廃線探索 武州鉄道(蓮田-神根)

更新日時 2012年01月05日

 武州鉄道(ぶしゅうてつどう)は、1924年から1938年にかけて埼玉県を拠点に、同県南埼玉郡綾瀬村蓮田(現・蓮田市)の蓮田駅(JR東北本線(宇都宮線))から同郡岩槻町(さいたま市岩槻区)を経て同県北足立郡神根村石神(現・川口市)の神根駅までの間で運行されていた鉄道。1910年、南埼玉郡綾瀬村(現・蓮田市)の政治家飯野喜四郎と岩槻町(現・さいたま市岩槻区)と綾瀬村の有志らに対し当時の鉄道省から敷設免許がおり、中央軽便電気鉄道株式会社として設立された。翌1911年、中央鉄道株式会社に社名変更して動力を電気から蒸気に変更した。当初は東京と日光を結ぶことを構想として表明しており、その計画は北千住を起点とし川口、岩槻、幸手、栗橋、古河を経て日光へ至る壮大なものだった。1912年に第1期線として川口 - 岩槻間が認可され着工された。第1期線の起点は当初川口駅が予定されていたが、すでに駅前の開発が進んでいたため、廃止された国鉄の貨物線跡を活用して乗り入れできる赤羽駅に変更された。しかし、赤羽駅構内が狭かったため、貨物の積み下ろしができないとして、貨物用の起点は蕨駅に変更となった。1914年には第2期線として岩槻 - 蓮田 - 忍町(現・行田市)間の認可を受けた。先に着工していた第1期線は竣工期限までに工事が終わらず、資金繰りのため第2期線も着工して先行して開業させることにした。1919年、武州鉄道株式会社に社名変更し、1924年に蓮田 - 岩槻間が開業した。この時に京成電鉄の創立者の一人本多貞次郎を社長に招聘した。蓮田より南進する形で路線延長を重ねてきたが、東京方面への接続路線がない状態では利用客が伸びず、財政難により神根以南の土地の買収が進まない悪循環に陥った。沿線の主要都市である岩槻に総武鉄道(東武野田線の前身)が開通すると貨客もそちらへ移り、結局赤羽方面への延伸は叶わず、1938年に全線が廃線となった。蓮田以北へは、菖蒲に駅予定地を設け工事を行っていたが、北進は実現しなかった。当初の構想であった日光へは東武鉄道が1929年に到達している。なお、途中王子電気軌道の傘下に入ったが、電化はされていない。王子電気軌道は現在の都電荒川線並びに王子駅 - 赤羽終点(現在の赤羽岩淵駅に相当)の路面電車を運行していた会社であり、南下する武州鉄道線との直結を検討していたらしい。
駅一覧
蓮田駅 - 馬込駅 - 河合駅 - 岩槻北口駅 - 岩槻本通駅 - 岩槻駅 - 真福寺駅 - 浮谷駅 - 笹久保駅 - 武州野田駅 - 武州大門駅 - 下大門駅 - 行衛駅 - 神根駅
 @蓮田駅(はすだえき)は、埼玉県蓮田市本町にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)東北本線の駅である。駅構造は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線、計2面3線のホームを持つ地上駅で、橋上駅舎を有している。1924年(大正13年)10月19日 - 武州鉄道が開業。1938年(昭和13年)8月22日 - 武州鉄道営業廃止。石碑は1885年(明治18年)大宮〜宇都宮間の鉄道が開業しました。その開設にともない、蓮田地域の蓮田村や黒浜村を路線が通過することになりました。そこで、飯野吉之丞を代表とする人たちが、岩槻町に最も近い位置にあり、産物の運搬・乗客の便利に適当だとして、綾瀬村大字蓮田に駅の設置と停車場敷地の献納を申し出ました。用地として、個人所有の土地8反5畝6歩(約8450u)が提供され、1885年(明治18年)7月16日に蓮田駅が開業しました。1903年(明治36年)11月に東北本線蓮田駅開業に尽力した飯野吉之丞・田口命助・吉田源左衛門・長谷部左衛門・小山丑松・斉藤米吉の功績を後世に伝えるために記念碑が建立されました。碑には次のようなことが書かれていて、郷土の先人である多くの先覚者の熱意と努力により駅が開設されたことを示しています。
A蓮田駅から南へ向かって駐車場の道路があるが、そこが武州鉄道の蓮田駅 - 馬込駅間の廃線跡。
B駐車場の道路からそうぶ歯科病院の建物が武州鉄道の蓮田駅 - 馬込駅間の廃線跡。
C林の間の木の生えていない部分が武州鉄道の蓮田駅 - 馬込駅間の廃線跡。
C林の間の木の生えていない部分が武州鉄道の蓮田駅 - 馬込駅間の廃線跡。
D武州鉄道の馬込駅跡(蓮田駅起点より1.3q)
E武州鉄道の馬込駅 - 河合駅間の廃線跡。この道路が廃線跡。
F武州鉄道の馬込駅 - 河合駅間の廃線跡。この道路が廃線跡。
G武州鉄道の馬込駅 - 河合駅間の廃線跡。この先の河合幼稚園の敷地を横断する。
H武州鉄道の馬込駅 - 河合駅間の廃線跡。河合幼稚園から右写真の斜めのブロック沿いが廃線跡。
I武州鉄道の 河合駅跡。(蓮田駅起点より2.8q)
J武州鉄道の河合駅 - 岩槻北口駅間の廃線跡。平林寺公民館駐車場が廃線跡。
K武州鉄道の河合駅 - 岩槻北口駅間の廃線跡。ここから再び地図上での痕跡が解る。
L武州鉄道の河合駅 - 岩槻北口駅間の廃線跡。幅の狭い建物の場所が廃線跡。
M武州鉄道の河合駅 - 岩槻北口駅間の廃線跡。この空き地が廃線跡。
N武州鉄道の河合駅 - 岩槻北口駅間の廃線跡。この空き地が廃線跡。
O武州鉄道の岩槻北口駅跡。竹林周辺が岩槻北口駅跡と思われる。(蓮田駅起点より5.2q)
 P武州鉄道の岩槻北口駅 - 岩槻本通駅間の廃線跡。東武野田線と交差部分。すでに営業をしていた武州鉄道に対して、昭和4年の開通をめざして計画された北総鉄道(現東武野田線)は平面交差をするわけにもいかず、巨費を投じて建設した。現在の東武野田線の鉄橋は当時の鉄橋から改修されて大きくなっている。
Q武州鉄道の岩槻北口駅 - 岩槻本通駅間の廃線跡。浄安寺門前。
R武州鉄道の岩槻北口駅 - 岩槻本通駅間の廃線跡。武州鉄道の小径の看板。
S武州鉄道の岩槻本通駅跡。(蓮田駅起点より5.8q)右写真の倉庫が建っているところが廃線跡。
@武州鉄道の岩槻駅跡。(蓮田駅起点より6.4q)岩槻中と太田小の間の道。
A武州鉄道の槻駅 - 真福寺駅間の廃線跡。左写真の幅の狭い家、右写真のたばこ屋が廃線跡。
B武州鉄道の槻駅 - 真福寺駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
C武州鉄道の槻駅 - 真福寺駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
D武州鉄道の槻駅 - 真福寺駅間の廃線跡。幅の狭い家の建ち並びが廃線跡。
E武州鉄道の槻駅 - 真福寺駅間の廃線跡。左写真の建ち並びが廃線跡。
F武州鉄道の真福寺駅跡。(蓮田駅起点より8.1q)
G左写真は浮谷駅を移築したらしい。右写真の種屋多ヶ谷商店の持ち物らしい。
H武州鉄道の真福寺駅 - 浮谷駅間の廃線跡。県道324号線から再び右へそれて行く。
I武州鉄道の真福寺駅 - 浮谷駅間の廃線跡。築堤が残っている。
J武州鉄道の真福寺駅 - 浮谷駅間の廃線跡。築堤が残っている。
K武州鉄道の浮谷駅跡。目白大学岩槻キャンパス前の道。(蓮田駅起点より9.0q)
L武州鉄道の浮谷駅 - 笹久保駅間の廃線跡。目白大学裏手。
M武州鉄道の浮谷駅 - 笹久保駅間の廃線跡。目白大学裏手。
N武州鉄道の浮谷駅 - 笹久保駅間の廃線跡。(株)建起工業の工場が武州鉄道の廃線跡。
O武州鉄道の浮谷駅 - 笹久保駅間の廃線跡。右写真路地の右側の建物が廃線跡。
P武州鉄道の浮谷駅 - 笹久保駅間の廃線跡。道路脇の駐車場及び畑が廃線跡。
Q武州鉄道の浮谷駅 - 笹久保駅間の廃線跡。右写真中古車置き場が廃線跡。
R武州鉄道の浮谷駅 - 笹久保駅間の廃線跡。中古車置き場が廃線跡。
S武州鉄道の浮谷駅 - 笹久保駅間の廃線跡。
@武州鉄道の笹久保駅跡。(蓮田駅起点より10.6q)中古車オークション会場が笹久保駅跡。
 A伝右川に残されている橋台。武州鉄道唯一の遺構であるが、みそのウィングシティの区画整理事業によってまもなく取り壊されるであろう。奥に見えるのは清掃工場。
A伝右川を渡り埼玉スタジアム方向へ。
B武州鉄道の武州野田駅跡。(蓮田駅起点より12.0q)
 C浦和インター近くの重殿社内に「停車場道路工事記念」の石碑が残っています。武州野田駅停車場道路工事記念碑。武州野田駅停車場の位置とは違うため、移設されたか、当初からここに有るかは不明です。
碑文:是時昭和参年十二月武州鉄道開通ト共ニ停車場道路附設ノ議起リ区民後援ノ下ニ野田青年團中野田支部員等昭和四年三月十七日起工同年四月十五日其ノ完成ヲ視ル同線ノ枕木ハ朽チル事マルモ我等ノ努力ハ今尚石文ニ 昭和四年十月十五日建設
D武州鉄道の武州大門駅跡。(蓮田駅起点より14.2q)あいだや食堂は当時も駅前食堂として有った。
E武州鉄道の下大門駅跡。(蓮田駅起点より15.4q)
F武州鉄道の行衛駅跡。(蓮田駅起点より16.0q)
G武州鉄道の神根駅跡。石神交差点付近。(蓮田駅起点より16.9q)
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