廃線探索 沖縄県営鉄道嘉手納線

更新日時 2009年12月31日

 沖縄県営鉄道(おきなわけんえいてつどう)とは、戦前に沖縄県が沖縄本島内で運営していた鉄道である。鉄道省側の書類には沖縄県営鉄道と記載されていたが、沖縄県側では1917年まで沖縄県軽便鉄道、それ以降は沖縄県鉄道を正式な名称としていた。また、762mmの軌間を採用した軽便鉄道(けいべんてつどう)であったことから、沖縄県民からは「ケイビン」「ケービン」と通称されていた。沖縄県はまず与那原線の工事に着手し、1914年12月に開業した。続いて糸満線の建設に着手するはずだったが、第一次世界大戦後の不況の影響で建設資金の調達がうまくいかず、1916年に建設中止が決定する。1917年7月に所得税法が施行され、所得税から経済援助の名目で国庫補助が行われることが決まると、再び鉄道建設の気運が高まった。糸満線と嘉手納線の建設順位を巡って県議会は紛糾したが、1917年12月に嘉手納線の着工が決定し、1922年3月に開業した。最後に残った糸満線は1923年7月に開業し、これにより現在の那覇市から嘉手納町、与那原町、糸満市の3方面に延びる路線網が完成した。太平洋戦争の末期になると軍事輸送が本格化し、1944年7月には通常ダイヤによる営業運転を終了して実質的には軍用鉄道となる。また、同年10月10日の那覇空襲によって那覇駅が焼失し、さらに11月には糸満線喜屋武 - 稲嶺間で列車爆発事故が発生している。 1945年3月には戦争の激化で完全に運行を停止し、その後の米軍上陸によって鉄道施設は破壊された。浦添市大平にある沖縄県営鉄道嘉手納線の線路戦後は朝鮮戦争の勃発による鉄不足でレールが取り集められたうえ、さらに道路や米軍基地の建設などで鉄道敷地自体が分断されてしまい、県営鉄道は事実上消滅した。正式な廃止手続きは行われておらず、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月28日に地方鉄道法の適用対象から外れている。なお、終戦直後の1947年11月、GHQが沖縄民政府(後の琉球政府)に対して鉄道復旧計画の立案を要求し、民政府も鉄道敷設計画を提出したが、1948年には道路整備の推進に方針転換したため実現しなかった。この計画では軌間を1067mmとし、かつての与那原線を東海岸沿いに延伸して前原、金武、名護、大宜味あたりに至る路線と、かつての糸満線に相当する路線が考えられていたようである。
 嘉手納線(かでなせん)は、現在の沖縄県那覇市にあった古波蔵駅と、中頭郡嘉手納町にあった嘉手納駅を結んでいた、沖縄県営鉄道の鉄道路線。1922年に県営鉄道2番目の路線として開業したが、太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止。沖縄戦で線路施設が破壊され、そのまま消滅した。
駅一覧
古波蔵駅 - 与儀駅 - 安里駅 - 内間駅 - 城間駅 - 牧港駅 - 大謝名駅 - 真志喜駅 - 大山駅 - 北谷駅 - 桑江駅 - 平安山駅 - 野国駅 - 嘉手納駅
@旧古波蔵駅周辺。与那原線との分岐場所。
A旧内間駅周辺 Aうくましばし
 Bパイプライン通りの由来:1945年(昭和20年)沖縄戦を経て、アメリカ軍占領下におかれた沖縄に、次々と軍用施設が建設されるようになりました。1952年(昭和27年)に、那覇軍港から北谷桑江ブースターステーション(軍施設)に至る送油管布設もその一つで、ジェット燃料を輸送するための鋳鉄製油管3本(直径350mm)が併設されました。この油送管を、一般的に「パイプライン」(陸軍貯油施設とも言う)と呼んでいました。浦添市内では内間・大平・伊祖・牧港の地中に埋設されていました。パイプラインは、本県の南北を結ぶ国道58号線及び国道330号線の間に位置し、人々の通勤・通学をはじめ、企業の流通路としても利用されていましたが、雨が降れば泥んこ、晴れればホコリが舞い上がる悪路でした。このため市道・県道として整備しようとしても、アメリカ軍の軍用施設であるので道路整備が出来ませんでした。しかし県民・市民の早期返還の要望が高まり、アメリカ軍は1985年(昭和60年)6月30日間内〜伊祖間、1990年(平成2年)12月31日には伊祖〜牧港間を返還しました。その後、市道として認定された市内パイプライン道路は、1989年(平成元年)2月8日、「浦添市道路愛称選定委員会」により「パイプライン通り」と命名されました。
 C軽便鉄道線路の跡地:ここパイプライン通りは、1922年(大正11年)から1945年(昭和20年)まで軽便鉄道が走っていました。軽便鉄道とは、本土の国鉄より規格が小さい(レール幅:国鉄は1067mm、軽便は762mm)のものを言い、沖縄の人々は「ケービン」と呼んで親しんでいました。沖縄に鉄道が導入されたのは1914年(大正3年)のことです。那覇〜与那原線が最初に運行を開始し、軽便鉄道が走るようになりました。 コースは、那覇駅(現在のバスターミナル)を起点に古波蔵・与儀駅・安里・内間・城間・牧港を経て嘉手納に至23.6qです。片道93分を要し、所要時間をスピードになおすと、おおよそ15q/hの早さになります。駅は内間・城間・牧港の3カ所にあり、そのうち間内と牧港は無人駅で、駅舎は3坪・2坪の小さい駅でした。城間駅は駅長1人・駅員2人の有人駅で、駅舎も17.7坪あり、浦添では大きい方でした。沿線住民の足となり、また農家のさとうきび搬入等を担った軽便鉄道も、沖縄戦で損壊してしまい、昭和20年3月末に、運行が廃止されました。
 C油線・軍用地境界杭(見本)このコンクリート製三角柱は、米軍が油線軍用地の境界を示すために設置していた実物のものです。 日本字と英字の2種類があり、宜野湾向け日本字、那覇向けに英字の境界杭が使い分けられていました。 表示の30尺は約9m、30F(フィート)は91mとなります。 1985年(昭和60年)同施設返還に伴い、境界杭も撤去されました。
 C軽便鉄道線路:この線路は街路2-3-3号城間線改良工事(1991年10月)現場から出土したレールに枕木を復元した物です。右図は、沖縄県営鉄道路線図で各駅名と有人・無人を表示したものです。
C沖縄県営鉄道嘉手納線のルート  C開業時、嘉手納線に使われていたドイツの蒸気機関車。牧港〜大謝名間を走る嘉手納行列車
Cパイプライン通りから左へ分岐して行く。 D嘉手納線の廃線跡と思われる。
E沖縄県営鉄道嘉手納線の旧城間駅周辺
E嘉手納線の旧城間駅周辺 F国道58号線から再び市街地へ。
G沖縄県営鉄道嘉手納線の旧牧港駅周辺
H嘉手納線の廃線跡と思われる。
I旧大謝名駅周辺(国道58号線大謝名三又路交差点)
J区画整理が進んでいるが、この場所が嘉手納線の廃線跡と思われる。
K沖縄県営鉄道嘉手納線の旧真志喜駅周辺
L嘉手納線の廃線跡
M嘉手納線の廃線跡
N沖縄県営鉄道嘉手納線の旧大山駅周辺
O国道58号線へ再び合流する。(伊佐浜交差点付近)
P国道58号線から58号線バイパスを横切り再び住宅街へ。(伊佐北交差点付近)
 Q伊佐浜「新造佐阿天橋碑」は琉球王府によって1820年北谷間切(現在の市町村に相当)との境近くにある佐阿天川に、石造橋を新設した記念に建立された石碑である。当時の古文書により碑文の大意を記すと、次の通りである。「ここより東側にもう一条の道があり、都に行く正路であるが、道が険しくて容易ではない。この道は平坦なので、人は皆正路を通らずにこの道を通るのである。しかしながら、平日はこの川を歩いて渡っても、大雨の時は川は氾濫し、とても渡れない。しかし、現今は政治が行き届いているので、民のためなら一つとして挙がらないものはない。それで、ここにこの橋を建設したのである。」すなわち、これまでの山手側の難儀な公道から、海岸よりの平坦な歩き良い公道へと、1820年に「中頭方西海道」を移動する大幅な改修事業が行われたのである。本碑は、このように琉球王府の頃の地域住民の道利用や琉球王府の公道整備改修等を、全体として知らしめるものであり、その歴史史料価値は高いものである。また、組桶「姉妹敵討」では「あれや牧湊 これや砂辺村、越えて湾渡具地 残波岬まで 見渡の広さ 浦々の釣船、いざり火のかげも 目の前引き寄せて、眺めてもあかね 伊佐の浜辺」と詠まれ、古くから白浜が遠浅の浜辺につづく美しい海岸であった。
Q地元のおじさんによると、これが、沖縄県営鉄道の廃線跡の暗渠だそうだ。
Q嘉手納線の廃線跡。
S右上の写真から左下の写真の正面住宅が廃線跡(廃線跡は一部住宅になっている)
S軽便橋:沖縄県営鉄道嘉手納線が通っていた場所に軽便鉄道の橋の名前が付けられている。
S普天間川に架かる軽便橋銘板。
S軽便橋は嘉手納線が廃線後架け直された橋のようだ。
S軽便橋からマンションの間を抜ける廃線跡。 S普天間川に架かる軽便橋。
@安良波公園。
@アラハビーチはさすがに沖縄に来たと実感する綺麗な海だ。
沖縄に来て泳がずに廃線探索をする、歩鉄の達人であった(笑)
A北前第一公園:沖縄県営鉄道嘉手納線の旧北谷駅周辺。
B桑江中学校前:沖縄県営鉄道嘉手納線の旧桑江駅周辺。
C嘉手納線の廃線跡が整備されている。
 D本地域は、北谷町の西側に位置し、東側は沖縄本島の大動脈である国道58号線に接し西側は運動公園及び東支那海に面し、南側は2級河川白比川の美浜橋を起点に北側は町道宮城1号線までの美浜1丁目、美浜2丁目、美浜3丁目の地域である。区画整理施工前は、字桑江の長崎原、長港原と字伊平の伊礼前原、平安山前原の地域で第二次大戦以前は恵まれた地勢と肥沃な土地で農業、水産業の発達した地域であった。1924年には軽便鉄道那覇発の嘉手納線が開通し現在の桑江中学校の正門前に桑江駅があり、汽車の乗客で賑わっていた。
E嘉手納線の廃線跡が整備されているのはここまでだ。
F左の写真の橋は地図上でちょうど廃線跡になる。
G嘉手納警察署の前に廃線跡が有ったと思われる。 H嘉手納市役所の前に廃線跡が有ったと思われる。
I嘉手納線の旧嘉手納駅跡ここから製糖工場へスイッチバックして続いていた。
I旧嘉手納駅から製糖工場へ続く廃線跡。
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