更新日時 2017年05月23日

廃線探索 住友金属鉱山下部鉄道
 住友金属鉱山下部鉄道は、1977年まで愛媛県新居浜市において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。「別子鉱山鉄道」や「別子鉄道」とも呼ばれた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として上部鉄道に先駆けること9ヶ月、当時住友財閥の初代総理人であり、別子銅山の総支配人でもあった広瀬宰平の専用鉄道として1893年(明治26年)3月15日に開業した。主に別子銅山から採掘された銅鉱石を製錬所や港湾へと輸送する役割を担ったが、1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで廃止された。
路線データ
路線距離:総延長14.5km  本線(端出場線):端出場(はでば) - 星越(ほしごえ) - 新居浜港間 10.3km
惣開支線:星越 - 惣開(そうびらき)間 1.6km  国鉄連絡線:星越 - 新居浜駅間 2.6km  軌間:762mm
複線区間:星越 - 多喜ノ宮信号所間  電化区間(直流600V):端出場 - 星越間、星越 - 惣開間
駅一覧
本線
端出場駅 - 黒石駅 - 板ノ元駅 - 山根駅 - 土橋駅 - 多喜ノ宮信号所 - 星越駅 - 昭和橋駅 - 新居浜港駅
惣開支線
星越駅 - 磯浦駅(臨時駅) - 惣開駅
国鉄連絡線
星越駅 - 多喜ノ宮信号所 - 新居浜駅
専用鉄道区間
端出場駅 - 打除駅
 住友化学愛媛工場歴史資料館:当館は住友化学の前身の住友総本店直営肥料製造所が設立されてから現在に至るまでの資料を展示している。建物は住友銀行新居浜支店として1901年(明治34年)に建築され、1958年(昭和33年)まで使用されていた。2001年(平成13年)に登録有形文化財に登録され、2007年(平成19年)に近代化産業遺産に認定された。館内は一部二階建てで、6つのセクションで紹介されている。「總開之記」碑(そうびらきのきひ):1890年(明治23年)別子開坑200年祭を記念して建てられた。書は高橋泥舟による。
 構内牽引電車:この電車は、昭和2年(1927年)住友別子鉱山(株)機械課で製作されたもので、構内で燐鉱石等を運搬するために昭和39年(1964年)まで使用されました。当時は燐鉱石と硫酸を反応させて、過燐酸石灰(肥料)を生産していた。昭和39年に過燐酸石灰の生産縮小により、電車も使用休止となりましたが、構内倉庫で保管していました。
@住友金属鉱山下部鉄道の新居浜港駅はこの先の住友金属鉱山の敷地内。
A住友金属鉱山下部鉄道の昭和橋駅 - 新居浜港駅間の廃線跡。ガーター橋は昭和橋。
A住友金属鉱山下部鉄道の昭和橋駅 - 新居浜港駅間の廃線跡。ガーター橋は昭和橋。
B住友金属鉱山下部鉄道の星越駅 - 昭和橋駅間の廃線跡。
C住友金属鉱山下部鉄道の星越駅 - 昭和橋駅間の廃線跡。
D住友金属鉱山下部鉄道の星越駅 - 昭和橋駅間の廃線跡。
@現在の住友化学(旧住友金属鉱山)惣開駅周辺。
A住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の星越駅 - 惣開駅間の廃線跡。
B住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の星越駅 - 惣開駅間の廃線跡。
C住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の星越駅 - 惣開駅間の廃線跡。星越トンネル。
D住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の星越駅 - 惣開駅間の廃線跡。星越トンネル。
E住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の星越駅 - 惣開駅間の廃線跡。
E住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の星越駅 - 惣開駅間の廃線跡。橋の構造も趣がある。
F住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の星越駅跡。
G住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の多喜ノ宮信号所 - 星越駅間の廃線跡。
H住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の多喜ノ宮信号所 - 星越駅間の廃線跡。
I住友金属鉱山下部鉄道惣開支線の多喜ノ宮信号所 - 星越駅間の廃線跡。
J廃線跡の遊歩道は一般道の下を潜り抜け新居浜駅方面へ。(国鉄連絡線)
J廃線跡の遊歩道は一般道の下を潜り抜け新居浜駅方面へ。(国鉄連絡線)
K住友金属鉱山下部鉄道の国鉄連絡線の廃線跡。
L住友金属鉱山下部鉄道の国鉄連絡線の廃線跡。
L住友金属鉱山下部鉄道の国鉄連絡線の廃線跡。
M住友金属鉱山下部鉄道の国鉄連絡線の廃線跡。
N住友金属鉱山下部鉄道の国鉄連絡線の廃線跡。
O住友金属鉱山下部鉄道の国鉄連絡線の廃線跡。
P住友金属鉱山下部鉄道の国鉄連絡線の廃線跡。
Q住友金属鉱山下部鉄道の国鉄連絡線の廃線跡。
@住友金属鉱山下部鉄道本線。
A住友金属鉱山下部鉄道本線。
B住友金属鉱山下部鉄道本線。
C住友金属鉱山下部鉄道本線。
C住友金属鉱山下部鉄道本線。
D住友金属鉱山下部鉄道本線。
E住友金属鉱山下部鉄道本線。
F住友金属鉱山下部鉄道本線。
G住友金属鉱山下部鉄道本線。
H住友金属鉱山下部鉄道本線。
I住友金属鉱山下部鉄道本線。
J住友金属鉱山下部鉄道本線。
K住友金属鉱山下部鉄道本線。
L住友金属鉱山下部鉄道本線。
M住友金属鉱山下部鉄道本線。
N住友金属鉱山下部鉄道本線。
O住友金属鉱山下部鉄道本線。
P住友金属鉱山下部鉄道本線。
Q住友金属鉱山下部鉄道本線。
 R住友金属鉱山下部鉄道本線。廃線跡の配線トラフは端出場駅に有る水力発電所から旧惣開駅の住友化学へ。
S山根駅手前に橋の橋台跡が。 S住友金属鉱山(株)別子事業所。
S銅精錬の排水処理施設か? S山根処理場百年祭記念碑。
S住友金属鉱山下部鉄道本線、山根駅跡。駅舎や駅のプラットホームが見える。
S住友金属鉱山下部鉄道本線、山根駅跡。レール跡が残る。
@住友金属鉱山下部鉄道本線。神社の階段の途中に線路跡が残る。
@住友金属鉱山下部鉄道本線。神社の階段の途中に線路跡が残る。
A住友金属鉱山下部鉄道本線。
A住友金属鉱山下部鉄道本線。
B住友金属鉱山下部鉄道本線。
C住友金属鉱山下部鉄道本線。
D住友金属鉱山下部鉄道本線。
D住友金属鉱山下部鉄道本線。
E住友金属鉱山下部鉄道本線。
F住友金属鉱山下部鉄道本線。
G住友金属鉱山下部鉄道本線。
H住友金属鉱山下部鉄道本線。
I住友金属鉱山下部鉄道本線。
I住友金属鉱山下部鉄道本線。
J住友金属鉱山下部鉄道本線。
K住友金属鉱山下部鉄道本線。
L住友金属鉱山下部鉄道本線。黒石駅跡。
M住友金属鉱山下部鉄道本線。
N住友金属鉱山下部鉄道本線。
O住友金属鉱山下部鉄道本線。
P住友金属鉱山下部鉄道本線。
Q住友金属鉱山下部鉄道本線。
R住友金属鉱山下部鉄道本線。
S廃線跡はマイントピア別子につながっている。
 Sマイントピア別子(端出場駅)につながるトンネル。上の廃線跡と段差があり、2ライン以上線路が有ったようだ。
 S高台に有る廃線跡。(ここから遊歩道になっている)廃線の下を潜る人道。
S廃線の下を潜る人道。 S右コンクリート部分が高台に有る廃線。
 S炭宿窯。
S高台に有る廃線跡に登る階段。 S低い位置に有る廃線跡。
S低い位置の廃線跡に鉱山用のトロッコが。 Sコンクリートの壁の上が廃線跡。
 S端出場貯鉱庫跡:坑内から運び出された鉱石を貯める施設。大正8年(1919年)完成。端出場は明示26年(1893年)の別子鉱山鉄道開通以来、物資運搬の中継基地として重要な位置を占めていた。大正4年(1915年)第四通洞(海抜156m)が貫通し、さらに、大立坑によって東平の第三通洞(海抜750m)と結ばれると、坑内運搬の大動脈が完成した。これにより端出場は東平に続く採鉱拠点として整備が進められ、貯鉱庫、端出場仮手選鉱場、四通橋などが造られた。貯鉱庫の上には、第四通洞からの軌道敷きが延び、鉱石運搬車が貯鉱庫の上から鉱石を落として鉱石を貯める仕組みであった。また、貯鉱庫の前には、破砕場があり、貯鉱庫全面4カ所に開けられた横穴は、鉱石を破砕場へ移すためのものである。昭和2年(1927年)8月、端出場手選場が完成すると、それまで東平に運ばれていた鉱石は端出場に集められることとなり、さらに昭和5年(1930年)5月、採鉱本部が東平から端出場に移ると、昭和48年(1973年)3月31日の終掘まで採鉱の中心地となった。
Sトンネルが見える。 S低い位置の廃線跡に鉱山用のトロッコが。
Sマイントピア別子の建物。
S線路が残っている。 S下部の点検場?
Sはでば駅には観光用のトロッコ列車が走っている。
Sトロッコ列車。 S高台の廃線跡は花の散歩道になっている。
Sトロッコ列車の線路。
Sトロッコ列車に乗るとこのトンネルを通る。次回時間がある時に乗ってみよう。
S砂金取りの体験ができる。(温水らしい) S野外ステージがある。
 S第四通洞・四通橋:14番坑道準の海抜156mにある端出場坑口と大立坑を結ぶ輸送路で明治43年(1910年)に開鑿に着工し、大正4年(1915年)に貫通した。通洞の延長は4,596m。工事には、インガーソル式圧縮機、フランクリン式圧縮機を動力とする削岩機が使用された。採鉱場も更に下部へと移行したことから鉱石の搬出は第三通洞から第四通洞に移り、昭和5年(1930年)には採鉱本部が第三通洞のある東平から第四通洞のある端出場に移転した。
 Sその後、伐津下部に向けて、延長5,100mの採鉱通洞が昭和10年(1935年)から開鑿され、昭和17年(1942年)に貫通し、全長10,000mの大通洞になり伐津坑の操業にも大きく貢献した。昭和48年(1972年)の別子銅山休山までの間、大動脈として活用された最後の水平坑道。端出場と大立坑道プラット間には、トロリー電車を走らせていた。
 S四通橋は大正8年(1919年)に大動脈の第四通洞に接続したトラス橋として足谷川に架る橋として開通した。大正12年(1923年)から全坑水を第四通洞から排水することとなり、四通橋の東側に坑水管が通っている。
 S中なら冷たい空気が外部の湿度と混じり合い幻想的な風景が・・・
 第四通洞:輸送の合理化を図るため明治43年(1910年)に着工し大正4年(1915年)に開通した別子銅山の大動脈です。長さが約4,600mの水平通洞でアーチ型の堅固なトンネルの入り口には住友家15代家長住友吉左右衛門友純氏の筆による「第四通洞」の端正な文字が深々と刻まれています。
S第四通洞はイギリス積みで積まれている。
S四通橋及び奧の橋は足谷橋。
 S打除(うちよけ)鉄橋:この鉄橋は明治26年(1893年)に架設した単純曲弦トラス橋で格点(連結点)がピン(鉄の丸棒)構造になっており この種の橋は今では国内には殆ど現存せず左右の曲弦がズレていること等から学術研究上貴重なものです。なおこの橋は住友の小川東吾氏が設計した別子銅山専用鉄橋としてドイツの製橋会社が製作したものです。
Sトロッコ列車が橋を渡る。次回時間がある時に乗ってみよう。
S打除(うちよけ)鉄橋。
Sトロッコ列車は電動か?
S鉱山用の機械類。
Sトロッコ列車。 S奧に隧道が見える。
S鉱石を積んだトロッコのレプリカと坑口橋。
S端出場坑道(現在は観光坑道)入口。
S内部は観光坑道になっている。 S四国の地質構造図。
 S江戸ゾーン:歓喜坑は、元禄4年(1691年)に開かれた別子銅山の最初の坑道でした。人々はこの将来有望な銅山の坑口に立って、前途を祝福し、抱き合って歓喜したことから、この名がつけられたといいます。別子銅山の歴史は、人跡未踏の銅山峰の南側で、元禄3年(1690年)阿波生まれの鉱夫「切上り長兵衛」が露頭を見つけたことに始まったと伝えられています。翌年、幕府の許しを受けて大阪泉屋(住友の古い屋号)により採掘が開始されました。
 S負夫と堀子:坑口の上には、銅山の守護神が祭ってありました。背に葛で編んだ篭を背負った運搬夫(負夫)と採鉱夫(堀子)はサザエの貝殻でつくった明かり取りを手にして坑内に入りました。堀場(つぼ)採鉱は主につちと鑿などを使い手作業で行われました。また、地表近くの通気の良いところでは、薪に火を付け、この熱で砕き、鉱石を採る方法も使われました。
S湧き水の引き上げ。 S坑口と風呂場。
S砕女小屋。 S銅の製錬。
S1.焼窯、2.一番吹、3.二番吹、4.三番吹。 S仲持ち(運搬夫)
S粗銅改め。 S山神社。
S巨大ジオラマ:別子銅山の明治から昭和の模様を一箇所に集約した物です。
S巨大ジオラマ。 S当時の写真。
S狸穴。 S別子銅山のビデオ。
Sキャップランプ充電器。 S削岩機。
S鉱山機器の展示。
S遊学パーク。
S磁硫鉄鋼。 S縞状鉱(皮鉱)〜網状鉱(塊状緑色岩)
S鏡鉄鉱(赤鉄鉱)、閃亜鉛鉱・黄鉄鉱。 S金鉱石(北海道鴻ノ舞鉱山)
S斑銅鉱。 S磁鉄鉱、タングステン鉱石。
S岩砂。 Sスズ鉱石。金鉱石。
Sクロム鉱石。 S望遠鏡・ガスマスク。
S電話。53号C電話機。
Sトランシット。 S水平器。風速機。
200発掛発破機。3型張力系。
Sコンデンサー式発破機。テスター。 S索道ゴンドラの模型。
S仲持体験。 S持ち上げ岩。
S削岩機の遊具。 S遊学パーク。
S端出場坑道(現在は観光坑道)出口。
 S煉瓦水路:坑内水流水路の一部です。ここから、また木製の水路に継ぎ、鉄道線路脇の坑水路で山根収銅所に流送して浄化処理をしました。明治35年(1902年)、標高約750mの所に第3通洞延長1800mができると、上部地区の鉱石の運び出しが便利になると同時に、坑内水も排出されました。坑内水は、地表から浸透した水が含銅硫化鉄鉱と接触して強い酸性となり、銅や鉄の析出金属を含んだ鉱毒水となります。この水を川に流すと土壌が汚染され環境が破壊されますので、坑口から木製の水路を連ね、途中、水流変更箇所には会所(水溜池)を、急流部分には煉瓦水路を作って急峻な山肌を延々と流してきました。
S煉瓦水路の煉瓦の刻印。←煉瓦の刻印の詳細は左リンクを見てください。
Sバーベキューコーナーもある。
 S泉寿亭(せんじゅてい):昭和12年、住友各企業の迎賓館として建てられた京風の数寄屋造りの純和風の建物。住友由緒の「泉屋」を「寿(ことほ)ぐ」館として、泉寿亭と名付けられた。この地に移管されているのは、泉寿亭の客室用の玄関と客室の一部で、名板は織田子青の筆によるものである。
Sマイントピア別子の建物。
 S旧端出場水力発電所:明治45年完成。明治時代の後期、大量出鉱体制を整えつつあった別子銅山では、電力の増強が課題であった。そこで銅山峰の南を流れる銅山川とその支流の水を利用した水力発電を行うこととした。日浦に集められた水は、日浦通洞(明治44年(1911年)貫通)と第三通洞(明治38年(1905年)貫通)を通り、水路で石ヶ山丈(海抜750m)の煉瓦造の水槽まで引水し、当時日本一を誇った落差597.18mの水力を利用して発電を行った。 大正時代に入り、水路の拡張と発電機の増設を実施。この増設により、大正10年(1921年)から始まった四阪島製錬所の大改造計画で急務とされた、蒸気動力の電気転換のための電気供給が可能となり、同11年新居浜-四阪島間約20qの海底ケーブルが施設され、送電が開始された。昭和45年(1970年)発電所は廃止されたが、煉瓦造りの建物内には、運転開始時のドイツ国シーメンス社製の発電機や同国フォイト社製の水車などが残っている。
S金が含まれている鉱石。1800万円。 S別子銅山の模型。
S別子鉱山で取れた鉱石類。
S別子鉱山で使われていた消防車。 S大ノ:古式により毎年元旦に銅山守護神である大山積み神社に奉献された大いなる鉱石。
Sマイントピア別子内にある売店。鉱石類が多く売られている。
Sマイントピア別子。入口。
マインは「鉱山」トピアは「ユートピア」(理想郷)
 S゚煉瓦(からみれんが):゚(からみ)で作った煉瓦。重さは1個約60s。゚とは、鉱石の製錬過程で生ずる廃棄物で、スラグ、鉱滓(こうさい)ともいう。゚煉瓦は明治38年(1905年)に操業を開始した四阪島精錬所で作られたものであろう。
S滝と四通橋が見える。 S由来記。
東洋のマチュピチュ 別子銅山東平へ 住友別子鉱山上部鉄道へ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典: 「国土地理院の電子国土Web(地図画像)『新居浜市』を掲載」