更新日時 2016年10月16日

 千葉県唯一の路面電車であった。成田鉄道(初代の成田鉄道とは異なり、現在の成田線の前身)の成田駅から、古くより参拝客の多い成田山新勝寺・宗吾霊堂への路線を敷設する計画は古くからあった。最初は宗吾馬車鉄道という馬車鉄道を敷設する計画が立てられたが、諸種の問題で流れた。次に、才賀藤吉という東京の資本家の援助を得ることによって計画が立てられ、これがようやく実現する見通しになった。しかし成田山の門前町が参拝客が通らなくなって衰退することを恐れて反対したため、そこを東に避けてトンネルを掘るなどし、ようやく1910年(明治43年)に一部区間が開通、翌年に宗吾 - 成田間の全線が開業した。しかし開業前に電気軌道の作業場から出た火の手が宗吾霊堂に引火して、堂宇と周辺民家の多くが焼けるなどしたこともあり、電気鉄道に懐疑的な人が多く反対運動も多かったことから、利用者はなかなか伸びなかった。さらに才賀藤吉が事業に失敗して資産を失い、援助が得られなくなったりするなど苦境も襲いかかった。そして東京の投機業者に買収され、おりしも第一次世界大戦で鉄の価格が高騰していたことから、電車を廃止してレールを売却することを目論んだ。これに対しては地元から猛反対の運動が起こり、千葉県知事が乗り出すなどして、ようやく複線の内単線を撤去することと、保有車両数の15両から6両への削減を行うことで決着した。 その後京成電気軌道(現京成電鉄)の傘下に入るが、乗合自動車(バス)の登場で客を奪われるようになり、さらには通行の邪魔ということで今度は地元から廃止論が出るようになった。しかし戦時体制によってガソリン供給が統制されると、バスの運行もできなくなったことからこのときは存続した。だが結局、1944年(昭和19年)には参詣路線は戦時柄ふさわしくないことと、京成本線とほぼ並行していることから、不要不急線として廃線となった。京成本線には成田の駅の位置を巡って新勝寺門前により近い所への設置を画策して成田電気軌道を買収(1925年)し、その線路を接続する案もあったが、門前の商店街の猛反発に折れ、1930年4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置した。
停留所 1938年当時
不動尊(当初、成田山門前) - 幼稚園下 - 京成電車前 - 本社前(ほんしゃまえ) - 論田 - 新田(しんでん) - 大袋 - 宗吾(そうご)
本社前 - 省線駅前(後、成田駅前)
@宗吾霊堂前。 A宗吾−宗吾霊堂裏間の廃線跡と思われる。
A宗吾−宗吾霊堂裏間の廃線跡と思われる。 Bこの先で廃線跡と合流していたようだ。
C廃線跡は一般道に転用されている様だ。 D廃線跡は一般道に転用されている様だ。
E区画整理前の地図。 E区画整理後の地図。
F県道から細い道路に分岐。 G右側柵が京成電車。
H細い道を行く右の建物が廃線跡か・・・ Iこの道が廃線跡かは不明・・・
JJRと京成電車の高架下を潜る。 J左が京成線。
K京成線。 K右が京成線。左がJRに挟まれた道路
L京成成田駅。 M右高架が京成線。
Mバス方向が廃線跡。 N電車道(廃線跡)
O成田鉄道宗吾線の第1トンネル(成田駅側)
O成田鉄道宗吾線の第1トンネル(山門側)
P成田鉄道宗吾線の第2トンネル(成田駅側)
P成田鉄道宗吾線の第2トンネル(山門側)
P成宗電車のトンネル。 P電線のブラケット跡が・・・
P境界杭。 Pトンネルを抜けて。
Q電車道は続く。 R突き当たりが不動尊(当初、成田山門前)
R電車道の看板が・・・ S不動尊(当初、成田山門前)
成田鉄道多古線へ続く  成田鉄道八街線へ続く
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廃線探索 成田鉄道宗吾線