廃線探索 谷地軌道

更新日時 2011年05月07日

 谷地軌道は河北地方の農業、蚕業を主な産業とし、特産物として草履表・清酒等や、葉山山麓にあった古河鉱業所有の2つの銅山(永松銅山、幸生銅山)の輸送を主目的に谷地の事業家升川勝作氏が、大正4年(1915年)に「谷地軌道株式会社」を設立したことに始まる。大正5年1月27日に開通して、山形県初の私鉄となった。資本金は30万円でルートは山形県河北町谷地と、東根市神町との間5.6kmを結んでいた。駅は神町駅、羽入駅、藤助新田駅、谷地駅の4駅が設けられた。特徴的だったのは危険な火の粉を防ぐため、煙突に覆いをしたことで、里芋の様な形となり「いもこ列車」と呼ばれるようになった。軌間(レール間の幅)762ミリの軽便鉄道です。バス・トラック等の交通機関に押され始めたことや沿線の煤煙被害への賠償等で経営は次第に苦しくなり、内燃機関動力車の導入によって燃料効率の向上や公害対策をとって生き残りを図ろうとしましたが、試運転時の勾配区間での成績が思わしくなく実現しませんでした。最上川の木製橋梁が老朽化し、架け替えには巨額の費用がかかる上にそれを実施したとしてもその後採算をとるのは極めて困難、という事態に直面し、昭和10年(1935年)10月01日限りで谷地軌道は廃止されることになります。
谷地軌道駅一覧
神町駅 - 羽入駅 - 藤助新田駅 - 谷地駅
 @神町駅(じんまちえき)は、山形県東根市神町中央一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)奥羽本線(山形線)の駅。2000年(平成12年)頃までは、駅舎の大部分の地籍が「天童市大字乱川字西原」と天童市の飛地となっていたが、その後天童市が無償譲渡する形で東根市に帰属された。
 @神町駅構造は山形新幹線の新庄延伸工事が開始されるまでは、単式・島式混合2面3線で単式ホーム側に駅舎のある構造を持っていたが、工事が始まってからは単式ホーム1面1線を残しすべて撤去され、列車の行き違いが出来なくなった。戦前は海軍の神町海軍航空隊基地の最寄り駅として栄えた。戦後は現在の神町駐屯地に米軍キャンプがあったとき、キャンプ内へ当駅から約3kmの専用線があった。現在でも神町 - 乱川間の約1kmの線路脇が広いのはその名残である。当駅にはRTO(連合軍鉄道運輸司令部事務所)が置かれたほどで大変重要な役割を果たした。現在も駅脇には広大な空き地が広がり、かつての構内の広さを偲ぶことができる。駅舎は非常に立派で、かつての栄華を思い起こさせる。現在使われている駅への入口は駅舎に向かって右端にあるが、これよりも立派な正面玄関が駅舎の中ほどに使われずに残っている。この玄関はRTO事務所への入口で、占領下の面影を今に残す貴重な遺産である。この駅舎は木造2階建てで天井は高く、待合所中心部には大きな柱が立ち、駅舎内には出札口・簡易自動券売機がある。いまだに小荷物扱いの受付窓口が残っているが現在は小荷物の扱いは無い。外壁の二階部分には大きく「JIMMACHI STATION」という特徴的な表示があり、占領時の雰囲気を伝えている。
 @昭和43年5月28日設立の明立工業株式会社の敷地は谷地軌道の神町駅が有った場所。正門より入り敷地内の斜めに横切っている道路から、駐車場方向へ軌道が続いていたと思われる。
 A山形空港:山形空港(やまがたくうこう)は、山形県東根市にある特定地方管理空港。レディオ空港でもある。大日本帝国海軍・舞鶴鎮守府神山練習飛行場として設置された。戦後の占領期には米軍が使用し、その後は自衛隊などが利用する飛行場となった。1964年(昭和39年)に民間空港となり、山形空港(神町空港)の名称で供用されている。山形空港の滑走路を斜めに谷地軌道は横断していた。(谷地軌道廃止後、大日本帝国海軍・舞鶴鎮守府神山練習飛行場を昭和19年設置)
B山形空港から県道184号線と国道287号線を結ぶルートが谷地軌道の廃線跡。
C羽入駅跡。
D国道287号線の東北中央自動車道、東根IC付近より、谷地軌道跡は北西方向へ。
E東北中央自動車道、東根IC付近の谷地軌道の廃線跡。
F東北中央自動車道の延伸工事が進む。谷地軌道跡は東北中央自動車道の下を潜る。
G谷地軌道の廃線跡。
H武田酒店周辺が藤助新田駅跡。
I谷地軌道の廃線跡。
J谷地軌道の廃線跡。
K国東整山河管(水道橋)人が通れる人道橋と兼用。
L国東整山河管(水道橋)
 M谷地軌道の廃線跡。谷地舟着場(堀口河岸)この道海に河岸がつくられたのは享保8年(1723年)で、主に幕府領の年貢米の積み出しに利用された。しかし、天保13年(1842年)からは商人荷物の輸送にも利用されるようになり、非常なにぎわいを見せるようになった。明治の中頃の記録に、谷地上り1354艘、2000駄とあり、ますます繁栄したが、明治36年(1903年)谷地橋が完成する頃からは、次第に衰えるようになった。
N谷地軌道の谷地駅跡。
 Nいもこ列車(谷地軌道)谷地の事業家・升川勝作らが中心となり、大正4年(1915年)に谷地〜神町間を結ぶ谷地軌道株式会社を設立。県内初の私鉄の誕生であった。里芋のような煙突を持つ小さな列車は「いもこ列車」の愛称で親しまれ、利用者は年に10万人を超えたこともあったが、やがて自動車に役割を交代し、昭和10年(1935年)10月に列車の運行を停止した。20年間の町民の足となったこの列車を、この桜の木はずっと見つめてきました。
 Oいもこ列車(蒸気機関車)明治末期から大正初めにかけての河北地方は、農業、蚕業を主な産業とし、これに特産物として草履表・清酒等の生産を行い、馬車などによって輸送していたが、輸送力に限界がありました。河北町谷地の事業家升川勝作氏は、地域経済振興の手段として、大量輸送が必要であることを痛感し、大正4年1月「谷地軌道株式会社」を設立し、谷地−神町間に5.6qの軌道を敷設、大正5年2月に山形県内私鉄第1号として営業を開始し、昭和10年10月に廃止されるまでの約20年間、この地方の重要な交通機関として活躍しました。この谷地軌道は、奥羽本線の神町と谷地を結び、蒸気動力による軌間762mmのもので、停車場は谷地、藤助新田、羽入、神町の4箇所に設置されました。軌道は民家の近くを走るため、蒸気機関車の煙突から出る火の粉で危険なため、煙突に覆いをして走り、その煙突の形が里芋によく似ていることから「いもこ列車」の愛称で呼ばれ、多くの人々に親しまれました。
O河北中央公園のいもこ列車の機関庫。 O平成23年度一般公開延期のお知らせ。
Oいもこ列車のナンバープレート。 Oいもこ列車のエンブレム。
Oレールエンド? O車輪が小型だが何の台車だろう?
O河北中央公園のいもこ列車線路。
O河北中央公園のヨ8798。
 Pこの機関車68691は大正12年11月日立製作所笠戸工場で造られたもので、国産の旅客列車用機関車としては最初の型式(9620形式)であります。新製と同時に奥羽本線に配属され、昭和44年5月に廃車となるまで47年間奥羽本線とその支線の輸送に従事し、その走行距離は2,424,514qに及んでいます。その間、昭和20年から29年まで山形、米沢の両機関区に籍を置いたことがあり、本県にもなじみの深い機関車です。
 Pこの動輪は、9600型式のもので、強力貨物用として大正2年第1号が、最初の国産品として製造、その後、783両が全国に配置(樺太・台湾も含む)され力走を続けましたが、昭和51年春第一線から引退しました。直径は1,250mm重さ2.7tです。
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