更新日時 2016年01月04日

廃線探索 下北交通大畑線
 大畑線(おおはたせん)は、下北交通が運営していた鉄道路線。青森県むつ市の下北駅で大湊線から分岐して下北半島を横断し、下北郡大畑町(現むつ市)の大畑駅までを結んでいたが、2001年に廃止された。旧国鉄の特定地方交通線である。津軽海峡に面した下北半島は日本の国防上重要な拠点で、陸奥湾側の拠点のあった大湊まで鉄道が開業したのは1921年のことであった。翌年に制定された改正鉄道敷設法においても別表第1号に「青森縣田名部ヨリ大畑ヲ經テ大間ニ至ル鐡道」として規定されたが、しばらく着手されることはなかった。この予定線が建設線に昇格するのは、大間にあった海軍の要塞の施設強化に伴うもので、1937年に第1期線として下北 - 大畑間が着工され、1939年に開業した。大間までの予定線(大間線)も引き続いて建設が進められたが、太平洋戦争の戦局悪化にともなって1943年12月に工事は中止された。津軽海峡の対岸にあたる北海道の亀田半島においても要塞の施設強化のため戸井線が建設されていたが、これも未成のまま工事が中止されている。戦後しばらくは、海産物や木材の輸送で活況を呈したが次第に減少し、1980年に国鉄再建法が成立すると第1次特定地方交通線に指定された。協議会では一時バス転換に傾いたものの、1984年になって南部縦貫鉄道が大湊線とセットでの引受を表明。これに対し地元のバス会社「下北バス」が経営地盤の防衛から引受けを表明し、一転して鉄道として存続することとなった。特定地方交通線が純民間資本の民営鉄道に引き継がれた希な例で、他には同じ青森県の弘南鉄道に引き継がれた黒石線があったが、バス会社の鉄道引受としては唯一の例である。下北バスには、鉄道経営の経験はなかったが、バス事業で関係のあった京浜急行電鉄の指導を受け、1984年に社名を下北交通に改称。1985年7月に大畑線の営業を引き継いだ。しかしその後も経営は苦しく、車両や施設の老朽化も相まって、結局廃止されることとなった。当初2001年6月1日廃止予定だったが、2か月早まって2001年4月1日に廃止された。
駅一覧:下北交通大畑線(廃線)
下北駅 - 海老川駅 - 田名部駅 - 樺山駅 - 陸奥関根駅 - 川代駅 - 正津川駅 - 大畑駅
 @下北駅(しもきたえき)は青森県むつ市下北町にある東日本旅客鉄道(JR東日本)大湊線の駅。本州最北の駅でもあり、駅舎のホーム側には「てっぺんの駅」という看板が掲げられている。
 @島式ホームの片側を使用する形の棒線構造で、ホームの反対側(旧1番線)は2001年まで下北交通大畑線が使用していた。かつては大湊から大畑方面に直通できる配線で、列車は大湊駅から折り返す形で直通運転を行なっていたが、大畑線の転換時に線路の接続は断たれている。大湊駅管理の社員配置駅(大湊駅所属下北在勤、早朝夜間駅員不在)。駅舎にはみどりの窓口(営業時間:7時30分〜19時50分、閉鎖時間あり)とタッチパネル式自動券売機が1台ある。下北交通大畑線廃止まではJR駅員はホーム上で改札を行っていた。
A下北駅 - 旧海老川駅間の大畑線廃線跡。
A下北駅 - 旧海老川駅間の大畑線廃線跡。
A下北駅 - 旧海老川駅間の大畑線廃線跡。
B下北駅 - 旧海老川駅間の大畑線廃線跡。
B下北駅 - 旧海老川駅間の大畑線廃線跡。
B下北駅 - 旧海老川駅間の大畑線廃線跡。
 C旧海老川駅跡周辺。海老川駅(えびかわえき)は、かつて青森県むつ市昭和町にあった下北交通大畑線の駅である。同線の廃止に伴い廃駅となった。単式ホーム1面1線。大畑駅に向かって左側にホームがあった。
D旧海老川駅 - 旧田名部駅間の大畑線廃線跡。
D旧海老川駅 - 旧田名部駅間の大畑線廃線跡。
D旧海老川駅 - 旧田名部駅間の大畑線廃線跡。
E旧海老川駅 - 旧田名部駅間の大畑線廃線跡。
E旧海老川駅 - 旧田名部駅間の大畑線廃線跡。
F旧海老川駅 - 旧田名部駅間の大畑線廃線跡。田名部川に架かる橋梁。
G旧海老川駅 - 旧田名部駅間の大畑線廃線跡。
G旧海老川駅 - 旧田名部駅間の大畑線廃線跡。
 H田名部駅(たなぶえき)は、青森県むつ市にある下北交通大畑線の駅であったが、大畑線廃止と同時に2001年3月31日限りで廃駅となった。現在、駅舎は社会福祉会館として使われている。
 H廃止時は1面1線の単式ホームであったが国鉄時代は2面2線の相対式ホームだった。下北交通に転換されてから使われていたのは旧下り線で、旧上り線の線路部分は花壇になっていた。また旧上りホームも残っていた。 廃止時に至るまで社員配置駅で、駅舎には出札窓口とトイレ、むつ市役所田名部連絡所があった。 駅前から恐山行のバスが出ていた。
I旧田名部駅 - 旧樺山駅間の大畑線廃線跡。
I旧田名部駅 - 旧樺山駅間の大畑線廃線跡。
J旧田名部駅 - 旧樺山駅間の大畑線廃線跡。
J旧田名部駅 - 旧樺山駅間の大畑線廃線跡。
K旧田名部駅 - 旧樺山駅間の大畑線廃線跡。
L旧田名部駅 - 旧樺山駅間の大畑線廃線跡。
L旧田名部駅 - 旧樺山駅間の大畑線廃線跡。
 M樺山駅(かばやまえき)は、青森県むつ市大字田名部字北椛山にある下北交通大畑線の駅であったが、大畑線廃止と同時に2001年3月31日限りで廃止された。かつては交換設備を有しており貨物取扱があったが、廃止時には単式ホーム1面1線であった。
M周辺は草木が生い茂っている。また冬は除雪が行われないため、駅跡への訪問は不可能となる。
N旧樺山駅 - 旧陸奥関根駅間の大畑線廃線跡。
O旧樺山駅 - 旧陸奥関根駅間の大畑線廃線跡。
P旧樺山駅 - 旧陸奥関根駅間の大畑線廃線跡。
Q旧樺山駅 - 旧陸奥関根駅間の大畑線廃線跡。
 R陸奥関根駅(むつせきねえき)は、青森県むつ市大字関根字関根にある下北交通大畑線の駅であったが、大畑線廃止と同時に2001年3月31日限りで廃駅となった。
 Rかつては交換設備を有しており貨物取扱があったが、廃止時には単式ホーム1面1線であった。ホーム跡が残っている程度である。
@旧陸奥関根駅 - 旧川代駅間の大畑線廃線跡。出戸川橋梁。
@旧陸奥関根駅 - 旧川代駅間の大畑線廃線跡。出戸川橋梁。
@スタンドバイミーを歌いながら出戸川橋梁を渡る息子(笑)でも列車は来ません。
 A川代駅(かわだいえき)は、青森県むつ市大字関根字川代にある下北交通大畑線の駅であったが、大畑線廃止と同時に2001年3月31日限りで廃駅となった。かつては交換設備を有しており貨物取扱があったが、廃止時には単式ホーム1面1線であった。ホーム跡が残っている程度である。
B旧川代駅 - 旧正津川駅間の大畑線廃線跡。
C旧川代駅 - 旧正津川駅間の大畑線廃線跡。
D旧川代駅 - 旧正津川駅間の大畑線廃線跡。正津川橋梁。
 E正津川駅(しょうづがわえき)は、青森県下北郡大畑町大字正津川字平(現むつ市大畑町正津川字平)にある下北交通大畑線の駅であったが、大畑線廃止と同時に2001年3月31日限りで廃駅となった。
Eかつては交換設備を有しており貨物取扱があったが、廃止時には単式ホーム1面1線であった。
F旧正津川駅 - 旧大畑駅間の大畑線廃線跡。
G旧正津川駅 - 旧大畑駅間の大畑線廃線跡。
H旧正津川駅 - 旧大畑駅間の大畑線廃線跡。コンクリートの橋梁。
I旧正津川駅 - 旧大畑駅間の大畑線廃線跡。
J旧正津川駅 - 旧大畑駅間の大畑線廃線跡。 J本州最北の駅であったことを示す標柱。
 J大畑出張所(おおはたしゅっちょうじょ)とは、青森県むつ市大畑町にある下北交通のバス案内所である。元々は同社が運営していた鉄道路線である大畑線の大畑駅であったが、大畑線の廃止により2001年4月1日に廃駅となり、現在に至っている。かつての本州最北の駅。
 J片面1面1線。その他、引き込み線と留置線(2線)、車庫(保守基地)があった。
駅舎は下北交通鉄道部とバス部門の大畑出張所が一緒になっていた。なお、バス出札窓口と鉄道出札窓口は別々に設置されていた。その他、売店があった。
 J廃止となった大畑駅の駅舎をそのまま利用している。 駅舎は待合所となっており、バス出札窓口と売店(現在は撤退)がある。 ホームや構内の線路、車庫は現在も残されており、大畑線で使用されていたキハ85形気動車(旧国鉄キハ22形)の動態保存に活用されている。毎年4月から11月までの第四日曜日、JALインターナショナル(旧日本エアシステム)のパイロットたちで作る団体「大畑線キハ85動態保存会」がキハ85形の運転会を行っている。
J公開日の前日に行ったらキハ85形(キハ85-1)の運転体験をさせてもらいました。
Jキハ85形(キハ85-1)の運転体験をさせてもらいました。(通常は運転体験はやっていません)
Jキハ85形(キハ85-1)
 Jキハ22形:キハ21形は北海道の酷寒地での防寒性能が不満足であったことから、北海道用の耐寒仕様車として完全に新設計されたものである。1958年から製造開始された。車体両端にドアを配置してデッキ付きとし、側窓は小型の一段上昇式二重窓として保温性を高めている。暖房装置はエンジン冷却水利用の温水暖房として強化し、かつ放熱フィンを大型化して効率を良くした。床は雪が融けて濡れた時の滑りにくさや雪靴の金具への対策から木張りとされ、保温性向上のため本州以南向けの標準車に比べて50mm厚くされた。そのため、客室窓・乗務員用扉・運転台窓・貫通路扉(幌枠高さは標準車と同じ)・尾灯の位置もキハユニ25 7を除く20系他車よりも高い。
 J室内色も暖色系の薄茶色4号とされ、車端部がロングシートであること、窓側に肘掛けがないこと、洗面所がないことを除けば、準急形キハ55系に遜色ない水準であった。床下機器のカバーリングや冷却水による保温をはじめ、補器類に至るまで徹底した耐寒・耐雪措備が施され、北海道の酷寒地での実用上も十分な耐寒能力が確保された。本形式のスペックは、以後の北海道用車両における耐寒設計の基本となった。他のキハ20系中期車と同様、座席や室内灯(白熱灯→蛍光灯20W直管→蛍光灯40W直管)などが製造途中で改良された。屋根上の通風器は初期の車両では6個であったが、後の車両では7個、9個と変更され、客車用のガーランド形通風器を装備した車両も存在する。最終の設計変更では外ハメ式の尾灯やハニカムコア構造の客用ドアも採用されたが、すでにキハ52形100番台で採用されていた横型機関は本形式では採用されなかった。
J手作り(笑)のサボ原価100円だそうです。
Jキハ22形(キハ22-150)とキハ85形(キハ85-3) Jキハ85形(キハ85-3)
Jキハ22形(キハ22-150)
Jキハ22形(キハ22-150)の車内。 J協三工業製10tDL機関車とヨ8000形。
J協三工業製10tDL機関車。
J協三工業製10tDL機関車。
 Jヨ8000形は、日本国有鉄道(国鉄)が1974年(昭和49年)から1979年(昭和54年)までに製造した事業用貨車(車掌車)である。従来から使用されてきたヨ5000形やヨ6000形の補充や、それ以前の老朽化した車掌車や有蓋緩急車などの置き換え用として、1974年(昭和49年)から1979年(昭和54年)までに1168両が製作された。製作メーカーは日本車輌製造・川崎重工業・三菱重工業・国鉄若松車両センターの4社所である。
 J性能や外観は従来の車掌車から大幅に変化し、乗務環境を向上させた最新設備の形式として大量に製作され全国で使用されたが、1986年(昭和61年)に貨物列車の車掌乗務が原則廃止され、本来の用途を喪失した。翌年の1987年(昭和62年)に行われたJR移行では、添乗や控車などの用途に使用するため一部が承継されたが、使用頻度は漸次減少しており、淘汰が進んでいる。
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