廃線探索写真集-1

更新日時 2016年10月17日

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探索日時 写真 コメント
2016年10月吉日
2016年09月吉日
2009年05月吉日
草軽電気鉄道とは長野県北佐久郡軽井沢町の新軽井沢駅と群馬県吾妻郡草津町の草津温泉駅を結ぶ鉄道路線(軽便鉄道)を運営していた東急グループの鉄道事業者。草津温泉は古くより名湯として知られていたが、明治終わりの頃になっても未だ交通機関が未発達であった。草軽電気鉄道はスイスの登山鉄道に着想を得て、草津と浅間山麓の高原地への輸送を目的に着工されることとなった。大正期の1914年 - 1926年に順次路線を開通させた。
2016年05月吉日
2010年05月吉日
山形交通高畠線(たかはたせん)は、かつて山形県東置賜郡高畠町の奥羽本線糠ノ目駅(1991年に高畠駅と改称)から分岐して(旧)高畠駅を経由し二井宿駅までを結んでいた、山形交通の鉄道路線である。高畠町周辺で製糸業が発展したため、工業製品の輸送を目的に敷設された。昭和期に入り電化され、第二次世界大戦前には工業製品のほか、木材・乳製品・木炭・果物の輸送も担った。戦後、トラックの発展によりそちらに役目を譲り、1974年(昭和49年)に全廃された。
2016年03月吉日
2015年04月吉日
2009年05月吉日
沖縄県営鉄道与那原線は、現在の沖縄県那覇市にあった那覇駅と、島尻郡与那原町にあった与那原駅を結んでいた、沖縄県営鉄道の鉄道路線。1914年に県営鉄道の最初の路線として開業したが、太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止。沖縄戦で線路施設が破壊されそのまま消滅した。
2016年02月吉日
2009年02月吉日
南方貨物線は、日本国有鉄道(国鉄)が名古屋貨物ターミナル駅(1980年開設)から笠寺駅・大府駅を結ぶことを目的に建設を行い、途中でそれが中断された東海道本線の貨物支線(未成線)である。建設は輸送力の増強が目的であったため、日本鉄道建設公団でなく国鉄自身の手で行われた。西名古屋港支線の途中に設けられる名古屋貨物ターミナル駅の予定地より分岐し、名古屋港駅へ向かう貨物支線(名古屋港線)と立体交差(連絡線も設置する)、そして東海道新幹線としばらく並行して名鉄常滑線を跨ぎ、さらに東海道新幹線をアンダークロスし、笠寺駅の手前で東海道本線に合流、そこから先は東海道本線を複々線化(完全に並行)する形で大府駅に至るものであった。
2010年02月吉日 日立鉱山電車専用線
日立鉱山(ひたちこうざん)は茨城県日立市にあった銅山(鉱山)。旧名赤沢銅山。1905年に小坂鉱山の事務所長だった久原房之助が、鉱山を手中に入れたところから急激な発展を遂げる。日立鉱山には日立鉱山電車専用線という軽便鉄道が走っていた。明治41年に日立鉱山電車専用線営業開始。現在の日立駅前の大通りと銀座通りの中間あたりを通って国道6号線を横断し、芝内経由で大雄院(だいおういん)まで専用線が延びていた。貨物専用で一般旅客営業は行っていませんでしたが、従業員とその家族を対象に運賃無料で駅は停留所と呼ばれ、プラットホームが無く旅客運搬を行っていました。昭和35年に日立駅〜大雄院停留所間全線専用線廃止。
2015年01月吉日
2009年08月吉日
姫路市営モノレール
 交通混雑の緩和と市勢拡大を目指して、市南部の工業地域や市北部の住宅地域と都心を結ぶ目的で企画され、1966年、手柄山で開催された「姫路大博覧会」会場への輸送機関という名目で、姫路(仮)駅 - 手柄山駅間を先行開業させた。しかし運行距離は短く終端が山上の都市公園内という立地もあって姫路博終了後は利用者が激減、起終点の立地もさることながら、「手柄山から姫路駅まで何人かでタクシーに乗った方が安い」あるいは「バスなら同じ運賃で2人乗っておつりが来る」と酷評された高額な運賃設定(現在の価格に直すと約300 - 400円程度)の影響が大きかった。累積赤字が膨らみ路線が延伸されないままわずか8年で営業休止となり、1979年に正式に廃止された。
2014年12月吉日
2008年01月吉日
東武鉄道熊谷は、埼玉県熊谷市の熊谷駅から大里郡妻沼町(現・熊谷市)の妻沼駅までを結んでいた東武鉄道の鉄道路線。地元では妻沼線(めぬません)とも呼ばれていた。もともと軍の命令で建設された路線で、第二次世界大戦末期(1943年(昭和18年)12月5日)に、群馬県太田市の中島飛行機(現・富士重工業)への要員・資材輸送を目的として、熊谷駅 - 東武小泉線(仙石河岸線)の西小泉駅間の建設が計画され、第一期工事区間として熊谷駅 - 妻沼駅間が開業した。
2014年11月吉日
2008年01日吉日
2007年05月吉日
筑波鉄道筑波線は、かつて茨城県土浦市の土浦駅と茨城県西茨城郡岩瀬町(現・桜川市)の岩瀬駅とを結んでいた筑波鉄道(現・関鉄筑波商事)の鉄道路線である。1987年(昭和62年)4月1日に廃止された。1985年(昭和60年)10月1日からの1年間、回数券3割補助などの助成を行ったが乗客は増加せず、1987年(昭和62年)3月31日の運行を最後に翌4月1日に廃止された。廃線跡はほぼ全線がサイクリングロード(茨城県道501号桜川土浦自転車道線)となっている。
2014年05月吉日
2009年08月吉日
湧網線(ゆうもうせん)は、日本国有鉄道が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道紋別郡上湧別町(網走支庁管内)の中湧別駅で名寄本線から分岐し、サロマ湖、オホーツク海、能取湖等の沿岸を巡って網走市の網走駅に至る。1960年代より沿線の過疎化やモータリゼーションの進行で利用者が減り、国鉄再建法の制定にともない第2次特定地方交通線に指定され、国鉄分割民営化直前の1987年に廃止された。末期の列車本数は1日5往復まで減らされていた。数あるローカル線の中でも、車窓から見られる風景が美しい路線として知られていた。
2013年11月吉日
2012年07月吉日
2010年03月吉日
2009年07月吉日
2009年03月吉日
広尾線(ひろおせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道十勝支庁管内の帯広市の帯広駅で根室本線から分岐し、十勝平野を南下して広尾郡広尾町の広尾駅に至る。国鉄再建法の制定にともない第2次特定地方交通線に指定され、国鉄民営化直前の1987年に廃止された。国鉄広尾線時代に愛国駅 - 幸福駅間の切符が「愛の国から幸福へ」として人気となり、一連の縁起切符ブームの火付け役となった。現在は引き続き十勝バスが硬券乗車券を発売している。
2013年09月吉日
2010年02月吉日
永平寺線は、かつて福井県坂井郡金津町の金津駅から吉田郡永平寺町の永平寺駅とを結んでいた京福電気鉄道福井支社の鉄道路線。福井県の嶺北地方を横切る路線であった。1969年に金津駅 - 東古市駅(現・永平寺口駅)間が廃止され、残る東古市駅 - 永平寺駅間も2002年に廃止された。永平寺線は1924年3月に設立された永平寺鉄道の手によって開業した路線である。1944年、丸岡鉄道とともに京福電気鉄道に吸収合併され、同社の永平寺線となった。1969年9月18日に金津駅 - 東古市駅間が廃止された。2001年6月24日、越前本線での2度目の列車衝突事故のため、翌日から全線で運行が休止された。他の2線はえちぜん鉄道への譲渡が決定したが、永平寺線は利用客が望めないことから譲渡されず、運転が再開されないまま2002年10月21日をもって廃止された。
2010年07月吉日 鶴居村営軌道(つるいそんえいきどう)は、かつて北海道釧路市と鶴居村にあった簡易軌道。鶴居村は1921年(大正元年)から団体移住が、許可移民事業による入植は1924年(大正13年)から始まり、交通機関の整備が必要とされていた。北海道庁は、輸送手段として殖民軌道の敷設を決定する。根室本線新富士駅から分岐する路線を着工し、1929年(昭和4年)5月に完成している。当初は馬力による輸送だったが、距離が長大なこともあり、バスを改造した木炭ガス動力の気動車を導入する。戦後は、旅客以外にも牛乳の出荷に使われたり、道路未整備のため郵便の輸送も行っていた。1960年代には輸送量増加に対応するため、自走客車やディーゼル機関車を導入したが、沿線の道路整備が進み、1968年(昭和43年)に全線を廃止している。
2010年07月吉日 根室本線(ねむろほんせん)は、北海道滝川市の滝川駅から帯広市および釧路市を経て根室市の根室駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(幹線)である。JRの幹線路線としては日本最東端となる。1901年(明治34年)7月20日 北海道官設鉄道釧路線釧路(後の浜釧路) - 白糠間が開業。白糠・庶路・大楽毛・釧路駅を新設。1917年(大正6年)12月1日釧路 - 浜釧路 (1.8km) 貨物線開業。この時に釧路駅が現在の位置に移転し、同時に浜釧路駅(貨物駅)が開設され、釧路 - 浜釧路間の貨物線が開業したことになっている。1962年(昭和37年)10月15日 釧路 - 浜釧路を改キロ (+2.0km)(実態は浜釧路駅移転による新線開業)。1989年(平成元年)8月1日 釧路 - 浜釧路間の貨物支線を廃止 (-3.8km)。(貨)浜釧路駅廃止。
2010年07月吉日 八ヶ岳(山林局)林用軌道はインターネットで調べたが殆ど出てこない。八ヶ岳森林軌道はトロッコ復元でかなりの検索に出てくるが・・・この八ヶ岳(山林局)林用軌道を知ったのは八ヶ岳高原カントリークラブにゴルフに行くときに、そのついでに、森林軌道の廃線探索でもしようと日本鉄道旅行地図帳を見て八ヶ岳高原カントリークラブ近くに八ヶ岳(山林局)林用軌道が有ることを知り探索をすることにした。急遽決めたので、デジカメを持ってくるのを忘れて、携帯電話のカメラで撮影したので画質は悪いです。
2010年07月吉日 雄別鉄道は、北海道釧路支庁管内釧路市の根室本線釧路駅から、同管内阿寒郡阿寒町(現・釧路市阿寒町)の雄別炭山駅までを結んでいた鉄道路線などを運営していた炭鉱鉄道会社。東証一部上場企業であった雄別炭礦の子会社にあたり、三菱グループに属していた。親会社の雄別炭礦は、当時の炭鉱会社の中では多角経営の進んだ会社という評価がなされていたが、1969年、茂尻鉱にて人身事故を起こしたことで茂尻鉱が廃坑に追い込まれた。これが引き金となり翌年の(1970年)1月には、2月以降の社員への給与支払いの見通しもたたなくなるほど資金繰りが急速に悪化した。これが原因で親会社の雄別炭礦が閉山し、同年4月に住人の移転作業が終了し鉄道業務も停止した。
2010年07月吉日 白糠線(しらぬかせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道白糠郡白糠町で根室本線から分岐し、同町内の北進駅(二股)までを結んでいたが、1980年の国鉄再建法施行を受け、特定地方交通線廃止の第1号として、1983年に廃止された。1964年に上茶路までが開業し、釧路二股までの工事も日本鉄道建設公団の手により1970年には完成していたものの、折しも「赤字83線」のローカル線廃止取組みの最中であり、開業すれば赤字必至のローカル線の引き受けを国鉄が拒否したため、釧路二股までの開業はこの取組みが頓挫した1972年に当時の運輸大臣であった佐々木秀世の命令という異例の形で行われた。
2010年07月吉日 太平洋石炭販売輸送臨港線(りんこうせん)は、太平洋石炭販売輸送が運営する北海道釧路市の春採駅と同市知人駅を結ぶ貨物専業の鉄道路線である。元々は1925年2月に釧路臨港鉄道により知人 - 春採間で開業した路線で、一時は循環線にする構想もあった。結局循環線にされることはなく、1979年に太平洋石炭販売輸送が引き継ぎ、1966年までは旅客営業も行っていた。1985年(昭和60年)6月1日 城山 - 東釧路間廃止。1986年(昭和61年)11月1日 東釧路 - 春採間、知人 - 臨港間廃止。開業当時の路線のみ残存。
2010年07月吉日 三井芦別鉄道(みついあしべつてつどう)は、北海道芦別市で鉄道事業を行っていた鉄道事業者、あるいは同社が運営した芦別駅と頼城駅を結ぶ鉄道路線である。旅客部門は炭鉱合理化に伴う沿線人口の減少、並行バス路線の充実により、1972年(昭和47年)5月末に運行を取り止めた。残った石炭輸送も、三井芦別炭鉱の合理化に伴い1989年(平成元年)3月に廃止され、炭鉱自体も1992年(平成4年)9月に閉山となった。かつての入山駅 - 中の丘駅間に架かる炭山川橋梁に、ディーゼル機関車DD501と石炭貨車セキ3000が保存展示されている。定期的に塗り直しており、冬季は鉄橋から地上区間に移動のうえで保管し、傷みから守っている。
2010年06月吉日 譲原砂利採取線:1960年代まで、下曽我駅の西にある酒匂川へ向かう砂利採取線が分岐していた。3km余りのこの砂利採取線は譲原砂利株式会社が使用し、廃線跡の大部分は道路に転用されている。
2010年06月吉日 京王御陵線(けいおうごりょうせん)は、1931年(昭和6年)から1945年(昭和20年)まで営業されていた、京王電気軌道→東京急行電鉄(現在の京王電鉄)の鉄道路線。大正天皇崩御により造営された天皇家初の関東地区での多摩御陵が話題となり、多くの参拝者の移動手段として京王電気軌道の手により敷設された。普段は北野 - 多摩御陵前の折り返し運転であったが、全盛期の頃は土日になると新宿からの直通運転が行われ、省線電車との熾烈な輸送競争を行っていた。しかし、戦局の悪化に伴い不要不急線として1945年1月21日に休止。後に、北野駅 - 山田駅が京王高尾線の一区間に取り込まれる形で復活した。残りの山田 - 多摩御陵前間は高尾線新設区間の山田 - 高尾山口間の免許認可後の1964年11月26日付で正式に廃止となった。長房団地近くの住宅街に橋脚がひっそりとたたずんでいる。
2010年06月吉日 熊延鉄道とは、熊本県熊本市の南熊本駅から熊本県下益城郡砥用町(現:美里町)の砥用駅までを結んでいた鉄道路線およびその運営会社である。1964年に廃止された。熊延鉄道という社名は熊本と延岡(宮崎県)を結ぶ鉄道を計画していたことから。しかし実現には至らなかった。会社は現在、熊本バスとしてバス事業を営んでいる。同地区では国鉄が宇土から浜町(現上益城郡山都町)を経由して高千穂で高千穂線に接続する路線(延宇線)を計画していたが、宇土 - 佐俣間で路線バスを運行しただけで着工には至らなかった。なお、熊延鉄道線で使用されていた気動車は江若鉄道と玉野市営電気鉄道へ、ディーゼル機関車は江若鉄道へ譲渡された。
2010年06月吉日 野田人車鉄道(のだじんしゃてつどう)は、千葉県東葛飾郡野田町(現・野田市)に1900年から1926年まで存在した人車軌道、およびその経営会社である。町内の工場と江戸川や野田町駅(現・野田市駅)とを結び、醤油の輸送を行なっていた。野田は江戸時代から醤油醸造が盛んな土地であり、その出荷は上河岸と下河岸という2地点から江戸川の水運が使われていた。醤油工場から両河岸までの輸送は馬に依っていたが、1897年(明治30年)ごろになると、野田醤油醸造組合の中で、人車鉄道を整備することで工場-河岸間の輸送力を上げようという動きが起こる。こうして、1900年(明治33年)1月28日、資本金30,000円で野田人車鉄道株式会社が設立された。
2010年06月吉日 東武大谷線(とうぶおおやせん)は、かつて栃木県にあった東武鉄道の軌道・鉄道路線である。宇都宮市内一円に軌道を敷設していた、宇都宮石材軌道という人車軌道および軽便鉄道が前身である。宇都宮の大谷地区で採掘される石材(大谷石)の輸送を目的に、1895年に測量開始、1897年に宇都宮西原町 - 大谷荒針間を宇都宮軌道運輸として開業させる。翌年には、立岩・弁天山への延伸も図られたのであるが、西原町に集まってくる石材の出荷法が問題となり、1903年に日本鉄道の鶴田駅(今は日光線)まで延伸した。1931年には宇都宮線を開業させた東武鉄道に合併されて同社の大谷軽便線・大谷軌道線(大谷線)となったが、1964年に全廃となった。
2010年06月吉日 西部ガス熊本工場引き込み線
南熊本駅近隣の西部ガス(さいぶガス)熊本工場、九州農政局庁舎(旧・熊本食糧事務所)へ引込線が延びていた。廃止された現在でも線路跡が残っている。
2010年05月吉日 幌内線-1 -2(ほろないせん)は、北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道岩見沢市(空知支庁管内)の岩見沢駅で函館本線から分岐し、三笠市の幾春別駅を結んでいたが、1987年に廃止された。1882年に官営幌内鉄道により開業した、道内で最も古い鉄道路線(手宮 - 札幌 - 幌内 …後の手宮線(廃止)、函館本線、幌内線)の一部である。幌内炭鉱をはじめとした沿線の炭鉱から産出される石炭の積み出しのため、小樽や苫小牧、室蘭といった港湾に結ばれていた。1889年に北海道炭礦鉄道に譲渡された後、鉄道国有法により1906年に国有化され、幌内線となった。1987年に日本国有鉄道(国鉄)から北海道旅客鉄道に承継された後、同年に廃止、バス転換された。
2010年05月吉日 天理軽便鉄道(法隆寺線)が軌間762mmの軽便鉄道として新法隆寺駅 - 天理駅間を1915年に開業させたのが始まり。1921年、天理軽便鉄道の買収が橿原へ向かう新線(畝傍線、後の近鉄橿原線)への免許交付の条件となっていた大阪電気軌道(大軌)によって買収される。大阪方面から天理への乗客が、行きは天理軽便鉄道を利用しても帰りは桜井線・関西本線を使用して奈良に寄る者が多かったことから乗客数が余り伸びず、天理軽便鉄道としてもこの買収は望む話でった。翌1922年に平端駅 - 天理駅間の電化と標準軌への改軌が行われ、大軌畝傍線が平端駅まで開通すると同時に、上本町駅 - 天理駅間に直通列車が走るようになった。一方で法隆寺線となった近畿日本法隆寺駅 - 平端駅間は、最後まで軌間762mmの非電化路線のままで、1945年に休止後、廃止された。
2010年05月吉日 関西鉄道大仏線とは、かつて関西鉄道の一部であった加茂 - 大仏 - 奈良間の通称で、大仏鉄道と言われる場合もある。加茂から奈良へ向けて路線建設を進めてきた関西鉄道は暫定的に、仮のターミナル駅として大仏駅を建設することとした。その後、1899年5月21日に3社協定が成立して関西鉄道の奈良駅乗り入れが実現し、更に1900年に大阪鉄道を合併して湊町 - 奈良 - 名古屋間のルートを本線にすると、同社では大仏駅に代わって奈良駅の方に集客・輸送の重点をおくようになり、大仏駅の乗客は急激に減少することになった。そして1905年に奈良鉄道を関西鉄道が合併すると、1907年に旧奈良鉄道線と並行しており、25パーミル(‰)の急勾配を有していて運転の障害にもなっていた加茂 - 大仏 - 奈良間の路線を廃止し、加茂 - 木津間に新線を建設して木津 -奈良間を本線に組み込むことにした。
2010年05月吉日 大阪陸軍造兵廠枚方製造所専用線。禁野火薬庫(きんやかやくこ)とは、現在の大阪府枚方市禁野本町にあった日本陸軍の火薬庫の通称である。大村益次郎が構想、1896年10月に完成し、綿火薬庫、弾薬庫等の建物が20数棟建てられた。1933年には43ヘクタールの規模となる。1938年、禁野火薬庫に隣接して陸軍造兵廠大阪工廠枚方製造所が開設、砲弾・火薬製造の一大拠点となる。2度の爆発事故により、1940年には新しく開設した大阪陸軍兵器補給廠祝園支処へ一部の施設が移転された。1956年跡地には中宮団地が造成された。現在は記念碑として火薬庫を囲んでいた土塁が残されている。軍用鉄道跡は枚方市の愛称道路「中宮平和ロード」と名付けられ、軍用電柱や陸軍用地の石柱が保存されている。1936年 「大阪陸軍兵器支廠禁野倉庫」に改称。片町線津田駅から専用線敷設。
2010年05月吉日 山形交通三山線(さんざんせん)は、山形県寒河江市の羽前高松駅と西村山郡西川町の間沢駅を結んでいた山形交通の鉄道路線である。1974年に全区間が廃止された。出羽三山への参詣客の輸送や、永松・幸生・高旭など鉱山との物資の運搬を目的に、1926年(大正15年)12月23日に三山電気鉄道として、鉄道省線左沢線羽前高松駅と海味駅の間8.8kmで営業を開始した。1928年(昭和3年)9月17日、海味駅から間沢駅まで延長。1943年(昭和18年)10月1日、戦時統合により三山電気鉄道は、高畠鉄道(高畠線)、尾花沢鉄道(尾花沢線)を合併し、山形交通と社名を変更、同社の三山線となった。だが、相次ぐ鉱山の閉山と、1960年代以降のモータリゼーションの進行により業績が悪化し、1974年(昭和49年)11月18日、羽前高松駅 - 間沢駅間11.4kmの全線を廃止した。
2010年05月吉日 山野線とは、熊本県水俣市の水俣駅から鹿児島県姶良郡湧水町(営業当時は栗野町)の栗野駅までを結んでいた、九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄分割民営化後の1988年に廃止された。山野線は、沿線にある鉱山の開発のため敷設された路線で、栗野 - 山野間が軽便鉄道法に基づき1921年に山野軽便線(やまのけいべんせん。1922年に山野線に改称)として開業した。1935年には山野東線が薩摩布計まで延長され、1937年には県境区間の久木野 - 薩摩布計間が開業し全通した。この時に、線名は再び山野線に戻った。なお、久木野 - 薩摩布計間には九州唯一の通過可能なループ線(大川ループ)があったことで知られている。
2010年05月吉日 小牧空港専用線は名鉄小牧線の牛山駅〜春日井駅間にかつて豊山信号所があり、単線時代にはここで上下列車の交換が行われ、信号所から1968年(昭和43年)10月01日まで小牧基地への専用線を分岐していた。名古屋飛行場(なごやひこうじょう、Nagoya Airfield)は、愛知県にある飛行場である。かつての「名古屋空港」であるが、2005年に中部国際空港が開港したことに伴い、第二種空港から飛行場に指定変更され正式名称も「名古屋飛行場」となった。愛知県は独自に県営名古屋空港(けんえいなごやくうこう、Prefectural Nagoya Airport)という愛称を与えている。所在地から小牧空港と呼ばれることもある。
2010年05月吉日 東武矢板線(やいたせん)とは、栃木県日光市(旧塩谷郡藤原町)の新高徳駅と、矢板市の矢板駅とを結ぶ、東武鉄道の運営していた鉄道路線である。高原山麓、沿線の木材、鉱物資源搬送用に開発された鉄道である。今でも、駅跡近くには製材所の面影を残す建物などが見られる場所が多い。もともとは現東武鬼怒川線を開通させた下野電気鉄道が開業させたものである。下野電気鉄道は1943年5月1日、陸上交通事業調整法に基づき東武鉄道へ買収され、同社の矢板線となった。もと下野電気鉄道でも、東武日光線と接続して浅草駅からの直通列車が走るようになった鬼怒川線とは異なり、メインルートから外れた矢板線は近代化も行われず、1959年6月30日をもって廃止された。
2010年05月吉日 東野鉄道(とうやてつどう)は、かつて栃木県那須郡西那須野町(現・那須塩原市)の西那須野駅から同郡黒羽町(現・大田原市)の黒羽駅を経て同郡小川町(現・那珂川町)の那須小川駅までを結んでいた鉄道路線およびその運営会社である。黒羽 - 那須小川間は1939年に、西那須野 - 黒羽間が1968年に廃止された。1918年に西那須野 - 黒羽間で開業した東野鉄道は沿線の農作物の輸送や、太平洋戦争前は金丸原(現在の大田原市)の陸軍飛行場の軍事物資輸送を担っていた。1924年には八溝山地の木材輸送を目的として黒羽から那珂川に沿って南下し那須小川まで延伸されたが、日中戦争後の不況で黒羽 - 那須小川間は1939年には廃止された。残る西那須野 - 黒羽間も、旅客・貨物輸送量の低下や災害復旧にかかる経費の問題から1968年に廃止された。
2010年05月吉日 高崎製紙専用線は岡本駅から高崎製紙日光工場(約4q)への専用線が存在していたが、その廃止後は遊歩道となっている。開設は1922年(大正11年)12月23日、廃止は1983年1月。 
2010年05月吉日 塩原電車(しおばらでんしゃ)は、かつて栃木県の西那須野駅 - 塩原口駅間14.6kmを結んでいた軽便鉄道の鉄道会社である。1932年に休止の後、1936年に全線廃止された。1912年(明治45年)7月11日、塩原軌道(しおばらきどう)の社名で西那須野 - 関谷間が開通した。当初は蒸気機関車による運転であった。路面電車化するのに伴い、1921年(大正10年)9月23日に社名を塩原電車に変更し、同年12月に直流550Vで電化した。1922年(大正11年)4月9日、塩原口まで延伸した。バスの普及や金融恐慌により経営は悪化し、1932年(昭和7年)に休止、1936年(昭和11年)1月14日に廃止された。
2010年05月吉日 東北本線旧線(宇都宮-蒲須坂)
1886年(明治19年)10月1日 - 宇都宮 - 那須(現・西那須野)間開業。このときの宇都宮 - 矢板間は、現・東北新幹線に近い経路であった。 1891年(明治24年)9月1日 - 宇都宮 - 長久保間に古田駅開業。 1897年(明治30年)2月25日 - 宇都宮 - 矢板間経路変更(当時未治水の鬼怒川の氾濫、橋梁被害により運休が多発し、大きく迂回する経路変更を余儀なくされた)。新線上に岡本駅、氏家駅開業。旧線上の古田駅、長久保駅廃止。矢板 - 西那須野間に野崎駅開業。
2010年04月吉日 矢部線(やべせん)は、福岡県筑後市の羽犬塚駅と八女郡黒木町(現・八女市)の黒木駅とを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。1980年の国鉄再建法施行にともない第1次特定地方交通線に指定され、1985年に全線が廃止された。なお、線名の「矢部」とは、予定線の終点とされた八女郡矢部村(現・八女市)のことである。沿線には軍事施設や関連の工場が多かったため、太平洋戦争が激化し、不要不急とされた鉄道路線が次々と休止に追い込まれる中、建設工事が続行され、終戦後の1945年12月にすでに路盤の完成していた羽犬塚から黒木までが開業となった。将来的にはこの線は大分県日田郡中津江村(現在は日田市の一部)の鯛生を経て宮原線の肥後小国までを結ぼうとしていたが結局黒木より先への延伸は成らなかった。
2010年04月吉日 東武会沢線(あいざわせん)は石灰石、ドロマイト等の運搬用に設けられた、佐野線の終点葛生駅から第三会沢駅に至る東武鉄道の貨物線である。東武会沢線の貨物線が葛生駅まで石灰、セメント、ドロマイトを輸送していた。セメントは東武伊勢崎線経由で業平橋駅まで輸送された。貨物輸送が廃止された後はその設備のほとんどが撤去されているが構内は広く、かつての貨物線の名残をとどめている。葛生駅から先にも路線跡が続き、架線柱や腕木式信号機も残っている。
2010年04月吉日 日鉄鉱業羽鶴専用鉄道
日鉄鉱業株式会社(にってつこうぎょう、英文表記:Nittetsu Mining CO., Ltd.)は、東京都に本社を置く石灰石などの採掘を行っている企業で葛生鉱業所の住所は 栃木県佐野市仙波町1599。 1951年(昭和26年)10月に葛生鉱業所を開設。 東武佐野線の終点「葛生(くずう)駅」はかつて貨物の発着で賑わう大きな駅で、かつてはこの葛生駅から日鉄鉱業葛生鉱業所 羽鶴専用線の貨物線が延びていた。1986年に貨物扱いが中止され廃線になた。
2010年04月吉日 赤見軽便鉄道(あかみけいべんてつどう)とは、栃木県足利市の両毛線富田駅と足尾山地南端の石灰岩の産地である栃木県佐野市出流原(いずるはら)町を結んでいた軽便鉄道とその運営会社である。後に赤見鉄道と改称した。営業開始当初より営業成績が振るわず、後に出流原弁財天を含めた観光開発も検討されたが実行できないまま営業停止した。
2010年04月吉日 安房森林軌道小杉谷線 (石塚線)
(あんぼうしんりんきどう)とは、屋久島(鹿児島県熊毛郡屋久島町)にある森林鉄道である。観光、保存の森林鉄道以外では、日本唯一の現役の森林鉄道である。安房森林鉄道、屋久島森林鉄道ともいう。元々は、熊本営林局下屋久営林署の管轄であったが、1969年(昭和44年)に運行を終了している。現在は、荒川分岐点を境に、安房〜荒川が屋久島電工株式会社の区間、荒川から先が屋久島森林管理署の区間となっている。安房〜荒川は屋久島電工に払い下げられて発電所建設と維持管理に使用している。荒川から先は有限会社愛林に運行委託されており、屋久杉の土埋木や昔の切り株などの運搬に使用している。屋久杉の土埋木や昔の切り株は、民芸品、家具、建材に使用される。
2010年04月吉日 屋久島 宮之浦森林軌道
屋久島の森林軌道は、栗生・永田・宮之浦・安房の4箇所に敷設されましたが、現存するのは安房を起点とする小杉谷線のみです。
 今回は、殆どインターネットを検索しても取り上げらていない宮之浦森林軌道の探索を行いました。
2010年04月吉日 名鉄岩倉支線(めいてついわくらしせん)とは、愛知県岩倉市の岩倉駅から同県小牧市の小牧駅までを短絡して結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線である。元は名古屋電気鉄道(名古屋鉄道の前身)が、メインルートである犬山線の培養線として、小牧までを結んだ路線であり、路線名も開通当初は「小牧線」であった。しかし、城北線(後の大曽根線、現在の小牧線)が開業すると、名古屋方面へのメインルートの座をそちらに奪われ、当線は一ローカル線となり、岩倉支線と改称された。
2010年04月吉日 中央本線旧線(猿橋−鳥沢)
中央本線は、東京都千代田区の東京駅から新宿区の新宿駅、長野県塩尻市の塩尻駅を経由して愛知県名古屋市中村区の名古屋駅までを結ぶ鉄道路線(幹線)である。このうち東京駅 - 塩尻駅間は東日本旅客鉄道(JR東日本)、塩尻駅 - 名古屋駅間は東海旅客鉄道(JR東海)の管轄となっている。なお、塩尻駅はJR東日本の管轄である。「中央東線」や「中央西線」、「中央快速線」など、区間や系統別に様々な呼称がある。1889年(明治22年)04月11日 : 甲武鉄道新宿 - 立川間(16M74C≒27.24km)開業。1968年(昭和43年)09月20日 : 梁川 - 猿橋間複線化に伴い線路付け替え。
2010年04月吉日 御殿場線旧線(駿河小山−山北)は、神奈川県小田原市の国府津駅から静岡県御殿場市の御殿場駅を経て静岡県沼津市の沼津駅に至る東海旅客鉄道(JR東海)の鉄道路線(幹線)である。明治時代から昭和時代初期にかけては東海道本線の一区間であり、複線化も行われていた。だが1934年(昭和9年)12月1日の丹那トンネル開通に伴い、東海道本線は熱海経由に変更され、国府津 - 沼津間は支線の御殿場線となり、太平洋戦争中の1944年(昭和19年)には単線化された。しかし現在もなおトンネルや橋脚などに複線時代の面影が残っている。鉄道唱歌の歌詞は、丹那トンネル開通前に発表されたため、国府津 - 沼津が現在の御殿場線経由となっている。
2010年03月吉日 羽村山口軽便鉄道大正5年から大正13年にかけて当時の東京市人工の増加に対応するため村山貯水池建設と羽村・山村線導水管布設工事を行い、さらなる人口増加に対応し、昭和4年から新たに山口貯水池の建設に着手、これに先立ち昭和3年に羽村・村山線に砂利運搬軽便軌道の布設が行われた。羽村堰で取水された水は江戸時代から明治・大正のころまでは、玉川上水を通って江戸・東京に送られていましたが、現在は水の多くは地下に埋設された羽村・村山線導水管を通って村山貯水池に送られています。地上部分は都有地で羽村市内の神明台地区では神明緑道という遊歩道として、武蔵村山市では自転車・歩行者道などとして整備されています。神明緑道は車が通らず、散歩道として市民に親しまれています。八高線の東福生と箱根ヶ崎間
2010年03月吉日 庵原軌道は1913年(大正2年)12月16日に江尻停車場(現JR清水駅の南側)から西久保停車場開業。1914年(大正3年)5月22日に庵原金谷までの約5.5kmを開業。1916年(大正5年)7月17日全線廃止し約2年半の短い期間存在した軌道です。衆議院議員 西ヶ谷可吉氏が庵原村の発展の為、村の有力者と共同で建設した軌道でしたが西ヶ谷氏が経営する別会社が経営難になり、その影響で庵原軌道も経営難に陥り廃止に追い込まれた。軌間762mm ドイツ「コッペル」社製の小型の蒸気機関車を使用。
2010年03月吉日 山鹿温泉鉄道は、かつて熊本県植木町(現在の熊本市)の植木駅と同山鹿市の間を通っていた鉄道路線、およびその運営事業者である。当初の名称を鹿本鉄道(かもとてつどう)と称した。温泉地として知られる山鹿を通る唯一の鉄道路線であったが、開業間もなく昭和恐慌の影響を受け、さらに山鹿と熊本市を結ぶバス路線が相次いで開設されたこともあって営業面では終始振るわなかった。1957年(昭和32年)に水害により植木 - 植木町間の築堤が崩壊し、直通運行が不可能になった。植木町 - 山鹿間は復旧したものの、植木 - 植木町間は復旧を断念し休止し、バス代行輸送とした。このため熊本 - 山鹿間のバス路線に比し著しく利便性を欠いて鉄道の利用は低下、末期的な経営状態となったことから、1960年(昭和35年)に全区間が休止、のちに廃止された。
2010年03月吉日 青梅線福生河原支線は昭和2年2月大正天皇の陵墓造営に必要な多摩川石を運搬するため、福生駅から多摩川の羽村境に至る1.8q間の砂利運搬専用鉄道線が布設された。日に2回電気機関車が4〜5輌の貨車を引いて通り、また地域の人々は枕木を渡り利用していた。昭和34年12月砂利運搬停止。昭和36年3月に線路、架線撤去。昭和37年7月福生町へ売却。
2010年03月吉日 熊本電気鉄道菊池線は、熊本県熊本市の上熊本駅から熊本県合志市の御代志駅までを結ぶ熊本電気鉄道の鉄道路線である。以前は、温泉地である菊池市の菊池駅まで路線が延びていたが、並行する国道387号線を通るバスやマイカーに押され、1986年に御代志 - 菊池間を廃止して現在の営業区間となった。合志市(旧・菊池郡西合志町)の御代志駅から、菊池市隈府の菊池駅までの13.5kmは、モータリゼーションの進展による乗客減などを背景に、1986年2月15日の運行をもって廃止された。運行最終日は全線で無料乗車が実施され、名残を惜しむ多くの乗客でにぎわった。
2010年03月吉日 三菱重工業第九航空機製作所専用線は44年の12月には名古屋航空機製作所への爆撃が始り、名古屋発動機製作所は壊滅的な打撃を受けた。戦局の悪化に伴い各地に疎開し熊本の製作所は第9製作所と改名され各製作所単位に作業を行う態勢としたが、その後終戦に伴い三菱重工業第九航空機製作所は閉鎖した。熊本市健軍に陸上自衛隊西部方面総監部の駐屯地があり、そこには終戦時まで三菱重工業第九航空機製作所があった。主に爆撃機(陸軍4式重爆 )などの製造を行っていました。三菱重工業第九航空機製作所専用線はJR豊肥線のJR水前寺駅あたりから分岐し三菱重工業第九航空機製作所まで伸びていました。その専用線の殆どは現在は市道及び一部県道228号線になっています。
2010年03月吉日 埼玉県営鉄道(さいたまけんえいてつどう)は、埼玉県がかつて運営していた専用鉄道。埼玉県川越市の霞ヶ関駅から同市的場地内の入間川河川敷を結んでいた。埼玉県が行っていた砂利採取事業により、入間川の川砂利を運搬するのが目的であった。霞ヶ関駅には川越寄りに専用の側線と砂利集積場が用意され、そこに県営鉄道が接続する形になっていた。霞ヶ関駅から先は途中川越線をアンダークロスする以外には特に施設らしい施設もなく、ひたすら田畑の中を南へ下り、入間川に横付けするように河川敷へ入っていた。なお同じ砂利運搬線の西武鉄道安比奈線に対し、入間川をはさんで向かい合うように線路が敷かれていた。
2010年02月吉日 筑肥線(旧線)は私鉄の北九州鉄道が博多 - 伊万里間に敷設した路線(1935年全通)で、1937年に国有化され筑肥線となったものである。1983年に福岡市地下鉄との相互直通運転のため、地下鉄と競合する博多 - 姪浜間の廃止、唐津付近で大規模な線路の付け替え(呼子線として建設した高架橋を流用)が行われて現在の姿となった。西新駅は福岡市地下鉄空港線の西新駅よりも南側にあった。鳥飼駅があった場所は現在は城南区役所となっている。なお、平尾駅・筑前庄駅は1941年に廃止されている。現在旧線路の大半は一般車道となっているが、筑肥線を跨いでいた別府大橋など当時の名残が残っている場所があるほか、旧筑前簑島駅付近の旧線路は遊歩道として整備されている。
2010年02月吉日 西鉄貝塚線(宮地岳線)は、福岡県福岡市東区の貝塚駅から福岡県糟屋郡新宮町の西鉄新宮駅までを結ぶ西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。西鉄新宮から津屋崎までの区間は鹿児島本線と国道が並行しており、2006年3月に西鉄新宮 - 津屋崎間の廃止が決定された。廃止は2007年4月1日で、同時に宮地岳駅が廃止されたため、宮地岳線から貝塚線に改称された。
2010年02月吉日 北陸本線旧線:敦賀と今庄の間には海抜762mの鉢伏山がそびえ、その鞍部である木ノ芽峠(海抜628m)は、古くから北陸道の隘路であった。北陸トンネル開通前の北陸本線敦賀〜今庄間(1896年開通)は、木ノ芽峠を避け、敦賀市の海岸部に近い杉津駅(すいづえき)を経由する山中峠ルートを採っていた。だがこの区間は、海岸の山麓を縫いながら4カ所のスイッチバックを擁して25‰の急勾配を上り下りする厳しい条件の単線区間であった。途中には3箇所の駅、3箇所の信号場、12箇所のトンネルも存在し、列車の行き違いにも時間を要した。1962年には全長13,870mの北陸トンネルが開通し、敦賀 - 今庄間が新線に切り替えられ、杉津経由の旧線は無事故を記録したまま廃止された。
2010年02月吉日 JR敦賀港線はJR敦賀駅と敦賀港駅を結ぶ貨物専用の「JR敦賀港線」(2.7q)で2009年(平成21)3月31日(火)をもって休止され、127年の歴史に幕を閉じた。JR貨物によると、運行停止後に再開した例はこれまでなく、線路は残るが事実上の廃線になる見込み。
2010年02月吉日 福井鉄道鯖浦線(せいほせん)は、かつて福井県鯖江市の鯖江駅と織田町(現越前町)の織田駅を結んでいた福井鉄道の鉄道路線である。正式な「せいほせん」という読み方は馴染まなかったのか、「さばうらせん」という呼び方が一般的であった。鯖浦線は当初、鯖浦電気鉄道の路線として、1923年(大正12年)に開業した。その後、1945年(昭和20年)に福武電気鉄道と合併し、福井鉄道の一路線となった。1962年(昭和37年)には北陸本線福井 - 敦賀間複線電化に先立つ鯖江駅拡張に伴い鯖江 - 水落間が廃止されたのを皮切りに、1973年(昭和48年)に全線が廃止された。
2010年02月吉日 三国線(みくにせん)とは、福井県金津町(現在のあわら市)の金津駅(現在の芦原温泉駅)から福井県三国町(現在の坂井市)の三国港駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。1972年に廃止された。1944年には三国線も不要不急線として全線が休止されると、京福電鉄は三国線の三国 - 三国港間を電化して同区間に乗り入れを開始し、芦原 - 三国港間は京福電気鉄道が営業を継続することとなった。終戦後の1946年には、金津 - 芦原間が復活し、芦原温泉や東尋坊といった観光地を控えて関西方面からの直通列車も運転されたが、次第にモータリゼーションや競合する京福電鉄の影響を受け、利用は低迷。1972年に休止中の芦原 - 三国港間を含めて全線が廃止された。三国線は路線としては廃止されたものの、全駅がえちぜん鉄道の駅として存続している。
2010年02月吉日 京福電気鉄道三国芦原線
三国芦原電鉄(後の京福電気鉄道三国芦原線。現在のえちぜん鉄道三国芦原線)が1928年に芦原まで開業。翌年には三国町(後の電車三国)まで延長され、三国線と並行するようになった。同鉄道は1932年(昭和7年)5月28日 三国芦原電鉄線が電車三国(現在の三国)〜東尋坊口駅まで開業した。当時は、通称”海岸線“と呼ばれ、東尋坊への観光ルートとして大きな貢献を果 たしていたという。三国芦原電鉄を合併した京福電気鉄道は太平洋戦争が激化した1943年に不要不急線として電車三国 - 東尋坊口間を休止。現存する遺構は限られており、三国駅西方にある跨線橋橋台にその名残をとどめているのみである。
2010年02月吉日 国鉄粟津駅専用線(小松空港専用線)
小松飛行場(こまつひこうじょう Komatsu Airport)は、石川県小松市にある共用飛行場。一般的に小松空港と呼ばれている。航空自衛隊小松基地(JASDF Komatsu Airbase)と民間航空(民航)が滑走路を共用している。滑走路の両側に誘導路があり、山側を航空自衛隊が、海側を民航のターミナルが利用している。1943年(昭和18年)旧海軍・舞鶴鎮守府の飛行場として建設開始。空港建設のために国鉄粟津駅より国鉄粟津駅専用線(小松空港専用線)を敷設。石川県立航空プラザに展示されている昭和20年8月当時の飛行場の地図に小松空港専用線(引込線)が書かれている。これを見ると小松空港専用線は空港に突き当たり終わりになっているが、日本鉄道旅行地図帳には空港を右回りで線路が続くように書かれている。
2010年02月吉日 湘南軌道(しょうなんきどう)は、かつて神奈川県に存在した軽便鉄道およびその運営会社である。秦野で産出されていた葉タバコを東海道線の二宮まで輸送することを主目的として建設され、大正期には賑わいを見せたが、昭和2年(1927年)に小田原急行鉄道(現在の小田急小田原線)が開通すると衰退し、旅客営業休止、路線休止を経て昭和12年(1937年)に廃止された。1906年(明治39年)8月1日 - 当駅と秦野駅(現在の秦野駅とは別の場所)との間に湘南馬車鉄道(後の湘南軌道)が開通。1935年(昭和10年)10月9日 - 湘南軌道が営業休止(1937年8月25日廃止)。
2010年02月吉日 高萩炭礦櫛形鉱専用線
高萩炭礦櫛形鉱は常盤炭田最南の炭鉱で福島県双葉郡富岡町から茨城県多賀郡十王町(現在は日立市に合併)まで南北に大きく広がる常盤炭田であるが、十王町の「櫛形炭鉱」は、常磐炭田の最南部に位置した。この櫛形地区に開発の手が入ったのは昭和12年(1937年)と遅かった。昭和17年(1942年)年には東邦炭鉱葛形鉱となり、更に昭和20年(1945年)には合併により高萩炭鉱葛形鉱となった。1973年に閉山。これで常磐地域での炭鉱に終止符が打たれた。
2010年02月吉日 常磐炭鉱中郷鉱曳索軌道
大正06年(1917年):茨城無煙炭鉱第二坑から南中郷村日棚の茨城無煙炭鉱第三坑専用軌道に曳索軌道を接続し、南中郷駅に石炭を搬出する。全長1.5q 軌間508mm。大正15年(1926年):茨城無煙炭鉱第二坑から大倉鉱業椛謫坑。昭和09年(1934年):大倉鉱業椛謫坑から入山採炭樺郷無煙炭鉱第二坑。昭和16年(1941年):入山採炭樺郷無煙炭鉱第二坑から中郷無煙炭鉱椛譏Z坑。 第二坑から第六坑へ坑口移動、同時に曳索軌道を延長。全長1.8q。昭和19年(1944年):入山採炭鰍ニ磐城炭鉱鰍フ合併により中郷無煙炭鉱椛譏Z坑から常磐炭鉱活城鉱業所中郷鉱第六坑。昭和30年(1955年)頃 第六坑閉山、曳索軌道廃止。
2010年02月吉日 茨城無煙炭鉱曳索軌道
開設 明治44年(1911年)
廃止 大正06年(191年7)
南中郷村石岡〜南中郷村大塚鶴巻  全長 2.35q
茨城無煙炭鉱株式会社は南中郷村(現北茨城市)石岡地区に第二坑を開山運炭用の軌道建設した。第二坑山元から同村大塚地区弦巻までをほぼ一直線に結ぶ曳索軌道を敷設し山口炭鉱専用軌道に接続した。茨城無煙炭鉱は大正06年、日棚地区に開山した第三坑の曳索軌道に接続すべく、大北川橋梁と十石隧道を建設し大正06年より常磐炭鉱中郷鉱曳索軌道での運炭を開始した。
2010年02月吉日 山口炭鉱専用軌道
開設 昭和21年(1946年)02月
廃止 昭和33年(1958年)02月
全長 常磐線磯原駅〜北茨城市磯原町大塚字松下(山口炭鉱)4.28q
2010年02月吉日 重内炭鉱専用軌道
開設 昭和20年(1945年)年12月28日
廃止 昭和49年(1974年)年06月29日
全長 常磐線磯原駅〜北茨城市磯原町大塚字烏子
(重内炭鉱)4.53q
鉱業所名:重内炭砿
鉱業権者名:重内鉱業   
地区名:磯原   操業開始:昭和14年
租鉱権者 32年度出炭:116.6(千トン)
常用労務者数:854(人)
2010年01月吉日 常磐炭鉱専用鉄道神ノ山鉱線・関本鉱線
神永喜八、片寄平蔵らにより発見された明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸線に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。各鉱は採算が次第に悪化。最後まで残った常磐炭礦(1970年より常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、常磐興産は炭鉱業自体も1985年に撤退している。
2010年01月吉日 勿来軌道は明治39年(1906年)に窪田村、川部村の有力者により、勿来駅から川部村小川間 5.8qの馬車軌道の軌間762mmの敷設申請。明治39年(1906年)には窪田に本社を設置した。明治40年(1907年)には勿来軽便馬車鉄道株式会社から改称し勿来軌道株式会社として登記が完了。明治41年(1908年)には敷設許可が下され勿来駅〜窪田村白米酒井原まで4.56qまでの敷設が完了し、明治42年(1909年)より営業を開始した。窪田村から川部村は専用軌道に変更や災害復旧に手間取り、明治43年(1910年)に開業がずれ込んだ。
2010年01月吉日 白棚線(はくほうせん)は、福島県白河市の白河駅と同県東白川郡棚倉町の磐城棚倉駅を結ぶ白棚鉄道・鉄道省・日本国有鉄道の鉄道路線である。東北本線から分岐して棚倉町を結ぶため、白棚鉄道(はくほうてつどう)によって1916年に建設された鉄道路線である。1932年に水郡南線が終点の磐城棚倉駅に乗り入れるようになると、乗客はそちらに流れ、経営不振に陥った。1938年には救済のために鉄道省が借入営業することとなり、白棚線となったが、1941年に買収され正式に国有鉄道(鉄道省)の路線となった。しかし、太平洋戦争の激化とともに1944年に不要不急線として休止され、レールなどが撤去された。戦後は、鉄道としての復活を断念し、線路敷を専用道路に転用してバス路線として運行されることとなった。
2010年01月吉日 秩父鉄道武甲線
貨物輸送は秩父市にある武甲山は良質の石灰石を産出するため、これを運ぶための貨物輸送も盛んである。その取扱高は日本の私鉄の中でも上位である。貨物列車は三ヶ尻線熊谷貨物ターミナル - 武川 - 秩父 - 影森間で運行されている。但し日本貨物鉄道(JR貨物)との連絡運輸区間は武州原谷までとなっている。
1918年(大正7年)9月16日 - 武甲線 影森〜武甲間開業。貨物営業のみ。
1984年(昭和59年)2月1日 - 武甲線 影森〜武甲間廃止。
三峰口駅より先の廃線区間
2010年01月吉日 東京大学演習林軌道入川軌道(とうきょうだいがくえんしゅうりんきどう)は、埼玉県秩父郡大滝村(現秩父市)の荒川水系の滝川、入川上流域に存在していた森林鉄道である。その名が示すように、東京大学農学部秩父演習林内に存在した。東京大学はこの路線の維持管理と、保守用のモーターカーを1台所有するのみであり、実際の管理運行は民間業者に委託されており、民間業者の車両が多く運行されていた。また、この演習林からの木材、薪、炭などは、民間に払い下げられ、大学の収入源であった。入札制であったが、殆どは一部の会社により独占されていたという。
東京大学演習林軌道赤沢上部軌道
2010年01月吉日 常磐炭鉱中郷鉱専用線
南中郷駅より駅西側にあった常磐炭鉱中郷鉱まで3.9kmの専用線が伸びており、炭鉱で産出された石炭の輸送を行っていた。神永喜八、片寄平蔵らにより発見された明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸線に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。最後まで残った常磐炭礦(1970年より常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、常磐興産は炭鉱業自体も1985年に撤退している。
2010年01月吉日 高萩炭鉱専用線
明治、大正時代から、昭和40年代まで、現在の高萩市は、炭鉱の町として栄え、有名であった。特に、明治30年に今の常磐線・高萩駅が開設されてからは、毎日、多くの石炭が貨車に積まれて、京浜工業地帯へ運ばれ、日本のエネルギー資源の一翼を担っていた。市内で炭鉱を掘っていた所は、高萩炭鉱(和野、秋山、干代田地区)、向洋炭鉱(島名地区)、望海炭鉱(関口、望海地区)があった。1946年(昭和20) 高萩炭鉱株式会社東邦炭鉱櫛形炭鉱を買収。高萩炭鉱北方坑、山一炭鉱、大東炭鉱が高萩駅より引き込み専用線を開通させ、SL機関車による石炭輸送をはじめる。
2010年01月吉日 大阪府中央卸売市場(おおさかふちゅうおうおろしうりしじょう)は、大阪府茨木市にある大阪府立の中央卸売市場。大阪万博以降の北大阪地域における人口増加に対応するために、1978年に大阪府茨木市宮島1丁目1番1号に開設された。水産棟と青果棟がある。また、大阪府食品衛生検査所と大阪府中央卸売市場付設加工食品卸売場が併設されている。この敷地内には東海道線の吹田操車場から分岐して大阪貨物ターミナルに至る貨物線が1982年に開業しており、大阪府中央卸売市場への貨物引込線が設けられた。
2010年01月吉日 好間炭鉱専用鉄道好間線
明治37年(1904年) 白井遠平が設立した好間炭鉱は、好間村(当時)の北好間地区の籬(まがき)に坑口を開いた。明治39年(1906年)好間炭鉱株式会社を発足。好間炭鉱は蒸気巻上げ機を導入し綴駅(内郷駅)までの専用線を敷設するなどして近代的炭鉱へと発展する。 大正07年(1918年)好間炭鉱は現古河鉱業に買収され古河鉱業好間炭鉱となる。昭和02年(1927年) 北好間坑から撤退し上好間坑は継続。昭和39年、古河好間鉱は古河鉱業より分離され、好間炭鉱株式会社として再出発したが昭和44年(1969年) 上好間坑も閉山。鉄道は休止状態になるり、 昭和47年(1972年) 正式に廃止。
2010年01月吉日 常磐炭鉱専用鉄道高倉線
常磐炭鉱専用鉄道内郷線
入山採炭が石炭積出しのため専用鉄道(日本鐵道株式会社海岸線)綴駅(現常磐線・内郷駅)高倉間4.02qの使用を始めたのが明治30年(1897年)11月10日であった。最後は矢之倉礦業が使用していたが、昭和38年(1963年)3月閉山により同年11月9日廃止され軌道跡地の大部分は市道になった。
2010年01月吉日 磐城炭礦軌道線(いわきたんこうきどうせん)は、現在福島県いわき市となっている、石城郡湯本町と小名浜町を結んでいた鉄道路線(軽便鉄道・軌道線)。磐城炭礦株式会社(現在の常磐興産株式会社)が運営していた。常磐炭田で採掘された石炭を小名浜港へ輸送するために敷設された。
2010年01月吉日 常磐炭鉱専用鉄道鹿島線
常磐炭鉱専用鉄道小野田線
常磐炭鉱専用鉄道日渡線
常磐炭鉱専用鉄道向田線
神永喜八、片寄平蔵らにより発見された明治時代初頭から、福島・茨城両県の海岸線に面する丘陵地帯にかけて大規模な炭鉱開発が行われた。これは、首都圏に最も近い炭鉱として注目されたためである。しかし硫黄分を多く含有し、純度の低い炭質(低品位炭)という不利な条件があり、さらに地層が激しい褶曲を受けているため、石炭層を求めて地下へとひたすら掘り下げる、高い掘削技術を要する炭鉱であった。各鉱は採算が次第に悪化。最後まで残った常磐炭礦(1970年より常磐興産)の所有する鉱山も1976年に閉山し、常磐興産は炭鉱業自体も1985年に撤退している。
2010年01月吉日 江名鉄道(えなてつどう)は福島県小名浜の栄町駅と江名駅を結んでいた鉄道。小名浜臨港鉄道(現福島臨海鉄道)に接続し、営業管理も委ねていて車両も自前のものを持たず、延長線のような存在であった。1966年の営業休止までの僅か13年間の運行であった。江名村からの漁獲物の輸送のために小名浜から江名に至る軌道の計画が起こった。江名軽便鉄道として特許出願し、磐城海岸軌道として会社を発足させ1916年(大正5年)7月26日に開業した。1965年(昭和40年)の台風で線路に被害を受けたものを仮復旧で運転していたところ、当局の申し入れで1966年(昭和41年)2月14日限りで運転休止、そのまま復旧せずに翌1967年(昭和42年)11月15日付で廃止された。同年4月に改称して福島臨海鉄道となった小名浜 - 栄町も同時に廃止となった。
2010年01月吉日 野田町駅は明治44年(1911年)5月、千葉県営軽便鉄道として、野田〜柏間が開通した時に出来た駅です。昭和4年(1929年)に現在の野田市駅の場所へ駅ができたのを機に、旅客業務は移りましたが、貨物業務は昭和61年(1986年)まで行っていました。また、駅舎は昭和5年(1930年)に川間駅に移築され、昭和46年(1971年)まで現役で活躍していました。大正11年(1922年)には、野田醤油醸造組合が民間払下げ運動を起こして県から譲り受け、北総鉄道株式会社(後に総武鉄道)を設立。国の命令により昭和19年(1944年)総武鉄道は東武鉄道に合併し現在に至る。
2009年12月吉日 秋保電気鉄道は、かつて宮城県仙台市(現・同市太白区)の長町と同県名取郡秋保村(現・仙台市太白区秋保町)の秋保温泉を結んでいた鉄道である。略称は秋保電鉄(あきうでんてつ)。1961年(昭和36年)に全線が廃止された。長町から秋保温泉への旅客輸送と秋保石(凝灰岩の一種)の石材輸送を目的に、1914年(大正3年)に長町 - 秋保温泉間で馬車軌道として開業。時刻表による長町 - 秋保温泉間の所要時間は2時間20分程度であったが、馬の調子に依存して前後した(馬は会社ではなく馭者個人の所有)。電化を完了して以後は秋保電気鉄道として運営された。所要時間は1時間程度にまで短縮した。
2009年12月吉日 仙石線(せんせきせん)は、宮城県仙台市青葉区のあおば通駅から仙台駅を経由し宮城県石巻市の石巻駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。あおば通駅 - 陸前原ノ町駅間は2000年(平成12年)3月11日より地下線となり、仙台トンネルの名称がある。あおば通駅から陸前原ノ町駅付近までは地下線であるが、あおば通駅から榴ヶ岡駅までが洪積台地の地下であり標高がやや高い。榴ヶ岡駅を出て少し経つと長町-利府断層帯による段差に合わせて下り、断層の東側で一段低い所にある宮城野原公園総合運動場の前で大きく北東へ曲がる。ここからは断層の際に沿って走り、陸前原ノ町駅で半地下駅となり、同駅を出てから地上に出る。
2009年12月吉日 くりはら田園鉄道(くりはらでんえんてつどう)は、かつて宮城県にあった第三セクター方式の鉄道会社である。1993年12月15日に、石越駅と細倉マインパーク前駅とを結ぶ栗原電鉄(くりはらでんてつ)の株式が、親会社の三菱マテリアルから沿線5町村(当時)に譲渡され、第三セクター会社となった。1995年4月1日に、社名を「くりはら田園鉄道株式会社」、路線名をくりはら田園鉄道線に改称したが、経営状態の悪化のため、2007年3月31日を以て、くりはら田園鉄道線を廃止し、会社は解散となった。現在では、駅舎などの建物は若柳、沢辺、栗駒、細倉マインパーク前駅を除き撤去されているが、線路はほぼ廃線時のまま残されている。
2009年12月吉日 1890年に岩切駅 - 一ノ関駅間が開業した際、東北本線は岩切駅から利府駅・松島駅(旧駅)を経て品井沼駅へ至るルートであり、当線は東北本線のメインルートの一部であった。しかし、この区間には最大16.7‰の勾配が存在し、長大列車では補助機関車を連結する必要が生じ、さらには列車の遅れや運休がしばしば見受けられた。岩切駅 - 品井沼駅間においても、勾配緩和ルートとして1944年11月15日に陸前山王駅 - 品井沼駅間に新線が開業し、2つのルートが併存する形となった。新線側の複線化が進むと両ルート併存の意味も薄れて山線側が廃止されることになり、複線工事の影響を受けて1962年4月20日に松島駅(旧駅) - 品井沼駅間を廃止、同年7月1日に利府駅 - 松島駅(旧駅)間が廃止された。
2009年12月吉日 増東軌道は、宮城県名取市付近にかつて存在した軽便鉄道会社およびその軌道路線である。東北本線増田駅(現・名取駅。1963年改称)から、郊外の漁港である閖上(ゆりあげ)に至る、6km弱の軌道線を保有したが、バスとの競合に敗退して早期に廃止された。大正時代末期に、東北本線増田駅と、名取川河口に位置する漁村の閖上とを結ぶ軌道線として計画された。閖上(開業当時は東多賀村)は古くから河川水運の要地であり、また漁港として栄えていた。閖上から増田までは街道によって結ばれていたが、ここに軌道を敷設して東北本線との連絡を図ろうとしたものである。しかし平坦な閑散路線であり、必然的にバス路線との競合にさらされた。のちには自社でも路線バスを兼業するようになり、軌道の不採算化も著しかったことから廃止に至った。
2009年12月吉日 長倉線は改正鉄道敷設法の第38号「茨城県水戸ヨリ阿野沢ヲ経テ東野付近ニ至ル鉄道及阿野沢ヨリ分岐シテ栃木県茂木ニ至ル鉄道」に当たる予定線であった。1912年の官設鉄道真岡軽便線(もうかけいべんせん)下館 - 真岡間の開業に始まる。1920年には茂木まで全通した。一部が茂木 - 長倉宿の国鉄長倉線として建設され、河井村(現茂木町)まで路盤は完工したが、開業することはなかった。
2009年12月吉日 アプトの道。碓氷川に架かる煉瓦造りの 4 連アーチ橋で、碓氷峠の代表的な建造物である。国鉄信越本線横川駅〜軽井沢駅間の橋梁の一つで、同区間がアプト式鉄道時代に使われた。1891年着工。高崎駅と直江津駅を結ぶ路線(後の信越本線)のうち、上述の区間だけが未開通だったため急ピッチで工事が進められ、1893年に竣工。1963年に新線が建設され、アプト式鉄道が廃止されるまで使用された。全長 91 メートル、川底からの高さ 31 メートル、使用された煉瓦は約 200 万個に及ぶ。現存する煉瓦造りの橋の中では国内最大規模であり、1993年には「碓氷峠鉄道施設」として、他の 4 つの橋梁等とともに日本で初めて重要文化財に指定された。現在は横川駅からこの橋までの旧線跡が遊歩道になり、橋上の手すりや国道18号へ通じる階段などが整備されている。
2009年11月吉日 勝田線福岡県福岡市博多区の吉塚駅と同県糟屋郡宇美町の筑前勝田駅とを結んでいた、日本国有鉄道の鉄道路線(地方交通線)である。1985年に全線が廃止された。沿線から産出する石炭の輸送と宇美八幡宮参詣客の輸送のため、筑前参宮鉄道が敷設した鉄道路線で、1918年に末端部が貨物線として開業、翌年に全線が開業し旅客営業を開始した。1942年には、陸上交通事業調整法により九州電気軌道(現在の西日本鉄道)に合併され同社の宇美線(うみせん)となったが、1944年に戦時買収により同社の糟屋線(香椎線)とともに国有化され、勝田線となった。宇美駅は、香椎線・勝田線がそれぞれ別の駅施設を有していたが、これは両線がもともと別の私鉄として建設された経緯による。双方の宇美駅は約100mほど離れており、駅が統合されることはなかった。
2009年11月吉日 耶馬渓線とは、大分県中津市の中津駅から大分県下毛郡山国町(現中津市)の守実温泉駅に至る、大分交通が運営していた鉄道路線である。地元では「耶鉄」と称される。1913年に耶馬渓鉄道として開業。のちに大分交通の路線となった。山国川に沿って延びるこの鉄道は、沿線に青の洞門、羅漢寺、守実温泉などの観光地を控えていた。1970年代に入り、沿線の過疎化による利用者の減少と道路整備が進んだこと、さらに国鉄中津駅の高架化(1977年完成)に伴う費用の応分の負担を要求されたことから、バス転換の方針が打ち出され、1975年に全線が廃止された。
2009年11月吉日 播電鉄道(ばんでんてつどう)は、かつて兵庫県揖保郡網干町(現、姫路市)の網干港駅から山陽本線網干駅を経て、揖保郡新宮町(現、たつの市)の新宮町駅までの17.1kmを結ぶ軌道線 - 鉄道路線(路面電車)を経営していた事業者である。網干港・網干駅前 - 觜崎(後の播電嘴崎)間は龍野電気鉄道により、觜崎 - 新宮町間は新宮軽便鉄道により開業した。1932年(昭和7年)に姫津線(現、姫新線)が姫路駅から播磨新宮駅まで路線を延ばすと、同線がこの付近の中心都市である姫路市に直結していたことからも乗客はそちらへ流れ、費用削減努力により一時的に立ち直っていた経営は極端に悪化し、結局1934年(昭和9年)に政府補償を受けて廃線となった。
2009年11月吉日 佐賀電気軌道(さがでんききどう)は、かつて佐賀県佐賀市から佐賀郡川上村(現、佐賀市)の間を結んでいた馬車鉄道・軽便鉄道の運営会社。後に、軽便鉄道線は電化されて路面電車になった。国鉄路線には接しない孤立路線であったが、起点となる神野(こうの)と佐賀駅の間をバスで国鉄列車に接続して連絡輸送を行っていた。しかし、バスに輸送を一本化する方針になったため廃線となった。
2009年11月吉日  佐賀駅は1891年(明治24年)8月20日 - 九州鉄道(初代)の駅として開業。 1976年(昭和51年)2月19日 - 高架化工事完成により約100m北側に移転した。今回は高架化される前の長崎本線佐賀旧線を探索した。
2009年10月吉日 佐賀線は、佐賀県佐賀市の佐賀駅と福岡県みやま市(廃線時:山門郡瀬高町)の瀬高駅を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。当線は諸富 - 筑後若津間で筑後川を、筑後若津 - 筑後大川間で花宗川を渡ることになったが、通常の橋では大型船舶の航行に支障をきたすおそれがあるため、筑後川に架かる筑後若津橋梁(通称筑後川昇開橋・全長506m)は、列車通過時以外は橋桁中央部を23m上昇させることができる可動橋(昇開橋)とし、花宗川に架かる花宗川橋梁(全長64m)は橋桁を両側に75度跳ね上げることのできる跳開橋(跳ね橋)とした。佐賀線廃止後、花宗川橋梁は撤去されたが、筑後川橋梁は保存され、国の重要文化財に指定されている。
2009年10月吉日 長野原線(太子線)吾妻郡六合村の群馬鉄山(1963年閉山)で採掘された鉄鉱石の輸送のための路線として1945年、渋川 - 長野原(現長野原草津口)間が長野原線として開業。長野原から群馬鉄山のある太子(おおし)までは、日本鋼管社の専用線が敷設された。当初は貨物専用線として開業したが、1946年までに渋川 - 長野原間の旅客営業を順次開始した。群馬鉄山専用線(長野原 - 太子間)は、1952年に国鉄に移管され、1954年に旅客営業を開始した。1963年の群馬鉄山の閉山後、1966年に貨物便運行が廃止、1967年の長野原線電化からも取り残され、1970年に長野原以西延伸に伴う「長野原駅構内の改築工事」を理由として休止、そのまま列車の運行が再開されることのないまま翌1971年に路線が廃止された。
2009年09月吉日 東海道線旧線 1921年(大正10年)8月1日 - 東海道本線の馬場駅(現在の膳所駅) - 京都駅間が新ルートに改められた際に山科駅が開業。客貨取扱を開始。 新逢坂山トンネル・東山トンネルの開通によって現在の大津駅 - 京都駅間のルートが完成し、それに伴い開設。それまでは、馬場 - 大谷 -(旧)山科 - 稲荷 - 京都間のルートが東海道本線であった。旧線は新線開業と同時に廃止となった(稲荷 - 京都間は奈良線に転用)。 なお旧線に存在した(旧)山科駅は、京都 - 大津間鉄道のうち、京都 - 大谷間が開業した1879年(明治12年)8月18日に開設された。現行の駅のかなり南方にあり、現在は名神高速道路が通っている(地下鉄東西線小野駅付近)。徳富蘆花の『不如帰』や、萩原朔太郎の『夜汽車』でも描かれた。
2009年09月吉日 夕張鉄道は、北海道炭礦汽船(北炭。以前の北海道炭礦鉄道)が同社の事業用資材や石炭を輸送する目的で大正10年(1921年)に設立された。北海道石狩支庁管内江別市の函館本線野幌駅から、空知支庁管内夕張郡栗山町の室蘭本線栗山駅、同支庁管内夕張市の夕張線(現・石勝線)鹿ノ谷駅を経て同市の夕張本町駅までを結んでいた。バス路線の整備やマイカーの普及、閉山による人口の減少に伴い旅客輸送も激減し、昭和46年(1971年)11月には鹿ノ谷 - 夕張本町間の鉄道営業と鹿ノ谷 - 栗山間の旅客営業を廃止した。残された野幌 - 栗山間も昭和49年(1974年)3月末をもって旅客営業を休止し、夕張鉄道線は昭和50年(1975年)3月末、沿線で最後まで操業していた北炭平和炭鉱の閉山に伴い、全線が廃止された。
2009年09月吉日 大間線(おおません)は、青森県むつ市の大畑線の終点大畑駅から同県大間町の大間駅までを結ぶ計画であった未成線。観光資源にもなっており、地元では幻の大間鉄道として知られている。大間にある海軍の要塞強化工事に伴う資材運搬用として、むつ市の下北駅から大間までを結ぶ鉄道として計画された。1937年(昭和12年)に工事が開始され2年後の1939年(昭和14年)に大畑線として下北〜大畑間が開通、大畑以北も工事が進められ路盤の大半が完成、終点の大間以外では駅も建設され僅かな未着工部分を残すのみとなったが、1943年(昭和18年)に戦時中の資材不足により工事は中断、その後再開されることなく放置されていた。
2009年09月吉日 大畑線(おおはたせん)は、下北交通が運営していた鉄道路線。青森県むつ市の下北駅で大湊線から分岐して下北半島を横断し、下北郡大畑町(現むつ市)の大畑駅までを結んでいたが、2001年に廃止された。旧国鉄の特定地方交通線である。下北バスには、鉄道経営の経験はなかったが、バス事業で関係のあった京浜急行電鉄の指導を受け、1984年に社名を下北交通に改称。1985年7月に大畑線の営業を引き継いだ。しかしその後も経営は苦しく、車両や施設の老朽化も相まって、結局廃止されることとなった。当初2001年6月1日廃止予定だったが、2か月早まって2001年4月1日に廃止された。
2009年09月吉日 ふるさと銀河線は、北海道中川郡池田町(十勝支庁)の池田駅から北見市(網走支庁)の北見駅に至る北海道ちほく高原鉄道が運営していた鉄道路線。旧国鉄特定地方交通線(池北線・ちほくせん)を引き継いだ路線であるが、2006年4月21日に廃止された。路線名の「銀河」は、宮沢賢治の著作『銀河鉄道の夜』にちなむ。旧陸別駅周辺は、「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」として約1キロにわたって整備されている。2008年4月20日より営業開始され、ふるさと銀河線で使用されていた気動車の乗車体験や運転体験をすることができる。営業期間は4月下旬 - 10月下旬の第2・4土曜・日曜で、冬期は休業する。
2009年09月吉日 大畑森林鉄道
明治44年に森林鉄道が作られ、馬トロによる木材運搬が行われました。その後、大正15年には、本格的な森林鉄道にかわり蒸気機関車、さらに昭和26年にはディーゼル機関車が導入され、その延長は60qにも及びました。また、一般の利用も認められ、薬研への観光客は一挙に増加しました。このように、地元の人々からも愛された森林鉄道でしたが、昭和37年自動車への転換が打ち出されその姿を消すこととなりました。大畑川に沿って大畑から奥薬研方面に伸びています。旧路盤は各地に残っており、奥薬研の遊歩道には、線路も残っており昔の面影を残しています。 大畑川に沿って奥薬研方面に伸びる線路を幹線とし、沢筋に入る多くの支線からなる森林鉄道である。旧路盤は各地に残るが県道や遊歩道になっているところも多い。
2009年09月吉日 三沢基地専用線
八戸市には、八戸貯油施設があり、タンク8個に、三沢飛行場で使用する航空燃料8万バレルを貯蔵している。航空燃料は、パイプラインを使って八戸貯油施設から三沢飛行場まで直接運ばれる。2006年6月までは本八戸駅から三沢駅まで八戸線・東北線を経由し、三沢駅から基地までの専用線を経てのジェット燃料輸送貨物列車 (米タン) が不定期ながらも設定されていたが、JR三沢駅と三沢基地を結んでいた貨物専用線「三沢基地専用線」が、貨車からトラックへの切り替えに伴い平成18年5月で営業を終了した。JR三沢駅・三沢基地間の専用線について、現在、米軍が所有しています。
2009年09月吉日 相生線(あいおいせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道網走支庁管内の網走郡美幌町で石北本線から分岐し、同郡津別町相生までを結んでいたが、1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。相生線は、沿線の林産資源開発を目的に軽便鉄道法により建設され、1924年に津別まで、翌年に全線が開業した。1980年に国鉄再建法が成立すると第1次特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。なお、当時既に釧網本線が開通している以上、必要性も低くなっていた。
2009年09月吉日 根北線(こんぽくせん)とは、北海道斜里郡斜里町の斜里駅(現・知床斜里駅)と同町の越川駅を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。1970年に廃止された。根北線は釧網本線の斜里駅(現・知床斜里駅)と標津線の根室標津駅を結ぶことを目的に建設された路線で、線名の「根北」は根室国・北見国の意味である。工事は1938年(昭和13年)に着工され、斜里から越川までの第一工区が完成し、1939年(昭和14年)には第二工区の越川橋梁(第一幾品川橋梁)が完成するなどしていたが、太平洋戦争の開戦により物資が欠乏し1940年(昭和15年)に建設が中断され、敷設されていた線路も取り外された。終戦後、1957年(昭和32年)11月10日に斜里駅 - 越川駅が開通した。1960年(昭和35年)には貨物の取り扱いを廃止、越川以遠の建設も進まなかった。
2009年09月吉日 愛宕山鉄道鋼索線(あたごやまてつどうこうさくせん)は、清滝川駅から愛宕駅までのケーブルカー(鋼索鉄道)を戦前に運営していた鉄道事業者。愛宕山の愛宕神社へ向かう参詣路線として建設され、あわせて同社の手により山麓の清滝に清滝遊園地が、また愛宕山にホテルや飛行塔のある愛宕山遊園地、スキー場、テント村などが設置されて賑わった。鋼索線の遺構も清滝川駅跡地や線路跡、愛宕駅の駅舎建物などが残存しているが、愛宕駅舎は崩壊しかけており、また6つあるトンネルのうち2つは内部が崩壊していて、非常に危険な状態になっている。橋梁などその他のコンクリート製構造物も風化が進んでおり崩壊の危険がある。中には片側が完全に崩壊している(レールのセメントは現存)ものもある。
2009年09月吉日 愛宕山鉄道平坦線(あたごやまてつどうへいたんせん)は、現在の京都府京都市右京区の嵐山駅から清滝駅までの普通鉄道路線(平坦線)と、清滝川駅から愛宕駅までのケーブルカー(鋼索鉄道)を戦前に運営していた鉄道事業者。京阪電気鉄道と京都電燈の共同出資会社であった。愛宕山の愛宕神社へ向かう参詣路線として建設され、あわせて同社の手により山麓の清滝に清滝遊園地が、また愛宕山にホテルや飛行塔のある愛宕山遊園地、スキー場、テント村などが設置されて賑わった。しかし、世界恐慌の影響で業績が下降したため、京阪電気鉄道と京都電燈の手で再建が試みられた。その後、戦時中に全線が不要不急線に指定されたことから廃線となり、戦後も復活することはなかった。
2009年08月吉日 山梨交通電車線は、山梨県甲府市の甲府駅前駅から同県南巨摩郡増穂町の甲斐青柳駅までを結んでいた山梨交通の鉄道路線である。地元では親しみを込めて「ボロ電」とも呼ばれていた。甲府駅前-荒川橋間は併用軌道となっていた。1953年以前は市内のルートが一部異なっていたため、路線距離は20.3km、駅数は30駅であった。国鉄甲府駅の駅前広場にあった甲府駅前駅から併用軌道で市内中心部を抜けた後、市街地南西端の荒川橋で荒川を越えて専用軌道に入り、そこから峡西地域の平坦部を逆L字形に走り抜けて増穂町の中心部にある甲斐青柳駅に至っていた郊外型路面電車であった。全線20.2kmを所要時間55分程で走り、30分間隔で運行した。
2009年08月吉日 静岡鉄道静岡清水線旧線
もともと旧静岡市の安西地区に建ち並ぶ製茶問屋から清水港へお茶を輸送する目的で1906年に設立された(旧)静岡鉄道を前身とする。その後大日本軌道静岡支社の路線となっていたこの鉄道路線を譲り受け、1919年に駿遠電気として設立された。1923年に静岡電気鉄道に社名変更し、1943年に国策によって藤相鉄道・中遠鉄道・静岡乗合自動車・静岡交通を統合して「静岡鉄道」となった。この時、初代会長に東京急行電鉄(東急)の五島慶太が着任したこともあり、戦前から戦時中は東急グループの一員であった上に現在でも筆頭株主は東京急行電鉄であるため、東急とのつながりが深く、現有車両の1000系は東急車輛製造製である。過去には東急(目蒲電鉄、東横電鉄の車両を含む)の中古の車両を購入して走らせていたこともある。
2009年08月吉日 静岡鉄道清水市内線(しみずしないせん)は、かつて静岡県清水市(市町村合併により、現在は静岡市清水区)内の港橋と横砂を結んでいた静岡鉄道の路面電車。もともとは静岡清水線の一部として、1928年に港橋 - 江尻新道(現在の新清水)間が開業。翌1929年江尻新道 - 横砂間が開業するが、路線は東海道本線の線路で分断され、踏切による連絡を余儀なくされていた。1933年に東海道本線を跨ぐ跨線橋が完成して全通。かつては港橋より江尻新道から静岡清水線経由で鷹匠町(現在の新静岡)を経て静岡市内線まで直通運転されていて、静鉄成立後も三線を総じて「静岡線」と称していた。1975年廃止。
2009年08月吉日 静岡鉄道静岡市内線(しずおかしないせん)は、かつて静岡県静岡市葵区内の静岡駅前と安西を結んでいた静岡鉄道の路面電車。もともとは静岡清水線の一部として、1922年に静岡駅前 - 鷹匠町(現在の新静岡)間が開業。その後、順次延伸し、1929年には静岡駅前・安西間が全通した。かつては安西から鷹匠町より静岡清水線経由で清水相生町(現在の新清水)を経て清水市内線の港橋までの系統と静岡駅前 - 鷹匠町間の系統で運行されており、静鉄成立後も三線を総じて「静岡線」と称していた。1962年廃止。
2009年08月吉日 清水港線とは、静岡県清水市(現:静岡市清水区)の清水駅と同市の三保駅とを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)。1980年の国鉄再建法施行により第一次特定地方交通線に指定され、1984年に全線が廃止、バス転換された。1916年に東海道本線の貨物支線として一部開業したが、1944年7月に三保まで延伸、同年12月に旅客営業を開始するのと同時に東海道本線から分離独立し、清水港線という路線名が与えられた。旅客営業開始時から旅客営業は貨物列車に客車を連結した「混合列車」によって行われた。最盛期には1日数往復の旅客列車が走り、昭和30年代には国鉄一の黒字路線になったこともあった。しかしその後、日本一旅客列車の運行本数の少ない鉄道路線となった。
2009年08月吉日 蒲原鉄道
蒲原鉄道株式会社(かんばらてつどう、Kanbara Tetsudo Co., Ltd.)は、新潟県五泉市(旧中蒲原郡村松町)に本社を置くバス会社。五泉市・加茂市に路線網を持つ。路線バスのほか、貸切バス、タクシー、旅行業等も行っている。地元では「蒲鉄(かんてつ)」と略称される。蒲原鉄道線(かんばらてつどうせん)は、かつて蒲原鉄道が運営していた、新潟県加茂市の加茂駅から中蒲原郡村松町(現・五泉市)を経由して五泉市の五泉駅までとを結んでいた鉄道路線である。 1985年春を以って加茂 - 村松間が廃止となり、村松 - 五泉間を結ぶ、僅か4.2kmのミニ路線として知られていたが、1999年秋に全線が廃止された。
2009年08月吉日
2007年01月吉日
五日市鉄道
 五日市線は私鉄の五日市鉄道が建設したものである。1930年に立川 - 拝島 - 武蔵五日市 - 武蔵岩井間が全通し、立川 - 拝島間では青梅電気鉄道(現在の青梅線)と完全に並行していた。1940年に南武鉄道に合併され、同社の五日市線となったが、1944年に南武鉄道が戦時買収により国有化され、本路線も国有鉄道五日市線となった。その際、青梅線と並行する立川 - 拝島間は不要不急線として休止され、戦後復活することはなかった。ただし、立川 - 武蔵上ノ原と、旧・南武鉄道の武蔵上ノ原 - 西立川間は現在も南武線・中央本線下り線(立川駅南側)との連絡線(青梅短絡線)として利用されている。
2009年08月吉日 尾道鉄道は、かつて広島県の尾道市と御調郡御調町(現在の尾道市の一部)を結ぶ鉄道路線を有していた鉄道事業者である。
 当初は尾道 - 上下間の免許を得て、また現在の三次市に至る支線も計画していたが、不況等のため実現せず、尾道市近辺の区間を開業したのみにとどまった。尾道市街地と山中の集落を結ぶ盲腸線であり、営業成績は運行当初から余り芳しいものとは言えず、モータリゼーションの進行に伴い1964年までに廃止され、路線バスの運行に切り替えられた。会社自体はその後も社名を変更せずバス事業者として営業を続けたが、1970年にニコニコバスに吸収合併され解散。事業はニコニコバスから社名変更した中国バスに引き継がれた。
2009年08月吉日 花巻電鉄花巻温泉線
 花巻電鉄(はなまきでんてつ)は、かつて岩手県花巻市の国鉄東北本線花巻駅を中心に、花巻温泉郷へ向かう鉄道線、花巻南温泉郷へ向かう軌道線を運営していた会社である。同社は1971年に岩手中央バスへ統合され、1972年に鉄道・軌道線を全廃し、1976年の再統合で岩手県交通となった。長い歴史において、買収や企業統合、単なる商号変更などで、運営する企業名が再三にわたり変わっているが、一般には戦後長期に渡って継続した「花巻電鉄」の名称で知られている。これらの路線は宮沢賢治や高村光太郎が利用したことでも知られる。
2009年08月吉日 静岡県 島田軌道
 明治22年4月、東海道鉄道の静岡〜浜松間が開通し、同時に島田停車場も設けられた。貨物の荷は日常生活品の他、大井川上流の木材や林産品が多かった。上流の地域の物資は大井川の船便を利用して大井川沿岸の向谷陸揚げされた。島田町の事業として島田停車場〜向谷間(約2.9q)の人車軌道が計画、施工され、明治31年4月に開通した。この島田軌道の人車輸送は木材輸送という重要な役割を担っていたため、昭和39年9月に廃業になるまで、実に62年にわたる人車鉄道営業期間としては日本最長記録を樹立した。同時に日本における人車鉄道の営業もこの島田軌道の廃業をもって終了した。このように、日本で最初の人車鉄道の営業は静岡県で始まり、広まり、そして終わりも静岡県であった。
2009年08月吉日 大井川鐵道 井川線(千頭−井川)-1
大井川鐵道 井川線(千頭−井川)-2
大井川鐵道 井川線(千頭−井川)-3
廃線区間 川根市代駅-川根長島駅
廃線区間 井川駅- 堂平(貨)駅
大井川鐵道株式会社(おおいがわてつどう)は、静岡県に路線を有する名鉄グループの中小私鉄である。略称は大鐵(だいてつ)。大井川鐵道井川線、中部電力から運営受託している井川線(南アルプスあぷとライン)を有する。 井川線は日本唯一のアプト式鉄道として知られる。1990年10月02日廃止区間:川根市代駅- 大加島(仮)駅- 川根唐沢駅- 犬間駅- 川根長島駅.。1971年04月01日廃止区間:井川駅- 堂平(貨)駅。
2009年07月吉日 函館本線旧線(納内駅 - 近文駅間)-1 -2 -3
 函館本線(はこだてほんせん)は、北海道函館市から途中小樽市、札幌市、岩見沢市、滝川市等を経由して旭川市の旭川駅を結ぶ北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(幹線)である。支線(別線)を含めた総営業キロは458.4kmで、これはJR北海道で最長である(支線を含めない場合は根室本線の443.8kmが最長)。
 1969年(昭和44年)10月1日 - 納内駅 - 近文駅間線路付け替え(神居古潭駅廃止)。
2009年07月吉日 尺別鉄道線:雄別鉄道の親会社である雄別炭礦が運営していた。機関庫は新尺別に置かれ、C12形蒸気機関車を3両、客車4両、貨車11両を保有していた。もとは雄別炭礦鉄道が炭鉱と鉄道の運営を行っていたが、1959年に鉄道部門を分離(尺別線は雄別炭礦にて継続)して雄別炭礦株式会社と、雄別鉄道株式会社が発足した。その後、倒産直前の1970年2月に雄別炭礦に吸収合併されている。
2009年07月吉日 五日市線(岩井支線)かつては、武蔵五日市駅から拝島駅方面にあった三内信号扱所まで戻ってスイッチバックし、武蔵岩井駅に向かう岩井支線(正式には本線の末端区間)があったが廃線となり、現在は西東京バスの武蔵五日市駅 - 松尾・つるつる温泉間の路線バスで代替している。武蔵五日市駅が高架化・改築されたため、廃線跡は同駅手前に一部が残る程度である。 1930年に立川 - 拝島 - 武蔵五日市 - 武蔵岩井間が全通し、立川 - 拝島間では青梅電気鉄道と完全に並行していた。1940年に南武鉄道に合併され、同社の五日市線となったが、1944年に南武鉄道が戦時買収により国有化され、本路線も国有鉄道五日市線となった。その際、青梅線と並行する立川 - 拝島間は不要不急線として休止され、戦後復活することはなかった。
2009年07月吉日 立川飛行機専用線戦前陸軍の立川飛行場へ立川駅から敷設された3.2kmの路線。資材運搬専用で、戦後米軍に接収された後も1968年までジェット燃料輸送に使われた。1972年立川基地は全面返還され、不要となった線路は廃止された。立川飛行機は陸軍機専用メーカーである。中島飛行機の「隼」「疾風」「呑龍」やロッキード 14L輸送機などのライセンス生産(転換生産)を大規模に行っていた。特に「隼」は半数が立川で製造された。陸軍の練習機・偵察機などの開発試作を得意としていた。1930年(昭和5年)に陸軍航空技術研究所のある立川に工場を移転した為、依頼される事が多かった。最初は初等練習機「赤とんぼ」などを開発・製造していたが、長距離輸送機のライセンス生産・開発を通じて技術を取得し、大戦末期には高高度機の開発にも挑戦した。
2009年07月吉日 明治鉱業専用線(篠栗−久山)
 福岡県糟屋郡篠栗町に明治鉱業株式会社の高田炭坑が有った。篠栗駅から極楽池・高橋池の間を抜け久山町まで明治鉱業の専用線が走っていた。極楽池から高橋池の間には隧道が有ったようだが、私が調べた限りでは現在は現存しない。明治鉱業株式会社(1919年4月1日〜1969年会社解散)は、安川敬一郎が創業した九州・北海道に鉱山を持つ炭坑会社で、戦時中は石炭大手8社の一員として日本のエネルギー界に貢献しました。その後は石油によるエネルギー革命と石炭埋蔵量の枯渇により、昭和44年に解散が決議され、70年にわたる歴史を閉じました。
2009年07月吉日 住友金属鉱山下部鉄道は、1977年まで愛媛県新居浜市において鉱石輸送や旅客輸送を行っていた住友金属鉱山運営の鉱山鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。「別子鉱山鉄道」や「別子鉄道」とも呼ばれた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として上部鉄道に先駆けること9ヶ月、当時住友財閥の初代総理人であり、別子銅山の総支配人でもあった広瀬宰平の専用鉄道として1893年(明治26年)3月15日に開業した。主に別子銅山から採掘された銅鉱石を製錬所や港湾へと輸送する役割を担ったが、1973年(昭和48年)の別子銅山閉山を見届けた後、1977年(昭和52年)1月31日限りで廃止された。
2009年07月吉日 米軍府中基地(旧帝国陸軍燃料廠)引き込み線
 下河原線にはいろいろな工場へ引き込み線がありました。中でも一番長かかったのは、米軍府中基地(旧帝国陸軍燃料廠)です。この線路跡は今では富士見通り(東側)として市民陸上競技場・都立農業高校・府中公園の北側を経由して府中の森公園西角交差点まで延びています。 府中基地は1939年、旧帝国陸軍燃料廠として設置されました。当時、日中戦争が進行中で、航空燃料や自動車燃料などの確保の必要性がありましたが、石油を海外に頼っていたため、アメリカなどとの関係悪化で調達困難が予想されました。そこで、石炭からの人造石油精製や、天然原油からの抽出向上の研究が行われましたが、あまり成果を見せませんでした。
2009年06月吉日 士幌線は、日本国有鉄道が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道帯広市(十勝支庁管内)の帯広駅で根室本線から分岐し、十勝平野を北上して河東郡上士幌町の十勝三股駅に至る。国鉄再建法の制定に伴い、第2次特定地方交通線に指定され、国鉄民営化直前の1987年に廃止された。帯広 - 上士幌間は、軽便鉄道法により建設された区間で、1925年から翌年にかけて開通した。上士幌以北は、改正鉄道敷設法別表第141号に規定する「十勝國上士幌ヨリ石狩國「ルベシベ」ニ至ル鐡道」として建設され、1939年に十勝三股までが開通した。上士幌 - 十勝三股間の総工費は194万円かかった。なお、石狩国ルベシベ(留辺志部)とは、現在の石北本線上川駅のことであり、このルートは現在の国道273号に相当する。
2009年06月吉日 タウシュベツ橋梁は、北海道上士幌町の糠平湖にあるコンクリート製アーチ橋。タウシュベツ川橋梁とも呼ばれる。よく晴れた風のない日に、湖面に橋が映るとめがねのように見える。またアーチ橋ということもあり、「めがね橋」の別名をもつ。古代ローマの遺跡を思わせるその姿は、周辺の景色とも調和しているとされる。第1回北海道遺産に選定された「旧国鉄士幌線コンクリートアーチ橋梁群」の1つである。糠平湖は人造湖であり、季節や発電によって水位が劇的に変化するため、橋梁全体が水に覆われてしまう時期もあれば、水位ゼロとなって橋梁全体が見渡せる時期もある。その様子から、「幻の橋」とも呼ばれる。
2009年06月吉日 下河原線は、かつて日本国有鉄道(国鉄)が運行していた鉄道路線である中央本線(後に武蔵野線)の支線(廃線)の通称である。東京都国分寺市の国分寺駅から東京都府中市の東京競馬場前駅までの旅客線と、東京競馬場駅の少し国分寺駅よりから分岐していた下河原駅)までの貨物線からなっていた。多摩川の砂利を運搬する目的で1910年に「東京砂利鉄道」として開業した。東京都国分寺市と府中市の市域を通っていた。府中市にとっては最初の鉄道路線であった。1921年に一旦営業廃止され、国分寺駅の構内扱いとなったが、1933年に東京競馬場が開設されたことから翌年、同競馬場アクセスのために東京競馬場前駅を建設の上、旅客線として営業再開。その後、残部も貨物線として営業再開された。
2009年06月吉日 財団法人鉄道総合技術研究所引込線
 国立研究所の所在地である国分寺市光町(ひかりちょう)は、同研究所が開発を行った新幹線の列車愛称「ひかり」号に由来する。かつて、JR中央本線国立駅から国立研究所まで車両搬出用の引込線が延びていたが、現在は廃止されている。また、国立研究所周囲を一周するような形で線路が敷かれていたが、現在は一部のみ残存している。研究用の車両が何両か置かれているが、前述の引込線廃止により、現在は他の鉄道と接続されていない。
2009年06月吉日 相模線支線(通称:西寒川支線)
 戦前の鉄道省並びに戦後の日本国有鉄道(国鉄)相模線支線(通称:西寒川支線)。1984年に西寒川支線廃止。西寒川支線の跡地は、相模線本線からの分岐点からのほぼ全てが遊歩道として整備されている。一部区間には線路も残され、車輪などが展示されている。西寒川駅の跡は「八角広場」という小さな公園になっており、線路が一部残されているほか当駅と相模海軍工廠を偲んだ記念碑などがある。 2002年に旧相模海軍工廠で製造されたと思われる化学兵器が発掘され、話題になった。
2009年06月吉日 雲仙鉄道
雲仙鉄道(うんぜんてつどう)とは、長崎県雲仙市(営業当時は南高来郡愛野村)の島原鉄道愛野村駅(現在の愛野駅)から長崎県雲仙市(営業当時は南高来郡小浜町)の雲仙小浜駅(肥前小浜駅)を結んでいた鉄道路線、およびその運営会社である。1938年に全線が廃止された。温泉軽便鉄道として開業した当時は1日7往復が運行されていた。
2009年05月吉日 嘉手納線は、現在の沖縄県那覇市にあった古波蔵駅と、中頭郡嘉手納町にあった嘉手納駅を結んでいた、沖縄県営鉄道の鉄道路線。1922年に県営鉄道2番目の路線として開業したが、太平洋戦争末期の1945年3月に運行を停止。沖縄戦で線路施設が破壊され、そのまま消滅した。沖縄県営鉄道(おきなわけんえいてつどう)とは、戦前に沖縄県が沖縄本島内で運営していた鉄道である。鉄道省側の書類には沖縄県営鉄道と記載されていたが、沖縄県側では1917年まで沖縄県軽便鉄道、それ以降は沖縄県鉄道を正式な名称としていた。また、762mmの軌間を採用した軽便鉄道(けいべんてつどう)であったことから、沖縄県民からは「ケイビン」「ケービン」と通称されていた。
2009年05月吉日 神奈川臨海鉄道千鳥東線
 川崎市の臨海部に設けられた東海道貨物線の塩浜操駅(現在の川崎貨物駅)を拠点として沿線の企業の貨物輸送を行うために1963年に設立された。沿線自治体のほか、JR貨物(当時は国鉄)が出資する第三セクター方式の鉄道を特に臨海鉄道というが、その臨海鉄道会社としては京葉臨海鉄道に次いで日本で2番目のものである。
 川崎市にある水江線・千鳥線・浮島線では化成品・石油、横浜市にある本牧線では20ft・40ft海上コンテナ輸送を中心に取り扱っている。1995年からはJR武蔵野線梶ヶ谷貨物ターミナル駅から浮島線末広町駅まで川崎市の廃棄物輸送列車「クリーンかわさき」号を運行している。
2009年05月吉日 のと鉄道能登線は、石川県鳳珠郡穴水町の穴水駅と石川県珠洲市の蛸島駅を結んでいた鉄道路線である。能登線にある全49のトンネル入口にはいろは順に起点からひらがなの通称がつけられており、ユニークなものとなっていた。2004年3月23日ののと鉄道の取締役会でついに能登線の廃止が決議され、2005年4月1日付で廃止に至った。
2009年05月吉日 のと鉄道輪島線
 かつて穴水から輪島・能登線珠洲方面への路線を有していた頃は、金沢から直通の急行「能登路」や、自社のパノラマ気動車NT800形を使用した急行「のと恋路号」が運転されていた。しかし輪島方面の急行は穴水 - 輪島間廃止に先立って2001年3月3日のダイヤ改正で廃止された。この区間は通称輪島線と呼ばれていた。末期には能登三井駅の交換設備が廃されたため、スタフ閉塞となっていた。殆どの区間、レール・枕木、鉄橋が撤去済みであり、トンネルは赤い鉄板で塞がれている。跡地の一部は、石川県道1号七尾輪島線(輪島道路)の道路用地や、住宅、駐車場などに利用されている。
2009年04月吉日
2008年10月吉日
高千穂鉄道 延岡駅-高千穂駅間
高千穂鉄道 高千穂駅-日之影温泉駅
2009年04月吉日 国鉄武蔵野競技場線は、かつて存在した旧日本国有鉄道の鉄道路線。第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)4月14日、当時の国鉄中央本線の支線として武蔵野競技場線が開通。旧中島飛行機武蔵製作所の引込線跡を鉄道のレールとして利用し、同年開業した武蔵野グリーンパーク野球場の試合開催日などの乗客輸送を目的として開通した。その後、球場の閉鎖などによって、1959年(昭和34年)11月1日に廃線となった。鉄道レールのあった道は現在、グリーンパーク遊歩道となった。また、武蔵野競技場前駅跡の敷地はJR東日本が所有のJR緑町アパートがあったが現在は取壊しされてJR社宅跡地には武蔵野ガレリアという分譲マンションが建っている。東京都水道局境浄水場専用線
2009年03月吉日 一畑電気鉄道 一畑口駅 − 一畑駅間
 一畑薬師への参拝客の輸送を目的として建設された路線で、それまで陸路を辿るか、船で小境灘(現在の一畑口駅付近の地名)へ渡るしかなかった一畑薬師への参拝を大幅に改善した。戦前には一畑口から薬師のふもとにあった一畑駅まで線路が延び、名実共に一畑薬師への参拝路線となっていたが、この区間は太平洋戦争末期に不要不急路線として休止になり、レールは名古屋鉄道に供出された。この区間は戦後復活しなかったが、平地にも関わらずスイッチバック式という一畑口駅の不自然な配線がその跡をよく留めている。また現在では一畑口でバスに連絡して参拝客の足を確保している。
 1960年(昭和35年)4月26日 一畑口 - 一畑間を廃止。
2009年02月吉日
2008年12月吉日
静岡鉄道駿遠線は、かつて静岡県中部、藤枝市の大手駅から袋井市の東海道本線袋井駅(駿遠線は新袋井駅)を結んでいた静岡鉄道の鉄道路線。軌間762mmの軽便鉄道で、線名は駿河国と遠江国を結ぶことから付いた。大手駅 - 新藤枝駅 - 新袋井駅は全長64.6kmと、軽便鉄道としては日本最長規模になった。その複雑な生い立ちと長大さから、使用される車両も引き継ぎ車、静岡鉄道自社製を中心に種々雑多で、鉄道ファンには人気の高い路線だったが、老朽化した大井川橋梁の架け替えに多額の費用を要することから、全通からわずか16年後の1964年(昭和39年)より区間廃止が始まり、1970年(昭和45年)8月1日付けで全線廃止。
2009年02月吉日 桃花台線は、桃花台新交通が運営していた新交通システム路線である。愛称は、一般公募から選出された「ピーチライナー」。1991年より2006年まで営業。小牧駅 - 小牧原駅間は、名鉄小牧線の同区間と並行し、小牧原駅北側で同線を西から東へまたぎ、その後国道155号線上に設けられた高架軌道により桃花台ニュータウンへ向かう。その後は県道明治村小牧線をたどり、篠岡信号の直前で方向を変えて同地を半周し、中央自動車道を桃花台バスストップ直前でまたぎ、桃花台東駅へ到着する。なお起終点駅である小牧駅と桃花台東駅にあるループ線を回って折り返す仕組みのため、営業運転中の車両は同一方向のみに進む。桃花台センター駅のみが地下にホームがあり、残りの6駅は高架駅。すべての駅にホームドアが設置されていた。
2009年02月吉日 成田鉄道 多古線
千葉県営鉄道として 1926年(大正15年)に全線を開業させた。開業当初は、600mmという日本の営業用鉄道では最も幅の狭い軌間を採用していたが、後に1067mmの狭軌へ改軌されている(なお、三里塚 - 八日市場間は開業時から1067mm軌間)。 1927年(昭和2年)京成電気軌道の傘下に入っていた成田電気軌道(1か月後に成田鉄道と改称)に譲渡された。 だがセレベス島(現在のインドネシア領スラウェシ島)に京成グループが鉄道を敷設することになったため、路面電車ともども資材を供出する必要から、廃線となりバス転換された。セレベス島での鉄道は結局実現せず終戦を迎えており、遠い南洋の地に送られた車両は行方不明となった(輸送船が撃沈されたとの説もある)。
2009年02月吉日 成田鉄道 八街線(三里塚−八街)
 千葉県営鉄道として 1926年(大正15年)に全線を開業させた。開業当初は、600mmという日本の営業用鉄道では最も幅の狭い軌間を採用していたが、後に1067mmの狭軌へ改軌されている(なお、三里塚 - 八日市場間は開業時から1067mm軌間)。 1927年(昭和2年)京成電気軌道の傘下に入っていた成田電気軌道(1か月後に成田鉄道と改称)に譲渡された。 だがセレベス島(現在のインドネシア領スラウェシ島)に京成グループが鉄道を敷設することになったため、路面電車ともども資材を供出する必要から、廃線となりバス転換された。セレベス島での鉄道は結局実現せず終戦を迎えており、遠い南洋の地に送られた車両は行方不明となった(輸送船が撃沈されたとの説もある)。
2009年02月吉日 成田鉄道宗吾線
 1910年(明治43年)に一部区間が開通、翌年に宗吾 - 成田間の全線が開業した。第一次世界大戦で鉄の価格が高騰していたことから、電車を廃止してレールを売却することを目論んだ。地元から猛反対の運動が起こり、複線の内単線を撤去することと、保有車両数の15両から6両への削減を行うことで決着した。1944年(昭和19年)には参詣路線は戦時柄ふさわしくないことと、京成本線とほぼ並行していることから、不要不急線として廃線となった。京成本線には成田の駅の位置を巡って新勝寺門前により近い所への設置を画策して成田電気軌道を買収(1925年)し、その線路を接続する案もあったが、門前の商店街の猛反発に折れ、1930年4月25日に現在の位置に京成成田駅を設置した。
2009年01月吉日 三井東圧化学専用線
 三井化学茂原工場敷地までの間に、3系統のルートで旧国鉄と連絡した貨物の専用線が敷設されていた。引込線の南方ルートは茂原駅の南側で房総東線から上り方向に東へ分岐北上し旧海軍茂原航空基地に接続していた。1957年旧海軍茂原航空基地跡が東洋高圧工業茂原工場になり旧国鉄との専用線が西方ルートの現在の外房線経塚高架橋の先、上り方向東へ分岐する引込線が新しく設けられた。1972年に房総東線が電化され外房線となり、茂原市内の外房線の高架化の計画により、茂原駅の客貨分離が決定された。1986年に本納〜新茂原間に新茂原貨物駅が開設され、同時に専用線の旧国鉄との接続は北方ルートとなる。
2009年01月吉日 大網駅短絡線旧大網駅は当初、東金駅方面から千葉駅方面と安房鴨川駅方面に分岐する線形となっており、1972年(昭和47年)5月27日 旧大網駅は現在の場所へ移転し、スイッチバックを解消し駅を600m土気方面に移転し千葉方面から外房方面へ直進のみで進めるようになり、利便性が飛躍的に向上した。土気-大網間は勾配がきつく短絡線の目的は急勾配の土気−大網間を避けるために貨物列車が、大網−成東−佐倉と東金線、総武本線へと迂回するためであった。また、成東、東金方面からの貨物輸送のため、新しい大網駅を通らず、そのまま外房線へ抜ける旧線は貨物専用の短絡線として残されたが、1971年(昭和46年)7月1日 貨物扱い廃止。 1997年(平成9年)3月 新茂原駅での貨物取扱廃止に伴い、構内短絡線廃止した。
2009年01月吉日 九十九里鉄道東金と漁師町の片貝を結ぶ鉄道として1926年11月25日に開業。全線の運賃は30銭だった。当初は九十九里軌道を名乗り、法規上も軌道法の適用を受けた軌道だったが、1931年に地方鉄道法に適用法規を変更し、社名も九十九里鉄道に改めた。ガソリンを燃料としていたが、片貝付近では、地下から天然ガスが湧出しており、戦中戦後にかけてのガソリン不足で天然ガス等で代用していた。しかし、天然ガスでは力が弱く当時の記事に「途中で動かなくなり家族を迎えに行った」「通行人とぶつかると車両の方が倒れてしまう」などという記述が見られるほどだった。だが、そうした記述には不満に思っているという雰囲気は無く、地元の人々に愛されていたことが伺える。
2009年01月吉日 南総鉄道は、かつて千葉県に存在した鉄道路線およびその運営会社である。房総線(現在の外房線)茂原駅と小湊鉄道鶴舞町駅(現在の上総鶴舞)を結ぶ房総半島横断路線として計画されたが、途中の市原郡内田村の奥野まで開業したのみで、経営の不振により部分開業から8年半後の1939年に廃止された。本社は当初茂原町内に置かれたが、後に笠森寺駅構内に移転した。同年、第一期工事として茂原-笠森寺間が着工。しかし資金的な困難にぶつかり、最終的に鉄道連隊の助力を得ることで1930年(昭和5年)8月1日に同区間を開通させた。1939年(昭和14年)3月1日、茂原 - 奥野間の全線が廃止された。廃線後の路盤は農道などに転用されたほか、上総蔵持-深沢間のトンネルは拡幅されて現国道409号のトンネルとなった。
2008年12月吉日 西武大宮線は、埼玉県川越市旧市街にあたる川越久保町駅と大宮市(現:さいたま市大宮区)の大宮駅とを結んでいた鉄道路線である。大宮線を運営していた西武鉄道の前身、川越馬車鉄道(川越電気鉄道)は入間郡川越町内(現川越市)に埼玉県下で初めて電灯を灯した電気事業者でもある。川越馬車鉄道(旧西武大宮線)は、1902年(明治35年)5月9日に第八十五銀行取締役の綾部利右衛門らの発起によって設立され、同日に開業した。設立時における役員構成は、取締役5名のうち社長の綾部をはじめ3名が川越町の商人であり、川越馬車鉄道は川越商人主導で経営されていた。
2008年12月吉日 手宮線は、北海道小樽市の南小樽駅から同市内の手宮駅を結ぶ日本国有鉄道が運営した鉄道路線(貨物線)である。北海道で最初の鉄道開業区間の一部で、石炭や海産物の積み出しで賑わったが、1985年に廃止となった。 北海道では最初の鉄道である官営幌内鉄道(手宮〜札幌〜幌内)の一部として1880年に開通した。官営幌内鉄道は1889年に北海道炭礦鉄道に譲渡された後、鉄道国有法によって1906年に買収、国有化された。現在、廃線跡のほとんどが保存されている。踏切も残っており、踏切での一時停止の不要を知らせる看板もある。手宮駅跡は「小樽市総合博物館(鉄道・科学・歴史館)」として活用されているほか、手宮線をLRTとして復活する提案が地元の「小樽まちづくり協議会」を中心になされている。
2008年11月吉日 大正森林鉄道
高知県四万十町(旧大正町)田野々から国道439号線を梼原(ゆすはら)方面に行くと、下津井というところにコンクリート橋があります。これは森林鉄道跡です。地元では下津井めがね橋の愛称で呼ばれ、名物となっています。この奥の佐川国有林から梼原川沿いを下り、貯木場まで材木を運んでいました。
2008年11月吉日 塩江線(しおのえせん)は、香川県香川郡仏生山町(現・高松市仏生山)の仏生山駅と香川郡塩江村(現・高松市塩江地区)の塩江駅を結んでいた琴平電鉄(ことひらでんてつ、現・高松琴平電気鉄道)の鉄道路線。日本内地における、史上唯一の非電化標準軌鉄道線であった。
2008年11月吉日 日光軌道線(にっこうきどうせん)は、栃木県日光市の日光駅前から馬返までを結んでいた、東武鉄道運営の路面電車である。愛称は「日光電車」。1968年に廃止された。
2008年11月吉日 日光鋼索鉄道線(にっこうこうさくてつどうせん)はかつて栃木県日光市の馬返駅から明智平駅までを結んでいた東武鉄道の鋼索鉄道(ケーブルカー)である。
 馬返駅で日光軌道線と連絡する形で運行していた。1970年廃止。
2009年04月吉日
2008年10月吉日
千歳線(旧線) 1973年には新札幌副都心開発計画に合わせて、線形が悪く輸送上のネックであった北広島 - 苗穂間の線路付け替えが行われ全線複線化、1980年には全線電化と千歳空港駅(現南千歳駅)の開設が行われ、札幌都市圏の重要な通勤路線や札幌市内から千歳飛行場(旧千歳空港)へのアクセスルートとして、列車の増発や所要時間短縮などの輸送力増強が進められた。
 北広島駅 - 苗穂駅間の廃線跡は、現在、北海道道1148号札幌恵庭自転車道線(白石サイクリングロード・エルフィンロード)となっている。
千歳線 北広島駅−野幌駅間
2008年10月吉日 恵庭森林鉄道は、二路線36.4kmのナローゲージ。恵庭駅‐漁川上流俗称「滝の上」間29.7kmの本線のうち13.6kmは、王子製紙が漁川発電所建設のため昭和4年に敷設した作業軌道。札幌地方帝室林野局が6年に購入、4次にわたり延長した。北海道唯一のインクライン(つるべ式索道鉄道)が有名。廃止は30年11月。恵庭市の漁川流域は森林資源に恵まれ、DL牽引の森林鉄道が発達した。最終地はJR恵庭駅にあり、ここの土場に大量の木材が積まれた。森林鉄道は15kmあり、幾つかの高架橋や分岐を経て奥(バケの沢)へ侵入していた。途中、段差のあるギャップがあり、ここに日本でも珍しい、インクラインが掛けられ、木材貨車が釣瓶式に上下した。恵庭市博物館にはこの機関の模型が展示されている。
2008年10月吉日 布引電気鉄道(ぬのびきでんきてつどう)は、大正から昭和にかけて長野県北佐久郡小諸町(現小諸市)の小諸駅から北佐久郡北御牧村(現東御市)の島川原駅までの7.4kmを結ぶ鉄道路線を運営していた鉄道会社である。「安易な計画が祟って数年で挫折した私鉄」として、雑誌などの記事でもしばしば引き合いに出される鉄道であり、鉄道趣味者における知名度は、現在においても意外に高い。
2008年10月吉日 しなの鉄道小諸駅旧線
2008年10月吉日 名古屋臨海鉄道知多専用線は、名古屋港東地域に置ける貨物輸送を行う鉄道事業者。駐車場・倉庫業なども行っている。日本貨物鉄道(JR貨物)、名古屋港管理組合、日本通運などが出資している。名古屋港南東地域は戦前から企業の進出が著しい地域であって、同地区からの貨物輸送は名古屋港管理組合の持つ専用線から名古屋鉄道(名鉄)築港線の東名古屋港駅へ送り、そこから大江駅・神宮前駅を経由して日本国有鉄道(国鉄)熱田駅へ運び、そこから全国へ搬出していた。その後、1974年には名鉄築港線における貨物輸送の大部分が譲渡され、残りも1984年実施の国鉄ダイヤ改正で国鉄の貨物輸送整理に伴い全面譲渡となり、築港線及び名鉄における貨物輸送は消滅した。
2008年10月吉日 茨城交通水浜線は、かつて茨城県の水戸市と那珂湊市(現在のひたちなか市)を結んでいた、茨城交通の路面電車である。1966年に全線が廃止された。 併用軌道と専用軌道が混在していて、水戸駅前と上水戸が接続駅となっていた。
2008年10月吉日 島原鉄道 島原外港駅−加津佐駅
島原鉄道線は、長崎県諫早市の諫早駅から同県島原市の島原外港駅までを結ぶ島原鉄道の鉄道路線である。島原半島の北岸から東岸を走る鉄道路線。非電化ローカル線であるが、諫早口では近郊輸送の役割も担っている。かつては博多駅までの国鉄線直通優等列車も運行していたが廃止され、島原半島と福岡を結ぶ当路線の連絡機能は失われた。以前は島原外港駅からさらに南島原市の加津佐駅までを結んでいたが、同区間は2008年(平成20年)4月1日に廃止された。部分廃止以前は諫早 - 南島原間を北目線(きためせん)、南島原 - 加津佐間は南目線(みなみめせん)と呼ばれていた。このうち南目線も南島原 - 島原外港間一区間は存続しているため南目線が完全に廃止されたわけではない。
2008年09月吉日 日本セメント専用線(西大家-旧日本セメント:太平洋セメント)西大家貨物線は1963年に開業し、西大家信号所で越生線と分岐し、日本セメント埼玉工場内(現太平洋セメント埼玉工場)の日高を結んでいた。全線電化である。秩父鉱業線(廃止時は日本セメント東松山専用線)で秩父鉱業東松山採掘場の粘土を納入し、日本セメント埼玉工場で加工された製品を下板橋セメント包装所への出荷輸送することを目的としていた。東武鉄道所属のED5010形が直接乗り入れていた。東武東上線の貨物廃止によりダンプカーによる輸送に替わり1984年廃止となった。同工場への専用線は、JR高麗川駅から分岐するものもあった。こちらは当駅から分岐する専用線の廃止後、1999年まで使用されていた。
2008年09月吉日 日本セメント東松山線(高坂-高本)
西大家貨物線は1963年に開業し、西大家信号所で越生線と分岐し、日本セメント埼玉工場内(現太平洋セメント埼玉工場)の日高を結んでいた。全線電化である。秩父鉱業線(廃止時は日本セメント東松山専用線)で秩父鉱業東松山採掘場の粘土を納入し、日本セメント埼玉工場で加工された製品を下板橋セメント包装所への出荷輸送することを目的としていた。東武鉄道所属のED5010形が直接乗り入れていた。東武東上線の貨物廃止によりダンプカーによる輸送に替わり1984年廃止となった。同工場への専用線は、JR高麗川駅から分岐するものもあった。こちらは当駅から分岐する専用線の廃止後、1999年まで使用されていた。
2008年09月吉日 東武根古屋線(小川町-根古屋)
根古屋線(ねごやせん)は埼玉県比企郡小川町の小川町駅から根古屋駅までを結んでいた東武鉄道の貨物線である。主に終点近くの鉱山で採掘される石灰石等を搬出するために敷設された。終点の根古屋駅からは坂本経由で皆谷(秩父郡東秩父村)まで索道が敷設されており鉱山まで結ばれていた。
2008年09月吉日 上武鉄道(丹荘-西武化学前)
上武鉄道(じょうぶてつどう)は、埼玉県児玉郡神川町の丹荘駅と西武化学前駅の間を結ぶ鉄道路線(日丹線)を運営していた鉄道事業者である。1986年に鉄道路線を廃止したが、以後も群馬県倉賀野に本拠を置く通運会社として存続している。
2008年09月吉日
2008年04月吉日
2008年03月吉日
小阿仁森林鉄道は材木の損傷や計画的輸送の困難などの理由から、河川運材の限界を克服するために導入されていた。小阿仁森林鉄道は、米代水系阿仁川最大の支流である小阿仁川の源流部から、阿仁川と合流する合川町増沢地区までの、本線43km余りの、県内有数の長大森林鉄道であった。1967年に廃止になるまで、小阿仁川流域の豊富な森林資源開発のみでなく、鉄道など公共交通機関の著しく立ち遅れていた上小阿仁村の主要な地域を縦貫していた本線は、地域の足としても、非公式に活躍してきた歴史がある。県内有数の長大森林鉄道だった小阿仁森林鉄道だが、その大部分は廃止後、道路敷きなどに転用されており、意外に痕跡は残っていない。
2008年06月吉日
2008年02月吉日
わたらせ渓谷鉄道
わたらせ渓谷鐵道株式会社(わたらせけいこくてつどう―)とは、旧国鉄の特定地方交通線(足尾線:群馬県 - 栃木県)を引き継いだ鉄道路線わたらせ渓谷線を運営する第三セクターの鉄道事業者である。
2009年04月吉日
2008年06月吉日
旧信越線 軽井沢−横川間新線上り線
アプトの道(めがね橋)
旧信越線軽井沢−横川間新線下り線-1

旧信越線軽井沢−横川間新線下り線-2
 横川駅 - 軽井沢駅間は一部の区間が遊歩道として整備されている。また、安中市松井田町の財団法人碓氷峠交流記念財団により、同駅間の廃線跡で、同財団の運営する「碓氷峠鉄道文化むら」の園内遊具として、「ぶんかむら駅 - まるやま駅 - とうげのゆ駅」においてトロッコ列車を運行している。現在、同財団と安中市は国土交通省と協議を行い、同財団を鉄道事業法における特定目的鉄道の正規鉄道事業者に昇格させ、同駅間の廃線を復活させる計画がある。2006年10月に鉄道事業法の認可を目指し、早ければ2007年10月の開業とJR横川駅への乗り入れを目標としていたが、計画は凍結状態にあり認可・開業時期とも未定となっている。
2009年04月吉日
2008年05月吉日
2008年05月吉日 水根貨物線
水根貨物線は、小河内ダム建設のために東京都水道局が敷設した資材運搬用の鉄道で、正式には「東京都専用線」、別名「小河内線」とも呼ばれました。奥多摩(当時氷川)駅と、水根(小河内ダム付近の地名)を結んでいた専用線であり、ほぼ全線に渡ってトンネルと橋梁の連続する、大変厳しい地形の上に敷設されています。ダム完成後休止線となり、現在は奥多摩工業の所有となっています。
2008年03月吉日 伊豆急 伊東線 宇佐美隧道・小山隧道
2008年03月吉日 日中線(にっちゅうせん)は、福島県喜多方市の喜多方駅と耶麻郡熱塩加納村(現在の喜多方市)の熱塩駅を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)。1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1984年に廃止された。なお、路線名は、終点の熱塩駅北方にある日中温泉に由来する。
2008年03月吉日
2008年01月吉日
常磐線旧線(富岡駅 - 四ツ倉駅)常磐線は、東京都荒川区の日暮里駅から千葉県北西部、茨城県、福島県の太平洋側を経由して宮城県岩沼市の岩沼駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。列車運行上の常磐線は、東北本線区間の上野駅 - 日暮里駅および岩沼駅 - 仙台駅間を含めた、東京都台東区の上野駅から宮城県仙台市青葉区の仙台駅までである。また、運転系統上の「常磐線」は、中距離列車や特急列車などの列車系統のみを指し、取手駅以南の複々線区間を運転する電車系統の快速電車・各駅停車とは区別される。本記事での運転系統としての記述は主に前者について取り上げる。
2008年01月吉日 常陸太田 旧日立電鉄廃線
日立電鉄株式会社(ひたちでんてつ)は、2005年3月31日まで茨城県において鉄道事業を行っていた日立製作所傘下の会社である。本社所在地は茨城県日立市幸町3丁目4番6号。
現在は、公式ホームページによると事業内容を鉄道清算事業としており、また、事業持ち株会社として日立電鉄交通サービスなどを傘下におく。
2008年01月吉日
2007年12月吉日
鹿島鉄道
鹿島鉄道株式会社(かしまてつどう)は、茨城県にあった鹿島鉄道線を運営していた日本の鉄道会社。鹿島鉄道線は2007年4月1日に廃止された。
2007年12月吉日 西武安比奈線安比奈線(あひなせん)は、埼玉県川越市の南大塚駅から同市内入間川沿いの安比奈駅へと至る西武鉄道の貨物線である。1967年から、長らく休止されたままとなっている。あくまでも「休止中」であって廃止ではないが、周囲の道路の橋脚が建築限界を突破して建設されており、実質的には廃止状態である。書籍などによっては「廃線」とされているものもある。現在、安比奈線を整備して新宿線の新車両基地を設置する計画がある。これは過去に一度は頓挫したものの、再び、細々とではあるが設置に向けて動き出している。休止の年月を物語る架線柱なお、安比奈線が延びている入間川の対岸には安比奈新田という地名があるが、安比奈線の安比奈の読みは「あひな」である。
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