更新日時 2017年03月18日

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2017年03月吉日
2010年09月吉日
野上電気鉄道は、和歌山県にかつて存在した鉄道会社である。和歌山県海南市の日方駅から同県海草郡野上町(現在の紀美野町)の登山口駅までを結ぶ鉄道路線である野上線の運営や、同線沿線地域を中心にバス事業を行っていた。地場資本による経営で大手私鉄の傘下に入らず独立した経営を行っていたが、モータリゼーションの進展による乗客の減少から経営難に陥った。と同時に特産品の輸送は次第にトラック輸送に置き替えられるようになり、1966年10月1日小口扱い貨物を、1971年6月1日 車扱い貨物をそれぞれ廃止した。1994年に野上線を廃止し、バス事業も海南市の運送会社大十株式会社に譲渡して会社は解散した。
2014年08月吉日
2010年07月吉日
渚滑線(しょこつせん)は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道紋別市(網走支庁管内)の渚滑駅で名寄本線から分岐し、紋別郡滝上町の北見滝ノ上駅を結んでいたが、1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。改正鉄道敷設法別表第139号には、北見滝ノ上から石北本線の上川駅を結ぶ予定線が計画されていたが、全く着手されなかった。
2014年08月吉日
2010年07月吉日
鴻紋軌道(こうもんきどう)は、かつて北海道網走支庁管内の紋別郡紋別町に存在した軽便鉄道路線である。鴻之舞軌道(こうのまいきどう)と呼ばれる場合もある。鴻之舞鉱山拡張に必要な資材の運搬や、人口が1万3千人を超す鴻之舞地区住人の生活物資の運搬を目的として、1940年(昭和15年)10月に着工された。当初は1942年(昭和17年)に完成予定であったが、元紋別地区にある沢の埋め立てが難工事となって、鴻之舞地区から大量の石を運搬したのが影響して工期が延びていた。翌1943年(昭和18年)6月に完成したものの、鉱山は戦時産業統制の一環で前年12月26日に休山命令を受けており、最初の活躍の場は解体された機器類を他の鉱山に転用するための運搬という、当初目的から外れた皮肉な結果となった。
2014年07月吉日
2011年06月吉日
西濃鉄道市橋線は、岐阜県大垣市の美濃赤坂駅から猿岩駅までを結ぶ、西濃鉄道の鉄道路線。東海道本線支線(通称、美濃赤坂支線)の美濃赤坂駅を起点とする貨物線で、同駅構内の大垣方から分岐している。金生山から産出される石灰石を運ぶ貨物列車が運行されているが、戦前の1930年から1945年まで旅客営業を行っていたことがあり、大垣駅から市橋駅まで(のちに赤坂本町駅までに短縮)鉄道省初となるガソリンカー(キハニ5000形)が直通運転していた。乙女坂駅から名古屋臨海鉄道の名古屋南貨物駅に専用線が接続する新日本製鐵名古屋製鐵所に向かう定期貨物列車が1日2往復、臨時が1往復運行されている。乙女坂駅では矢橋工業が石灰石の発送を行っている。猿岩駅はフタムラ化学向け二硫化炭素の名目上の着駅であったが、2006年(平成18年)3月31日 - 猿岩 - 市橋間廃止。
2014年06月吉日
2010年04月吉日
安房森林軌道屋久島電工線
(あんぼうしんりんきどう)とは、屋久島(鹿児島県熊毛郡屋久島町)にある森林鉄道である。観光、保存の森林鉄道以外では、日本唯一の現役の森林鉄道である。安房森林鉄道、屋久島森林鉄道ともいう。元々は、熊本営林局下屋久営林署の管轄であったが、1969年(昭和44年)に運行を終了している。現在は、荒川分岐点を境に、安房〜荒川が屋久島電工株式会社の区間、荒川から先が屋久島森林管理署の区間となっている。安房〜荒川は屋久島電工に払い下げられて発電所建設と維持管理に使用している。荒川から先は有限会社愛林に運行委託されており、屋久杉の土埋木や昔の切り株などの運搬に使用している。屋久杉の土埋木や昔の切り株は、民芸品、家具、建材に使用される。
2012年12月吉日
2009年09月吉日
南部縦貫鉄道線は、かつて青森県上北郡野辺地町の野辺地駅から同郡七戸町の七戸駅を結んでいた南部縦貫鉄道の鉄道路線。旧型レールバスの運行が行われていたことで、鉄道ファンなどの間では有名であったが1997年に休止、2002年に廃止されている。この路線を運営していた南部縦貫鉄道は沿線の開発を目的に自治体が資金を拠出して設立された。開通にこぎ着けたものの、輸入鉄鉱石の価格下落により1965年にむつ製鉄の計画は頓挫、天間林からの砂鉄輸送はほとんど行われないまま中止されてしまう。並行道路にバスが走っていることから旅客も見込めず、1966年には会社更生法の適用を申請することとなった。
2012年12月吉日 太平洋セメント水戸サービスステーション専用線:内原駅は2000年(平成12年)まで専用線発着の車扱貨物を取り扱っており、貨物列車の設定があった。専用線が駅西側にある太平洋セメント水戸サービスステーションの貨車用荷役設備へ続いており、ここまでセメントを輸送するために小名浜駅から貨物列車が運行されていたが、2000年3月7日限りで廃止された。
2012年11月吉日 赤穂鉄道は、かつて国鉄山陽本線の有年駅から播州赤穂駅間の鉄道路線を運営していた鉄道事業者である。1890年(明治23年)に山陽鉄道が路線(現在の山陽本線)を山間部に敷設すると鉄道ネットワークから取り残されたため、鉄道を同線の有年駅から町中心部まで敷設しようとする発案が幾度か挙がったが、いずれも予算問題で立ち消えとなっていた。しかし1910年(明治43年)に軽便鉄道法が公布されたことから、これを契機として軌間762mmの軽便鉄道の敷設が決定され1915年(大正4年)に会社創設、1921年(大正10年)に開業した。赤穂鉄道は塩の輸送のほか、観光誘致にも積極的で、赤穂周辺においてバス事業も展開した。戦後、山陽本線相生駅と接続する国鉄赤穂線が開業することになったため、1951年(昭和26年)に廃止となった。
2012年11月吉日 都電砂町線(38系統):城東軌道線は1920年12月28日城東電気軌道株式会社の手により、水神森 - 小名木川(大島一丁目)間開業。1938年(昭和13年)4月25日東京地下鉄道が城東軌道線を継承。1942年(昭和17年)2月1日東京市電気局に買収され、市電路線に編入される。1972年(昭和47年)11月12日:第七次都電撤去(錦糸町駅前 - 日本橋間他6線区)砂町線は水神森から大島一丁目までは明治通りに沿うような形の専用軌道となっており、途中竪川を専用橋で渡っていたが、廃線後は竪川を境に以北は亀戸緑道公園、以南は大島緑道公園として整備され、専用橋跡は「竪川人道橋」として歩行者専用橋に転用された。現在は橋の北詰に都電をあしらったモニュメントとともに説明板が置かれている。
2012年11月吉日 仙石線旧線(高城町駅-陸前小野駅):仙石線は、宮城県仙台市青葉区のあおば通駅から仙台駅を経由し宮城県石巻市の石巻駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)および付随する津波の被害を受けて、2012年(平成24年)12月現在高城町駅 - 陸前小野駅間が不通となっている。この区間は軌道の損傷・駅舎流失等、甚大な被害をうけたため、復旧の目途が立っていなかった。JR東日本仙台支社は2012年1月に、2015年度中にも全線復旧する方針を発表した。被害が大きかった陸前大塚駅 - 陸前小野駅間は内陸側に移設される。
2012年11月吉日 総武本線旧線(物井駅-佐倉駅):総武本線は東京都千代田区の東京駅から千葉県銚子市の銚子駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。1889年(明治22年)1月に総武鉄道株式会社を創立、利根運河との競合を避け、陸軍の支持が得られるように国府台、津田沼、佐倉等の軍営所在地を通るルートが採用され申請した。1894年(明治27年)7月に市川駅 - 佐倉駅間が開業。1907年(明治40年)、鉄道国有法により買収・国有化され、官設鉄道の総武本線となった。1968年(昭和43年) 2月25日:物井駅 - 佐倉駅間が複線化および自動信号化。その時に付け替えが完了し旧線の役目が終わったと思われる。
2012年11月吉日 同和鉱業花岡線は、かつて秋田県大館市に存在した同和鉱業の鉄道路線。花岡鉱山からの鉱石輸送を目的として、1914年(大正3年)に花岡鉱山が開設していた専用鉄道を翌1915年(大正4年)鉱山と共に藤田組が買収、同年に1909年(明治42年)に後の小坂線を開業させていた小坂鉄道に譲渡され、1916年(大正5年)に旅客営業も行う普通鉄道として開業した。この時は、小坂線と同様に762mm軌間の軽便鉄道規格路線であったが、1951年(昭和26年)に小坂線より一足早く1067mmへ改軌され、国鉄との貨車直通を可能にした。1958年(昭和33年)には同和鉱業へ小坂鉄道が合併され、同社の保有となった。しかし花岡鉱山の閉山を受け、1983年(昭和58年)に貨物営業を廃止する。その後しばらく旅客輸送は継続したが、1985年(昭和60年)に全線が廃止となった。
2012年11月吉日 小坂製錬小坂線は秋田県大館市の大館駅から秋田県鹿角郡小坂町の小坂駅に至る小坂製錬が運営していた貨物鉄道路線である。小坂鉄道とも呼ばれる。1989年(平成元年)に同和鉱業から小坂製錬が分離され、同社の小坂線となり、1994年(平成6年)10月1日には旅客営業が廃止された。小坂鉱山の鉱石輸送や鉱山閉山後は主に濃硫酸輸送に使用されていたが、2007年2月末に荷主の小坂製錬が濃硫酸の製造を停止し石膏の製造に切り替えたため(石膏はトラック輸送される)、小坂線による出荷も2008年3月に終了した。2008年9月18日に東北運輸局に鉄道事業廃止届出を提出し、2009年(平成21年)4月1日に全線が廃止された。
2012年11月吉日 弘南鉄道黒石線は、かつて弘南鉄道が運営していた鉄道路線。青森県南津軽郡田舎館村の川部駅から黒石市の黒石駅までを結んでいたが、1998年に廃止された。日本国有鉄道(国鉄)の特定地方交通線で、同じ青森県内の大畑線とともに純民間資本の民営鉄道に転換された数少ない例であった。この路線は軽便鉄道法に基づいて計画されたもので、1912年に黒石軽便線として開業した。1980年に国鉄再建法が成立すると廃止対象の第1次特定地方交通線に指定され、自社線に取り込んで経営を引き継ぐこととなった。その際、国鉄と弘南で別れていた黒石駅は、国鉄黒石駅の直前から弘南黒石駅に渡り線を新設して弘南黒石駅に統合されている。黒石線は、転換特定地方交通線のトップを切って1998年に廃止された。
2012年11月吉日 奥羽本線旧線(陣場駅 - 津軽湯の沢駅間):奥羽本線は、福島県福島市の福島駅から、山形県と秋田県を経由して青森県青森市の青森駅に至る鉄道路線(幹線)である。日本鉄道会社の青森から官営鉄道として奥羽北線、福島から奥羽南線として建設が開始され、1905年に全線が開業した。1899年(明治32年) 6月21日:碇ヶ関駅 - 白沢駅間が開業。陣場駅は1899年に隣の白沢駅とともに秋田県で最初に開業した駅である。1970年(昭和45年) 11月5日:陣場駅 - 津軽湯の沢駅間が複線化。それに伴い旧線が廃止となる。
2012年10月吉日 庄内交通湯野浜線は、山形県鶴岡市の鶴岡駅から湯野浜温泉駅までを結んでいた庄内交通の鉄道路線である。最盛期は善宝寺への参拝客や湯野浜温泉への観光客の輸送、庄内米の貨物輸送等で活況を呈したが、モータリゼーションの波には勝てず1975年4月1日をもって廃止された。現在、車両の大半が廃車され、辛うじて保存されている1両も荒廃が進んでいる。また、善宝寺鉄道記念館の閉館および庄内クラフトステーションの移転により、湯野浜線に関する資料も散逸している。路線の大半は水田地帯を走っていた。そのため、廃止後に行われた圃場整備事業により、善宝寺駅あたりまでの廃線跡はほとんど消えた。現在は駅跡付近に若干残っている程度である。庄内砂丘付近の善宝寺 - 湯野浜温泉間の線路跡はサイクリングロードとなっている。
2012年10月吉日 三菱鉱業油戸炭鉱専用線:羽前大山駅から竹の浦まで石炭を運搬する為の鉄道が引かれ、B6形蒸気機関車2両が使用されていた。1957年(昭和32年)に閉山され廃止されている。油戸炭鉱は、かつて山形県鶴岡市にあった炭鉱。三菱鉱業が経営していた。江戸時代から石炭のあることが知られており、村内を流れる油川・油戸の地名も、石炭に連なる油状物質との関連があるといわれている。明治8年開坑。殖産興業策の明治政府は工部省鉱山油戸分局として官営採鉱。明治29年三菱鉱業に払下げられ、佐渡鉱山の精錬・発電用燃料に使った。海岸までトロッコ運搬、沖合の汽船まで小舟で積出した。
2012年10月吉日 仙石線旧線(本塩釜駅-東塩釜駅間):宮城電気鉄道は、かつて宮城県に存在した鉄道事業者である。1922年(大正11年)に設立され、現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)仙石線にあたる路線を1925年(大正14年)から順次開通させたが、1944年(昭和19年)に戦時買収私鉄に指定され国有化された。仙石線は、宮城県仙台市青葉区のあおば通駅から仙台駅を経由し宮城県石巻市の石巻駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。1981年(昭和56年)11月1日高架複線化に伴い、現在の路線に付け替えられ、山側を迂回する旧線が廃止される。
2012年10月吉日 塩釜魚市場支線:塩釜線は、かつて宮城県に存在した日本貨物鉄道(JR貨物)の鉄道路線。1956年(昭和31年)までは塩竈線と表記した。1997年(平成9年)に廃止された。1965年(昭和40年)には、塩釜魚市場駅への支線も開通している。しかし塩釜魚市場駅の開通直後、塩釜魚市場の水揚げ量が大きく減少し、支線は開通からわずか13年後の1978年には廃止に至る。
2012年10月吉日 塩釜線は、かつて宮城県に存在した日本貨物鉄道(JR貨物)の鉄道路線。1956年(昭和31年)までは塩竈線と表記した。1997年(平成9年)に廃止された。モータリゼーション発達に伴うトラック輸送への移行と、塩釜港の仙台港への機能移転、さらに唯一の収入源であったタンク車による石油輸送が廃止され、塩釜線は収入源と需要を失い1994年(平成6年)に休止、1997年(平成9年)には廃止となった。
2012年09月吉日 内大臣森林鉄道とは、林野庁熊本営林局矢部営林署が国有林運搬のために熊本県上益城郡甲佐町の甲佐駅から熊本県下益城郡砥用町(現:美里町)を経て上益城郡矢部町(現:山都町)の貯木場までを結んでいた森林鉄道」である。1967年に廃止された。
2012年09月吉日 豊橋鉄道田口線は、愛知県新城市(廃線当時は南設楽郡鳳来町)の本長篠駅(開業時は鳳来寺口駅)から北設楽郡設楽町の三河田口駅までを結んでいた豊橋鉄道の鉄道路線である。敷設の経緯などから1067mmの森林鉄道とも呼ばれた。木材輸送を目的として1929年(昭和4年)に一部区間が、1932年(昭和7年)に全線が開業し、1968年(昭和43年)に全線が廃止された。段戸山系の御料林の木材を運搬する目的から、設立時は宮内省(今の宮内庁。戦後、御料林は国有林となり林野庁の所管)の出資も得ており、豊川鉄道・鳳来寺鉄道との3者で資本金の77%を占めていた。田峰駅と三河田口駅からは、集材用狭軌トロッコも設置された。
2012年09月吉日 飯田線旧線(佐久間駅−大嵐駅):佐久間ダムは、当時日本で最大規模の堤体と発電量を持つ巨大ダムであり、そのダムによって生成された人造湖(佐久間湖)は上流の泰阜発電所付近に至る全長33kmにもなり、当時天竜川左岸を走っていた飯田線の佐久間 - 大嵐間約18kmの部分がダム湖に水没するため、ダム建設に伴う補償としてこの水没区間の路線変更が行われた。佐久間ダムにより水没する部分は佐久間駅 - 大嵐駅間の約18kmであり、この区間には豊根口駅、天龍山室駅、白神駅の3駅があったが、これらは線路共々廃止となった。
2012年09月吉日 佐久間線は長野県伊那地方と静岡県遠州地方を結ぶ路線として計画された鉄道路線である。旧国鉄二俣線・遠江二俣駅(現天竜二俣駅)から飯田線・中部天竜駅までの約35kmの路線(橋20カ所、トンネル14カ所)として開通する予定で、1967年(昭和42年)7月12日に総工費81億円の予定で建設を開始したが、1980年(昭和55年)約13kmの区間で工事が進められ、路盤が約50%完成したところで、国鉄再建法により工事が凍結、工事そのものが中止された。遠江二俣 - 遠江横山には、築堤やトンネル・橋などが、現在も所々残っている。未完成のまま放置されたトンネルの内幾つかは民間に払い下げられ、椎茸栽培やワインセラー等に転用するなどして活用されている。
2012年09月吉日 神岡鉄道神岡線は、富山県富山市の猪谷駅から岐阜県飛騨市の奥飛騨温泉口駅に至る神岡鉄道が運営していた鉄道路線である。日本国有鉄道(国鉄)の特定地方交通線(神岡線)を1984年に引き継いだもので、2006年12月1日に全線が廃止された。高原川沿いの急峻な山間を走るため、全線の64%がトンネルまたは橋梁という山岳路線で路線環境も良く、「奥飛騨の地下鉄」とも呼ばれていた。1984年に国鉄から神岡鉄道へ第三セクター鉄道として転換された後も、神岡鉱山からの硫酸輸送を行ってきたが、神岡鉱山を運営する神岡鉱業がトラック輸送に切り替えたため、2004年10月15日限りで硫酸輸送を終了。同年12月31日限りで貨物営業が休止された。
2012年09月吉日
2009年01月吉日
土気駅−大網駅旧線
 誉田駅から土気駅の先まで約40mの勾配を登り、40分の1の急勾配と354mの旧土気トンネルを通り大網駅に達する。トンネル内にも40分の1勾配がり、大網駅までの短い区間で急勾配を下る難所であった。旧土気トンネルの老朽化と勾配緩和のため、1951年(昭和28年)トンネル上部の土砂を取り除き切り通しに変更された。1972年(昭和47年)外房線の複線と電化にともない、この区間は新土気トンネルと高架橋の新ルートに変更され、深い切り通しも埋め戻された。同時に大網駅はスイッチバックを解消し駅を600m土気方面の現在地に移転し千葉方面から外房方面へ直進のみで進めるようになり、利便性が飛躍的に向上し大網駅は2又に分かれるタイプの駅となった。
2012年08月吉日 横川アプトの道は、群馬県安中市にある鉄道の廃線跡を利用した遊歩道である。1963年(昭和38年)に廃止された旧国鉄信越線の横川駅 - 軽井沢駅間の旧線跡において、1996年(平成8年)より横川駅 - 碓氷第三橋梁(通称・めがね橋)間の全長4.7kmの廃線跡に遊歩道としての整備工事が行われ、2001年(平成13年)に完成した。2008年(平成20年)には、碓氷第三橋梁 - 旧熊ノ平信号場間(1.2km)の延長工事に着手。2012年(平成24年)4月完成が危ぶまれたが、無事に横川駅 - 旧熊ノ平信号場間の全長5.9kmが2012年(平成24年)3月末に完成し開通した。
2012年08月吉日 日本製紙伏木工場専用線:伏木駅は、富山県高岡市伏木古国府にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)氷見線の駅である。伏木駅構造は1面2線の島式ホームを持ち、列車交換が可能な地上駅。伏木貨物操車場から、本線東側に沿って南進、日本製紙伏木工場へ至る専用鉄道があった。この線路は工場からのコンテナによる紙製品の出荷に使用されていた。またこの路線から、東亞合成高岡工場へ至る専用鉄道が分岐しており、タンクコンテナによる化学薬品の出入荷に使用されていた。いずれも日本製紙伏木工場閉鎖に伴い、2008年(平成20年)10月以降は列車の運行はなくなっている。
2012年08月吉日 出光興産伏木油槽所専用線:伏木駅は、富山県高岡市伏木古国府にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)・日本貨物鉄道(JR貨物)氷見線の駅である。伏木駅構造は1面2線の島式ホームを持ち、列車交換が可能な地上駅。伏木駅構内の南端から、東に向かって分岐する側線があり、その先は貨物列車用の操車場となっている。かつては伏木貨物駅から港に面する油槽所群へ至る出光興産伏木油槽所専用線があった。
2012年08月吉日 西日本製紙坂本工場専用線:西日本製紙坂本工場は、熊本県八代市にあった九州では初めての近代的製紙工場。1898年10月東肥製紙坂本工場として操業開始。1933年5月18日 富士製紙とともに王子製紙に合併。戦後の財閥解体による王子製紙解体(1949年)に際して、坂本工場は十條製紙(現・日本製紙)に継承された。1966年(昭和41年)12月十條製紙坂本工場閉鎖(翌年西日本製紙株式会社の工場として再稼動、1988年(昭和63年)9月再閉鎖)JR肥薩線坂本駅へ接続されていた引込み線跡と坂本隧道などを見ることができる。工場付属の水力発電所の深水発電所と鮎帰発電所は操業当時のままの姿で現存している。
2012年08月吉日 日本セメント八代工場専用線:八代駅の西側から中心市街地を迂回して興人八代工場からメルシャン八代工場を経由し日本セメント八代工場(1980年閉鎖)へ至る専用線があったが、こちらは1989年までに全て廃止されている。専用線の大半は遊歩道や工場の敷地(駐車場)になって踏切跡も残っており、当時の線路跡を垣間見る事が出来る。日本セメント八代工場はしばらく廃墟として残ったあと2004年頃に取り壊されて更地になり、現在はゆめタウン八代とヤマダ電機テックランド八代店が建っている。18909年(明治23年)日本セメント株式会社八代工場操業開始。大築島より石灰石を採取し原料に利用した。1980年(昭和55年)4月日本セメント八代工場閉鎖。
2012年08月吉日 旧八代駅(球磨川駅)は1896年(明治29年)11月21日に、後に国鉄鹿児島本線となる路線を建設した私鉄の九州鉄道によって、松橋 - 八代間開通とともに開設された。この時の駅の位置は現在地よりも西側の、出町公園があるあたりであった。球磨川駅は、1945年(昭和20年)6月10日に書類上は廃止となった。しかし実態としては貨物扱い設備が存続し、八代駅構内の扱いで営業が継続されていた。球磨川駅へ至る線路跡は道路に転用され、駅の跡地は八代市により球磨川駅地区土地区画整理事業が施行され、出町公園などになっている。この公園にはかつての球磨川駅跡であることを示す説明板と国鉄C57形蒸気機関車の動輪の展示が行われている。
2012年08月吉日 日産化学工業鏡工場専用線:日産化学工業鏡工場専用線は鹿児島本線有佐駅から日産化学工業鏡工場へ製品及び原料資材搬送用の鉄道である。鏡工場の始まりは日本窒素肥料株式会社がカーバイトから硫酸アンモニアまでの一貫生産を行う、日本初の空中窒素固定法を採用した最新式の工場として、1914年(大正3年)1月に日本窒素肥料鏡工場は操業を開始した。その後、日本窒素肥料鏡工場は鏡工場から撤退し、東京人造肥料會社(現在の日産化学工業株式会社)に1927年(昭和2年)10月に土地・建物・施設を売却した。日産化学工業株式会社鏡工場も1958年(昭和33年)に鏡工場を閉鎖し日産化学工業鏡工場専用線も廃止された。
2012年07月吉日 根室拓殖鉄道は、北海道東部の根室市の根室駅(国鉄/JRの根室駅とは別地点)から根室半島南岸に沿って歯舞村(はぼまいむら 根室市に1959年合併)の歯舞駅までを結んでいた軽便鉄道路線、およびそれを経営していた鉄道会社。日本国内において史上最東端を走った鉄道である。道路事情の劣悪な歯舞・根室間を連絡し、歯舞で収穫された昆布等の海産物を輸送する目的で建設されたが、北海道東端の根室半島に敷設された路線環境は酷寒・積雪のみならず、海からの塩害・脆弱な路盤などきわめて過酷で、終始経営は難航した。1948年(昭和23年)以降は実質歯舞村有志により経営された。1959年(昭和34年)、歯舞村が根室市に合併することを受けて鉄道を廃止し、バス会社に転換したが、ほどなく根室交通に合併された。
2012年07月吉日 王子軽便鉄道山線は、北海道苫小牧市の王子製紙苫小牧工場から千歳市烏柵舞(うさくまい)の千歳川上流に設けられた自社工場向け水力発電所や支笏湖畔とを結び、発電所の建設資材や支笏湖周辺の森林資源を運搬する目的で敷設された軽便規格の専用鉄道である。 貨物輸送のための鉄道であったが、後に一般客扱いも行った。1904年(明治37年)9月、経営不振に陥っていた王子製紙は業績浮上を新工場に求め、これを設立する最適地を苫小牧村に定めた。工場のための発電所の建設地へ建設資材を運搬するにあたり、当初は馬車軌道を敷設したが、発電機などの大型機械類運搬に対応できないため、すぐに蒸気機関車運転に変更した。
2012年07月吉日 標津線厚床支線は、北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。中標津町の中標津駅で分岐し根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線からなっていた。国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線に指定された。1985年に問題がなくなったとして追加廃止承認され、国鉄分割民営化後の1989年に廃止された(沿線自治体は第三セクターによる鉄路維持を検討していたが、鉄路維持の場合は運営基金が7年で枯渇するという試算があり、バス転換に同意したもの)。
2012年07月吉日 標津線は、北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道川上郡標茶町の標茶駅で釧網本線から分岐し、標津郡標津町の根室標津駅に至る本線と同郡中標津町の中標津駅で分岐し根室市の厚床駅で根室本線に接続する支線からなっていた。1985年に問題がなくなったとして追加廃止承認され、国鉄分割民営化後の1989年に廃止された(沿線自治体は第三セクターによる鉄路維持を検討していたが、鉄路維持の場合は運営基金が7年で枯渇するという試算があり、バス転換に同意したもの)。
2012年07月吉日 静岡駅貨物引込線:静岡駅南口から南東方面のカネボウや松林工業薬品、静岡ガス、大浜製紙への引き込み線が、また南西方向にも西武建設の砂利採取場の引き込み線が存在していた。カネボウ、静岡ガス方面は昭和30年代、西武建設方面は昭和40年代までにすべて廃止となり、後に区画整理が進められ現在は引込み線の跡はほとんど存在していないが、ツインメッセ静岡周辺に線路跡らしきカーブを描く道路や踏切の跡である道路の隆起などが残っている。1967年(昭和42年)10月1日 - 東静岡駅(現在の静岡貨物駅)に貨物取り扱い業務の一部を移管。1973年(昭和48年)6月1日 - 貨物取り扱いを全廃。
2012年07月吉日 日高本線旧線:日高本線は、北海道苫小牧市の苫小牧駅から様似郡様似町の様似駅を結ぶ北海道旅客鉄道の鉄道路線である。王子製紙の関連会社であった苫小牧軽便鉄道と日高拓殖鉄道の2つの軽便鉄道を改正鉄道敷設法に規定する予定線の一部として1927年に国有化して改築し、これを1937年に様似まで延長したものである。1927年(昭和2年)8月1日:苫小牧軽便鉄道が日高拓殖鉄道を買収し、国有化。苫小牧 - 静内間が日高線となる。1962年(昭和37年) 12月1日:苫小牧港(西港)建設のため苫小牧 - 浜厚真間の線路を付け替え、改キロ(+9.4km)。廃線跡の一部は苫小牧港開発の貨物線に転用。
2012年07月吉日 苫小牧港開発株式会社線は、苫小牧港開発が運営していた北海道苫小牧市の新苫小牧駅と石油埠頭駅を結んでいた鉄道路線である。1963年(昭和38年)に苫小牧港ができ、進出してきた企業の原料や製品を輸送するために1968年に開業した。その後も接続する専用線は増加した。だが1980年代の鉄道貨物輸送の退潮に伴い専用線の数も減少し輸送量も減少、1998年(平成10年)に休止、2001年(平成13年)に廃止となった。最後まで運用されていたのは国鉄DD13形に酷似したD56形ディーゼル機関車である。スタイルは汽車会社型と川崎重工型の2種類あるが、DD13形と運転台窓周りを改変し、全高さの扉をやめ、非運転台窓を広めた方大型窓タイプのキャブを共通使用。
2012年07月吉日 西武鉄道線(静岡砂利線):「静岡砂利」という建材会社が1953年に開通させた砂利採取用の路線であり、安倍川の砂利を採取するための貨物線として敷設された。1955年に静岡砂利が西武系列の「復興社」に吸収され静岡砂利線は西武鉄道の路線となった。西武建設が清閑町にあり安倍川の砂利を運んでいた。1967年に安倍川の砂利採取が禁止され、安倍川砂利線は廃止となった。
2012年07月吉日 千歳鉱山軌道:千歳鉱山軌道の軌間は762mmで、国鉄室蘭本線を挟んで王子製紙苫小牧工場の北側、貯木場と第4発電所のある上千歳・支笏湖畔の間を走っていた王子山線と同じ規格である。千歳市街から西方約55kmに金山があった。美笛川河口までの間の鉱石運搬を担った鉄道施設、千歳鉱業所坑外専用軌道(千歳鉱山軌道)は、軌道敷設からわずか16年後の昭和27年に廃止、軌道が撤去された。鉱山から、さがる時は、ガソリンカーという機動車に引かれた。小さな客車の乗り物にのってせまい軌道の上を走って、終点から6,500m位で、美笛の河口につき白銀丸という19tの鉄船にのって一時間で東湖畔につきます。その後は王子軽便鉄道で苫小牧まで搬出した。
2012年07月吉日 三菱石炭鉱業大夕張鉄道線は、北海道夕張市にあった清水沢駅と大夕張炭山駅を結んでいた三菱石炭鉱業の鉄道路線である。「大夕張鉄道線」、「三菱大夕張鉄道」などと略称される。1911年(明治44年)開業の大夕張炭礦専用鉄道(清水沢 - 南大夕張)の経営主体が三菱合資・三菱鉱業として代わったのち、炭鉱の北部開発により延長され1939年(昭和14年)に三菱鉱業株式会社線(清水沢 - 大夕張炭山)として地方鉄道に改組・開業した。その後炭鉱の経営主体の変遷により1969年(昭和44年)10月には三菱大夕張炭礦株式会社、1973年(昭和48年)12月には三菱石炭鉱業株式会社に譲渡され、相次ぐ閉山・合理化により1987年(昭和62年)7月に廃止された。
2012年07月吉日 夕張線登川支線:北海道炭礦鉄道により運炭路線として建設され、鉄道国有法により買収・国有化された旧夕張線区間(追分駅 - 新夕張駅 - 夕張駅間)1892年(明治25年)11月1日:北海道炭礦鉄道の追分駅 - 夕張駅間が開業し、同区間に紅葉山駅・夕張駅が開業。1906年(明治39年)10月1日:北海道炭砿鉄道を買収し追分駅 - 夕張駅間が官設線となる。1916年(大正5年)7月11日:楓駅 - 登川駅間が延伸開業し、同区間に登川駅が開業。1967年(昭和42年)1月:楓駅(初代)が廃止。スイッチバックを解消し登川支線上に移転、楓駅(2代目)となる。1981年(昭和56年)7月1日:紅葉山駅 - 登川駅間の路線が廃止 (-7.6km)、同区間の楓駅(2代目)・登川駅が廃止。
2012年07月吉日 北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道(ほっかいどうたんこうきせんまやちたんこうせんようてつどう)は、北海道空知支庁管内夕張市の北海道旅客鉄道(JR北海道)石勝線沼ノ沢駅から、東方の真谷地炭鉱までの4.4kmを結んでいた北海道炭礦汽船の専用鉄道で、同炭鉱の閉山に伴い1987年(昭和62年)10月13日に廃止された。一時期「沼ノ沢」「真栄町」(6区)「清真台」(5区)「真谷地」の乗降場が設置され、便乗扱いで客車が運行された時期もあり、「勘合証」と呼ばれる乗車券が発行された。石炭輸送は1966年(昭和41年)まで日本国有鉄道(国鉄)機が乗り入れ、8100形は客車牽引、入換に使用された。その後4110形、9600形などが石炭輸送に従事した。
2012年07月吉日 北海道炭礦汽船(株)化成工業所専用鉄道:化成工業所専用鉄道の前身は北海道炭礦汽船(株)若菜辺専用鉄道 1908年10月25日 - 1933年10月31日 若菜辺砿の専用鉄道で、専用鉄道敷設免許は1907年で、夕張地区では最も古い。1920年(大正9年)2月17日 若菜辺専用鉄道の北炭譲受認可し譲渡された。 北海道炭礦汽船(株)化成工業所専用鉄道は1926年5月1日夕張鉄道線廃止後は夕張運送により元夕張鉄道線鹿ノ谷駅 - 若菜駅間を含む鹿ノ谷駅 - 化成工場駅間2.8kmが運行されていた。若菜駅にはコークス製造時の副産物輸送の為、北炭所有のタンク車・タム3250形2両が常備駅として配置されていた。1978年(昭和53年)4月 鹿ノ谷 - 化成工場間廃止。
2012年07月吉日 根室本線(花咲線)根室港貨物支線(通称臨港線)は根室駅と根室港を結ぶために昭和9年8月12日根室港駅(貨物駅)とともに誕生した。根室港駅は現根室漁協横に位置し、区間2.3qであった。取扱貨物は、戦前は根室や千島からの鮮魚貝類や蟹缶詰、硫黄鉱石等を送り出し、木材や石炭、塩等根室、千島への生活物資を受け入れた。戦時中は軍事物資が多く、戦後は根室で水揚げされた鮮魚貝類、野菜を主に発送し、塩、木材、缶詰の空缶等が主に運ばれてきた。使用されていた機関車は、C12やC58で、根室本線を走行していた車両が根室駅での発着に合わせて貨物を運んでいた。しかし、漁獲高の落ち込みや、冷凍技術の進歩、トラック輸送の普及等輸送形態の変化を受け、昭和40年9月30日に根室港駅とともに廃止となった。
2012年07月吉日 世知原線とは、長崎県北松浦郡吉井町(現在は佐世保市)の肥前吉井駅から長崎県北松浦郡世知原町の世知原駅までを結んでいた、日本国有鉄道の鉄道路線。1971年に廃止された。世知原町等の佐々川流域にある炭鉱からの石炭輸送のため、佐世保鉄道が岡本彦馬専用鉄道を譲り受けて運営した軌間762mmの軽便鉄道で、地方鉄道としては1933年に貨物線として開業した。翌年に旅客営業も開始し、1936年には買収・国有化され、鉄道省(国有鉄道)松浦線の名無し支線となった。1945年、松浦線の改軌工事完成に伴って、枝線が松浦線から分離され、世知原線となったが、沿線の炭鉱が閉山すると衰退し、レールバスのキハ10000系(キハ02形)が細々と走る程度になってしまった。1971年に廃止された。線路跡は現在サイクリング道路となっている。
2012年07月吉日 柚木線は、長崎県佐世保市の左石駅から柚木駅までを結んでいた、日本国有鉄道の鉄道路線。佐世保軽便鉄道の路線として1920年に開業。1936年に買収、国有化され、軌間を762mmから1067mmに改軌した。途中には肥前池野駅があった。現在、肥前池野駅跡地には公民館、柚木駅跡地には公営団地がある。沿線の炭鉱から掘り出された石炭を柚木線から左石駅経由で需要のあった北九州方面や積出港である相浦港方面へと運んでいた。1967年7月の水害で不通となったが、復旧されることなく同年8月31日限りで廃止された。なお、最後まであった柚木炭鉱は、1972年まで操業している。廃線跡は、自転車歩行者専用道路として整備された。
2012年07月吉日 臼ノ浦線とは、長崎県北松浦郡佐々町の佐々駅から長崎県北松浦郡小佐々町の臼ノ浦駅までを結んでいた、日本国有鉄道の鉄道路線。1971年に廃止された。もとは、臼ノ浦港から積み出す石炭の輸送のため佐世保鉄道が開業した軌間762mmの軽便鉄道で、1931年に開業した。1936年には買収・国有化され、鉄道省(国有鉄道)松浦線の名無し支線となった。その後、1944年に松浦線の改軌・線路付替えが行われたことに伴い、松浦線本線との分岐を四ツ井樋駅から佐々駅に変更。1945年、松浦線の改軌工事完成に伴って、松浦線から分離し、臼ノ浦線となったが、沿線の炭鉱が閉山すると衰退し、レールバスのキハ10000系が細々と走る程度になってしまった。1968年には、鉄道としての使命を終えたものとして、1971年に廃止された。
2012年07月吉日 ジョスコー線は、1950年から1978年まで長崎県佐世保市内の佐世保駅と赤崎貯油所を結んでいた米軍専用の引き込み線。全長4.6km。「ジョスコー」は赤崎貯油所を管理していたJapan Oil Storage Co.の略称である。九州鉄道が佐世保駅と佐世保鎮守府の間に敷設した貨物線を起源とする。佐世保駅から日本国有鉄道(国鉄)佐世保線を延長する形で北上し、松浦線と併走しながら西へ分岐、佐世保川を渡って鎮守府構内に入るとすぐにヤードとなり、現在の米軍基地ゲート付近(鎮守府貨物線時代の終点)から立神係船池と平行して西に進み、佐世保重工業の製缶工場を迂回するために北へ湾曲、神島町の山麓をトンネルで貫通し、船殻工場を迂回して佐世保重工業の敷地外縁を半周して赤崎岸壁に至る。岸壁沿いの道路と併走し、貯油所ゲートを越えてヤードに分岐していた。
2012年07月吉日 長崎臨港線(臨海鉄道):上海航路の発着場との客貨接続を目的として1930年(昭和5年)3月19日に長崎臨港鉄道(通称)が開設され、門司駅(現門司港駅)からの航路連絡のための列車(ボート・トレイン)が長崎港駅まで乗り入れるようになった。長崎駅からの路線は長崎港の海岸沿いを走り、現在の出島ワーフ付近にあった長崎港駅に到着。隣接する埠頭で上海航路の船に接続していた。貨物扱いも1982年(昭和57年)に廃止され、国鉄分割民営化実施前日の1987年(昭和62年)3月31日をもって正式に廃止となった。現在廃止線跡地は歩道や公園となっている。
2012年07月吉日 霞ヶ浦駐屯地(朝日分屯地)専用線:霞ヶ浦駐屯地(JGSDF Camp Kasumigaura)は、茨城県土浦市右籾町2410および阿見町に所在し、関東補給処等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。南側に隣接する茨城県道203号荒川沖阿見線を越えた位置に航空学校霞ヶ浦校が使用している霞ヶ浦飛行場が、隷属する分屯地として朝日分屯地がある。昭和27年10月、保安隊発足とともに武器補給廠として昭和28年1月、武器補給廠の恒久駐屯地設立の工事が茨城県土浦市の旧霞ヶ浦海軍第1航空廠跡地において開始され、昭和28年2月に霞ヶ浦駐屯地が開設されました。常磐線荒川沖駅から専用線が敷かれており、昭和50年頃までは年に数回(主に年度末に)貨物列車が通っていた。現在は線路が撤去され、併走の道路が拡幅されている。
2012年06月吉日 霞ヶ浦駐屯地(朝日分屯地)専用線:霞ヶ浦駐屯地(JGSDF Camp Kasumigaura)は、茨城県土浦市右籾町2410および阿見町に所在し、関東補給処等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。南側に隣接する茨城県道203号荒川沖阿見線を越えた位置に航空学校霞ヶ浦校が使用している霞ヶ浦飛行場が、隷属する分屯地として朝日分屯地がある。昭和27年10月、保安隊発足とともに武器補給廠として昭和28年1月、武器補給廠の恒久駐屯地設立の工事が茨城県土浦市の旧霞ヶ浦海軍第1航空廠跡地において開始され、昭和28年2月に霞ヶ浦駐屯地が開設されました。常磐線荒川沖駅から専用線が敷かれており、昭和50年頃までは年に数回(主に年度末に)貨物列車が通っていた。現在は線路が撤去され、併走の道路が拡幅されている。
2012年06月吉日 常南電気鉄道は、かつて茨城県新治郡土浦町(現・土浦市)の土浦駅と同県稲敷郡阿見町の阿見駅の間を結んでいた路面電車路線、およびその運営会社である。霞ヶ浦海軍航空隊の人員輸送を行うため1926年(大正15年)に建設された路線であった。土浦駅 - 水海道駅間の谷田部線も計画されていたが、予算の都合で土浦駅前 - 阿見駅間の阿見線のみが建設された。 しかし、既に1923年(大正12年)から並行してバスが運行されており、乗客も減少したことから、1938年(昭和13年)に開業11年で廃線となった。廃止後、車両は峡西電気鉄道(のちの山梨交通電車線)および秋保電気鉄道に譲渡された。
2012年06月吉日 国鉄浜松工場工場線:浜松駅が高架化される前まで引込線として使用されていた引込み線の廃線跡が残り、「堀留ポッポ道」という遊歩道として整備されている。小学校の横には「ケ91」形蒸気機関車が静態保存されているが、露天での展示のため部品の盗難などによる喪失も目立ち、状態は良くない。
2012年04月吉日 松尾鉱業鉄道は、かつて岩手県岩手郡松尾村(現、八幡平市)の東八幡平駅と、西根町(同)の日本国有鉄道(現JR東日本)花輪線の大更駅との間を結んでいた鉄道路線である。運営主体は松尾鉱業の鉄道部であった。松尾村にあった松尾鉱山と花輪線を結ぶ目的で敷設されたもので、1914年(大正3年)の創立時には手押しトロッコであったが、馬車鉄道、軽便鉄道、専用鉄道と変遷を繰り返したのち、戦後の1948年(昭和23年)に地方鉄道として開業した。接続する花輪線が現在に至るまで非電化の中、当線は直流1500Vで電化されており、大更駅構内にも架線が張り巡らされ、松尾鉱山で採掘された硫黄鉱石をはじめ、その他各種物資の輸送に大きな役割を果たした。回収硫黄の普及に伴う松尾鉱山の閉山により1972年(昭和47年)に廃止され、雲上の楽園と謳われ栄えた鉱山と運命を共にした。
2012年04月吉日 花巻電鉄軌道線(鉛線)は、かつて岩手県花巻市の国鉄東北本線花巻駅を中心に、花巻南温泉郷へ向かう軌道線を運営していた会社である。同社は1971年に岩手中央バスへ統合され、1972年に鉄道・軌道線を全廃し、1976年の再統合で岩手県交通となった。長い歴史において、買収や企業統合、単なる商号変更などで、運営する企業名が再三にわたり変わっているが、一般には戦後長期に渡って継続した「花巻電鉄」の名称で知られている。これらの路線は宮沢賢治や高村光太郎が利用したことでも知られる。に需要があった。
2012年04月吉日 旧国鉄川俣線は、かつて福島県福島市の松川駅から同県伊達郡川俣町の岩代川俣駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。赤字83線廃止の取組みの一環として1972年に廃止され、国鉄バスに切り替わったが、その後身であるJRバス東北の路線バスも2005年3月31日限りで廃止され、現在は自治体による代替運行が行われている。岩城川俣駅の跡地は記念碑と元川俣駅資料館が建てられており、元川俣駅資料館の方は集会所となっている。現在の松川駅 - 岩代飯野駅間の廃線跡は、ほとんどが未整備であり、阿武隈川に架かる鉄橋の解体などで歩行困難な箇所もある。岩代飯野駅 - 岩代川俣駅間は、全て2車線の道路に整備されている。川俣町内が一部町道である他、国道114号(川俣バイパス)、福島県道39号川俣安達線になっている。
2012年04月吉日 博多臨港線とは、福岡県福岡市東区の香椎駅を起点とし、同区の福岡貨物ターミナル駅を終点とする、日本貨物鉄道(JR貨物)の鹿児島本線貨物支線の通称である。第二次世界大戦中、中国大陸(朝鮮・満州・中国)方面への輸送を下関港のみでは捌ききれない状態に達していたことに対して、関門鉄道トンネル開通に伴い鹿児島本線経由で博多港を活用することが可能になったことから、トンネル開通と同時に香椎 - 博多港間に船との提携輸送を図るべく敷設されたのが、この路線の創始である。戦後になると、博多港の拡大に伴い路線が西方に延伸され、福岡港駅・福岡市場駅の設置がなされた。しかし、国鉄における貨物輸送の衰退に伴い、1975年に途中に設置された福岡貨物ターミナル駅までの区間を残して廃止され、現在に至っている。
2012年04月吉日 日立建機土浦工場専用線:神立駅は1998年(平成10年)まで専用線発着の車扱貨物を取り扱っていたため、貨物列車の設定があった。専用線は、かつては駅周辺の日立建機土浦工場へ続く専用線も存在していた。1974年3月工業用再配置政策及び生産体制整備強化のため足立工場を土浦工場へ統合。49万m2の広大な敷地内に、中小型油圧ショベルの生産工場、ポンプなどの油圧機器を生みだす油機工場、そのほか 各種試験場、部品センタ、さらには様々な基礎研究・応用研究を行っている技術開発センタがあります。
2012年04月吉日 住友セメント神立サービスステーション専用線:神立駅は1998年(平成10年)まで専用線発着の車扱貨物を取り扱っていたため、貨物列車の設定があった。かつては駅周辺の住友セメント(現・住友大阪セメント)神立サービスステーションへ続く専用線も存在していた。1965(昭和40)年7月21日 神立包装所開設。
2012年04月吉日 東京製綱土浦工場専用線:神立駅は1998年(平成10年)まで専用線発着の車扱貨物を取り扱っていたため、貨物列車の設定があった。専用線は、かつては東京製綱土浦工場へ続く専用線も存在していた。1968年(昭和43年)東京製綱川崎工場を移転拡張し、世界的規模の土浦工場(鋼索鋼線、道路安全施設等製造)を設置。
2012年04月吉日 東海道本線大谷町土砂運搬引込線:東海道本線のさくら夙川駅と芦屋駅との間に神戸臨港線等の築造に使われた土砂を現在の西宮市大谷町のJR西日本大谷町アパート付近から採取していた。1919年(大正8年)4月東海道本線より引込線を敷設し土砂運搬並びに従業員の乗降の為め、森具字久出に仮駅を設置した。鉄道省は神戸築港及臨港線築に造要する土砂を森具字久出の山林に求め採掘後、同地に鉄道従業者の官舎を建設した。大阪駅 - 神戸駅間は関西地区初の鉄道開業区間であり、新橋駅 - 横浜駅間に次いで歴史が古い。1874年(明治7年) 5月11日:大阪駅 - 神戸駅間が旅客線として開業。神戸臨港線は1907年(明治40年)8月20日:灘聯絡所 - 小野浜荷扱所間が開業。1924年(大正13年)8月3日:小野浜駅 - 神戸港駅間が延伸開業。
2012年03月吉日 京福電気鉄道丸岡線は、かつて福井県坂井郡丸岡町(現在の坂井市)の本丸岡駅と春江町(同じく現在の坂井市)の西長田駅とを結んでいた京福電気鉄道福井支社の鉄道路線である。1968年(昭和43年)に全線が廃止された。丸岡線は、丸岡鉄道の手によって開業した路線である。当初は丸岡町から吉田郡森田村(現:福井市森田)を経て福井市に至る路線として計画されていたが、九頭竜川の架橋に多額の費用を要するので、丸岡町 - 北陸本線丸岡駅間に改めた。1915年(大正4年)6月22日に本丸岡駅 - 上新庄駅(後の丸岡駅)間4.3kmが開通した。坂井市坂井町福島の北陸本線には丸岡線との立体交差の跡である橋脚が残っているのをはじめ、沿線の各所に遺構が残されている。
2012年03月吉日 福井鉄道南越線は、かつて福井県武生市(現越前市)の社武生駅から岡本新駅(現越前市今立地区)を経て鯖江市の戸ノ口駅までを結んでいた福井鉄道の鉄道路線である。南越線は元々、武岡軽便鉄道(ぶこうけいべんてつどう)の蒸気動力による軽便鉄道路線として、1911年(明治44年)に認可され、1915年(大正4年)までに武生(現越前市)- 岡本新(現越前市今立地区)間、1924年(大正13年)に戸ノ口までが開業した。その後、社名変更や会社合併を経て、1945年(昭和20年)には福井鉄道の一路線となった。1971年(昭和46年)に粟田部 - 戸ノ口間が、残りの区間も1981年(昭和56年)に廃止された。社武生駅は北陸本線武生駅の東側にあった。
2012年03月吉日 神戸臨港線とは、兵庫県神戸市内にあった東海道本線の貨物支線の通称である。東海道本線の東灘信号場から分岐して国道2号線を跨いで神戸港駅へ単線で向かっていた。神戸港の発展とともに臨港線から分岐する専用線が拡大したが、1980年代の鉄道貨物輸送縮小に伴い、ほとんどの路線が廃止された。国鉄時代に廃止されずに残った神戸港駅も2003年12月1日をもって廃止、その業務を神戸貨物ターミナル駅に委譲した。国道2号線南側付近から旧神戸港までの跡地はすべて整備されマンション等が建設されたが、灘駅南側付近から国道2号線南側付近までは橋梁を含め跡地の一部をそのまま活用し遊歩道へと整備され、今でも当時の面影を見ることが出来る。
2012年01月吉日 小湊鉄道里見砂利採取線:小湊鉄道里見砂利採取線は小湊鉄道の里見駅から1962年(昭和37年)まで万田野まで1kmの砂利採取線が延びていた。事業者は小湊鉄道が自ら行っており、万田野の積み込み場までは五井駅に保存してある機関車で貨車を牽引し貨車1、2両に積み込み、里見駅を経由して運んでいた。砕石の事務所は万田野の積み込み場から山の上の方にあり階段で登って行った。砕石の採取は手堀のツルハシで行っており、砕石層に合わせて掘り進んで行った。採掘のトンネルは砕石層に沿って掘り進んでいたため、何段かのトンネルが掘られていた。採掘のトンネル内では、手押しのトロッコに積み込み、万田野の砕石置き場迄運んでいた。手堀のため1日の採掘量は貨車1、2両分であった。
2012年01月吉日 外房線旧線(太東駅 - 長者町駅間):房総半島の太平洋側を巡る鉄道として、房総鉄道が1896年1月に蘇我駅 - 大網駅間を開業したのが始まりである。2月には千葉で総武鉄道と接続し、1897年に一ノ宮駅(現在の上総一ノ宮駅)、1899年(明治32年)12月13日に一ノ宮駅 - 大原駅間が延伸開業。1907年に鉄道国有法により官設鉄道に編入され、房総線(ぼうそうせん)となった。外房線の太東駅 - 長者町駅には房総鉄道が1899年に開通した。1996年(平成8年) 11月17日:東浪見駅 - 長者町駅間が複線化し、夷隅川を渡る区間が旧線となった。夷隅川を渡る旧線区間は今でも旧線の橋梁がひっそりと残る。
2012年01月吉日 東海道本線高島支線(新興線):東海道本線貨物支線(通称、高島線)から分岐していた路線で、新興駅(旧入江駅)から分岐する貨物支線(通称:新興線)終端の鶴見区大黒町4に新興駅駅舎も存在した。営業キロ設定上は現在も新興線の終端に置かれているが、現在同線はすべてのレールが撤去されている。京浜工業地帯に位置し、駅周辺には多くの工場が立ち並んでいる。新興駅はそれらからの専用線が多く接続していた。最盛期の1970年代には25社30本の専用線が接続していたが、鉄道貨物輸送の衰退に伴い貨物取扱量が減少、2000年に昭和電工横浜事業所の専用線が廃止、最後まで残っていた内外輸送横浜支店の専用線も2002年に廃止され、貨物列車の発着が無くなった。
2012年01月吉日 大阪窯業岸和田工場トロッコ軌道:大阪窯業は1882年(明治15年)に硫酸瓶製造会社として大阪市内に創業する。明治29年に堺分工場が造られ、この周辺の広大な敷地では、ドイツ留学後の大高庄右衛門らの指導によってホフマン式輪窯にて大量の煉瓦が製造されました。岸和田工場にはもともと和泉煉瓦株式会社があり、1906年(明治39年)に大阪窯業株式会社により吸収・合併され岸和田工場になる。阪窯業岸和田工場の軌道は粘土採取のためのトロッコレールが川沿いに延びていて、岸和田煉瓦との粘土採り合戦を繰り広げメインの軌道は摩湯町あたりまで伸びていました。そこから枝線が田んぼ田んぼにいくつも延びていたものと思われ、「正しい」ルートの解明はなかなか難しい状況です。トロッコレールの敷設には大阪府の知事の許可が必要だったようです。大阪窯業岸和田工場のトロッコは馬力に頼っていました。
2012年01月吉日 岸和田煉瓦トロッコ軌道:岸和田煉瓦株式会社とは、元岸和田藩士である山岡尹方(やまおかただかた)が、明治20年(1887年)に第一煉瓦製造会社として設立しました。岸和田煉瓦から粘土採取のための、トロッコレールが延びていて、メインの軌道は地図では牛の口池の近くまでですが、大阪窯業との粘土採り合戦を繰り広げ、下池田町の辺りまで伸びています。そこから枝線が田んぼ田んぼにいくつも延びていたものと思われ、「正しい」ルートの解明はなかなか難しい状況です。トロッコレールの敷設には大阪府の知事の許可が必要だったようです。岸和田煉瓦のトロッコは、最初は馬力に頼っていましたが、その後ドイツ製の軽便鉄道を導入していたらしく、設計図とミニ機関車の図の資料が残っています。
2012年01月吉日 身延線旧線(富士駅−潤井川橋梁):1969年まで身延線は富士駅では現在とは反対方向に線路が伸びており、富士宮駅まで単線であったが、大石寺へ参詣する東京方面からの団体臨時列車が富士駅構内で貨物列車並みの複雑な入換作業を行って転線する必要があったため、富士市内の立体交差化事業とあわせ、これまでとは逆方向に複線で線路を伸ばす形に改められている。1969年にそれまで全線単線であった身延線の富士駅 - 富士宮駅間の複線化工事にあわせて、富士駅 - 入山瀬駅間の路線付け替えおよび高架化が行われ、同時に本市場駅(柚木駅に改称)・竪堀駅も移設された。旧線部分の約2km(本市場駅付近から現在線路との合流地点まで)は富士緑道として遊歩道化されている。
2012年01月吉日 旭化成富士工場専用線:富士駅(ふじえき)は、静岡県富士市本町にある、東海旅客鉄道(JR東海)・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅である。下り線側の側線から東に向かって、東芝キヤリア富士事業所へ続く専用線が分岐しており、その途中から日本製紙富士工場へ続く専用線が分岐している。日本製紙線はコンテナや有蓋車による製品輸送が行われているが、東芝線は既に使用されていない。かつては、旅客ホーム北にある側線群からそのさらに北にある王子製紙富士工場や大興製紙工場へ、東芝線から田子の浦港に面する旭化成グループの工場群への専用線も分岐していた。
2012年01月吉日 電気化学工業セメント線:青海駅から南西方向へ分岐し青海川に沿って南下する電気化学工業の専用鉄道がある。工場敷地内に敷設された全長8.6km当路線は製品の発送や原料の輸送に使用されており、青海駅 - 青海工場間の路線(通称・セメント線)、青海工場 - 原石鉱山間の路線(通称・原石線)、青海工場構内の路線(通称・工場線)の3路線から成る。セメント線は、工場で生産された苛性ソーダや液体塩素、セメントの運搬に使用され、原石線は同社の石灰石鉱山で採掘・粉砕された石灰石を工場へ運搬する際に使用される。セメント線については、2008年(平成20年)3月13日を最後に定期貨物列車は運行されていない。原石線、工場線は運行が継続されている。
2011年12月吉日 神奈川臨海鉄道株式会社は、神奈川県川崎市と横浜市で貨物鉄道の運輸営業を行う鉄道事業者。日本貨物鉄道(JR貨物)などが出資する臨海鉄道会社のひとつである。略称は「かなりん」。本社は川崎市川崎区にある。浜川崎駅のJR貨物駅は旅客駅の東側にあり、JR貨物の駅員が駐在する。1998年8月まで、第一セメント川崎工場への専用線もあり、奥多摩駅から石灰石輸送貨物列車が運転されていた。またそれ以前は工場からのセメントの発送もあった。また1980年代まで、駅周辺にある日本鋼管(現・JFEスチール)製鉄所への専用線があり鉄鋼製品などをあつかっていた。また昭和電線電纜川崎工場への専用線や、東亜石油専用線から分岐し東洋埠頭川崎支店へ続く専用線もあった。
2011年12月吉日 同和鉱業片上鉄道は、かつて岡山県備前市の片上駅から久米郡柵原町の柵原駅までを結んでいた同和鉱業の鉄道路線である。1991年6月30日まで営業を行っていた。吉井川の高瀬舟に代わり柵原鉱山で産出される硫化鉄鉱を片上港まで輸送する目的で建設され、1923年1月に片上 - 和気間が開業した。次いで8月に和気 - 備前矢田 - 井ノ口(貨)間が開業。1931年2月、井ノ口 - 柵原間が開業し全線開通した。柵原鉱山からの鉱石輸送のほかに旅客営業も行われ、沿線住民の足にもなっていた。鉱石輸送が主体であったため交換駅の有効長は長く、しかもPC枕木を使用するなど地方鉄道としては高い規格の線路を有していた。その高規格の線路の上を戦前生まれの旧型気動車が闊歩する姿はユニークでもあった。
2011年12月吉日 昭和町線 : 東港駅 - 昭和町駅(1.1km)
汐見町線 : 東港駅 - 汐見町駅(3.0km)
名古屋臨海鉄道は、名古屋港東地域に置ける貨物輸送を行う鉄道事業者。名古屋港南東地域からの貨物輸送は名古屋港管理組合の持つ専用線から名古屋鉄道築港線の東名古屋港駅へ送り、そこから大江駅・神宮前駅を経由して日本国有鉄道熱田駅へ運び、そこから全国へ搬出していた。しかし輸送量が増加すると、旅客輸送の多い名鉄常滑線を経由するこのルートでは、輸送に支障が出ることが予想されるようになった。そのため、操車場を名古屋東港に設けて東海道本線笠寺駅へ直接接続する臨海鉄道の計画が持ち上がった。こうして、国鉄と名古屋港管理組合の共同で1965年に設立されたのが名古屋臨海鉄道で、日本で3番目の例となるものであった。
2011年12月吉日 鍛冶屋線は、兵庫県西脇市の野村駅(現在の西脇市駅)から兵庫県多可郡中町の鍛冶屋駅までを結んでいた西日本旅客鉄道の鉄道路線。西脇市の中心部を通っており、野村駅 - 西脇駅間に限れば比較的利用者が多く、加古川線から分岐していた4路線(鍛冶屋線・三木線・北条線・高砂線)の中では最も輸送密度が高かった。そのため特定地方交通線第1次廃止対象線区からは除外された。しかし第3次廃止対象線区の選定では除外基準が引き上げられたため、特定地方交通線として承認され、1990年に廃止となりバス転換された。廃線後の跡地は自転車道として整備されたり、市原駅や鍛冶屋駅が鉄道記念資料館として整備されるなど、有効的な活用が図られている。
2011年12月吉日
2008年09月吉日
武州鉄道(蓮田-神根)
武州鉄道(ぶしゅうてつどう)は、1924年から1938年にかけて埼玉県を拠点に、同県南埼玉郡綾瀬村蓮田(現・蓮田市)の蓮田駅(JR宇都宮線)から同郡岩槻町(さいたま市岩槻区)を経て同県北足立郡神根村石神(現・川口市)の神根駅までの間で運行されていた鉄道。
2011年11月吉日 米陸軍相模補給廠専用線は淵野辺駅から矢部駅の横を通り米陸軍相模補給廠まで通じる専用線があった。その名残で1990年代中頃まで北口側には専用鉄道の踏切や踏切の標識が撤去されずに残っていた。米陸軍相模補給廠敷地に沿って走っている横浜線淵野辺駅より矢部駅近くまで横浜線に沿って北上した後、補給廠内へと乗り入れる専用線が敷設されていた。この6.1キロに及ぶ専用線にて、鉄道貨物による軍需物質の輸送が行われていたが1979年(昭和54年)10月1日に廃止。今では、淵野辺駅構内から矢部駅にかけて、住宅の敷地内に草に埋もれるように線路が残存している。
2011年11月吉日 橋本車両センター専用線:かつて、神奈川県相模原市橋本5丁目4番1号に橋本車両センターが存在し、橋本駅から専用線が存在した。橋本車両センターはおもに気動車用エンジン・エアコンなどの部品と自動車(バス・トラック)などを担当した。1945年(昭和20年)5月国鉄橋本工場が操業開始、工場へ続く側線が完成。 橋本駅北口の東側に1面2線の貨物ホームが存在していた他、橋本車両センター専用線から分岐し、大和製罐東京工場へ続く専用線も存在していた。1984年(昭和59年)3月橋本車両センター閉鎖。その後設備は解体されて更地となり、しばらく放置されていたが、1986年に跡地の一部を利用して忠実屋橋本店が開業した。なお、相模線が電化される1991年頃までは専用線の一部のレールや踏切も撤去されずに残っていた。
2011年11月吉日 一畑電気鉄道広瀬線は、かつて安来市の荒島駅と島根県能義郡広瀬町(現:安来市)にあった出雲広瀬駅との間を飯梨川沿いに結んでいた一畑電気鉄道の鉄道路線である。一畑電気鉄道の一路線になって間もなくの一畑電気鉄道の株主総会で施設の老朽化が著しく、経営状況も芳しくないため廃止してバスに転換するという決議がなされた。そのことを知った広瀬地区の住民は「道路事情が悪い」「バスでは定時運行できるかどうか疑問」「バスの運賃のほうが高いので経済的な損失も大きい」などと主張して何年にも渡って強硬な廃止反対運動を展開し、島根県にも調停を要請した。しかし、広島陸運局(現:中国運輸局)が保安監査を行ったところ鉄道としての存続は困難という結論が出たことで地域住民側も折れ、32年の歴史に終止符を打った。1960年(昭和35年)6月20日 廃止。
2011年11月吉日 中島航空金属田無鋳鍛工場専用線は田無町(現:西東京市)に存在した、中島飛行機の関連会社で西武池袋線(当時は武蔵野鉄道)の東久留米駅から分岐していた専用線である。1939年 中島航空金属(株)田無鋳鍛工場として発足。(現在の住重フォージング(株) ) 鋳造や鍛造でエンジン部品を製造。大量の砂を必要となり、1940年(昭和15年)中島飛行機の関連工場への貨物引き込み線が完成(1960年頃撤去)。引き込み線は現在の西東京市にあった中島航空金属田無鋳鍛工場まであり、そこから中島飛行機武蔵野工場まで専用線があった。ひばりが丘団地の建設資材を運んだ時期もあった。現在は専用線跡は遊歩道と送電線が通っている。
2011年11月吉日 立川陸軍航空工廠線は昭島市の中神駅から分岐し、昭島市中神(一部立川市)にあった陸軍航空工廠へ続いていた。廃線跡は整備され名称を一般公募し中神引き込み線通りと呼ばれている。引込線が敷設されたのは昭和18年(1943年)といわれ、陸軍唯一の飛行機製造部門として昭和15年(1940年)4月1日に設置された工廠への資材運搬用路線でした。昭和20年(1945年)太平洋戦争が終わると航空工廠を含む立川飛行場一帯はアメリカ軍に接収され、立川基地となりました。工廠線は、そのままアメリカ軍専用線(1.9km)として使用され、主に航空機燃料や重油が運ばれました。立川基地は、昭和52年(1977年)11月30日、日本に全面返還され、引込線も昭和53年(1978年)7月1日付けで正式に廃止されました。
2011年11月吉日 南武鉄道是政多摩川砂利線は府中本町駅−旧是政多摩川駅間から分岐し、現在の府中市郷土の森公園まで延びていた砂利採取線である。日本鉄道旅行地図帳に載っていたので、廃線探索をして、インターネットで文献等を調べたが詳細は不明である。南武線は、私鉄の「南武鉄道」により開業した路線である。免許の出願は「多摩川砂利鉄道」として行われており、多摩川の川原で採取した砂利を運搬するのが目的であった。1920年1月29日に免許が交付された後、3月1日に会社を設立し、社名を「南武鉄道」に改称した。3月17日には終点を立川まで延長、府中町 - 国分寺町間の支線の敷設を追加で申請した。これらは単に砂利を運搬するだけでなく、多摩地域と川崎とを結ぶ交通路線となることも目指したものであった。
2011年11月吉日 陸軍兵器補給廠専用線:東京兵器補給廠は、大日本帝国陸軍の機関の一つ。兵器・弾薬・機材などの補給、要塞の備砲工事を担当した。明治に陸軍板橋兵器庫が稲付に設置され、昭和3年に東京兵器補給廠となる。陸軍兵器補給廠専用線は翌年の昭和4年に敷設。跡地は米軍戦車練習場が設置された。返還後の陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区(旧・陸上自衛隊武器補給処赤羽支処(陸上自衛隊十条駐屯地赤羽地区分屯地)・陸上自衛隊補給統制本部赤羽西地区)の一部他。後に赤羽自然観察公園と、ナショナルトレーニングセンター陸上競技場となる。現在の北区赤羽西5丁目。
2011年11月吉日 赤羽発電所専用線:大正10年に赤羽発電所建設のため、現在の赤羽駅方向から左カーブし、赤羽飛行機製作所の岸飛行場脇を通り、赤羽発電所まで赤羽発電所建設用の鉄道が通っていた。現在の北清掃工場の場所に国鉄に送電する赤羽火力発電所を建設。この発電所は赤羽線、山手線、中央線に送電するためのもので、国鉄は六郷橋の矢口発電所を持っていたが相次ぐ電化の需要に追いつけず、京浜線のみをそこに任せて赤羽発電所を新設した。赤羽発電所が稼働と同時に、赤羽発電所専用線は王子方向へ付け変わり王子駅〜赤羽発電所間の石炭を運搬した。
2011年11月吉日 須賀貨物線北王子線の東京都北区の田端信号場駅と同区の北王子駅(貨物駅)を結ぶ日本貨物鉄道(JR貨物)の東北本線の貨物支線で、途中から須賀線が分岐していた。1927年(昭和2年)に北王子線・須賀線は開業した。須賀線(王子 - 須賀間)は、1926年(大正15年)9月に大日本人造肥料(現・日産化学工業)の専用鉄道として認可されたのを編入したものである。北王子線の本線だった須賀線は、日産化学工業王子工場(豊島5丁目にあった)へ向かう貨物線であり、火を使う蒸気機関車では危険ということで、AB10形という蓄電池機関車が走っていた。
2011年11月吉日 西武池袋線旧線(元加治-仏子)
西武池袋線は、東京都豊島区の池袋駅と埼玉県飯能市の吾野駅を結ぶ西武鉄道の鉄道路線である。待避・折り返し用の中線がある仏子駅を出発すると、築堤を走り、右側に大きな団地を眺めつつ、入間川を渡る。この入間川橋梁は池袋線の橋梁の中で最も長い。入間川を渡る際、進行方向左側には使用されていない旧入間川橋梁が錆びた姿を晒している。また、北側の河原ではかつてアケボノゾウの足跡化石が見つかったことがある。入間川橋梁を渡りきると2009年8月に有人化されるまで池袋線唯一の無人駅であった元加治駅に到着する。入間川橋梁 - 西武池袋線の入間川橋梁。隣には旧入間川橋梁がある。西武ファン定番の撮影スポット。
2011年11月吉日 日本セメント埼玉工場専用線:八高線・川越線高麗川駅から分岐し、日本セメンの埼玉工場へ専用線が続き、工場で生産されたセメントの発送を行っていた。専用線は全長1.4km・非電化だった。JR貨物機が牽引作業を行い、工場内入換作業は太平洋セメント保有の入換動車(スイッチャー)が使用されていた。1963年(昭和38年)5月16日 - 日本セメント(現在の太平洋セメント)専用線が運用開始。1999年(平成11年)9月20日 - 太平洋セメント専用線が廃止。 なお、同専用線跡地は2009年(平成21年)3月30日に日高市に寄付され、遊歩道として整備されている。また、同工場への専用線は、1984年まで東武鉄道越生線の西大家駅から分岐するものも存在していた。
2011年09月吉日 愛岐トンネル群:旧国鉄は、中央本線の高蔵寺駅(愛知県春日井市)〜多治見駅(岐阜県多治見市)間に、庄内川(玉野川・土岐川)沿いの約8キロに及ぶ地域に14基ものトンネルを造り1900年に開業させた。その後1966年、電化及び複線化に伴い新トンネルを建設・開業。同時に13基のトンネル(第9号トンネルは新トンネルの建設の時消滅)が放棄され廃線となり、40年以上山の中に眠り続けていた貴重な産業遺産である。 2008年より、3号〜6号(定光寺駅〜県境)間はある程度整備が進み一般公開(春と秋)も行われている。 また、多治見支部も新たに創立され、7号〜14号トンネルの整備に向けての準備が進んでいる。
2011年08月吉日 東濃鉄道笠原線とは、かつて岐阜県多治見市の多治見駅から土岐郡笠原町(現・多治見市)の笠原駅までを結んでいた東濃鉄道の鉄道路線である。沿線の主産業である陶磁器原料および製品を運搬する目的で敷設され、旅客営業も行っていたが、晩年はモータリゼーションの煽りを受けて旅客営業、貨物営業の順に廃止される。廃線となった翌年の1979年(昭和54年)、多治見市は線路跡を自転車専用道路・歩行者専用道路として整備することを決定し、平和町 - 滝呂町の整備を行い1998年(平成10年)完成した。2006年(平成18年)多治見市は笠原町と合併したことから、合併記念事業として滝呂町 - 笠原町の延長整備が行われている。この専用道路は「陶彩の径」と名付けられ、沿道には桜が植栽されたことから桜の名所となっている。
2011年08月吉日 東濃鉄道駄知線は、かつて岐阜県土岐市内の土岐市駅から東駄知駅までを結んでいた東濃鉄道の鉄道路線である。建設沿線の主産業である陶磁器原料および製品を運搬する目的で敷設された。旅客営業も行っていたが、集中豪雨による鉄橋の流失で営業休止に追い込まれ、そのまま廃止となった。現在駄知駅は東濃鉄道土岐営業所、東駄知駅・下石駅はバスロータリー、新土岐津駅は東鉄の月極駐車場として利用されている。 駄知線の跡地は一部整備されて、歩行者専用道路となっている。駄知線で使用されていた電車のうち、モハ100形2両は日本で唯一の東芝製電車として知られる。同形式は駄知線廃止後高松琴平電気鉄道に譲渡され、同社70形電車として2000年(平成12年)まで使われていた。
2011年07月吉日 金華山軌道(きんかざんきどう)は、かつて宮城県にあった軽便鉄道。石巻湊 - 渡波駅間に1915年(大正4年)7月10日、牡鹿軌道なる馬車鉄道が開業した。しかしこの営業成績が酷かったため、1924年(大正13年)7月29日に新設会社の金華山軌道へ引き継いだ。金華山軌道が渡波駅止まりであった時代は、渡波から渡船で万石浦を直線的に縦断して浦宿に至り、浦宿から女川の間は馬車で連絡するのが一般的だった。牡鹿軌道の経営不振は自動車の発達が要因であったため、金華山軌道となってからはガソリン機関車の導入と牡鹿軌道時代に計画された女川への延伸を決行する。1926年(大正15年)に実現し、石巻湊 - 女川間13.9kmの路線となった。その後、石巻線が石巻 - 女川間に延伸されることになったため、金華山軌道は1939年(昭和14年)に補償を受けて休止となり、翌年廃止となった。
2011年07月吉日 仙石線石巻臨港貨物線:仙石線石巻臨港貨物線は日本製紙石巻工場専用鉄道から分岐していた貨物支線。東側には、初代の石巻港駅へ分岐していた支線と、西側に石巻埠頭駅へ分岐していた支線が有った。初代の石巻港駅は、現在の駅の東側の旧北上川に面した場所にあった。同駅までの廃線跡は公園や遊歩道として整備されているが、公園は細長い形状になっておりかつて線路だった名残を残している。
2011年07月吉日 岩鼻軽便鉄道(いわはなけいべんてつどう)は、かつて倉賀野駅と上州岩鼻駅とを結ぶ軽便鉄道を運営していた鉄道事業者である。陸軍の火薬製造所の貨物輸送のために開業した貨物専業の私鉄であり、国に買収されて1945年(昭和20年)に消滅した。軽便鉄道でありながら軌間は1067mmであった。火薬製造所の跡地は、現在、北から順に日本原子力研究開発機構高崎量子・応用研究所、群馬県立公園群馬の森、日本化薬高崎工場として利用されている。上州岩鼻駅跡は、日本原子力研究開発機構の敷地内にある。
2011年07月吉日 麒麟麦酒高崎工場専用線:1969(昭和44)年7月高崎工場からビール専用列車運行開始。1983年(昭和58年)2月、国鉄は貨物輸送を全面的に拠点間直行輸送に転換し駅を半減するとともに、ヤード機能を全廃するという合理化計画を発表、。ビールは典型的ヤード貨物であり、麒麟麦酒は国鉄最大の荷主の1つであった。従って国鉄の操車場から専用線を通じて原料・製品の入出荷を行っていた各工場の物流は、この合理化計画の影響をまともに受けることとなった。1984(昭和59)年専用線からのビール輸送が廃止され、麦芽輸送のみ鉄道貨物輸送を継続。1998年(平成10年)2月横浜本牧駅発送の麦芽輸送などに使用されていたが、麦芽輸送の海上コンテナ化によりに廃止された。
2011年07月吉日 東レ滋賀事業所専用線:石山駅では2007年まで専用線発着の車扱貨物を取り扱っており、貨物列車の設定があったが、現在は臨時車扱貨物のみを取り扱っており、そのため貨物列車の発着は無い。石山駅南側にある東レ滋賀事業場へ専用線が下り線側から分岐し、タキ45000形による石油輸送を行っていた。災害時など公共性の面があり権利だけは残っている。但し線路は2009年7月頃に全て撤去されいる。交通科学博物館で静態保存されている1801号機(鉄道記念物)は、1964年に国鉄に寄贈されるまではこの専用線での入換作業で使用されていた。
2011年07月吉日 関西日本電気専用線:石山駅では2007年まで専用線発着の車扱貨物を取り扱っており、貨物列車の設定があったが、現在は臨時車扱貨物のみを取り扱っており、そのため貨物列車の発着は無い。駅北側にある日本電気硝子大津事業所へ関西日本電気が保有する専用線が上り線側から分岐し、タキ45000形による石油輸送を行っていた。そのため塩浜駅〜当駅間に石油輸送貨物列車が運行されていた。交通科学博物館で静態保存されている1801号機(鉄道記念物)は、1964年に国鉄に寄贈されるまではこの専用線での入換作業で使用されていた。
2011年07月吉日 京都大学芦生研究林軌道:京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林(きょうとだいがくフィールドかがくきょういくけんきゅうセンターしんりんステーションあしうけんきゅうりん、略称:京都大学芦生研究林)は、京都府南丹市美山町にある京都大学の研究施設である。演習林事務所から由良川源流に沿って中山に至る区間に軌道を敷設することが計画された。工事は1927年に事務所から大蓬までの軌道敷開削工事が完成、翌1928年には七瀬まで完成した。当初完成したのは路盤だけであったが、軌道の敷設工事も行われ、1934年には事務所〜赤崎間にレールを敷設、1936年には大蓬まで延伸された。1980年代以降になると施設の老朽化が進んだことから、灰野より奥へ運転されることはなくなった。
2011年07月吉日 住友セメント多賀工場専用線:かつては、多賀駅(多賀大社前駅)から住友セメント多賀工場に向かって専用線が敷設されていた。1960年(昭和35年)6月東亜セメント多賀工場操業開始。1960年(昭和35年)11月10日東亜セメント多賀工場原石輸送開始。1965年(昭和40年)12月セメント製造部門を住友セメントへ譲渡する準備として、滋賀興産株式会社を設立。住友セメント株式会社は1966年(昭和41年)6月滋賀興産株式会社を合併、同社多賀工場を継承。1975年(昭和50年)7月多賀工場閉鎖。 1978年(昭和53年)10月住友セメント多賀工場跡地にダイニック滋賀工場を建設(ダイニック滋賀工場専用線と書かれている書物も有るが間違いと思われる)
2011年07月吉日 麒麟麦酒滋賀工場専用線:麒麟麦酒株式会社(キリンビール、英記表記:Kirin Brewery Company, Limited)は、日本の大手酒造メーカー。1870年(明治3年)にノルウェー系アメリカ人ウィリアム・コープランドが、日本で初めて大衆向けにビールを醸造・販売した企業「スプリング・バレー・ブルワリー(コープランドビール)」を起源とする、日本のビール事業の草分け的企業である。1974年(昭和49年)5月滋賀工場完成。1974年(昭和49年)6月1日麒麟麦酒滋賀工場専用線開通。1983年(昭和58年)10月麒麟麦酒滋賀工場専用線廃止。
2011年07月吉日 専売公社宇都宮工場専用線:日光線鶴田駅からかつて宇都宮市睦町に存在していた専売公社宇都宮工場まで専用線が延びていた。専売公社宇都宮工場は旧大日本帝國陸軍第十四師団野砲第二十聯隊駐屯地跡に、昭和27年(1952年)に設立され、専用線は同時期に設置された。専売公社宇都宮工場からの出荷物輸送や原材料搬入等に活躍を続けたが、昭和52年(1977年)に同工場が宇都宮市清原工業団地に移転。専用線は同時に廃止され専用線跡はその後全線が「なかよし通り」という自転車・遊歩道になった。この専売公社宇都宮工場専用線は、宇都宮石材軌道の(鶴田駅〜西原町)を一部流用して作られた。その元々の宇都宮石材軌道は、明治36年(1903年)3月22日に開通し、昭和7年(1932年)2月1日に一度廃線となっている。
2011年07月吉日 富士重工宇都宮工場専用線:富士重工業株式会社(ふじじゅうこうぎょう、英: Fuji Heavy Industries Ltd.、英略称FHI)は、日本の重工業メーカーのひとつ。1917年5月、海軍機関大尉中島知久平によって群馬県新田郡尾島町(現: 群馬県太田市)に設立された民営の飛行機研究所を前身とし、太平洋戦争終戦後、GHQにより財閥解体の対象となった「中島飛行機」(1945年に富士産業と改称)が、富士重工業のルーツである。1950年頃から主に客車と気動車を旧国鉄やJR、私鉄、第三セクター向けに、また、群馬・栃木に路線を持つ東武鉄道向けには電車を生産していたが、生産両数の低下により2002年5月に事業存続は困難と判断し、宇都宮車両工場(現在のエコ宇都宮工場)で行っていた鉄道車両事業を終える決定をした。2003年2月に新潟トランシス新潟事業所(新潟県北蒲原郡聖籠町)へ事業譲渡。
2011年07月吉日 麒麟麦酒栃木工場専用線:栃木工場(栃木県塩谷郡高根沢町 )は1979年(昭和54年)創業、当該工場の老朽化と生産拠点の集約で閉鎖している。麒麟麦酒は鉄道貨物との繋がりが深く、1984年(昭和59年)2月の「59・2」ダイヤ改正まではほとんどの工場で専用線を所有し、製品や私有貨車による原料の鉄道貨物輸送を行っていたが、現在では仙台工場のみとなっている。栃木工場の跡地利用については「進展はない。2010年10月末で閉鎖されるキリンビール栃木工場の麒麟麦酒栃木工場専用線更地にして売却という方針に変わりはなく、売却できるまではキリンが土地を持ち続ける」と説明した。
2011年07月吉日 宇都宮陸軍航空廠線とは、鬼怒川左岸の栃木県塩谷郡阿久津村(現・同郡高根沢町)にあった宝積寺駅と、芳賀郡清原村(現・宇都宮市)にあった陸軍宇都宮飛行場および陸軍航空廠宇都宮支廠を結んでいた軍用線である。清原軍用線(きよはらぐんようせん)とも言う。航空廠への物資の輸送、および宇都宮から通勤する工員の輸送を目的としていたが、宇都宮駅から直接の鬼怒川越えの橋梁建設が困難だったため、東北本線で鬼怒川を渡った宝積寺駅より鬼怒川左岸に路線が設けられた。廃線後の鉄道敷は道路に転用され、今日でもその痕跡が地図上で確認できる。終点の鐺山駅は宇都宮東警察署鐺山町駐在所から北西約200m付近に位置しており、現在、プラットホームの一部が残存している。なお、この道路は現在も沿線住民の間で「線路道」「鉄道道」「汽車道」等の通称で呼ばれている。
2011年06月吉日 住友大阪セメント岐阜工場専用線:樽見鉄道株式会社(たるみてつどう)は、岐阜県で旧国鉄特定地方交通線転換線及び旧日本鉄道建設公団建設線から成る鉄道路線(樽見線)を運営している、西濃鉄道・住友大阪セメントおよび沿線自治体などが出資する第三セクター方式の鉄道会社である。本社は岐阜県本巣市に所在する。第三セクター会社ではあるが、住友大阪セメント岐阜工場の製品輸送を行っていたことから、西濃鉄道・住友大阪セメントが2社あわせて出資比率7割を超える大株主となっている。しかし2004年に住友大阪セメントは鉄道利用を2005年度末で打ち切ることを表明し、2006年3月28日限りでセメント輸送列車の運行を終了した。
2011年06月吉日 近江鉄道八日市線(ようかいちせん)は、滋賀県東近江市の八日市駅と滋賀県近江八幡市の近江八幡駅までを結ぶ近江鉄道の鉄道路線である。近江盆地の2つの都市間を結ぶ近江鉄道の主力路線となっている。戦前は、新八日市から陸軍飛行場のあった御園駅までの路線も存在した。湖南鉄道が新八幡駅(現在の近江八幡駅) - 八日市口駅(現在の新八日市駅)間を1913年に開業したのが始まりである。 八日市鉄道は戦時企業統合政策により1944年に近江鉄道に合併される。1930年(昭和5年)10月1日 八日市鉄道 新八日市駅 - 飛行場駅(のちの御園駅)間が開業。1948年(昭和23年)8月1日 新八日市駅 - 御園駅間が休止。1964年(昭和39年)9月25日 休止中の新八日市駅 - 御園駅間の廃止許可。
2011年06月吉日 東海道線(官設鉄道)関ヶ原駅−長浜駅:東海道本線の延伸の歴史は、最初は新橋駅 - 横浜駅間と、神戸駅 - 京都駅間という都市文化の象徴であったが、その後、関東と関西を結ぶ幹線として計画されるようになった。なおその際、すでに長浜駅 - 関ヶ原駅間に、建設資材の輸送などを目的として鉄道が開業しており、既存路線を積極的に活用して建設予算を低減する方針から、東海道本線の名古屋 - 草津間は江戸時代の東海道ではなく、美濃路と中山道に沿うルートでの敷設となった。
2011年06月吉日 北恵那鉄道線は、かつて、岐阜県中津川市の中津町駅と、恵那郡付知町(現中津川市付知)の下付知駅を結んでいた北恵那鉄道(現北恵那交通)の鉄道路線である。愛称は「恵那電(えなでん)」。福澤桃介が経営する木曽電気製鐵が木曽川に大井ダムを建設する際、付知川から筏を使っての神宮備林の木材輸送ができなくなってしまうことから、ダム建設の見返りとして建設された。そのため、貨物輸送も多く行なっていた。当初は付知町の中心地の付知までの計画であったが、用地買収がうまくいかず、1931年(昭和6年)に免許が失効した。中津町駅と中央本線中津川駅間には貨物連絡線があった。下付知駅から恵那郡加子母村渡合(現中津川市)の間には付知森林鉄道が存在した。
2011年06月吉日 名鉄竹鼻線(たけはなせん)は、岐阜県羽島郡笠松町の笠松駅から岐阜県羽島市の江吉良駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。1929年(昭和4年)4月1日:竹鼻鉄道 栄町駅 - 大須駅間が開業。1943年(昭和18年)3月1日:名古屋鉄道が竹鼻鉄道を吸収合併。笠松 - 大須間が竹鼻線となる。2001年(平成13年)10月1日:江吉良駅 - 大須駅間が廃止、羽島市代替バスに転換(ダイヤは毎時2本を維持)。2001年10月1日に廃止された江吉良駅 - 大須駅間は常時30分に1本だった。廃止時点で江吉良駅以遠には交換設備が一切無く、ホームも2両分しかなかった。
2011年06月吉日 西濃鉄道昼飯線(ひるいせん)は、岐阜県大垣市の美濃赤坂駅から昼飯駅までを結んでいた西濃鉄道の鉄道路線。市橋線と同じく東海道本線の通称美濃赤坂支線の美濃赤坂駅を起点とする貨物線。美濃赤坂駅構内の大垣方から分岐している。途中駅の美濃大久保駅はスイッチバック式の配線になっている。敷設目的である石灰石輸送もトラック輸送への切り替えが進み、1990年頃から昼飯線各駅からの出荷はない。列車は既に運行されなくなり踏切は線路へ侵入できないよう閉鎖されているが、レールは剥されずに残存している。2006年(平成18年)年度 - 全線廃止。
2011年06月吉日 南武鉄道宿河原砂利採取線:かつては宿河原駅から多摩川の川原まで砂利採取線が伸びていた。ここ宿河原付近の多摩川で採取した砂利を南武鉄道経由で川崎河岸駅まで運搬し、そこで船に乗せ換えて東京や横浜へ運んでいた。1934年(昭和9年)に砂利の機械掘りが禁止され、砂利採取が行われなくなった後も線路はしばらく残されていたが、現在は撤去され、川崎市道となっている。また、同時期には当駅から登戸駅付近を経て小田急小田原線の向ヶ丘遊園駅まで連絡線が伸びていた。多摩川で採取した砂利を小田急線に運搬するのが目的だったといわれている。連絡線は戦後に廃止されて撤去されたが、連絡線の途中の一部と小田急線の留置線やポイントは1970年代まで残っていた。分岐点跡地には現在も「小田急電鉄所有地」の標識がある。
2011年06月吉日 向ヶ丘遊園モノレール線は、神奈川県川崎市多摩区の向ヶ丘遊園駅から向ヶ丘遊園正門駅までを結んでいた、小田急電鉄のモノレール路線。向ヶ丘遊園正門駅付近を除く全線が東京都道・神奈川県道9号川崎府中線(府中街道)など道路および遊歩道と並行していた。1966年(昭和41年)4月23日に向ヶ丘遊園モノレールとして向ヶ丘遊園 - 向ヶ丘遊園正門間が開業した。1974年の日本ロッキード・モノレール社の解散後も自社で部品を製作するなどして保守整備を続けていたものの、2000年(平成12年)2月13日、台車に老朽化による致命的な亀裂が生じていることが判明し、同月中に運転を休止した。2001年(平成13年)2月1日に廃止され、ロッキード式モノレールは姿を消した。入園客が減少し続けた向ヶ丘遊園も翌2002年(平成14年)4月に閉園し、75年の歴史に幕を閉じた。
2011年06月吉日 厚木海軍飛行場引き込み線:通称「航空隊線」。日本海軍が、主に東京防衛の拠点として1938年に着工、1942年に完成した。引き込み線も同時期に完成したと思われる。(1946年撮影の航空写真で確認出来る)東京に最も近い海軍の航空拠点として重視され、整備訓練航空隊である相模野海軍航空隊や、戦闘機操縦士練成部隊である厚木海軍航空隊が置かれた。横須賀線田浦駅や鶴見線安善駅等の陸揚貯油施設から厚木海軍飛行場間を1998年まで燃料輸送が行われていました。
2011年06月吉日 東海道線(官設鉄道)深谷駅−長岡駅(現・近江長岡駅):東海道本線の延伸の歴史は、すでに長浜駅 - 関ヶ原駅間に、建設資材の輸送などを目的として鉄道が開業しており、既存路線を積極的に活用して建設予算を低減する方針から、東海道本線の名古屋 - 草津間は江戸時代の東海道ではなく、美濃路と中山道に沿うルートでの敷設となった。1883年(明治16年)5月1日:関ヶ原駅 - 長浜駅間が開業。この区間は伊吹山が途中にあり現在のルートとは異なる。関ヶ原駅・春照駅が開業。長浜駅で官設鉄道金ヶ崎駅方面に接続。1889年(明治22年)7月1日関ヶ原駅 - 深谷駅 - 馬場駅(現・膳所駅)間の開通時に、長岡駅(現・近江長岡駅)開業。1899年(明治32年)10月15日関ヶ原駅との間に、現在の柏原駅廻りのルートである勾配緩和線が開業。深谷駅廻りの旧線は休止(同年12月28日廃止)。
2011年06月吉日 住友大阪セメント伊吹工場専用線:かつては近江長岡駅北側へ分岐し、住友大阪セメント(旧・大阪セメント)伊吹工場へと続く専用線が存在した。専用線は、かつての東海道本線の廃線跡を一部流用する形で敷設された全長3.7kmの電化路線で、同社の私有電気機関車であるいぶき500形が2両運用されていた。同線の廃止後、いぶき500形は大井川鉄道(現、大井川鐵道)へ転じている。1952年(昭和27年)7月大阪セメント伊吹工場新設。1952年(昭和27年)5月頃大阪窯業セメント(現在の住友大阪セメント)専用線が運行開始。1994年(平成6年)10月 住友セメントと大阪セメントが合併、住友大阪セメント株式会社となる。1999年(平成11年)6月28日貨物列車の発着最終日、住友大阪セメント専用線の運行終了。2003年(平成15年)3月伊吹工場でのセメント生産を停止。
2011年06月吉日 近江鉱業長岡工場専用線:1980年代まで、近江鉱業長岡工場へ続く専用線もあり、砕石も扱われていた。同社社屋前から駅方向に向かって伸びている築堤に痕跡が残る(一部残された線路上に白い二軸貨車が置かれている)。1889年(明治22年)7月1日 - 関ヶ原駅 - 馬場駅(現・膳所駅)間の開通時に、長岡駅(ながおかえき)として開業。1944年2月に長岡石灰工業を設立、輸送拠点として東海道本線近江長岡駅が至近に位置したこともあって採掘した石灰石の運搬に利用された。1952年8月近江鉱業に社名変更。当初は石灰石の採掘・供給が主力であったが、平成期に入ってからはグラスファイバー・食品添加物への応用利用が開発・研究されており、新しい事業の柱となっている。
2011年06月吉日 住友大阪セメント彦根工場専用線:かつて、彦根駅東側に住友大阪セメント彦根工場(1996年3月閉鎖)があり、近江鉄道にも住友大阪セメント関連の車扱貨物輸送があった。それらの貨車を扱うため彦根駅東側の下り線に面して側線群があった(そのため、下りは第一場内、第二場内の信号機を持っていた。第一場内は現在第一閉塞信号機の設置位置である)。側線群は現在線路は撤去されているが、バラストが線路跡地を物語っている。1933年(昭和8年)8月 昭和セメント株式会社設立し彦根工場操業開始。1994年(平成6年)10月 住友セメントと大阪セメントが合併、住友大阪セメント株式会社となる。1996年(平成8年)3月 彦根工場閉鎖。
2011年06月吉日 近江鉄道五箇荘引き込み線は貴生川方面ホームの東側には側線があり、その貴生川寄りから引き込み線が延びる。引き込み線は愛知川河岸の砂利採取場(西武建設)のために引かれたもので、採取場廃止後は愛知川河岸付近(滋賀県道52号栗見八日市線との交点以東)の線路は撤去され、近江鉄道のバラストの積載線として使用されている。現在は滅多に使用されないので、近所の子供たちの恰好の遊び場となっている。
2011年05月吉日 岩村電気軌道(いわむらでんききどう)は、かつて岐阜県恵那市(旧、恵那郡大井町・岩村町)に存在した鉄道路線(路面電車)を運営していた鉄道事業者である。副業として同地域一帯に電力を供給していた。岐阜県初の私鉄である。中央本線大井駅(現、恵那駅)から岩村町への便を図るため、同町出身の県会議員・衆議院議員を歴任していた浅見與一右衛門により、岩村電気鉄道として会社が設立された。まもなく、岩村電気軌道へ社名を改めている。1906年(明治39年)に軌道線(路面電車)を開業させた。軌道線は鉄道省(国鉄)明知線(現、明知鉄道)の開通により、輸送量が激減したことから、軌道廃止にともなう補償をうけることになり1935年(昭和10年)に全廃された。会社はその後も電力会社として残り、幾多の変遷を経て、中部電力株式会社に統合されている。
2011年05月吉日 北恵那鉄道大井線は、かつて、岐阜県恵那郡大井町の新大井駅と、奥戸駅を結んでいた北恵那鉄道の鉄道路線である。元々は、大井ダム建設資材を運搬するための大同電力の専用鉄道で、ダム完成後に観光路線としての活用を企図した北恵那鉄道が路線を譲り受け、旅客運輸営業路線としたものである。日本車輌製造本店製の小型ガソリンカー2両のみで開業した。旅客車は最後までこの2両だけだった。利用客として、恵那峡の観光客のほか、大井ダムの従業員、木曽川の対岸の笠置村、蛭川村の住民を見込んでいたが、一日あたりの利用者数が100人未満という不振が続いた結果、一般旅客営業は早期休止されて短命に終わっている。なお線路自体は、大同電力に再び移管され、車両共々1940年まで専用鉄道として運行された。その後ガソリンカーは宮崎交通に売却された。
2011年05月吉日 有田鉄道線は、かつて和歌山県有田郡吉備町(現在の有田川町)の藤並駅と金屋口駅とを結んでいた有田鉄道の鉄道路線。2002年12月31日限りで廃線となった。有田鉄道は、沿線で穫れた木材や蜜柑(有田みかん)などの農産品を、積出港である湯浅港まで運搬する目的で、1913年2月に設立された。1915年5月28日に海岸駅 - 下津野駅間、1916年7月1日に下津野駅 - 金屋口駅間が開業した。藤並駅から国鉄線を通して、蜜柑を満載した「蜜柑列車」が全国へ運行されるようになった。紀勢西線と並行していた海岸駅 - 湯浅駅 - 藤並駅間は「不要不急路線」として1944年12月10日に休止されレールが撤去された。1950年4月から紀勢西線湯浅駅まで乗り入れるようになり、藤並駅 - 海岸駅間は1959年4月3日に廃止された。
2011年05月吉日 蔵王高速電鉄(ざおうこうそくでんてつ)とは、かつて、山形県山形市香澄町から南村山郡上山町(現上山市)と、南村山郡堀田村半郷(現山形市蔵王半郷)から同村高湯(現山形市蔵王温泉)を結ぶ計画を立てた鉄道会社およびその鉄道路線(未成線)である。1947年(昭和22年)2月に庄内交通常務取締役荒井清蔵、地元資産家板垣庸一ら107名により免許申請が出願された。この鉄道の目的は、山形から上山への旅客輸送及び観光開発であった。1948年(昭和23年)5月7日にこの路線の免許が下付された。1949年(昭和24年)10月に本線(山形 - 上山)の工事を開始し、1950年(昭和25年)には日立製作所に電車5両を発注した。しかし朝鮮戦争による物価の高騰により工事は中断し1960年(昭和35年)に鉄道起業廃止届を申請。11月15日付けで免許が失効した。
2011年05月吉日 日本鋼管ライトスチール専用線:1960年 日本鋼管(株)熊谷工場として創業開始。ガードレール、コルゲートパイプ、軽量形鋼およびエキスパンドメタル生産開始。日本鋼管ライトスチール(株)設立。1964年(昭和39年)3月13日、日本鋼管ライトスチール専用線開業。籠原電車区の電留線の一番南側の線路から駅南側にある日本鋼管ライトスチール熊谷工場(現・JFE建材)まで3.1kmの専用線が分岐し、同駅から塩浜操車場(現・川崎貨物駅)まで工場で作られたコイルの輸送を同工場が開発した専用貨車(トキ21100、トキ21500)によって行われていた。1983年(昭和58年)内には貨物輸送を全てトラックに切り替えられてしまい完全に運行休止となってしまった。1984年(昭和58年)2月1日廃止。2003年 日本鋼管ライトスチール(株)・川鉄建材(株)合併 JFE建材(株)に商号変更 資本金50億円。
2011年05月吉日 松山人車軌道(まつやまじんしゃきどう)とは、宮城県志田郡松山町(現・大崎市)にあった人車軌道、およびその運営会社である。営業は1922年(大正11年)から1928年(昭和3年)までで、廃止とともに「人車軌道」社名のまま乗合バス事業を開始した。1945年(昭和20年)に運輸局より企業統合の指令を受け、仙北鉄道に吸収されて会社解散した。松山町の中心部を外れるように設置された東北本線松山町駅と町内を結ぶために敷設された。人車軌道としては開業が後発であり、認可が遅れた(将来速やかに人力から他の動力へ切り換えることを条件に認可された)との説もある。そのため車両も保存されており、図面も残っていたため、後に復元も可能となった。2009年2月5日、通商産業省が松山人車軌道の保存線路と保存・復元車両を近代化遺産に認定した。
2011年05月吉日 赤湯人車軌道は、山形県東置賜郡赤湯町(現・南陽市)に1919年から1926年まで存在した人車軌道である。赤湯駅と赤湯温泉街との連絡を目的としていた。奥羽本線赤湯駅は、赤湯の温泉街からは離れた場所に位置しており、1910年(明治43年)頃になると交通の不便さから赤湯温泉の客は減少傾向にあった。このため、駅と温泉街を結ぶ交通機関として人車軌道の敷設が計画される。途中、第一次世界大戦による鉄材などの高騰のため計画が遅れるなどを経て、1919年(大正8年)4月25日に赤湯人車軌道が開業した。路線距離は約1.9kmで、途中に停留所は定められておらず、乗客は任意の場所で乗降することができた。バスの台頭もあって乗客はさらに減少。電気軌道に変更する計画を立てるも資金が集まらず、結局1926年(大正15年)5月29日に全線で運行が中止され、同年11月29日に会社は解散した。
2011年05月吉日 山形交通尾花沢線(おばなざわせん)は、かつて山形県北村山郡大石田町の奥羽本線大石田駅から分岐して、尾花沢市の尾花沢駅までを結んでいた山形交通の鉄道路線。地元では「花列車」として親しまれていた。1926年(大正15年)8月16日 - 尾花沢鉄道によって、徳良湖の灌漑用水を用いて増産が図られた米の輸送を目的に開業。後には沿線にあった亜炭鉱山からの亜炭輸送も担うようになる。1943年(昭和18年)10月1日 - 三山電気鉄道、高畠鉄道と合併して山形交通の運営となる。1969年(昭和44年)12月17日 - 列車を運休し、バス代行運転を実施。1970年3月31日まで。1970年(昭和45年)9月10日 - 廃止。当初の廃止予定日は9月1日であった。1970年9月14日 - 閉業式を実施。記念列車を運転する。
2011年04月吉日 サッポロビール川口工場専用線:サッポロビール株式会社 (Sapporo Breweries) は、日本を代表するビールメーカーのひとつ。明治9年 (1876年)に政府の開拓使が北海道札幌市に開拓使麦酒醸造所を設立し、そこで作られた「冷製札幌ビール」が社名の由来とされている。川口工場は大正末期に日本麦酒鉱泉の東京工場として竣工。昭和5年版の「専用線一覧表」に「日本麦酒鉱泉会社」側線として記載。1933年(昭和8年)に大日本麦酒と合併して同社の川口工場。1964年(昭和39年)1月にサッポロビール株式会社に商号変更した。1986年(昭和61年)川口工場専用線の用途廃止。1987年(昭和62年)には川口工場は埼玉工場名称変更。2003年(平成15年)に埼玉工場閉鎖。
2011年04月吉日 日本車輌製造蕨工場引き込み線:鉄道車両の生産拠点として埼玉県川口市に1934年(昭和9年)4月 - 東京支店工場を移転し蕨工場を新設。当時の住所は北足立郡芝村。現在、跡地は川口芝園団地となっている。日本車輌製造株式会社は、鉄道車両、建設機械、特装車、橋梁、農業用プラントなど、特に「大型」と呼ばれる分野をメインに生産を行う大手企業である。1996年より日本車両の呼称を使用している。略称は「日車」。1896年に名古屋で創業した老舗である。2008年8月東海旅客鉄道(JR東海)と業務資本提携契約を締結。JR東海がTOBを実施し、株式の50.1%を取得。JR東海の連結子会社となった。1972年(昭和47年)3月 - 蕨製作所閉鎖。
2011年04月吉日 長野電鉄河東線(木島線)は、長野県更埴市屋代駅から、同県須坂市の須坂駅、同県中野市の信州中野駅を経由して同県飯山市の木島駅までを結んでいた長野電鉄の鉄道路線である。このうち木島線(きじません)の通称で呼ばれていた信州中野駅から木島駅までが2002年4月1日に廃止された。これを受けて同年9月18日に路線名称が変更され、屋代駅から須坂駅までは通称であった屋代線が正式名称となり、須坂駅から信州中野駅までは信州中野駅から湯田中駅までの山の内線とともに長野線の一部となった。木島駅からは野沢温泉へのバスが接続し、前述の通り1993年頃までは長野 - 木島間直通列車も運転され、野沢温泉へのルートの一つとして賑わった時期もあったが、車社会が進み信州中野 - 木島間は乗客が減少。2002年3月31日を最後に同区間が廃止された。
2011年04月吉日 谷地軌道は河北地方の農業、蚕業を主な産業とし、特産物として草履表・清酒等や、葉山山麓にあった古河鉱業所有の2つの銅山(永松銅山、幸生銅山)の輸送を主目的に谷地の事業家升川勝作氏が、大正4年(1915年)に「谷地軌道株式会社」を設立したことに始まる。大正5年1月27日に開通して、山形県初の私鉄となった。資本金は30万円でルートは山形県河北町谷地と、東根市神町との間5.6kmを結んでいた。駅は神町駅、羽入駅、藤助新田駅、谷地駅の4駅が設けられた。特徴的だったのは危険な火の粉を防ぐため、煙突に覆いをしたことで、里芋の様な形となり「いもこ列車」と呼ばれるようになった。軌間(レール間の幅)762ミリの軽便鉄道です。昭和10年(1935年)10月01日限りで谷地軌道は廃止されることになります。
2011年04月吉日 信越本線旧線 めがね橋−熊ノ平間:信越本線の横川駅 - 軽井沢駅間は一部の区間が遊歩道として整備されている。現在、同財団と安中市は国土交通省と協議を行い、同財団を鉄道事業法における特定目的鉄道の正規鉄道事業者に昇格させ、同駅間の廃線を復活させる計画がある。2006年10月に鉄道事業法の認可を目指し、早ければ2007年10月の開業とJR横川駅への乗り入れを目標としていたが、計画は凍結状態にあり認可・開業時期とも未定となっている。信越本線(しんえつほんせん)は、群馬県高崎市の高崎駅から群馬県安中市の横川駅までと、長野県長野市の篠ノ井駅から新潟県上越市の直江津駅を経由して新潟県新潟市中央区の新潟駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。
2011年03月吉日
2010年03月吉日
常総筑波鉄道鬼怒川線(じょうそうつくばてつどうきぬがわせん)は、かつて茨城県下館市(現・筑西市)の大田郷駅と同県真壁郡関城町(現・筑西市)の三所駅の間を結んでいた常総筑波鉄道(現・関東鉄道)の鉄道路線である。1964年(昭和39年)に廃止された。大田郷駅から西側の鬼怒川東岸の河原へと延びていた路線で、鬼怒川で採取される砂利の輸送を目的に、鬼怒川砂利合資会社が運営する専用線として1923年(大正12年)に開業した。その後、1927年(昭和2年)に常総鉄道に買収されて地方鉄道となり、当時の関本町(のちの関城町)町内に常総関本駅と三所駅を新設し、全線で旅客営業を開始した。しかし、元が専用線であるため集落の中心部から離れており、戦後になり関本町内で道路が整備されバス路線が開通すると利用客が激減した。
2011年03月吉日 鬼村鉱山軌道(トロッコ):鬼村の古屋谷では、、慶応年間(1867年)頃より漢方薬として使用され、その後、明治42年(1909年)頃から石膏の採掘(セメントの原料などに利用)が行われていました。最盛期の大正末期(1923年頃)には従業員が100人を超え、品質の高い石膏の産地として県内外から脚光をあびていました。石膏の搬出は、当初は人が背負って隣町の静間まで出し、荷車で和江港へ運び船積みされていましたが、時代の変遷と共に人力から大八車、馬、馬車、そしてレールを敷手で押して運ぶ「トロッコ」、自動車へと変わっていきました。しかし、石膏は化学セメントなどにおされ、又、採算性や自然災害などもあって、昭和42年(1967年)ついに休山となり60年余「石膏場」と地区民が呼び親しんだ「鬼村鉱山」の歴史は幕を閉じました。
2011年03月吉日 中国電力三隅発電所専用線は、発電所建設に伴い1992年(平成4年)に経路変更された山陰本線の旧線の一部を再利用している。美祢駅から当駅まで、1日1往復の貨物列車が運行されている?美祢→岡見間では炭酸カルシウムを、岡見→美祢間では石炭灰(フライアッシュ)を輸送する。宇部興産セメントサービス所有の私有貨車のタキ1100形貨車を使用して、双方向輸送を行っている。
2011年03月吉日 浜田港線(はまだこうせん)は、島根県浜田市の山陰本線西浜田駅から分岐して浜田港駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の貨物線である。正式には山陰本線の貨物支線で浜田港線は通称である。1955年8月1日に開設され、1982年11月7日に廃止された。廃止後はレールも撤去されている。貨物輸送を目的とする路線であり、浜田港から来た貨物を輸送する、浜田港に貨物を送り、そこから船で輸送するなどの役目を担っていた。SL時代は、C56型が使用されていた。
2011年02月吉日 神奈川臨海鉄道本牧線国際埠頭専用線は横浜本牧駅構内の横浜機関区脇から東南方面に国際埠頭専用線が分岐し、かつては専用の無蓋車・コンテナ車(それぞれ通称「塩トラ」・「塩コキ」)による工業用塩輸送が上越線の渋川駅まで行われていた。国際埠頭専用線は本牧線の開業と同時に開通したものであるが、この輸送の着荷主である関東電化工業が渋川工場でのソーダ電解事業を水島工場に一本化したために2005年8月に終了となり、これ以降国際埠頭専用線は休止になっている。横浜本牧駅に属する専用線としてこの他、国際埠頭専用線の途中から分岐する日本農産工業専用線があったが、これは1991年(平成3年)5月に廃止されている。
2011年02月吉日 鶴見臨港鉄道は、かつて神奈川県にて鉄道事業・軌道事業を営んでいた会社である。現在の東日本旅客鉄道(JR東日本)鶴見線にあたる鉄道路線を建設・運営していたが、1943年に戦時買収により国有化された。1943年(昭和18年)鶴見川口駅から分岐する初めての専用線として、東京瓦斯化学工業横浜工場への線が開通した。2番目の専用線として、鶴見曹達の工場への専用線が1956年(昭和31年)頃に開通した。また1965年(昭和40年)頃にはこの専用線の途中から分岐して東芝のタービン工場への専用線が使用されていたが、短期間で終了した。鶴見曹達専用線も廃止頃まで使用されていた。1971年(昭和46年)には旭硝子京浜工場への専用線が開通した。これは原料のドロマイトを東武鉄道会沢線の第三会沢駅からタキ21000形で搬入するものであった。1986年(昭和61年)11月1日に廃止となった。
2011年02月吉日 喜連川人車鉄道(きつれがわじんしゃてつどう)とは、栃木県塩谷郡氏家町(現・さくら市氏家)にあった国鉄氏家駅と、同郡喜連川町(現さくら市喜連川)を結んでいた人車鉄道、およびその運営会社である。営業は1902年(明治35年)から1918年(大正7年)。1909年(明治42年)社名を喜連川人車軌道に改称している。1906年4月時点では1日7往復の客車が設定されていた。他に乗客3人以上で臨時客車の運行有り。所要時間は上り氏家行きが1時間10分、下り喜連川行きは60分。
2011年01月吉日 大阪臨港線(おおさかりんこうせん)は、かつて大阪府大阪市に存在した、大阪環状線の貨物支線の通称である。大阪市大正区の境川信号場で大阪環状線から分岐し、浪速駅を経由して大阪港駅および大阪東港駅に至る路線で、浪速貨物線とも呼ばれており、当初は関西本線の貨物支線として今宮駅から分岐していた。大阪港駅に至る路線は大阪築港を巡回して天保山付近まで、大阪東港駅に至る路線は天保山運河東岸から安治川左岸を巡回して現在の大阪市中央体育館付近まで伸びていた。水路を跨ぐ箇所が多く、水防対策として線路上に大阪市港湾局管理の防潮扉が数多く設置されていた。 廃線後は線路や設備のほとんどが撤去されているが、三十間堀川に架かる橋梁は今でも残されている。
2011年01月吉日 城東貨物北線淀川貨物連絡線:城東貨物線(じょうとうかもつせん)は、片町線の鴫野駅から東海道本線の吹田駅および、おおさか東線の正覚寺信号場(JR長瀬駅 - 新加美駅間に設置)から関西本線の平野駅に至る貨物支線の通称で、この区間は単線となっている。鴫野駅 - 吹田駅間の淀川に架かる城東貨物線淀川橋梁(赤川鉄橋)は複線用の橋梁として架橋されたが、長らく片側の1線だけが使われ、もう片側が歩道になっている(鉄道道路併用橋)。だが、おおさか東線開業後は同鉄橋も複線として使用を開始する予定があり、同鉄橋と並行して大阪市が新たに人道橋を建設する計画もある。
2011年01月吉日 山下臨港線は昭和30年代、山下公園の東側に山下埠頭が造成されることから既に新港埠頭(当時)の横浜港駅まで敷かれていた高島線(通称)の線路を山下埠頭まで伸ばして貨物駅を設置し貨物輸送を行う計画が持ちあがった。位置付け的には東海道本線の貨物支線であったが、名称については「山下埠頭線」「臨港貨物線」「公共臨港線」などの様々な通称がつけられた。なお横浜港駅からの線路の所有は横浜市で、山下埠頭駅の業務運営は神奈川臨海鉄道が行っていた。しかし開通後の本牧埠頭および大黒埠頭の造成で山下埠頭の重要度が低下していき、またモータリゼーションにより鉄道輸送から自動車輸送へシフトしたことから貨物列車の運行頻度が低下していったため山下臨港線は1986年に廃止されることになった。
2011年01月吉日 芝浦埠頭貨物線は東海道本線貨物支線で汐留駅 - 芝浦駅間を運行していた。芝浦駅(しばうらえき)は、東京都港区海岸3丁目にあった日本国有鉄道(国鉄)東海道本線貨物支線の貨物駅である。東京港芝浦埠頭にあった駅で、駅構内はその北、日の出埠頭や竹芝埠頭まで広がっていた。駅構内には車扱貨物ホームが併設され、一般車扱貨物や荷物を有蓋車から積み降ろしていた。また駅周辺には埠頭に隣接した倉庫が多くあり、それらへの専用線や構内側線があった。船舶輸送された貨物は一旦倉庫へ運ばれた後、有蓋貨車に積み込まれ鉄道輸送されていった。当駅は芝浦埠頭周辺の鉄道貨物輸送の拠点駅であったが、トラックの普及による鉄道貨物輸送の衰退や、コンテナの登場により輸送方式が変化したことで貨物取扱量が減少、1985年に廃駅になった。
2011年01月吉日 東京都港湾局専用線が豊洲・晴海方面へ伸びていたが1989年に廃止された。一部軌道跡や鉄橋などが残っているが近年では豊洲の一部地区の再開発などに伴い次第に消えつつある。東京港湾を管理する東京都港湾局が敷設した、東京都の専用臨港鉄道で、東京港湾に出入りする貨物を運ぶのを主たる機能とする鉄道。深川・晴海線と呼ばれる路線は、江東区塩浜二丁目の国鉄越中島駅(現在のJR越中島貨物駅)を起点として西へと伸び、晴海や豊洲の各埠頭の間とを結んでいた。東京都専用線から、民間会社専用の分岐線もいくつか作られ、それぞれの会社の敷地内へと引き込まれていた。
2011年01月吉日 築地市場引込線は、東京都中央区築地にあった日本国有鉄道(国鉄)の東京市場駅(貨物駅)へ汐留駅から分岐していた東海道本線の貨物支線であった。東京市場駅は汐留駅の貨物ホームの脇から分岐していた全長1.1km、単線の貨物支線の終点にあった地上駅。東京都中央卸売市場築地市場の外周に平行して大きなカーブを描いて線路が敷設されていた。市場の線路脇は、貨車から直接荷卸しができるようにプラットホームのような構造になっており、1度に40両の貨車から荷役作業が可能であった。1935年の築地市場の開場の同日に開業した東京市場駅であったが、トラックの普及や高速道路網の整備などのため取扱量が減少。1984年1月31日14時30分、DE10 1553の牽引する最終列車の発車を最後に廃止された。
2011年01月吉日 鎌倉総合車両センターは、東日本旅客鉄道の大船電車区の検修部門と大船工場が統合されて2000年(平成12年)7月1日に発足した鎌倉総合車両所が、2004年(平成16年)6月1日に名称変更した組織である。209系電車以降の「新系列車両」の増加による保守体系の見直しにより、検査業務が縮小され、2006年(平成18年)2月9日をもって東京総合車両センターと大宮総合車両センターに業務を引き継がせる形で検査業務を終了し、同年3月31日限りで閉鎖された。当地にはかつて海軍工場(横須賀海軍工廠深沢分工場)があり、太平洋戦争終結後にGHQの許諾を受けて、その敷地と建設中の線路を受け継いで建設した。業務終了に伴い引込み線は閉鎖された。踏切部分の線路は撤去されたが、その他は業務終了時のままとなっている。
2013年06月吉日
2011年01月吉日
相模運輸倉庫専用線(米軍田浦専用線)は田浦駅から横須賀駅方面へ向けて、相模運輸倉庫が保有する専用線が分岐している。この路線は長浦港に張り巡らされており、一部は在日米軍の施設である田浦送油施設へ続いている。その施設から発送されるジェット燃料や周囲の倉庫からの飼料輸送などを行っていたが、1998年より使用されていない。現在、路線は撤去されないまま存置されているが、朽ち果ててしまった場所も多く、使用に耐えない。また、この場所にあったディーゼル機関車2両はなくなっている。なお、2007年11月20日と21日に行われたリフレッシュ工事で本線への連絡線と下り本線から上り本線に行くレールとポイントが撤去されている。
2011年01月吉日 日産車体工機・相模石油専用線。かつての平塚駅には東西に専用線が伸びていた。構内南側から分岐し、本線南側に沿って東進、相模川の川岸で急カーブを描いて南北に分岐する線形で、南側は久領堤(くりょうづつみ)の横須賀海軍工廠造機部平塚分工場へ向かっていた。これらは戦後も民間利用が続き、北側は日産車体湘南工場をはじめ、横浜ゴム平塚製造所や、相模石油平塚油槽所へ続く専用線が途中から分岐していた。日産車体・横浜ゴム線は1975年ごろ、馬入ふれあい公園の北にあった平塚油槽所へ続く相模石油線は、1996年9月まで使用されていた。油槽所跡地は現在相模石油経営の「F.ドリーム平塚」というカート場になっている。
2010年12月吉日 三池鉄道は、かつて福岡県大牟田市及び熊本県荒尾市で運行されていた専用鉄道(一時期地方鉄道)の通称である。三井三池炭鉱から採掘された石炭を輸送するために敷設され、保有者は三井鉱山から三井三池港務所、再び三井鉱山、三井石炭鉱業と移った。現在でも一部区間が現存し、三井化学の専用鉄道として使用されている。
2010年12月吉日 荒尾市営電気鉄道(あらおしえいでんきてつどう、通称 荒尾市電)は、荒尾市交通部(後の荒尾市交通局)が運営していた、熊本県荒尾市内の荒尾駅から緑ヶ丘駅までを結んでいた鉄道路線である。1940年に旧日本陸軍が国鉄万田駅(現在の荒尾駅)と荒尾市緑ヶ丘地区の軍事施設の間に建設した専用鉄道を、戦後の1949年に通勤通学路線として再生し開業したが、施設の老朽化や累積赤字などの問題により1964年に廃止された。「市電」と称していたが、岡山県玉野市の玉野市営電気鉄道同様、路面電車ではなく普通の鉄道路線であった。荒尾市電の荒尾駅は国鉄荒尾駅の裏手にあった。荒尾 - 小田峯間は市道に、小田峯 - 本村間は自転車歩行者専用道に、本村 - 緑ヶ丘間は一般道路の歩道にそれぞれ転用されている。また、途中の浦川に架かる竹下橋梁は数少ない遺構である。
2010年12月吉日 住友別子鉱山上部鉄道は標高800メートル以上の地点を、急峻な断崖の等高線にほぼ沿う形で敷設されていた。路線は急カーブが連続し、線路用地は石垣を築き確保されていた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として下部鉄道と共に1893年(明治26年)に開業した。別子銅山で採掘された鉱石は、角石原駅で積み込まれ、途中交換駅の一本松駅を経由し、石ケ山丈駅で降ろされ、索道で下部鉄道の端出場駅に輸送された後、港へ運搬されていた。採掘技術の進歩により坑道から直接鉱石を下部鉄道に運搬できるようになると役目を終え、1911年(明治44年)10月7日廃止された。
2010年12月吉日 福知山線旧線:福知山線は、兵庫県尼崎市の尼崎駅から京都府福知山市の福知山駅に至る西日本旅客鉄道の鉄道路線である。東海道本線の大阪駅 - 尼崎駅間を含む大阪駅 - 篠山口駅間はアーバンネットワークの路線の一つとなっており、「JR宝塚線」の愛称が付けられている。生瀬駅 - 道場駅間はかつて武庫川渓流を眺める風情のある路線であったが複線化とともに新線に切り替わり、廃線となった旧線の一部は遊歩道となっている。1986年に宝塚駅 - 新三田駅間の複線化、福知山駅までの全線電化が完成してからである。それまで山間部を武庫川渓谷に沿って走っていたため複線化が困難であった生瀬駅 - 道場駅間をトンネルの連続する複線の新線に切り替えた。1986年(昭和61年) 8月1日:宝塚駅 - 三田駅間が新線に切り替え、複線化。生瀬駅 - 道場駅間1.8km短縮。
2010年12月吉日 尼崎港線:福知山線最初の開業区間でもあった塚口駅 - 尼崎港駅間の通称尼崎港線が、旅客営業を1981年に廃止した後、1984年に完全に廃止された。同線は1898年に東海道本線の尼崎駅への連絡線を設けて大阪方面との直通運転を始めてからは、塚口駅 - 尼崎港駅間の盲腸線となっていた。晩年の旅客列車の本数は1日2往復で混合列車であった。1905年(明治38年)7月13日:東海道線と立体交差化。1949年(昭和24年) 1月1日:神崎駅を尼崎駅に、尼ヶ崎駅を尼崎港駅に、神崎乗降場を尼崎乗降場に改称。1981年(昭和56年) 4月1日:塚口駅 - 尼崎港駅間の旅客営業廃止。1984年(昭和59年)2月1日:貨物支線(尼崎港線)塚口駅 - 尼崎港駅間 (4.6km) が廃止(貨)尼崎港駅廃止。
2010年12月吉日 三木鉄道は、兵庫県で旧国鉄特定地方交通線の鉄道路線三木線を2008年3月まで運営していた三木市・兵庫県などが出資の第三セクター方式の鉄道会社である。本社は兵庫県三木市福井二丁目12番43号。三木線廃止後、清算会社となっている。三木鉄道が運営していた三木線は、2002年に芝山鉄道が開業するまで、広義の第三セクター鉄道の中では、営業距離が日本で最も短い鉄道であった。三木市から神戸市内へ向かう旅客は神戸電鉄粟生線を利用し、加古川線に接続している三木線は旅客の動きに合っていないことから、第三セクター転換後も乗客の減少が続き慢性的な赤字に陥っていた。2008年4月1日に全線が廃止された。最終日には多くの人々が詰め掛けた。
2010年12月吉日 豆相人車鉄道とは現在の東海道本線が開業する前、小田原と熱海の間を結んでいた軽便鉄道線の熱海鉄道(あたみてつどう)その前身となる人車軌道が豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)である。熱海は古くから温泉の町として知られていたが、この辺りは地形が険しく、東海道本線も当初は熱海を通らず現在の御殿場線のルートを取るなど、交通の不便な場所でもあった。事業家雨宮敬次郎の発案で雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年から1900年にかけて漸次開通させた。1907年に蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えた。翌年には、営業が不振であったことから雨宮が設立した大日本軌道に買収され、同社の小田原支社管轄となる。
2010年12月吉日 ベッドフォード・ノーサンプトン線は、3つの郡(ノーサンプトンシア郡のノーサンプトン町とホートン町、バッキンガムシア郡のオルニー町、ベッドフォードシア郡のターベイ町とベッドフォード町)に駅が有るミッドランド鉄道の支線でした。1872年に開業。中間駅は1962年に旅客営業休止。ノーサンプトンとピディングトン駅間の短い区間が英国防省設立のために1981年まで残っていたが全線廃止。鉄道線路はノーサンプトンとブラックミルズの間に線路が残っていますがその他は残っていません。ベッドフォード・ノーサンプトン線の再開はフォードシア郡の鉄道と輸送協会によって提案されている。
2010年12月吉日 東海道線旧線 根府川駅−真鶴駅間。1920年(大正9年)10月21日:熱海線 国府津駅 - 小田原駅間(3.9M≒6.28km)が開業。勾配のきつい御殿場経由に代わって、熱海経由の路線を東海道本線として建設することになり、この日にその第一歩となるこの区間が開業した。1922年(大正11年)12月21日:小田原駅 - 真鶴駅間(7.3M≒11.75km)が延伸開業。早川駅・根府川駅・真鶴駅開業。1923年(大正12年):9月1日:関東大震災発生。根府川駅で土砂に押されて列車が転落するなど大きな被害を受け、東京駅 - 御殿場駅間などが不通となる。順次復旧し10月28日全通。1928年(昭和3年)2月5日:小田原駅 - 熱海駅間が電化。小田原駅 - 湯河原駅間複線化。1972年(昭和47年)真鶴隧道付け替え、長坂山隧道、八本松隧道、赤沢隧道の東海道線旧線区間廃止。
2010年11月吉日 陸上自衛隊木更津駐屯地専用線は物資輸送のため木更津駅から更津駐屯地まで貨物専用線がのびていた。戦前の木更津航空隊時代に設置されていたものを流用した。木更津駅からしばらく内房線に沿って北上し、やがて江川付近にある陸上自衛隊駐屯地に向かう線路と巌根付近の航空自衛隊基地に向かう路線に分岐した。陸自駐屯地に向かう線路を江川線、航空自衛隊に向かう線路を高柳線と呼ばれていた。木更津駐屯地(きさらづちゅうとんち、JGSDF Camp Kisarazu)は、千葉県木更津市吾妻地先に所在し、第1ヘリコプター団等が駐屯する陸上自衛隊の駐屯地である。木更津駐屯地は陸上自衛隊における呼称であり、航空自衛隊においては、木更津基地(きさらづきち、JASDF Kisarazu Depot)と呼称している。
2010年11月吉日 鉄道連隊演習線習志野線とは日本陸軍の鉄道連隊が演習用に敷設した千葉県内の鉄道路線。習志野線の一部は、戦後陸上自衛隊の鉄道部隊である第101建設隊の演習路線に転用された。 その後、船橋市内にある一部の路盤が現在でも防衛省保有の他、習志野市内では遊歩道に転用されるなどしている。鉄道第一連隊材料廠跡は国鉄のレールセンターとなり、千葉駅から国鉄の専用線に転用されたが、1984年廃止となった。現在は千葉経済学園の敷地内に材料廠の建物が現存している。第一連隊の作業場は現在千葉公園となっている。公園内に橋脚やトンネルが現存している。
2010年11月吉日 帝釈人車鉄道は柴又 - 金町間で人が車両を押して動かす人車軌道を運行していた帝釈人車鉄道である。1897年(明治30年)に日本鉄道により金町駅が開業し柴又帝釈天への参詣者が増加した。その交通の便を図ろうと1899年(明治32年)に帝釈人車鉄道が設立され、同年内に柴又 - 金町間で営業を開始した。線路は全線複線で、折り返しのため柴又駅・金町駅の終端部はループ線になっていた。客車は1両6人乗りで64両あり、通常1人で押していたという。1907年(明治40年)には帝釈人車軌道と社名を改めた。
2010年10月吉日 頸城鉄道線(くびきてつどうせん)は、かつて頸城鉄道自動車(現・頸城自動車)が運営していた、新潟県直江津市の新黒井駅と東頸城郡浦川原村(いずれも現上越市)の浦川原駅を結んでいた軽便鉄道路線。地元の利用者や鉄道ファンの間では「○」の中にアルファベットの「K」があしらわれた社紋に因んで「まるけい」と呼ばれていた。1971年に全面廃止された。線内で使用されていた2号蒸気機関車は「コッペル」の愛称で親しまれ、1966年5月に引退後、1972年5月から5年間、西武鉄道山口線で余生を過ごし、現在は同市頸城区百間町に保存されている。
2010年10月吉日 富津列車砲基地専用線は千葉県の富津射撃場に置かれた九〇式24センチ列車加農(きゅうまるしきにじゅうよんせんちれっしゃかのう)を内房線青堀駅の先から分岐し富津列車砲基地までの専用線である。大日本帝国陸軍が1930年(昭和5年)に制式化した列車砲(カノン砲)で、東京湾の防備に充てられていたが、太平洋戦争開始後、改軌されたのち満州に送られ、北部の虎頭要塞に配備されてソ連赤軍に備えることとなった。
2010年10月吉日 赤沢森林鉄道は木曽森林鉄道の林野庁長野営林局管内の長野県木曾谷国有林運材のため運行していた森林鉄道の上松運輸営林署管内の小川森林鉄道の赤沢支線の通称である。木曾谷には最盛期に10営林署が存在し、各署が1,2線の森林鉄道を保有していた。中でも上松運輸営林署管内の小川森林鉄道と王滝森林鉄道は規模も大きく、かつ比較的最近まで残っていたことから全国の森林鉄道の中でも高い知名度を誇っている。最盛期には、路線の総延長は400Kmにものぼっていた。 しかし、道路が整備されてトラックが木材の輸送を担うようになってから姿を消していった。
2010年10月吉日 王滝森林鉄道 は木曽森林鉄道の林野庁長野営林局管内の長野県の木曾谷の国有林の運材のため運行していた森林鉄道の一部で、木曾谷には最盛期に10営林署が存在し、各署が1,2線の森林鉄道を保有していた。中でも上松運輸営林署管内の小川森林鉄道と王滝森林鉄道は規模も大きく、かつ比較的最近まで残っていたことから全国の森林鉄道の中でも高い知名度を誇っている。最盛期には、木曽森林鉄道の路線の総延長は400Kmにものぼっていた。王滝森林鉄道は、総延長155キロに及ぶ線路が昭和30年にかけて敷設されました。昭和50年5月30日には、全国の森林鉄道の中でも孤軍奮闘、最後まで生き残った王滝森林鉄道でしたが、半世紀を越える長い歴史の幕を閉じたのでした。  
2010年10月吉日 宮原線(みやのはるせん)は、大分県玖珠郡九重町の恵良駅から熊本県阿蘇郡小国町の肥後小国駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。1980年の国鉄再建法の施行を受け、第一次特定地方交通線として1984年に全線が廃止された。なお、線名の宮原(みやのはる)とは、終点の肥後小国駅のある阿蘇郡小国町の字名である。宮原線は、1937年に恵良・宝泉寺間が開業したが、太平洋戦争の激化にともない不要不急線として延伸工事は中止、既開業区間も1943年に休止された。戦後の1948年には復活し、1954年には大分・熊本県境を越えて肥後小国まで延伸され、農林資源の開発や観光路線として期待されたが、盲腸線であるうえ、人口が希薄な県境の高原地帯を走る路線であり、利用は振わなかった。
2010年09月吉日 羽黒軌道:「羽黒は石を打つノミの音で夜が明ける」 岩瀬町の石の歴史は江戸時代からあるが、明治35年本格的に企業化されたのである。稲田石では、昭和の初め頃羽黒駅から(地名で)稲・池亀迄レールがひかれ、山で採掘された石を羽黒駅まで無蓋車であるトロッコで運ばれた。その当時トロッコは最も進んだ輸送手段であった。 駅からは馬そりで各作業場に運ばるが搬送中に橋の一部がその重さに耐えきれず破損し一時通行止めになった一波乱もあったそうである。明治37年4月に花崗岩の輸送のため貨物取扱駅として羽黒駅が誕生したことにより盛期を向かえた。県内の石材運搬軌道としては稲田地図に次ぐ規模の路線網を形成していった。戦後になると道路が徐々に整備され、大型自動車が自由に通れるようになると、敷設した軌道の撤去が始まり、昭和30年ごろには全廃したようである。
2010年09月吉日 稲田人車軌道-1 -2 -3は稲田駅周辺で産する御影石(学名花崗岩)を採石場から駅まで運搬する為のトロッコが初めて運転されたのは、明治29年(1896年)であった。東京で石材問屋を経営していた鍋島彦七郎は、稲田に進出し、無尽蔵に存在する御影石を消費地に運搬するために、採掘場のある堂峰・西沢と稲田駅間に2km余に及ぶトロッコ軌道を敷設した。明治の末期から大正初期にかけて、大郷戸方面の開発が急速に進み、中島喜三郎が中心になり、地元の協力を得て、大正9年(1920年)12月、茨城軌道株式会社を起こして営業を開始した。道路の整備が進むに従って、石材を稲田駅に集積して鉄道で貨車輸送するよりも、トラックが直接採石場まで乗り入れて輸送する方が便利になり、順次軌道の撤去が始まった。
2010年09月吉日 岩間人車軌道は難台山の花崗岩採掘が明治20年頃に採掘が始り、難台山以北は加波山、足尾に連なる黒雲母花崗岩(深成岩)、以南はケイ足層群(古生層)に二分され一部吾国山以北に東南に走る古生界がみられます。難台山の花崗岩は地元の人が国会議事堂にも使われていると言っていました。常磐線(旧水戸鉄道・日本鉄道)が開通すると、東京の日本石材株式会社(現在の日本石材株式会社とは違う様だ)が、難台山から岩間駅までトロッコ軌道を敷設して難台山の花崗岩採掘に乗り出した。岩間人車軌道の開通は明治末〜大正初年にかけてと推定され、難台山の石切場から岩間駅まで、下り勾配を利用し人力トロッコで石材を輸送していたが、脱線転覆事故により何人もの犠牲者が出た。
2010年09月吉日 笠間人車軌道(かさまじんしゃきどう)は、茨城県西茨城郡笠間町(現・笠間市)にかつて存在した人車軌道、およびその運営会社である。笠間稲荷神社への参拝客輸送を主目的に、1915年(大正4年)から1930年(昭和5年)まで営業した。後に笠間稲荷軌道、笠間稲荷運輸と改称した。1889年(明治22年)に開通した水戸鉄道(現・水戸線)の笠間駅は、笠間の市街から1km以上離れた所に設置されていた。参拝客で賑わう観光地であった笠間稲荷神社は笠間市街にあったことから、神社と笠間駅とを結ぶ人車軌道が計画されることになる。こうして、1915年(大正4年)11月22日に笠間人車軌道が開業した。
2010年09月吉日 魚沼線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた、新潟県三島郡越路町(現長岡市)の来迎寺駅から新潟県小千谷市の西小千谷駅に至る鉄道路線(地方交通線)。1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1984年に全線が廃止された。もとは魚沼鉄道(うおぬまてつどう)という軌間762mmの軽便鉄道で、軽便鉄道法による免許交付の第1号であった。1920年に信濃川の対岸に並行して上越北線(後の上越線)が開業し東小千谷駅(現在の小千谷駅)が設置されると、旅客・貨物とも同線に奪われ、魚沼鉄道は赤字に転落してしまった。当初は補償を得て廃止する予定であったが、買収国有化されることとなり、1922年に国有鉄道の魚沼軽便線(うおぬまけいべんせん。同年魚沼線に改称)となった。
2010年09月吉日 国鉄小千谷発電所専用線は小千谷発電所建設のために敷設された専用鉄道路線である。小千谷発電所(おぢやはつでんしょ)は、新潟県の信濃川流域に位置する東日本旅客鉄道(JR東日本)が所有する水力発電所である。1951年(昭和26年)に運用を開始した水力発電所。千手発電所で発電に使用した水をそのまま水路によって導き、山本調整池を経て発電所に導かれる。5台の水車発電機を有し、出力は12.3万キロワット。JR東日本信濃川発電所の不正取水問題の発覚により、2009年2月13日から2010年6月9日まで発電が停止された。
2010年08月吉日 西大寺鐵道(さいだいじてつどう)は、かつて岡山県岡山市と西大寺市(現在は岡山市に合併され岡山市東区)の間を結んでいた鉄道路線、およびその運営会社である。914mmという特殊軌間を用いた鉄軌道の中でも最後に残った路線として知られる。「西鉄」(さいてつ)と略称され、地元民には「けえべん」の愛称で親しまれた。並行バス路線がなかったことからその最終期まで一貫して旅客輸送量が多く、軽便鉄道としては良好な営業成績を保っていたが、1962年、国鉄赤穂線伊部 - 東岡山間の開通により、同線との競合を避けるため廃止された。末期は子会社であった両備バスを合併、登記上は西大寺鉄道が存続会社となったが社名を両備バスに変更してバス中心の会社となり、西大寺鉄道は同社の鉄道部門(両備バス西大寺鉄道線)となっていた。
2010年08月吉日 旧国鉄宮之城線とは、鹿児島県川内市(現・薩摩川内市)の川内駅から同県大口市(現・伊佐市)の薩摩大口駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄再建法施行により第2次特定地方交通線に指定され、1987年に廃止された。1924年(大正13年)10月20日 川内町 - 樋脇間 (13.4km) を宮之城線として新規開業。1986年(昭和61年)11月1日 全線 (66.1km) の貨物営業を廃止。1987年(昭和62年)1月10日 全線 (66.1km) 廃止。バス転換。
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