更新日時 2010年02月11日

  明治、大正時代から、昭和40年代まで、現在の高萩市は、炭鉱の町として栄え、有名であった。特に、明治30年に今の常磐線・高萩駅が開設されてからは、毎日、多くの石炭が貨車に積まれて、京浜工業地帯へ運ばれ、日本のエネルギー資源の一翼を担っていた。市内で炭鉱を掘っていた所は、高萩炭鉱(和野、秋山、干代田地区)、向洋炭鉱(島名地区)、望海炭鉱(関口、望海地区)があった。現在、炭鉱の面影が消えてしまったが、最も大きな炭鉱だった高萩炭鉱は、今の大心苑のある所が中心で、400mトラックの運動場と現在の市営野球場の所には、大きな「ズリ山」(石炭を選別して、くず石炭と土砂を捨てて積み上がった山)が高く聳え立っていた。また、現在の向洋台住宅団地、望海にも大きなズリ山があった。高萩地方で石炭の採掘がはじめられたのは、江戸時代の末期、嘉永4年(1851)頃である。那珂湊の反射炉(水戸藩の鉄を溶かす炉)へも運ばれたといわれている。明治になって日清戦争(明治27年)、日露戦争(明治38年)の勝利を契機に、日本の工業が発展し、石炭の需要が高まり、資本家が石炭の採掘に棄り出して来る。明治27年、手綱炭鉱は干代田炭鉱と合併して、高萩炭鉱となった。明治30年、高萩駅開設の前年、石炭をトロッコで運ぶ軽便鉄道(千代田一川側一高萩インター線一石河原桝形一高萩駅)を敷設した。(この軽便鉄道は、トラックの輸送に変わる昭和30年頃まで使われていた。)高萩炭鉱では、高萩駅から引き込み線路(駅一高萩協同病院横一スイフーコマツ酒店前の道路一炭鉱まで)を敷設してSLに貨車を連ねて運んでいた。
1946年(昭和20) 高萩炭鉱株式会社東邦炭鉱櫛形炭鉱を買収。高萩炭鉱北方坑、山一炭鉱、大東炭鉱が高萩駅より引き込み専用線を開通させ、SL機関車による石炭輸送をはじめる。 廃止昭和43年(1968年)
高萩駅構内区間290mは平成14年(2002年)廃止 高萩駅〜高萩市高萩向原 全長 6.28q
 @高萩駅(たかはぎえき)は、茨城県高萩市高萩にある東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅である。駅構造は島式ホーム1面2線を持つ地上駅である。構内に多数の側線があり、車両の夜間滞泊も実施されている。常磐線の当駅以南は日中普通列車が1時間に2本運転されているが、以北は日中1時間に1本の運転になるため、当駅で折り返す列車が設定されている。また、一部の特急「フレッシュひたち」も当駅で折り返す。折り返し列車の本数は多いが、ホームは本線だけで、待避や長時間停車できる副本線にはホームがない。
@高萩駅に京浜東北線の209系が係留されている。
 @2001年(平成13年)3月 貨物列車の発着がなくなる。翌2002年(平成14年)3月23日のダイヤ改正で貨物列車の設定廃止。本線西側に沿って南下、日本加工製紙高萩工場へ続く専用線があり、工場で使用する苛性ソーダや液体塩素などの化学薬品輸送が行われていた。
A跨線橋の辺りからこの方向へ分岐していた。 Aこの市道が高萩炭鉱専用鉄道の廃線跡。
Bこのカーブが高萩炭鉱専用鉄道の廃線跡。 C安良川操車場が有った辺り。
Dここから向洋炭鉱へ分岐する支線が延びていた。
E向洋炭鉱への支線の廃線跡。向洋炭鉱への支線
Fこの先に向洋炭鉱が有った。
F前回上記写真の部分で断念したが、今回は更に奥へ挑んだ。
F途中までは藪も少なく探索が可能だったが、下記階段の所から先は藪がすごく探索を断念。
F階段を上りその上は小さな公園になっていた。この辺が向洋炭鉱が有った場所だ。
G右へは向洋台団地方面。 H高萩炭鉱専用線跡。
I高萩炭鉱専用線跡。 Jこの橋は道路用に掛け直された様だ。
 K高萩炭鉱専用線はここから右へ大きくカーブしていた。 K高萩炭鉱専用線跡。
L高萩炭鉱専用線跡。  M道路は右へ少し曲がるが、廃線跡はここから真っ直ぐ延び、秋山坑へこの先で分岐していた。
 N高萩炭鉱専用線は県道10号線に合流し、そこから秋山炭鉱に分岐し、花貫川を渡るところで秋山炭鉱支線の橋台跡が残る。
O花貫川を渡りそこから雑草で解りづらいが、僅かに秋山炭鉱支線の築堤跡が残る。
O築堤から道路を交差し反対側に秋山炭鉱支線廃線跡らしき場所が残る。
Pこの先は小高い丘(ぼた山?)の様なので秋山炭鉱支線の終点と思われる場所は池になっていた。
Q高萩炭鉱専用線は県道10号線として転用されている。
R秋山十字路交差点の手前で専用線は右にそれて交差点の先で合流しその先は高萩炭鉱だ。
S高萩炭鉱和野地区。
S築堤が残るが、鉄道の築堤かは不明。 S古い階段がある。
S高萩炭鉱の後を継いだ?南悠商社茨城事業所。
S炭鉱の施設関連か? S菊地寛実の石碑。昭和44年10月設置。
 S1940年(昭和15) 菊地寛実、「高萩炭鉱株式会社」を設立する。 1969年(昭和44)・高萩炭鉱株式会社は炭鉱閉山後は、観光・レジャー産業に切り替え、ズリ山を整地して、「大心苑」として、宿泊、運動、野外キャンプ施設などを経営オープンした。また、関根川河口の海岸に、「ビーチガーデン」を建設し、ホテル、プール、ボーリング、スケート場などの経営で繁盛したが、2001年(平成12)バブル崩壊の経済不況により、「ビーチガーデン」閉鎖される。「大心苑」も経営難となり、設備を縮小し、ホテル経営「森のホテル」のみとした。2004年(平成16)「大心苑」の「森のホテル」や造園業施設も閉鎖となる。
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廃線探索 高萩炭鉱専用線