旧山科駅跡が名神高速道路起工地)
 F「旧東海道線山科駅跡」京都〜大津間の鉄道は、明治12年8月に京都〜大津間が開業し、その途中駅として山科駅は開設されました。その後、新逢坂山トンネルと東山トンネルの開通により、大正10年(1921年)に現在のJR琵琶湖線(東海道本線)のルートへ変更されるまで、山科駅は現在のJR山科駅よりも南方のこの地にありました。尚、旧線跡の大部分は名神高速道路として生まれ変わっています。
F大正5年当時の山科駅。 F旧東海道線と名神高速道路相関図。
 F「名神起工の地」昭和38年7月16日、日本最初の高速道路として名神高速道路が開通しました。工事は昭和33年10月19日、京都山科で起工しましたが、それを記念する「起工の地」の碑が、この場所の高速道路の中央分離帯内に設置されています。平成20年工事着工から50周年・開通から45周年を記念しこの地に「起工の地」を再現しました。
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廃線探索 東海道線旧線(膳所-稲荷)