廃線探索 尼崎港線(福知山線)

更新日時 2010年12月31日

 福知山線最初の開業区間でもあった塚口駅 - 尼崎港駅間の通称尼崎港線が、旅客営業を1981年に廃止した後、1984年に完全に廃止された。同線は1898年に東海道本線の尼崎駅への連絡線を設けて大阪方面との直通運転を始めてからは、塚口駅 - 尼崎港駅間の盲腸線となっていた。晩年の旅客列車の本数は1日2往復で混合列車であった。1905年(明治38年)7月13日:東海道線と立体交差化。1949年(昭和24年) 1月1日:神崎駅を尼崎駅に、尼ヶ崎駅を尼崎港駅に、神崎乗降場を尼崎乗降場に改称。1981年(昭和56年) 4月1日:塚口駅 - 尼崎港駅間の旅客営業廃止。1984年(昭和59年)2月1日:貨物支線(尼崎港線)塚口駅 - 尼崎港駅間 (4.6km) が廃止(貨)尼崎港駅廃止。2005年、塚口駅 - 尼崎駅間を走行中の快速列車が脱線し、多くの死傷者を出すJR福知山線脱線事故が発生。この事故をきっかけにして、JR西日本の経営体質や社員の管理に対する批判が高まった。
尼崎港支線(廃線) : 塚口駅 - 尼崎駅(尼崎臨時乗降場) - 金楽寺駅 - 尼崎港駅
 @塚口駅(つかぐちえき)は、兵庫県尼崎市東塚口町一丁目にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)福知山線(JR宝塚線)の駅。かつて、当駅からは尼崎港線と呼ばれていた尼崎港駅までの支線が分岐していた。元はこれが本線である。このため尼崎港方面が直線となっており(現在でも路盤の跡が残っている)、また本線も上下線は別々の線路であった。現在の本線は駅の南で急カーブを描いている。2005年4月25日に発生したJR福知山線脱線事故はそのカーブで発生した。事故現場のマンションは、上り線跡と下り線(現在の本線)に挟まる位置にある。
 @塚口駅構造は島式と単式の複合型2面3線のホームを持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。以前、2面4線にする計画があったが実現していない。単式ホームの屋根は島式にも対応できるものになっている。構内・3番線の外側には数本の留置線があり、尼崎駅発着となる電車の留置(夜間以外にも設定)などに使われている。駅前に森永製菓塚口工場があるためか、ホームに降り立つと甘い香りが漂ってくることがある。
A尼崎港支線(廃線) : 塚口駅 - 尼崎駅(尼崎臨時乗降場)間の廃線跡。左写真の一番右側線路。
 BJR福知山線脱線事故(ジェイアールふくちやませんだっせんじこ)は、2005年(平成17年)4月25日に西日本旅客鉄道(JR西日本)の福知山線(JR宝塚線)塚口駅 - 尼崎駅間で発生した列車脱線事故である。運転士と乗客を合わせて、107名が死亡した。マンションに傷跡が残る。尼崎港支線はこのマンションの東側へ。
C塚口駅 - 尼崎駅(尼崎臨時乗降場)間の第1新横枕踏切。踏切名称の看板の変形は事故の影響か?
D尼崎港支線(廃線) : 塚口駅 - 尼崎駅(尼崎臨時乗降場)間の廃線跡。日本スピンドル製造敷地内へ。
E尼崎港支線(廃線) : 塚口駅 - 尼崎駅(尼崎臨時乗降場)間の廃線跡。
F尼崎港支線(廃線) : 塚口駅 - 尼崎駅(尼崎臨時乗降場)間の廃線跡。
 G「神崎乗降場」は東海道本線を越える築堤の上に片面ホーム1面1線で設置されており、「土手の上にある神崎駅」から「ドテカン」と呼ばれていた。そして1949年(昭和24年)、街の代表駅としての実状を考慮して尼崎港線の尼ヶ崎駅を尼崎港駅、神崎駅を尼崎駅に改称した。1969年に「尼崎乗降場」は当駅と同一駅扱いとなり「尼崎臨時乗降場」に変更されたが、実態には変化がなかった。上記写真はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
H尼崎港支線(廃線) : 尼崎駅(尼崎臨時乗降場) - 金楽寺駅間の廃線跡。
I尼崎港支線(廃線) : 尼崎駅(尼崎臨時乗降場) - 金楽寺駅間の廃線跡。
 I尼崎港支線(廃線) : 尼崎駅(尼崎臨時乗降場) - 金楽寺駅間の廃線跡。天神橋緑地は尼崎港支線の廃線跡。車止めのモニュメントが設置されている。
 I尼崎港支線(廃線) : 尼崎駅(尼崎臨時乗降場) - 金楽寺駅間の廃線跡。レンガの色を変えてレールの様に見せている。
 J尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅廃線跡。 金楽寺駅(きんらくじえき)は、かつて兵庫県尼崎市の、日本国有鉄道福知山線の支線に設置されていた駅(廃駅)である。この支線は、1970年代後半には旅客列車が1日2往復のみで、利用客は皆無に近かった。駅自体もプラットホームが1本と、壊れかけた待合室があるだけだった。当駅は1912年(明治45年)4月16日、すでに開通していた福知山線の路線上に新しく設置され、1981年(昭和56年)4月1日の支線における旅客営業廃止とともに廃駅となった。↑↓同じアングル。
J上記写真はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。右写真2002年3月。
K尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。旧国鉄の境界杭が残る。
K尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
L尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
M尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
N尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。国道2号線とクロスする場所。
O尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
P尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
P尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
 P大物くずれの戦跡碑:応仁の乱をきっかけに、戦国時代となった頃、室町幕府の実権を握った細川氏も、内部で対立してきます。細川政元の養子、高国と甥の晴元がそれぞれ対立すると、尼崎の地でたびたび戦火を交えています。享禄4年(1531年)両者が決戦するに至ったとき、高国勢は総くずれになり、高国が居城した尼崎城(大物城か)へ逃げ込む程の大敗となりました。晴元勢の追撃は激しく高国は大物の高徳寺で自刃しました。この戦いを世人は「大物くずれの戦い」とよんで語り伝えられてきました。
Q尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
Q尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
R尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
R尼崎港支線(廃線) : 金楽寺駅 - 尼崎港駅間の廃線跡。
 S尼崎港駅(あまがさきこうえき)は、兵庫県尼崎市南城内に存在した駅(廃駅)である。日本国有鉄道福知山線の支線(通称 尼崎港線)の終着駅であった。
 S尼崎港駅:1891年に、川辺馬車鉄道の起点駅として開設されたのが始まり。1898年に後身の摂津鉄道を合併した阪鶴鉄道が塚口駅から東海道本線神崎駅(現在の尼崎駅)への乗り入れを始めると、塚口駅 - 当駅間は盲腸線の支線と化した。1970年代には貨物列車は1日数往復、旅客列車は1日2往復の停車となっていた。1981年に支線の旅客営業が廃止された後も貨物駅として存続したが、1984年(昭和59年)2月1日のダイヤ改正で貨物営業も廃止され、廃駅となった。
 S尼崎港駅自体は貨物の側線が多くあり広々としていたが、旅客のプラットホームは1本あるのみであった。駅舎もいかにも貨物の取扱所といった趣で、常備券が存在せず乗車券はいちいちすべて手書きで発行していた。当駅の主要業務であった貨物取扱は、周辺工場への3つの専用線を発着するものを取り扱っていた。分岐する専用線は、庄下川を渡り駅南側へ続いていた住友金属工業特殊管事業所へ続くもの、庄下川北岸に沿って旭硝子関西工場へ続くもの、その途中から分岐し日本硝子尼崎工場へ続くものがあった。阪神高速3号神戸線の下にあり、近くには阪神本線の尼崎駅もあった。
S上記写真はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
@分岐する専用線。住友金属工業特殊管事業所、旭硝子関西工場へ。
A分岐する専用線。庄下川を渡り住友金属工業特殊管事業所、旭硝子関西工場へ。
A分岐する専用線。レールの一部が残る。
A分岐する専用線。中在家緑地が住友金属工業特殊管事業所、旭硝子関西工場への廃線跡。
B分岐する専用線。中在家緑地が住友金属工業特殊管事業所、旭硝子関西工場への廃線跡。
C住友金属工業特殊管事業所が左へ旭硝子関西工場は右写真方向へここで分岐。
D旭硝子関西工場への廃線跡。
E旭硝子関西工場への廃線跡。
F旭硝子関西工場への廃線跡。
G旭硝子関西工場への廃線跡。
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