廃線探索 長崎臨港線

更新日時 2012年07月12日

 長崎臨港線(臨海鉄道):上海航路の発着場との客貨接続を目的として1930年(昭和5年)3月19日に長崎臨港鉄道(通称)が開設され、門司駅(現門司港駅)からの航路連絡のための列車(ボート・トレイン)が長崎港駅まで乗り入れるようになった。長崎駅からの路線は長崎港の海岸沿いを走り、現在の出島ワーフ付近にあった長崎港駅に到着。隣接する埠頭で上海航路の船に接続していた。1942年(昭和17年)11月に関門トンネルが開通したことに伴うダイヤ改正で特別急行列車「富士」が航路運航日に限り長崎港駅まで延長された(その他の日は長崎駅まで)が、戦況の悪化に伴い翌1943年(昭和18年)10月には「富士」が博多駅までに短縮されてしまい、上海航路も終戦と共に運航されなくなってしまった。戦後も長崎港駅は旅客・貨物とも扱う一般駅として残され、旅客については「上海航路連絡列車によるものに限る」とされたが、該当する旅客列車の運行は行われずに貨物線としてのみ利用されていた(ただし、一時期工場勤務者のための通勤列車が運行されていたという記録もある)。なお、廃止時まで長崎駅 - 長崎港駅間は電化されなかった。そして、貨物扱いも1982年(昭和57年)に廃止され、国鉄分割民営化実施前日の1987年(昭和62年)3月31日をもって正式に廃止となった。現在廃止線跡地は歩道や公園となっている。
長崎本線 長崎駅 - 長崎港駅
 @長崎駅(ながさきえき)は、長崎県長崎市尾上町にある、九州旅客鉄道(JR九州)・日本貨物鉄道(JR貨物)長崎本線の駅。長崎本線の終着駅にして長崎県の県庁所在地・長崎市の中心駅である。現在の駅舎は4代目である。2000年9月に老朽化と駅隣のアミュプラザ長崎建設に伴い改装され、3代目の駅舎にあった三角屋根に代わりドーム状の屋根が設置され、「かもめ広場」と名づけられた。オープンスペースとなっており、各種イベントが行われる。三菱製の大型モニターも設置されており、JR九州関連のPR映像などが映されている。アミュプラザ長崎とJR九州ホテル長崎へは1階への出入口のほか、エスカレーターで2階へ出入りすることも出来る。改札口の左側には、総合観光案内所と待合室があり、その隣にキヨスクがある。2代目の駅舎は大正時代に建てられたドイツ風建築の木造駅舎であったが、1945年(昭和20年)8月の原爆投下によって焼失した。その後1949年に建造された3代目の駅舎は緑色の三角屋根とステンドグラスを備えていたが、1998年に老朽化のため新しい駅舎を建築することになった。現在ステンドグラスは自動改札機の上にある(大きさや形は異なる)。
 @JR長崎駅構造は頭端式ホーム3面5線を有する地上駅で、全てのホームへ相互に平面移動することができる。跨線橋、構内踏切、地下道、エレベーター、エスカレーターなどはない。ホームには車止めが設置されている。長さ6両分程度の0番のりばを除いて、当駅から本州方面への長距離優等列車(寝台特急のさくら・みずほ・あかつきなど)が走っていた名残で、かなり長くなっている。2番のりばと3番のりばとの間にホームのない中線が1本ある。1・2番のりばの上屋は木製である。このホームの端(浦上駅寄り)に運転取り扱いの建物がある。かつては0番のりばのない島式2面4線であり、1・2番のりばは駅舎と直結し、長崎港駅(1997年廃止)につながる線路に面した3・4番のりばと駅舎とは跨線橋でつながっていたが、1993年頃にホームを頭端式に変更し、ほどなく跨線橋が廃止され、同時期に0番のりばが増設された。従来線路が延びていた敷地は屋外駐車場へと転用され、のち2000年9月にアミュプラザ長崎が建設された。ホーム西側には複数の側線が引かれ、旅客列車の留置線として使用されている。また、車両基地の長崎車両センターも同地に置かれている。
A長崎臨港線(臨海鉄道)の廃線跡は元船遊歩道として整備されている。
A長崎臨港線(臨海鉄道)の元船遊歩道脇にも橋台跡が残る。
B長崎臨港線(臨海鉄道)の廃線跡。
C長崎臨港線(臨海鉄道)の廃線跡。
D長崎臨港線(臨海鉄道)の廃線跡。
E長崎臨港線(臨海鉄道)の廃線跡。
F長崎臨港線(臨海鉄道)の廃線跡。
G長崎臨港線(臨海鉄道)の廃線跡。
H長崎臨港線(臨海鉄道)の廃線跡。
H帆船と軍監島クルーズ船(私の参加したツアー船ではない)
I長崎臨港線(臨海鉄道)の廃線跡。蒸気機関車の動輪が廃線跡に展示されている。
 I1930年(昭和5年)3月19日、長崎駅から出島岸壁に至る臨港鉄道(通称)が開通し、長崎港駅が開業しました。臨港鉄道は、現在のJR長崎駅からさらに南に約1.1q、玉江橋西に架けられていた鉄橋を渡り、出島岸壁に発着する日華連絡船と連結しました。現在、中島川河口部護岸に残っているのは、その鉄橋の橋台の一部です。当時既に大都市であった上海を訪れる大勢の旅客で、長崎港駅は賑わいました。「上海航路」は名古屋までとほぼ同じ距離で、所要時間は片道26時間、3等18円で、パスポートは不要。長崎〜東京間より安価な運賃でした。日華連絡船の長崎港入港日には、それに接続して上り急行列車が長崎駅から出発。この列車は関門航路を介して下関から上り急行「富士」に連絡しました。上海〜東京間の所要時間は54時間25分でした。
I港駅駅舎と出島岸壁に接岸する長崎丸。 I香港上海銀行と長崎ホテル(昭和初期)
 I「上海航路は」長崎都市史上、最も華やかな時期の象徴です。長崎は、1930年代のヨーロッパ文化の華が咲いた「上海バンド」およびその背後の居留地と直結していました。当時東洋一の国際都市上海の文化が、出島岸壁に上陸し、長崎港駅を経て我が国に拡がったと言えます。1942年(昭和17年)長崎丸は旧日本軍の機雷に触れ伊王島沖で沈没。翌年上海丸も、南方兵員輸送船崎戸丸と衝突して揚子港沖で沈み、これによって1943年(昭和18年)上海航路の歴史は就航から20年でその歴史の幕を閉じました。その後臨港鉄道は貨物輸送を行い、終戦直後は、母国に帰る捕虜の米兵が港駅まで汽車を利用しました。1982年(昭和57年)臨港鉄道は開業以来約50年でその役目を終えました。
I長崎市街図 明治30年代。 I長崎市内案内図 昭和9年。
 J長崎臨港線長崎港駅跡。長崎港駅(ながさきみなとえき)は、長崎県長崎市出島町にあった日本国有鉄道(国鉄)長崎本線の駅(廃駅)である。長崎駅より先に伸びる、長崎本線の終着駅となっていた。電報略号は、サト。上海航路の発着場との客貨接続を目的として1930年(昭和5年)3月19日に開設され、門司駅(現門司港駅)からの航路連絡のための列車(ボート・トレイン)が当駅まで乗り入れるようになった。長崎駅からの路線は長崎港の海岸沿いを走り、現在の出島ワーフ付近にあった当駅に到着。隣接する埠頭で上海航路の船に接続していた。1942年(昭和17年)11月に関門トンネルが開通したことに伴うダイヤ改正で特別急行列車「富士」が航路運航日に限り当駅まで延長された(その他の日は長崎駅まで)が、戦況の悪化に伴い翌1943年(昭和18年)10月には「富士」が博多駅までに短縮されてしまい、上海航路も終戦と共に運航されなくなってしまった。戦後も当駅は旅客・貨物とも扱う一般駅として残され、旅客については「上海航路連絡列車によるものに限る」とされたが、該当する旅客列車の運行は行われずに貨物線としてのみ利用されていた(ただし、一時期工場勤務者のための通勤列車が運行されていたという記録もある)。なお、廃止時まで長崎 - 当駅間は電化されなかった。そして、貨物扱いも1982年(昭和57年)に廃止され、国鉄分割民営化実施前日の1987年(昭和62年)3月31日をもって正式に廃止となった。現在廃止線跡地は歩道や公園となっている。
K長崎臨港線(臨海鉄道)の長崎港駅より先の貨物線跡。
L長崎臨港線(臨海鉄道)の長崎港駅より先の貨物線跡。
M長崎臨港線(臨海鉄道)の長崎港駅より先の貨物線跡。
N長崎臨港線(臨海鉄道)の長崎港駅より先の貨物線跡。
O長崎臨港線(臨海鉄道)の長崎港駅より先の貨物線跡。
P長崎臨港線(臨海鉄道)の長崎港駅より先の貨物線跡。
Q長崎臨港線(臨海鉄道)の長崎港駅より先の貨物線跡。
R長崎臨港線(臨海鉄道)の長崎港駅より先の貨物線の終点跡。ここから軍艦島ツアーです。
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