更新日時 2012年09月09日

 土気駅-大網駅間は勾配がきつく大網駅には短絡線があり急勾配の土気駅-大網駅間を避けるために貨物列車は、大網−成東−佐倉と東金線、総武本線へと迂回していた。 誉田駅から土気駅の先まで約40mの勾配を登り、40分の1の急勾配と354mの旧土気トンネルを通り大網駅に達する。トンネル内にも40分の1勾配がり、大網駅までの短い区間で急勾配を下る難所であった。旧土気トンネルの老朽化と勾配緩和のため、1951年(昭和28年)トンネル上部の土砂を取り除き切り通しに変更された。1972年(昭和47年)外房線の複線と電化にともない、この区間は新土気トンネルと高架橋の新ルートに変更され、深い切り通しも埋め戻された。 同時に大網駅はスイッチバックを解消し駅を600m土気方面の現在地に移転し千葉方面から外房方面へ直進のみで進めるようになり、利便性が飛躍的に向上し大網駅は2又に分かれるタイプの駅となった。
@大網駅 @大網駅−旧大網駅間(東金方面)の橋
@大網駅の二股に別れる場所 A大網駅から土気方面へ400mほどの所に有る橋
A大網駅方面を見る A土気方面を見る
B大網駅から土気方面に800m程の地点に排水管を利用したトンネルが・・・
B私の好きな風景 Bコンクリートの鍾乳石が・・・
B私の好きな風景その2 B抜けた先は・・・
B土気方面を見る B大網方面を見る
B旧線はこの森を抜けていたのか? C新線の高架橋
 Cこの枕木が有る部分(ネットフェンスが切れている部分)が旧線跡で道路を斜めに横断し右写真藪の中へ廃線跡が続く。
D竹藪で解りづらいが、割堀になっている廃線跡。
E南玉不動尊の滝(不動尊と新線の間に旧線が有った様だ)
 E「土気古城再興伝来記」の南玉不動尊略縁起によれば、「嵯峨天皇の御代、弘仁3年(812年)夏の初め、山の中腹の滝の付近から怪しい放光があったので、里人は善勝寺(千葉市土気町)から住職を招請して不動尊を安置し、清岸坊と称した」と記されている。
 この滝は、山の中腹の湧水で、俗に地下数千尺といわれ、清岸寺境内まで導管で導かれ、銅製のの滝の口から落下して、南玉貯水池の水源となっている。
F右、大網駅方面 F左、土気方面
G陸橋より大網方面をみる G陸橋より土気トンネル方面を見る
G陸橋を通り土気方面へ
H土気方面への切り通し。外房線の土気の切り通しもこの様な感じであったのであろう。
I日本航空研修センター 現在は使われていない様だ・・・(2009年1月)
I日本航空研修センターは高齢者専用賃貸住宅(ひまわりの郷)に転用されていた。2012年9月。
 J土気城跡:土気城は、平安時代の鎮守府将軍であった、大野東人が東北地方の蝦夷に対する軍事的拠点の一つとして築いたものと伝えられている。その後、1488年(長享2年)中野城主であった酒井定隆がこの城を修復して入城し、以後、5代・約100年間に亘って酒井氏の居城として上総の地に君臨した。
 城は鹿島川や村田川の水源となっている標高90mを越える大地上に、その急峻な地形を利用して築かれ、難攻不落の名城としてしられていたが、1590年(天正18年)豊臣秀吉の房総攻めの祭に破れ、廃城となった。本丸二の丸などの城の中核となる部分は現在、日本航空研修センターの敷地になっており、部分的な改変は有るものの全体の保存状態は良好で戦国時代の城郭の形態を良く残している。
K奥に橋が見える K橋の欄干の名前がはがされている
K旧外房線に掛かっていた橋ですが、現在は切り通しが埋め戻されて橋の下まで土砂があります。
K善勝寺山門 K左側の山が埋め戻された廃線跡
K右側の山が埋め戻された廃線跡 K駐車場(テニスコート)部分が旧外房線の廃線跡
L埋め戻された切り通し跡から大網方面を見る。
Mグリーンのシートに囲まれた所が埋め戻された旧外房線の廃線跡
Nグリーンのシートに囲まれた所が埋め戻された旧外房線の廃線跡
O土気踏切:地図上に廃線跡の痕跡が・・・ O土気踏切
O土気踏切より大網方面を見る O土気踏切から土気方面を見る
O土気踏切横の敷地(廃線跡)に枕木が・・・
P廃線跡の切り通しは埋め戻されて Q陸橋から土気方面を見る
Q陸橋から大網方面を見る R土気駅
戻る Copyright (C) 2008-2016 hotetu.net All Rights Reserved
外部から直接リンクで飛んできた方は右ホームページリンクへ http://www.hotetu.net/
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
廃線探索 土気駅-大網駅旧線