更新日時 2017年03月18日

廃線探索 野上電気鉄道
 野上電気鉄道株式会社(のがみでんきてつどう、のかみでんきてつどう)は、和歌山県にかつて存在した鉄道会社である。和歌山県海南市の日方駅から同県海草郡野上町(現在の紀美野町)の登山口駅までを結ぶ鉄道路線である野上線の運営や、同線沿線地域を中心にバス事業を行っていた。野上電鉄、野鉄と呼ばれ、現在はその名をかつての関連会社であった野鉄観光、野鉄商事に残す。監督官庁認可の正式名称では「野上」の読みは「のがみ」だが、沿線においては地名と同じく「のかみ」と発音する。地場資本による経営で大手私鉄の傘下に入らず独立した経営を行っていたが、モータリゼーションの進展による乗客の減少から経営難に陥った。と同時に特産品の輸送は次第にトラック輸送に置き替えられるようになり、1966年10月1日小口扱い貨物を、1971年6月1日 車扱い貨物をそれぞれ廃止した。そのため1971年に全線廃止の方針を打ち出し、第一段階として1973年に沖野々 - 登山口間の廃止を国に申請している。ところが直後に起こった第一次オイルショックにより鉄道見直しの気運が高まったことを受け、1975年に一旦は廃止申請を撤回し、国や海南市など沿線自治体の補助金を受けることで延命した。とはいえ、モータリゼーションの進展は止まる事無く、この頃から利用客は沿線の高校への通学生と工場の従業員などしか利用されなくなったため、1983年に交換駅である紀伊野上駅の日中時間帯無人化による運行本数削減を実施した。鉄道施設は局部的には近代化整備を実施したものの、全体として老朽化が激しい状態であったが、幸いにも列車運転に支障をきたす重大な故障は廃線まで発生しなかった。1994年に野上線を廃止し、バス事業も海南市の運送会社大十株式会社に譲渡して会社は解散した。
駅一覧
日方駅 - 連絡口駅 - 春日前駅 - 幡川駅 - 重根駅 - 紀伊阪井駅 - 沖野々駅 - 野上中駅 - 北山駅 - 八幡馬場駅 - 紀伊野上駅 - 動木駅 - 龍光寺前駅 - 下佐々駅 - 登山口駅
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 @海南駅(かいなんえき)は、和歌山県海南市名高にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)紀勢本線(きのくに線)の駅。海南駅構造は島式ホーム2面4線で、待避設備を有する高架駅である。駅舎は高架下に位置し近代的である。みどりの窓口が設置されている。駅構内はエスカレータ、エレベータが設置されている。和歌山方面からの折返し列車は配線の都合上1番のりばで折返す。
 @日方地域に最初に出来た駅はこの駅ではなく野上軽便鉄道(後の野上電気鉄道)の「日方駅」(ひかたえき)である。「日方駅」は野上軽便鉄道の日方駅から野上駅(後に紀伊野上駅に改称)までの開通と共に大正5年に開業した。日方地域に次にできたのがこの駅で、旧来からの「日方駅」とは場所が違う。この駅は1924年(大正13年)2月、国有鉄道・紀勢西線の最初の開通区間として和歌山駅(現在の紀和駅)から東和歌山駅(現在の和歌山駅)を経て箕島駅までが開通したと同時に、紀勢西線の日方町駅(ひかたまちえき)として開業した。「日方駅」は当駅の北東に位置していた。国鉄側からの要請で「日方駅」の構内に当駅への「連絡口」専用のホームが設けられたのは後のことである。「日方駅」のホームに入る手前で列車はこのホームに停車、国鉄線に乗り換える人が下車した。「日方町駅」はその後1934年(昭和9年)に海南市が誕生したのを受け、1936年(昭和11年)に「海南駅」(かいなんえき)に改称、1959年(昭和34年)には今の紀勢本線が全通し亀山駅と和歌山駅(現在の紀和駅)の間が紀勢本線とされている。「日方駅」は野上電気鉄道が1994年(平成6年)に全線廃止となり姿を消した。野上電鉄が存続していれば「日方駅」を当駅に統合し高架化される予定であったが、実現しなかった。
 A日方駅(ひかたえき)は、和歌山県海南市日方にあった、野上電気鉄道野上線の駅である。同線の起点で、構内に車庫、駅前に同社本社を擁した、同社の業務の中心となっていた駅。日方駅の開業が国鉄紀勢本線海南駅開業よりも8年前であったため、同線との連絡に際しては乗り換え専用乗降場の連絡口駅を設けて対応していた。駅構造は海南駅の北東にある単式ホーム1面1線の地上駅で、ホーム・駅舎は線路の東側に設置されていた。有人駅であり、切符販売窓口及び自動券売機が設置されていた。改札口は駅舎にある1か所のみで、出口は駅舎の北側に向かって1か所あった。駅の西側(紀勢本線の線路との間)に車両留置用の側線、東側には側線と検車庫があった。構内の南、線路の西側に連絡口駅のホームがある。線路は連絡口駅の先、海南駅の東側で東向きにカーブしていた。駅構内にあるキロポストについては0.03と表示されていた。これは開業当時は野上電気鉄道本社の前にホームがあったためである。連絡口駅は日方駅の構内の南側、線路の西側に設置された単式ホーム1面1線の地上駅。日方駅から80m先のところに位置した。木造駅舎もあり、独立した駅名標が設置されていたが、正規の駅ではない。海南駅とは手動の構内踏切のある連絡通路で連絡していた。乗り換え専用の改札口での切符の回収や連絡通路にあった手動の構内踏切の操作は、野上電気鉄道の社員が派遣され行われていた。なお、日方駅の構内であるため原則として日方駅 - 連絡口駅間の乗車はできず、春日前駅以遠との運賃は日方駅を起点として計算されていた。
A連絡口駅を過ぎると小さな小川に鉄橋が残っている。
B野上電気鉄道の廃線跡に僅かだが路盤が残る。
B野上電気鉄道の日方駅(連絡口駅) - 春日前駅間の廃線跡。
C野上電気鉄道の日方駅(連絡口駅) - 春日前駅間の廃線跡。
C野上電気鉄道の日方駅(連絡口駅) - 春日前駅間の廃線跡。
D野上電気鉄道の日方駅(連絡口駅) - 春日前駅間の廃線跡。
 E野上電気鉄道の日方駅(連絡口駅) - 春日前駅間の廃線跡。地元の高校生が書いた絵が展示されている。
 F野上電気鉄道の日方駅(連絡口駅) - 春日前駅間の廃線跡。地元の高校生が書いた絵が展示されている。
 F春日前駅(かすがまええき)は、かつて和歌山県海南市大野中にあった野上電気鉄道野上線の駅。日方駅を出て最初の駅であった(連絡口駅は正規の駅でないため除く)。駅構造は片面ホーム1面1線。構内に便所があった。駅の照明が白熱電球のみであった(殆どの野上線の駅はそうだった)。
 F廃線後、海南駅付近から沖野々駅までの線路跡はサイクリングロードとなり、春日前駅の駅舎やホーム跡は「春日前広場」という休憩場所となっている。
G野上電気鉄道の春日前駅 - 幡川駅間の廃線跡。地元の高校生が書いた絵が展示されている。
H野上電気鉄道の春日前駅 - 幡川駅間の廃線跡。
I野上電気鉄道の春日前駅 - 幡川駅間の廃線跡。
J野上電気鉄道の春日前駅 - 幡川駅間の廃線跡。地元の高校生が書いた絵が展示されている。
K野上電気鉄道の春日前駅 - 幡川駅間の廃線跡。地元の高校生が書いた絵が展示されている。
 K幡川駅(はたがわえき)は、かつて和歌山県海南市幡川にあった野上電気鉄道野上線の駅。廃線後、幡川駅や線路跡はサイクリングロードとなった。
 K幡川駅構造は片面ホーム1面1線の無人駅。建物はトタン板製の待合室のみの駅で、ホームには桜が2本あった。野上電気鉄道の駅で一番乗降客が少なかった。
L野上電気鉄道の幡川駅 - 重根駅間の廃線跡。
M野上電気鉄道の幡川駅 - 重根駅間の廃線跡。地元の高校生が書いた絵が展示されている。
N野上電気鉄道の幡川駅 - 重根駅間の廃線跡。地元の高校生が書いた絵が展示されている。
O野上電気鉄道の幡川駅 - 重根駅間の廃線跡。
P野上電気鉄道の幡川駅 - 重根駅間の廃線跡。
Q野上電気鉄道の幡川駅 - 重根駅間の廃線跡。
R野上電気鉄道の幡川駅 - 重根駅間の廃線跡。廃線跡は家が建ち一旦遮断される。
S野上電気鉄道の幡川駅 - 重根駅間の廃線跡。再び廃線跡が続く。
S野上電気鉄道の幡川駅 - 重根駅間の廃線跡。
 @日方川に架かる新重根橋の所に勾配標の柱が残る。最初はキロポストかと思ったが、よく見ると斜めに勾配が書かれていた板の跡が見える。
 A重根駅(しこねえき)は、かつて和歌山県海南市重根にあった野上電気鉄道野上線の駅。交換駅であった。廃線後、駅や線路跡は、海南市健康ロードとなっている。
 A重根駅構造は相対式ホーム2面2線。終日駅員配置駅で、ほとんどの列車が交換し、通票交換が行われていた。幡川寄りに側線があり、長物車が留置されていた。構内には野上電気鉄道の倉庫(保線用資材倉庫)があった。元は変電所だった。
B椎原川に架かる椎原橋。野上電気鐵道の橋台の跡が残る。
C野上電気鉄道の重根駅 - 紀伊阪井駅間の廃線跡。
D野上電気鉄道の重根駅 - 紀伊阪井駅間の廃線跡。
E野上電気鉄道の重根駅 - 紀伊阪井駅間の廃線跡。跨線橋が残る。
E野上電気鉄道の重根駅 - 紀伊阪井駅間の廃線跡。跨線橋が残る。
E野上電気鉄道の重根駅 - 紀伊阪井駅間の廃線跡。跨線橋より撮影。。
F野上電気鉄道の重根駅 - 紀伊阪井駅間の廃線跡。
G野上電気鉄道の重根駅 - 紀伊阪井駅間の廃線跡。
 H紀伊阪井駅(きいさかいえき)は、かつて和歌山県海南市阪井にあった野上電気鉄道野上線の駅。駅構造は片面ホーム1面1線。木造駅舎があったが、廃線時は無人駅。駅があった阪井地区は開業当時から棕櫚産業を中心に発展し、1907年に阪井郵便局が開局して1926年には郵便局内の電話が開通するなど、この地域の中心であった。
I野上電気鉄道の紀伊阪井駅 - 沖野々駅間の廃線跡。
J野上電気鉄道の紀伊阪井駅 - 沖野々駅間の廃線跡。
K野上電気鉄道の紀伊阪井駅 - 沖野々駅間の廃線跡。
L野上電気鉄道の紀伊阪井駅 - 沖野々駅間の廃線跡。
M野上電気鉄道の紀伊阪井駅 - 沖野々駅間の廃線跡。亀ノ川に架かる阪井小橋。
N野上電気鉄道の紀伊阪井駅 - 沖野々駅間の廃線跡。
O野上電気鉄道の紀伊阪井駅 - 沖野々駅間の廃線跡。
P野上電気鉄道の紀伊阪井駅 - 沖野々駅間の廃線跡。
 Q沖野々駅(おきののえき)は、かつて和歌山県海南市沖野々にあった野上電気鉄道野上線の駅。1973年の廃止申請の時は、ここから登山口駅間が対象となっていた。駅構造は片面ホーム1面1線。駅舎があったが、廃線時は無人駅。廃線後、沖野々駅以東は国道370号の拡幅工事により跡形もない。
R野上電気鉄道の沖野々駅 - 野上中駅間の廃線跡。
 S貴志川(きしがわ)に架かる野上新橋。(旧貴志川橋梁)かつて野上電気鉄道が野上中駅〜登山口駅間で並行していたが、1994年(平成6年)4月1日に廃止された。廃止要因の一つに、沖野々駅〜野上中駅間に架かる貴志川橋梁の老朽化があった。
@野上電気鉄道の沖野々駅 - 野上中駅間の廃線跡。
 A野上中駅(のかみなかえき)は、かつて和歌山県海南市野上中にあった野上電気鉄道野上線の駅。現在は海南市であるが、開業当時は中野上村であった。ただし駅名は同村名によるものでは無く、町村制施行以前にこの地に存在した野上中村による。野上中村と中野上村。極めてよく似た村名の為注意が必要。駅構造は片面ホーム1面1線。木造駅舎があったが、廃線時は無人駅であった。開業当時から駅前に牛市場があったが、1975年頃から衰退し開催されなくなった。駅を含めた周辺は更地と成り面影はない。現在はかつての便所小屋付近に海南市消防団野上中分団資材倉庫が建つ。
B野上電気鉄道の野上中駅 - 北山駅駅間の廃線跡。
 C北山駅(きたやまえき)は、かつて和歌山県海南市野上中にあった野上電気鉄道野上線の駅である。駅構造は廃線時は無人駅だった。相対式ホーム2面2線だったが、列車交換を紀伊野上駅で行うようになったため、廃線時は駅舎側の一面しか利用していなかった。しかし、廃線時まで線路、ホームとも残っており、線路は貨車の留置に使用されていた。小さな木造駅舎が残っていた。出札口や事務室の窓はすべて板で封鎖され待合室としての役目しか果たしていなかった。1980年代の一日の乗降客数は90人弱であった。
D野上電気鉄道の北山駅 - 八幡馬場駅間の廃線跡。
 E八幡馬場駅(はちまんばばえき)は、かつて和歌山県海草郡野上町小畑(現・紀美野町)にあった野上電気鉄道野上線の駅。駅構造は片面ホーム1面1線。登山口方面側のすぐそばに踏切があった。
E野上電気鉄道の八幡馬場駅 - 紀伊野上駅間の廃線跡。
F野上電気鉄道の八幡馬場駅 - 紀伊野上駅間の廃線跡。
 G紀伊野上駅(きいのかみえき)は、かつて和歌山県海草郡野上町(現・紀美野町)にあった野上電気鉄道野上線の駅。交換駅であった。駅構造は相対式ホーム2面2線。野上電気鉄道ではタブレット閉塞を採用していたが、1983年以降の減便に伴い、紀伊野上駅では朝夕以外に交換を行わなくなり、日中には重根駅のみを交換駅とする併合閉塞が用いられるようになった(同線の閉塞区間は日方駅 - 重根駅 - 紀伊野上駅 - 登山口駅)。
H野上電気鉄道の紀伊野上駅 - 動木駅間の廃線跡。
H野上電気鉄道の紀伊野上駅 - 動木駅間の廃線跡。小型の橋梁が残る。
H野上電気鉄道の紀伊野上駅 - 動木駅間の廃線跡。ガーター橋が残る。
I野上電気鉄道の紀伊野上駅 - 動木駅間の貴志川の川沿いの廃線跡。
I野上電気鉄道の紀伊野上駅 - 動木駅間の貴志川の川沿いの廃線跡。
J野上電気鉄道の紀伊野上駅 - 動木駅間の廃線跡。柴目川に架かる橋梁。
J野上電気鉄道の紀伊野上駅 - 動木駅間の廃線跡。柴目川に架かる橋梁。
 J動木駅(とどろきえき)は、和歌山県海草郡野上町(現 ・紀美野町)動木にかつてあった野上電気鉄道の駅。駅構造は単式ホーム1面1線。木造駅舎があった。廃線時は無人駅。前駅の紀伊野上駅までは、貴志川の北岸に沿って清流を眼下に見下ろす景勝地だった。廃線後の2010年現在でも、鉄橋が残っている。
K野上電気鉄道の動木駅 - 龍光寺前駅間の廃線跡。
 K野上電気鉄道の動木駅 - 龍光寺前駅間の廃線跡。次駅の龍光寺前駅までは、丘を切り開いて線路を造ったところで、一見トンネルの様な特異な構造の跨線道路橋があった。
 K廃線後も線路跡が残っていたが、野上小学校の改修に伴い、一部の線路跡がコンクリートで埋められてしまった。しかし、龍光寺前駅までの線路跡は残っている。
L野上電気鉄道の動木駅 - 龍光寺前駅間の廃線跡。ガーター橋が残る。
 L龍光寺前駅(りゅうこうじまええき)は、かつて和歌山県海草郡野上町(現・紀美野町)動木にあった野上電気鉄道野上線の駅。保育園児の乗降りが多かった。駅構造は単式ホーム1面1線の無人駅で、野上電気鉄道唯一のコンクリートでできた駅舎があった。
M野上電気鉄道の龍光寺前駅 - 下佐々駅間の廃線跡。
M野上電気鉄道の龍光寺前駅 - 下佐々駅間の廃線跡。
 N下佐々駅(しもささえき)は、かつて和歌山県海草郡野上町(現・紀美野町)下佐々にあった野上電気鉄道野上線の駅。かつては棕櫚製品の積み出し駅として栄えた。地元では下佐々を「しもさざ」、「さざ」と呼ぶことが多い。駅構造は片面ホーム1面1線の無人駅。駅や線路は廃線後、新しく道路となったので面影はない。
 Q阪神701形電車(はんしん701がたでんしゃ)は、かつて阪神電気鉄道が保有していた鉄道車両で、大正中期に製造された291形木造車を鋼体化改造したものである。改造当初は901形と呼ばれていた。701形のうち、704,707,710の3両が野上電気鉄道へ譲渡され野上電気鉄道では使い勝手がよかったことから、1994年の廃線時まで使用された。写真はモハ27。
 Oモハ20形:25・26・27 - 阪神701形704・710・707の譲受車。後から入った27だけ尾灯の取り付け位置やZパンタグラフの位置が異なる。
Oモハ27の運転台。
 O田伏医院の院長がこのモハ27を所有しており、フェンス越しにモハ27を撮影していたら、たまたま、院長が患者さんを見送るために外にいて電車の中を見せて頂いた。モハ27は無料で譲渡してもらえたそうだが、移設費用に約200万円掛かったそうだ。院長も野上電気鐵道で通学していたそうだ。
Pモハ30形31号は 阪神1121形1130の譲受車。モハ30形31号はくすのき公園内に保存。
Q野上電気鉄道の下佐々駅 - 登山口駅間の廃線跡。
R野上電気鉄道の下佐々駅 - 登山口駅間の廃線跡。
 S登山口駅(とざんぐちえき)は、かつて和歌山県海草郡野上町(現在の紀美野町)下佐々にあった野上電気鉄道野上線の駅。同線の終着駅であった。駅名の「登山口」とは、駅から南東へ入った生石高原への登山口の意味で、野上電鉄廃線後の代替バス「オレンジバス」を運行している大十バスのバス停名に残る。駅構造は駅舎を持つ有人駅であり、終日駅員が配置されていた。 片面ホーム1面構造で、機回し線を持つ2線構造。終端側は引上線となっており、末期はここに付随車2両(クハ101、102)が留置されていた。駅跡には大十バスの本社・車庫が建っており、当時の面影は残っていない。駅前を含め大十バスの登山口停留所として活用されており、オレンジバス(野上電鉄代替バス)、ふれあい号(紀美野町コミュニティバス)が発着している。
 おくあに様よりメールを頂きました。転載の許可を頂きましたので転載します。
 初めまして、私は旧野上町に平成18年まで住んでおりまして、ふと野鉄の写真を見たくなってネットで見ている際に貴殿のサイトに辿り着きました。私は保育園に通うのも野鉄を利用していまして、今では考えられませんが自宅から下佐々駅まで一人で歩いて駅に行き、動木駅まで通っていました。電車は園児で一杯になりましたが、ごくごく普通の光景でした。私の母親も当時は車の免許も持っておらず、週末の買い物は電車で日方駅まで乗って出かけるというのが凄くワクワクした記憶が残っています。子供の頃は電車が好きで、義祖父に野鉄では当時は珍しかった遮断機の付いた踏切に電車の通過を散歩がてらに連れって貰ったのを覚えています。小学生になってからは、住んでいた下佐々を離れ、登山口から更に田舎の方へ引っ越しましたが、その頃から徐々に車が増えて電車の本数もどんどん減っていったように思います。※弟は野鉄の路線バスで2歳から私が通った保育園とは違いますが通っていました。最初は一人でバスに乗れずに上級生の子に引き上げてもらっていました。中学になると通った野上中学は、登山口の近くにあり電車の走る音を聞きながら学校生活を過ごし、高校は動木駅近くの高校に通い、常に野鉄が溶け込んだ風景の中で育って来ましたので、今の風景を見ると本当に寂しく思います。廃線が決まった時、私は遠く離れた群馬県の学校に通っていたので、和歌山に帰ったのが最終列車が走った2日後で、戻ってから廃線になった事を知りショックを受けました。 ネット上には職員の対応が悪かったとよく目にしますが、私も高校三年生までは海南に出かける際に毎度利用していましたが、当時はそんなことは全くなかったですし、高齢者の方や学生の足であったので、まさか野鉄がなくなるとは思ってもいませんでした。高校を卒業したのは平成四年だったと思います。中学の修学旅行は、東京でしたが、その際登山口から普段は見れない電車を3両繋いで連絡口まで乗って、そこから天王寺まで団体列車に乗って行きました。他にも中学の遠足で和歌山市内に行く際も3両連結して、2両は学生専用で1両は普段の一般用で走っていました。夏は扇風機もなく、停車すると暑くて堪りませんでした。夜間の薄暗い車両の雰囲気が今思い出しても何だか凄くいい感じでした。後、これは親父に聞いた話ですが、同級生が野鉄の運転手で夜の乗客がいない車両で運転させてもらったことがあると言っていましたが、現在では考えられませんね!それと保育園だった頃は、車体のオレンジの部分が緑色だった車両があったのも覚えています。2年前に和歌山で国体があり、その関係で県内の道路整備が一気に進み、紀伊野上から下佐々の工事中だった道路も完成し、線路跡らしいものは殆どなくなってしまいま して、本当に寂しい町になりました。今でも何とか野鉄が残っていたら、自分の子供を連れて私が子供時代に乗った思い出を話しながら当時を振り返っていたと思いますが、今は線路跡だった道路を車で走りながら「ここは昔は線路があって電車が走っていたよ」位しか話が出来ないのが非常に残念です。長々と書いてしまい申し訳ありません。また機会がありましたらサイトにご訪問させていただぎす。ありがとうございました。
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