廃線探索 勿来軌道

更新日時 2010年02月09日

 勿来軌道は明治39年(1906年)に窪田村、川部村の有力者により、勿来駅から川部村小川間 5.8qの馬車軌道の軌間762mmの敷設申請。明治39年(1906年)には窪田に本社を設置した。明治40年(1907年)には勿来軽便馬車鉄道株式会社から改称し勿来軌道株式会社として登記が完了。明治41年(1908年)には敷設許可が下され勿来駅〜窪田村白米酒井原まで4.56qまでの敷設が完了し、明治42年(1909年)より営業を開始した。窪田村から川部村は専用軌道に変更や災害復旧に手間取り、明治43年(1910年)に開業がずれ込んだ。
開設 明治42年(1909年)年03月31日
廃止 昭和15年(1940年)年03月01日
勿来駅〜川部村(現いわき市川部)小川字橋本
6.02km 軌間 762mm
 @勿来駅(なこそえき)は、福島県いわき市勿来町関田寺下にある東日本旅客鉄道(JR東日本)常磐線の駅。駅構造は単式ホーム1面1線と島式ホーム1面2線を持つ地上駅。2つのホームの間に中線が1本ある。また、かつて貨物の取り扱いに使用されていた留置線が残存する。2006年(平成18年)3月から「もしもし券売機Kaeruくん」が設置され、それに伴いみどりの窓口が閉鎖された。Suica対応自動改札機設置。
 @勿来関(なこそのせき)は、古代から歌枕となっている関の1つ。江戸時代の終わり頃からは「奥州三関」の1つに数えられている。「なこそ」とは、古語における「禁止」の意味の両面接辞『な〜そ』に、『来(く)』(カ行変格活用)の未然形「こ」が挟まれた「な来そ」に由来する。現代語では「来るな」という意味。「なこその関」は関とよぶも関所とはよばない。一般に「なこその関」は、白河関、念種関(『吾妻鏡』の表記。江戸時代以降は鼠ヶ関、ほかに念珠ヶ関とも)とともに「奥州三関」に数えられている。「奥州三関」は、「奥州三古関」「奥羽三古関」「奥羽三関」とも呼ばれる。
@勿来駅の跨線橋から勿来軌道の廃線跡を探る。
@勿来軌道は勿来駅の西側から北西に向けて軌道が敷かれていたと思われる。
@この部分で旧軌道と勿来軌道が合流する。
A北西に進んだ軌道は西へ向かう。 A潮見台バス停付近。
B常磐交通の四沢作田バス停付近に勿来軌道の四沢乗降場があったものと思われる。
C勿来軌道は道路の真ん中を走っていたらしい。
D県道10号線が窪田町内で道路がクランクしている。これに沿って軌道もクランクしていたと思われる。
E旧街道との分岐点右が旧街道。 E反対側から見た旧街道の合流点。左が旧街道。
F勿来軌道の軌道跡だが、痕跡は何も無い。
G勿来軌道の軌道跡だが、痕跡は何も無い。常磐自動車道を越えた辺り。
H昔はこの切り通しは隧道だったと言われている。
Hかなりの急勾配だが、昔の軽便規格の鉄道で登れたのだろうか?
I勿来軌道の軌道跡と思われるが痕跡は一切無い。
Jこの切り通し部分も昔は隧道だったと言われている。
K勿来軌道の軌道跡と思われるが痕跡は一切無い。
L小川停車場周辺。
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