更新日時 2016年04月03日

廃線探索 沖縄県営鉄道糸満線
 沖縄県営鉄道糸満線は、現在の沖縄県那覇市にあった国場駅と、糸満市にあった糸満駅を結んでいた、沖縄県営鉄道の鉄道路線。1923年(大正12年)に県営鉄道3番目の路線として開業したが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月に運行を停止。沖縄戦で線路施設が破壊され、そのまま消滅した。那覇から糸満までは直線距離だと約10km位であるが、糸満線は東に大きく迂回する経路をとっている。また、山川駅 - 稲嶺駅間では当時の有力者であった大城幸之一という人物が自分の出身地へ線路を曲げたため、南から北へわざわざ戻るような軌道の敷き方がされていた。このカーブは「幸之一カーブ」と呼ばれた。終点の糸満駅は外地を除くと日本最南端の駅であった。
沖縄県営鉄道糸満線駅一覧
国場駅(こくば) - 津嘉山駅(つかざん) - 山川駅(やまがわ) - 喜屋武駅(きやん) - 稲嶺駅(いなみね) - 屋宜原駅(やぎばる) - 東風平駅(こちんだ) - 世名城駅(よなぐすく) - 高嶺駅(たかみね) - 兼城駅(かねぐすく) - 糸満駅(いとまん)
@沖縄県営鉄道の那覇駅構内の転車台遺見学会(2016年3月26日)
@沖縄県営鉄道の転車台遺構。上部はバスターミナル建設のため破壊されている(2016年3月26日)
@沖縄県営鉄道の転車台遺構。上部はバスターミナル建設のため破壊されている(2016年3月26日)
@現在地は昔、海だったため、埋め立て地の軟弱地盤の基礎を支える木杭(2016年3月26日)
@転車台のアンカーボルト。煉瓦の刻印は無い(2016年3月26日)
@転車台を上空から見た風景。 @転車台の発掘作業風景。
@転車台の発掘で出土した土器類(2016年3月26日)
@出土した犬釘。 @出土した歯ブラシ等。
@那覇駅構内の図面。 @沖縄県営鉄道那覇駅の当時の地図。
@那覇駅構内の当時の様子。 @沖縄県営鉄道の当時の車両。
@那覇駅構内転車台の当時の写真。
@2号遺跡左側と3号遺跡右側(2016年3月26日)
@車輌を下部から点検修理する検車台(2016年3月26日)
@那覇バスターミナルの再開発風景(2016年3月26日)
 A国場駅(こくばえき)は、1914年(大正3年)から1945年(昭和20年)までの間、沖縄県那覇市国場にあった沖縄県営鉄道与那原線・糸満線の駅(廃駅)である。駅構造は駅舎はスレート葺きの屋根を持ち、売店が併設されていた。駅長1名、助役1名と駅夫4名が配置されていた。那覇駅までの運賃は2等で8銭、3等で5銭であった。
B沖縄県営鉄道糸満線の国場駅 - 津嘉山駅間の廃線跡。廃線跡に道路橋が架かっている。
C沖縄県営鉄道糸満線の国場駅 - 津嘉山駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用されている。
D沖縄県営鉄道糸満線の国場駅 - 津嘉山駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用されている。
E沖縄県営鉄道糸満線の津嘉山駅跡。草むらの部分が駅跡。
F沖縄県営鉄道糸満線の津嘉山駅 - 山川駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用されている。
G沖縄県営鉄道糸満線の山川駅跡。那覇空港自動車道との交点部分。
 H戦前、ここから約50m西側には、軽便鉄道「山川駅」がありました。1914年(大正3年)から1945年(昭和20年)までの31年間、沖縄にも鉄道が走っていました。他府県の鉄道よりも規格が小さな軽便鉄道と言われるもので、人々からは「ケービン」と呼ばれ親しまれていました。沖縄県軽便鉄道(のちに沖縄県営鉄道に名称変更)は、1914年(大正3年)に与那原線、1922年(大正11年)に嘉手納線、1923年(大正12年)には糸満線がそれぞれ開通し、それまで人や荷物を運ぶ手段として活躍していた馬車から鉄道へと輸送手段は次第に移り変わっていきました。当時、南風原村内には与那原線の与那原駅と宮平駅、糸満線の津嘉山駅と山川駅、喜屋武駅という5箇所の駅がありました。しかし、1945年(昭和20年)の沖縄戦で多くの人命や文化遺産とともに鉄道も破壊され、人々から親しまれていたケービンも沖縄から姿を消してしまいました。
I沖縄県営鉄道糸満線の山川駅 - 喜屋武駅間の廃線跡。廃線跡は道路に転用されている。
 J沖縄県営鉄道糸満線の喜屋武駅跡。那覇から糸満までは直線距離だと約10km位であるが、糸満線は東に大きく迂回する経路をとっている。また、山川駅 - 稲嶺駅間では当時の有力者であった大城幸之一という人物が自分の出身地へ線路を曲げたため、南から北へわざわざ戻るような軌道の敷き方がされていた。このカーブは「幸之一カーブ」と呼ばれた。大城 幸之一は、日本の衆議院議員(政友本党→立憲民政党)。医師。沖縄県島尻郡玉城村(現在の南城市)出身。沖縄県病院附属医生教習所に入学し、在学中に医術開業試験試験に合格した。1900年(明治33年)に教習所を卒業し、県病院に勤務した。翌年には郷里に医院を開業し、後に沖縄県医師会代議員、島尻郡医師会副会長を務めた。1909年(明治42年)に玉城村会議員に選ばれ、さらに沖縄県会議員、同議長に選ばれた。1925年(大正14年)、衆議院補欠選挙で当選を果たした。その他、玉城村中部信用販売購買組合長、奥武漁業組合長を務めた。
K沖縄県営鉄道糸満線の喜屋武駅 - 稲嶺駅間の廃線跡。砂利道が廃線跡。
L沖縄県営鉄道糸満線の喜屋武駅 - 稲嶺駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
M沖縄県営鉄道糸満線の喜屋武駅 - 稲嶺駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
 N軽便駅かりゆし駅。この場所は糸満線の線路跡から若干ずれている。この場所の南側が沖縄県営鉄道糸満線の稲嶺駅跡。
O沖縄県営鉄道糸満線の稲嶺駅 - 屋宜原駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
P沖縄県営鉄道糸満線の屋宜原駅跡。駅跡はコンビニ跡の駐車場になっている。
Q沖縄県営鉄道糸満線の稲嶺駅 - 屋宜原駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
R沖縄県営鉄道糸満線の稲嶺駅 - 屋宜原駅間の廃線跡。
 Sかつて沖縄では、本土の汽車より規格が小さい軽便鉄道が走り、県民からは「ケービン」と呼ばれ親しまれていました。軽便鉄道は、1914年(大正3年)の運行開始から1945年(昭和20年)の沖縄戦で破壊されるまで沿線の多くの人々を乗せ、農作物も大量に運搬し、沖縄の産業振興に大きな役割を果たしました。現在の那覇バスターミナルにあった那覇駅を起点に与那原を結ぶ与那原線(約9.8km)、嘉手納を結ぶ嘉手納線(約23.6km)、糸満を結ぶ糸満線(約18.3km)の3路線が運行されていました。
@沖縄県営鉄道糸満線の東風平駅 - 世名城駅間の廃線跡。
A沖縄県営鉄道糸満線の東風平駅 - 世名城駅間の廃線跡。
B沖縄県営鉄道糸満線の東風平駅 - 世名城駅間の廃線跡。
C沖縄県営鉄道糸満線の世名城駅跡。
D沖縄県営鉄道糸満線の世名城駅 - 高嶺駅間の廃線跡。
E沖縄県営鉄道糸満線の高嶺駅跡。
F沖縄県営鉄道糸満線の高嶺駅 - 兼城駅間の廃線跡。未舗装の道路が廃線跡。
G沖縄県営鉄道糸満線の高嶺駅 - 兼城駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
H沖縄県営鉄道糸満線の高嶺駅 - 兼城駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
I沖縄県営鉄道糸満線の高嶺駅 - 兼城駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
J沖縄県営鉄道糸満線の高嶺駅 - 兼城駅間の廃線跡。道路が廃線跡。
K沖縄県営鉄道糸満線の高嶺駅 - 兼城駅間の廃線跡。水路に橋梁跡が残る。
L沖縄県営鉄道糸満線の兼城駅跡。JAおきなわの駐車場が駅跡。
M沖縄県営鉄道糸満線の兼城駅 - 糸満駅間の廃線跡。
N沖縄県営鉄道糸満線の兼城駅 - 糸満駅間の廃線跡。
 O沖縄県営鉄道糸満線の糸満駅跡。終点の糸満駅は北緯26度7分49 - 50秒の位置にあったと推定され、外地を除くと日本最南端の駅であった。この記録は現在も破られていない(現在の最南端駅は北緯26度11分36秒の沖縄都市モノレール線赤嶺駅)。なお、跡地には駅の便所と見られる構造物が残っている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『那覇市・糸満市』を掲載」