更新日時 2017年05月14日

廃線探索写真集-3
探索日時 写真 コメント
2017年04月吉日 西沢森林軌道:三富村と塩山駅を結ぶ三塩軌道と称し、昭和8年から昭和43年まで、主に西沢・東沢一帯の県有林の木材搬出に活躍したものです。全長は36kmで、自然勾配をせび(ブレーキ)だけで塩山駅まで下り、登りは馬で2台づつ引き上げていましたが、昭和20年頃からはディーゼル機関車で、6〜8台を現在地の対岸にあった中土場まで運び、ここから奥16kmは馬に頼っていました。木材搬出の工程は、伐採を専門とする者と、積子といって丸太をトロッコに積む者、及び運材夫といって中土場まで運びこれを塩山駅まで運ぶ業務をそれぞれ分業で行っていました。県有林から木材を搬出の合間に、民間の者も炭・薪・繭等の搬出、米を始め、あらゆる生活物資の搬入に、このトロッコを利用していました。
2017年04月吉日 ヌク沢採石軌道:三富村と塩山駅を結ぶ三塩軌道と称し、昭和8年から昭和43年まで、主に西沢・東沢一帯の県有林の木材搬出に活躍したものです。全長は36kmで、自然勾配をせび(ブレーキ)だけで塩山駅まで下り、登りは馬で2台づつ引き上げていましたが、昭和20年頃からはディーゼル機関車で、6〜8台を現在地の対岸にあった中土場まで運び、ここから奥16kmは馬に頼っていました。かつては、戦前黒金山の銅鉱採掘による鉱石運搬・また鶏冠山から採掘された珪石の運搬は最後まで行われていましたが、昭和43年その歴史を閉じました。昭和41年中土場〜塩山駅間の軌道は撤去されました。
2017年04月吉日 三塩森林軌道:三富村と塩山駅を結ぶ三塩軌道と称し、昭和8年から昭和43年まで、主に西沢・東沢一帯の県有林の木材羽生津に活躍したものです。全長は36kmで、自然勾配をせび(ブレーキ)だけで塩山駅まで下り、登りは馬で2台づつ引き上げていましたが、昭和20年頃からはディーゼル機関車で、6〜8台を現在地の対岸にあった中土場まで運び、ここから奥16kmは馬に頼っていました。木材搬出の工程は、伐採を専門とする者と、積子といって丸太をトロッコに積む者、及び運材夫といって中土場まで運びこれを塩山駅まで運ぶ業務をそれぞれ分業で行っていました。県有林から木材を搬出の合間に、民間の者も炭・薪・繭等の搬出、米を始め、あらゆる生活物資の搬入に、このトロッコを利用していました。昭和41年中土場〜塩山駅間の軌道は撤去されました。
2017年04月吉日
2016年12月吉日
今福線:三段峡駅から先の区間は、1974年に全線で工事に着手した。三段峡駅の先では、全長が10km近い三段峡トンネルが計画されており、試掘坑の掘削に着手されていた。しかし国鉄再建法に基づいて1980年に新線建設が凍結されたため、工事は中止された。当初は下府駅を終点とする計画であった。旧線区間の石見今福 - 下府間は太平洋戦争前に着手され、大半のトンネルと橋梁が完成していたが、戦時供出によりレールの敷設ができず、その後の水害で路盤が崩壊してしまった。戦後建設を再開するに当たり、当初はこの旧線を手直しして使用することになったが、急こう配や急カーブを理由にこの案は破棄されて上記の浜田駅までの新線ルートとなった経緯が存在する。また、新線建設にあたり旧線の路盤を一部切り崩して新線の路盤とした区間が存在する。
2017年03月吉日 水戸電気鉄道は、かつて茨城県の水戸市と東茨城郡茨城町を結んでいた、水戸電気鉄道の鉄道路線である。1936年(昭和11年)に全線が廃止された。電気鉄道という名を冠し、直流電化路線として建設する計画であったが、最後まで電化されることはなかった。近隣の新治郡柿岡町(現・石岡市柿岡)にある気象庁柿岡地磁気観測所に影響を与える恐れがあるとして、計画当初は電気運転の認可が下りなかったためである。開業後の1933年(昭和8年)になって認可が下りたが、そのころには毎年累積していた赤字により、電化工事を行う企業体力はなくなっていた。1928年(昭和3年)2月23日当初、施工線は茨城県水戸市から同県東茨城郡竹原村(現・小美玉市)までを電気鉄道にて結ぶ計画であり、停留所は新水戸・吉田・吉澤・小鶴・小幡・堅倉の6駅とされていた。
2017年03月吉日 山陽本線旧船坂隧道:岡山県と兵庫県の県境を貫く山陽本線(当時山陽鉄道)の船坂トンネルは、これまでに3本のトンネルが掘削され、うち2本が現在も使用されています。最初のトンネルは、明治23年に建設され、延長約1,200mあり、煉瓦と石積みを併用して造られています。その後、山陽本線の電化に伴い別線で新たなトンネルを掘ることになり、昭和34年に廃止されましたが、岡山方の坑内は大阪市立大学の三石宇宙線観測所として再利用されたことがあります。2本目は、山陽本線の複線化に際して下り線トンネルとして明治43年に完成したトンネルです。3本目は、山陽本線の電化に当たって昭和34年に完成した延長約2,000mの新船坂トンネルで、設計・監理は日本国有鉄道大阪工事局が行いました。
2017年03月吉日 東武伊香保軌道線は、かつて群馬県前橋市の前橋駅前・同県高崎市の高崎駅前から同県渋川市を経て同県北群馬郡伊香保町(現・渋川市)の伊香保までを結んでいた東武鉄道運営の路面電車の一つである。前橋駅前 - 渋川駅前間の前橋線、高崎駅前 - 渋川新町間の高崎線、渋川駅前 - 伊香保間の伊香保線の3路線から成り、渋川新町を中心に前橋・高崎・伊香保の3方面へ延びていた。明治時代に馬車鉄道として開業し、その後東京電燈を経て1927年(昭和2年)に東武鉄道の路線となる。3路線のうち最後まで残った伊香保線は、路面電車としてはスイッチバック式の待避線が多くあるなど屈指の登山電車として知られていたが、1956年(昭和31年)にバスに代替されて全廃された。
2017年02月吉日 呼子線は、佐賀県唐津市の、日本国有鉄道(国鉄)筑肥線虹ノ松原駅から、国鉄唐津線唐津駅 - 西唐津駅間を経て、同市呼子町(建設当時は佐賀県東松浦郡呼子町)を結ぶ計画だった国鉄の鉄道路線。1968年(昭和43年)に着工し、ほぼ全線にわたりトンネル・高架橋等の工事は完了していたが、唐津市街地での用地取得に時間がかかっているうちに国鉄の経営が悪化、国鉄再建法の施行の影響により工事が中断された。このうち高い需要の見込まれる虹ノ松原駅 - 西唐津駅間については、国鉄筑肥線の変更路線に組み込まれて工事が継続され、1983年(昭和58年)3月22日に開業している。
2017年02月吉日 唐津線大島支線:唐津線(からつせん)は、佐賀県佐賀市の久保田駅から同県唐津市の西唐津駅に至る九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。1898年(明治31年)12月1日:唐津興業鉄道 山本駅 - 妙見駅 - 大島駅間開業、山本駅、唐津駅、妙見駅、(貨)大島駅新設。1982年(昭和57年)11月15日:西唐津駅 - 大島駅間貨物支線廃止、(貨)大島駅廃止。
2017年02月吉日 筑肥線旧線(虹ノ松原駅 - 山本駅間)
筑肥線は、福岡県福岡市西区の姪浜駅から佐賀県唐津市の唐津駅まで、および唐津市の山本駅から佐賀県伊万里市の伊万里駅までを結ぶ九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(幹線)である。かつては福岡(博多駅) - 伊万里間の短絡線的性格を有し、唐津市街を通らないルートで直通する一本の路線だったが、1983年の部分電化に伴って一部区間の廃止や経路変更が生じ、唐津駅 - 山本駅間で分断された路線となった。現在の筑肥線は唐津線を介して連絡している。1983年(昭和58年)3月22日虹ノ松原 - 山本間 (10.4km) を廃止、東唐津(初代)・鏡・久里の各駅を廃止。
2017年02月吉日 唐津線岸嶽支線:1922年(大正11年)に制定された改正鉄道敷設法別表には「112. 佐賀縣岸嶽ヨリ伊萬里ニ至ル鐡道」として当駅より伊万里駅に至る路線が記載されている。これは実際には起点を山本駅に変更の上、筑肥線として実現することになった。1913年(大正2年)9月21日:山本駅 - 岸嶽駅間旅客営業開始、牟田部駅、岸嶽駅を貨物駅から一般駅に変更。蒸気動車運転開始(西唐津-山本間、山本-岸嶽間)明治後期から昭和前期にかけて炭鉱で栄えた北波多村の炭鉱の閉山による人口減少を受け、1971年(昭和46年)に岸嶽支線が赤字83線の取り組みにより廃止された。
2017年02月吉日 唐津線相知炭坑支線:中相知信号場から相知炭鉱駅までを結んでいた貨物線。1905年(明治38年)10月22日:相知貨物支線分岐点 - 相知駅間貨物支線開業、(貨)相知駅新設( 本線の相知駅とは別駅)。1978年(昭和53年)10月1日:山本駅 - 相知炭坑駅間貨物支線廃止 (-6.1km) (実際は中相知信号場 - 相知炭坑駅間 (0.7km) の廃止)、(貨)相知炭坑駅廃止。
2017年02月吉日 唐津線柚ノ木原支線:唐津線(からつせん)は、佐賀県佐賀市の久保田駅から同県唐津市の西唐津駅に至る九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。1903年(明治36年)4月18日:莇原駅 - 柚ノ木原駅間貨物支線開業、(貨)柚ノ木原駅新設。1967年(昭和42年)12月1日:多久駅 - 柚ノ木原駅間貨物支線廃止 (-1.4km) 、(貨)柚ノ木原駅廃止。
2016年12月吉日 琴平急行電鉄線は、1948年(昭和23年)に琴平参宮電鉄(琴参)に吸収合併された琴平急行電鉄(琴急)が、1930年(昭和5年)から1944年(昭和19年)にかけて運営していた鉄道路線である。本路線は金刀比羅宮への参詣路線としては最後に開業した路線であった。起点である坂出は、当時隣の丸亀と並んで本州と四国をつなぐ重要な港町であったことから、そこから古くより参拝者が多く訪れる金刀比羅宮への参宮路線の敷設は、多くの需要が見込めると考えられたのは当然のことであった。太平洋戦争激化に伴い1944年(昭和19年)1月に不要不急路線に指定され、各種設備を供出し営業を休止した。琴参合併後も路線免許は保持されていたが、1954年(昭和29年)9月に廃止申請がなされ、名実ともに廃止となった。
2016年12月吉日 内子線旧線:内子線は、愛媛県大洲市の新谷駅から愛媛県喜多郡内子町の内子駅に至る四国旅客鉄道(JR四国)の鉄道路線(地方交通線)である。かつては予讃線の五郎駅から分岐して内子駅に至る盲腸線であった。現在は予讃線の向井原駅 - 伊予大洲駅間短絡ルートの一部に組み込まれ特急列車が行き交う路線となっているが、換算キロ制(現在のJR四国では擬制キロ制となっている)が適用されている地方交通線に指定されたがゆえに、幹線の予讃線(当時は予讃本線)に編入することができず、内子駅 - 新谷駅間が内子線のままとなっている。1935年(昭和10年)10月6日:1067mm軌間に改軌。五郎駅分岐となり内子線と改称。1986年(昭和61年)3月3日:予讃本線の向井原 - 内子間、新谷 - 伊予大洲間の開業により内子線が短絡ルートに組み込まれる。
2016年12月吉日 予讃線旧線(伊予白滝駅-春賀駅):予讃線は、瀬戸内海と宇和海に沿って香川県高松市の高松駅から愛媛県松山市の松山駅を経て、愛媛県宇和島市の宇和島駅に至る四国旅客鉄道(JR四国)の鉄道路線(幹線)である。このほか愛媛県内の向井原駅から内子駅までと、新谷駅から伊予大洲駅までの支線を持つ。この2つの支線は、内子駅から新谷駅までの内子線を経由してつながっており、向井原駅 - 伊予大洲駅間を結ぶ短絡ルートを形成している。1918年(大正7年)2月14日:愛媛鉄道の長浜町駅(現在の伊予長浜駅) - 大洲駅(現在の伊予大洲駅)間が開業。軌間762mm。1935年(昭和10年)10月6日:下灘駅 - 伊予長浜駅間が開業。愛媛線の伊予長浜駅 - 伊予大洲駅間を1067mmに改軌して予讃本線に編入する。同時に伊予白滝駅 - 五郎駅間の線路と八多喜駅を移設。
2016年12月吉日 阪和貨物線は、かつて大阪府八尾市の関西本線八尾駅から大阪市住吉区の阪和線杉本町駅に至っていた貨物線の通称である。正式には関西本線の支線であり、「阪和連絡線」とも呼ばれた。2004年に休止され、2009年に廃止された。接続に難のある阪和線と関西本線とを結ぶバイパスとして建設された路線である。全線が電化されていた。全区間単線であるが、ほとんどの区間で複線化用地が確保されていた。晩年には、当路線を通過する列車は甲種輸送列車や団体列車、臨時列車に限られ、路線の使用頻度は極端に少なかった。そのため線路保守の目的で回送列車(錆取り列車)が王寺駅 - 鳳駅間で117系などを使用して1往復運転されていた。
2016年10月吉日 米軍池子線:逗子駅から京浜急行電鉄金沢八景駅付近にある総合車両製作所横浜事業所(旧・東急車輛製造横浜製作所)へ続く全長6.4kmの専用鉄道がある。当駅を分岐後、横須賀線に並走し東進し、京急逗子線との交差点付近で方向を変え北上、神武寺駅の六浦寄りで同線に合流している。1937年(昭和12年) 横須賀鎮守府による池子弾薬庫建設計画が公表される。1941年(昭和16年)12月、接収地内の池子-久木間にトンネル開通。1944年(昭和20年)横須賀海軍工廠第一次疎開。池子に造兵部、光学実験部、電池実験部の関連地下工場を建設。神武寺仮駅が現在地に移転。1945年(昭和21年)横須賀海軍工廠第二次疎開。終戦時に池子に存在した地下施設は工廠火薬庫、蓄電池工場、仮倉庫。池子弾薬庫は連合国軍に接収される。
2016年07月吉日 三井鉱山セメント専用線(金見鉄道)は平成筑豊鉄道金田駅から分岐し田川市の「関の山鉱山」までの約5.2kmの専用鉄道。関の山鉱山で採掘された石灰石は、隣接する田川工場においてセメントに加工され、タキ1900形に積載され、金田駅までの専用鉄道区間はDE-10が牽引。1日2往復が運転された。金田駅からは鹿児島本線経由で門司港に運ばれ外浜駅を経由し、田野浦公共臨港鉄道から分岐する三井鉱山セメント門司工場専用線まで輸送していた。2003年三井鉱山が債務超過となり産業再生機構の管理下になり、セメント部門は廃業、関の山の土地と鉱山権は南隣で操業する麻生セメントが買取。三井鉱山セメント専用線は引き継がれず2004年3月25日廃止。三井鉱山セメント専用線は金見鉄道とも呼ばれていた。
2016年07月吉日 九州電気軌道北九州本線は、元来九州電気軌道の手によって、国際貿易港として栄えていた門司、旧城下町で商業の中心地小倉、八幡製鐵所が立地する工業都市八幡、交通の要衝地折尾など北九州地区の主要都市を連絡する、阪神電気鉄道に範を取った都市間高速電車(インターアーバン)として計画・建設された。最後まで残存した黒崎 - 折尾間を筆頭に専用軌道(新設軌道とも)の区間も多く、停留所間隔も長かったため、運行速度は路面電車としては比較的高速であった。北九州市内の門司区・小倉北区・八幡東区・八幡西区の市街地を東西に貫く北九州本線は、2000年(平成12年)までに全廃された。
2016年07月吉日 海老津炭鉱軌道:明治45年9月海老津炭鉱創業開始。当初は馬で石炭を運んでいたが、後にエンドレス軌道に変更。昭和30年2月海老津炭鉱で集団赤痢発生、患者保菌者1,326人、延べ1,072人を収容。1956年(昭和31年)12月海老津炭鉱が閉山し、駅にある炭鉱の設備及び運炭線が廃止。
2016年07月吉日 高野山森林鉄道とは和歌山県伊都郡 九度山町、高野町の高野山一帯に路線を持っていた森林鉄道である。大阪営林局高野営林署が運営していた。日本最初の森林鉄道は、津軽森林鉄道が通説であるが、高野山森林鉄道の前身が日本最初という説もある。しかし、この路線は一旦廃止されていることなどと、諸説あるため、不明確である。南海電気鉄道高野線の九度山駅 - 極楽橋駅とほぼ並行していた。 現在では旧路線の一部が道路や遊歩道として整備されており、南海高野線 極楽橋駅や高野下駅の駅舎下にもその名残を見ることができる。また高野町花坂近辺でも、当時の手掘りトンネルが一般の道路として使用されている。
2016年06月吉日 上越線旧線 越後川口 - 北堀之内:上越線は、群馬県高崎市の高崎駅から新潟県長岡市の宮内駅(列車運行上は長岡駅)までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。高崎線の終着駅高崎駅より利根川沿いに群馬県内を北上し、三国山脈を越えて新潟県に入り、中越地方の魚野川・信濃川沿いに六日町盆地などを経て長岡市に至る鉄道路線。終点の宮内駅では信越本線に接続する。後閑駅 - 越後湯沢駅間を除き国道17号とほぼ並走する。1922年(大正11年)8月1日:越後川口駅 - 越後堀之内駅間が延伸開業。越後堀之内駅が開業。1966年(昭和41年)11月22日:北堀之内駅 - 越後川口駅間が複線化。この時に旧線が廃止された。
2016年05月吉日 富内線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線。北海道勇払郡鵡川町の鵡川駅で日高本線から分岐し、沙流郡日高町(日高支庁管内)の日高町駅までを結んでいた。当初から根室本線金山駅と結ぶ計画があったものの、国鉄再建法の施行により1984年に第2次特定地方交通線に指定され、1986年11月1日に全線が廃止された。沿線から産出されるクロム鉱や石炭、森林資源の開発のため、北海道鉱業鉄道が金山線(沼ノ端 - 邊富内)として1922年から翌年にかけて開業したもので、1924年に北海道鉄道(2代)と改称。1943年に同社の札幌線(現在の千歳線)とともに戦時買収され、富内線となった。その際、日高本線と路線が近接していた沼ノ端 - 豊城間は不要不急線として休止され、豊城 - 鵡川間に新線を建設して日高本線と接続させている。
2016年05月吉日 深名線は、かつて北海道旅客鉄道(JR北海道)/日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道深川市にある深川駅で函館本線から分岐し、雨竜郡幌加内町を経て名寄市にある名寄駅で宗谷本線に接続していた。営業係数は常にワースト10に入るという大赤字の路線で、赤字83線や特定地方交通線の廃止論議にもその都度候補にあげられていた。並行道路の未整備を理由に廃止保留となったが、国鉄分割民営化後に並行道路の整備が進んだことから、1995年(平成7年)9月4日に廃止された。
2016年05月吉日
2016年01月吉日
大阪市中央卸売市場貨物支線:野田駅から分岐していた大阪環状線の貨物支線の終点であった。大阪市中央卸売市場本場は1931年(昭和6年)3月に整備を完了した。1930年(昭和5年)8月に着工し、軌道総延長4.8 kmの線路を整備し、1931年(昭和6年)11月8日に開通した。1953年(昭和28年)にこの市場への路線の途中から分岐する形で、三菱製紙への専用線が敷設された。1961年(昭和36年)4月25日に、城東線・西成線の一部に新規建設区間を合わせて大阪環状線が形成され、これにより当駅も大阪環状線の貨物支線上の駅となった。トラックの普及や高速道路網の整備などのため取扱量が減少、1985年(昭和60年)3月まで構内側線扱いでの使用が行われたが廃止となった。
2016年05月吉日 名羽線は羽幌駅と、宗谷本線名寄駅間には、苫前炭田が産出する石炭の輸送や、沿線の森林開発などを目的として企図された名羽線計画があったが、結局開通することはなかった。改正鉄道敷設法別表第143号のうち、名雨線として開業した区間をのぞく朱鞠内 - 羽幌間については、名羽線(めいうせん)として1962年に着工された。なお、着工に先立つ1941年に羽幌炭礦鉄道羽幌線に接続して開業した築別 - 曙 - 築別炭礦間のうち、築別 - 曙間が予定線に並行しており、残りの朱鞠内 - 曙間が工事区間である。国鉄再建法の施行により1980年に工事凍結。沿線の産業も衰え、接続する両端の路線が特定地方交通線に指定されることを踏まえると開業しても輸送はほとんど見込めないため、北海道や沿線自治体を含め、引き受ける事業者がなく、完成していた鉄道施設は放置された。
2016年05月吉日 三井鉱山奈井江専用鉄道は、北海道空知支庁管内奈井江町の日本国有鉄道(国鉄)函館本線奈井江駅から、東方の東奈井江までの10.0kmを結んでいた三井鉱山の専用鉄道で、最盛期年間45万トンの石炭を輸送したが 、同炭鉱の閉山に伴い1968年(昭和43年)9月30日に廃止された。同系列の三井芦別鉄道と関係が深く、C11形やかつての国鉄東海道本線の花形機8850形などが入線し石炭輸送に活躍した。また、通勤・通学客輸送のため、客車の運行も行なわれた。
2016年05月吉日 住友奈井江砿専用線:1940年(昭和15年)4月奈井江駅より住友鉱業奈井江砿選炭場へ専用線1113m敷設。1963年(昭和38年)11月30日住友石炭鉱業奈井江砿、子会社の大日興産株式会社へ譲渡。1970年(昭和45年)5月大日興産奈井江砿(旧・住友奈井江砿)専用線廃止。1971年(昭和46年)10月 奔別砿・歌志内砿閉山、赤平砿一山体制となる。
2016年05月吉日 歌志内線は、日本国有鉄道(国鉄)、および北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道砂川市(空知支庁管内)の砂川駅で函館本線から分岐し、歌志内市の歌志内駅までを結んでいた。国鉄再建法の施行により第2次特定地方交通線に指定され、1988年(昭和63年)4月25日をもって全線廃止となった。沿線の炭鉱から産出される石炭の積み出しのため、1891年(明治24年)に北海道炭礦鉄道の手で開業した。1906年(明治39年)には鉄道国有法により買収・国有化され、官設鉄道となる。1982年度の営業係数は394だった。また、終点の歌志内駅から根室本線の茂尻駅もしくは平岸駅まで延伸する構想もあった。
2016年05月吉日 函館本線上砂川支線は、北海道砂川市の砂川駅と空知郡上砂川町の上砂川駅を結んでいた北海道旅客鉄道(JR北海道)函館本線の支線の通称である。当初は、三井鉱山合名会社が保有する三井砂川炭鉱からの石炭輸送を行うために、三井側が土地を鉄道院へ寄付し、なおかつ三井側の資金により鉄道院が敷設した国鉄所属の専用線であり、1917年(大正6年)7月に鉄道院よりこの条件で敷設許可された。1926年(大正15年)に旅客扱いを始めるにあたり函館本線に組み込まれた。上砂川支線は「函館本線の一部」として輸送密度が計算されたため、特定地方交通線はおろか地方交通線にも指定されず、幹線として存置された。JR発足後、炭鉱の閉山の影響も受けて廃線となった。支線とはいえ、JR北海道発足以来初の「幹線」廃止となった。
2016年05月吉日 砂川砂利岐線:1909年(明治42年)砂利岐線敷設。枕木の防腐処理工場(大正時代初頭まで)や枕木製造の木工場、軌道用の砂利採取場(昭和37年まで)を抱え、鉄道敷設に欠かせない資材供給の拠点でもあった。特に中国大陸へ進出していた昭和の初めから終戦までは国内のみならず満州や中国の鉄道用に大量の枕木が生産発送されて、町中を木材の匂いが覆い、石炭よりも木材の町としての印象が大きかった。1963年(昭和38年)砂利岐線952m撤去。
2016年05月吉日 東洋高圧工業専用線:1939年(昭和14年)10月15日東洋高圧工業北海道工業所起工式。昭和16年完成予定であったが戦時下で建設遅延。1942年(昭和17年)2月10日東洋高圧工業専用線2.1km敷設使用開始に伴い、現在地に豊沼信号場(2代)開設。専用線発着貨物の取扱いを開始。東洋高圧工業の通勤者のために朝夕2便のみ停車客扱。1946年(昭和21年)4月東洋高圧工業北海道工業所生産開始。1968年(昭和43年)10月東洋高圧工業が三井化学工業を吸収合併し、三井東圧化学株式会社に商号変更。1990年(平成2年)4月1日日本貨物鉄道の駅が廃止され、貨物の取扱いが終了。三井東圧肥料砂川工場へ続く専用線もこの時点で廃止となった。
2016年04月吉日 丸山水力専用鉄道は、かつて岐阜県加茂郡八百津町と可児郡御嵩町の境の、木曽川丸山ダム建設のために敷設された、関西電力の専用鉄道である。木曽川に丸山ダム建設が計画された際、国鉄太多線広見駅(現・可児駅)から東美鉄道(後に名古屋鉄道に合併)の広見線、八百津線を経由して資材を運搬することとなり、八百津線の終点である八百津駅から工事現場まで延長線が建設された。これが丸山水力発電所工事用専用鉄道、すなわち、丸山水力専用鉄道である。八百津 - 錦織間を13分で結び1日8往復(但し貨車なき場合は運休)最盛期の1953年3月から10月は月1万トン(貨車数700 - 800)を超え運転回数は140-150回となった。八百津駅 - 錦織駅間は名古屋鉄道が運行し、旅客(工事関係者のみ)運行も行なっていた。
2016年04月吉日 名鉄八百津線は、岐阜県可児市の明智駅から岐阜県加茂郡八百津町の八百津駅までを結んでいた、名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。かつて八百津支線(やおつしせん)と称していた時期があり、八百津支線と呼称される場合は広見線の支線として扱われた。運賃計算区分はC(運賃計算に用いる距離は営業キロの1.25倍)。広見線から分岐し、蘇水峡や丸山ダムなどの景勝地を控えた八百津町まで木曽川に沿って結んでいた。2001年10月1日に全線廃止。1984年に広見線とともに富士重工のレールバスの試運転が行われ、名鉄が閑散区間合理化のためこれを採用。同年八百津線は電気運転を廃止してレールバス運転に切り替え、その直後から架線などの電化設備は撤去された。
2016年04月吉日 有馬線とは、かつて兵庫県有馬郡三輪町(現三田市)の三田駅から同郡有馬町(現神戸市北区)の有馬駅までを結んでいた日本の国有鉄道(鉄道省)の鉄道路線である。1943年に休止(実質は廃止)された。古くからの温泉街である有馬温泉に初めて乗り入れた鉄道である。1943年、太平洋戦争が激しくなると、神戸有馬電気鉄道と並行していることや、温泉地への行楽路線であることもあって、不要不急路線として運行休止となり、鉄道施設等は撤去され、篠山で産出する製鉄用のマンガンなどの軍需物資輸送を目的に敷設が計画された、国鉄篠山線(1972年廃止)に転用された。その後運転が再開されることなく、事実上廃止のまま現在に至る。正式に廃止手続きがなされたという記録はなく、いつ廃止になったのか、または現在も休止線のままなのかは不明である。
2016年03月吉日 沖縄県営鉄道糸満線は、現在の沖縄県那覇市にあった国場駅と、糸満市にあった糸満駅を結んでいた、沖縄県営鉄道の鉄道路線。1923年(大正12年)に県営鉄道3番目の路線として開業したが、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)3月に運行を停止。沖縄戦で線路施設が破壊され、そのまま消滅した。那覇から糸満までは直線距離だと約10km位であるが、糸満線は東に大きく迂回する経路をとっている。また、山川駅 - 稲嶺駅間では当時の有力者であった大城幸之一という人物が自分の出身地へ線路を曲げたため、南から北へわざわざ戻るような軌道の敷き方がされていた。このカーブは「幸之一カーブ」と呼ばれた。終点の糸満駅は外地を除くと日本最南端の駅であった。
2016年03月吉日 日本製紙江津工場専用線:日本製紙江津工場へ向かう、苛性ソーダ(南延岡駅発送)や濃硫酸(幸崎駅発送)が到着していた。江津駅3番線の外側に多くの側線が敷設され、広大な構内だった。そこから日本製紙ケミカル江津事業所(旧・日本製紙江津工場)へ専用線が延びていて、1番線と2番線の間には中線もあったが現在はすべて撤去されており、発生した空き地の向こうに三江線の0キロポストが取り残されている。1997年(平成9年)3月22日 - 貨物列車の設定廃止。1951年(昭和26年)6月3日島根化学工業を合併、山陽パルプ江津工場発足。1972年(昭和47年)3月31日山陽パルプと国策パルプ工業が合併、山陽国策パルプ株式会社に社名変更。1993年(平成5年)4月1日十條製紙が山陽国策パルプと合併、日本製紙株式会社に社名変更。
2016年03月吉日 阪神尼崎海岸線は、かつて兵庫県尼崎市の出屋敷から東浜までを結んでいた阪神電気鉄道の鉄道路線。「海岸線」と呼称している文献もある。また東浜まで路線があった頃は「東浜線」と呼称していたこともあった。1929年(昭和4年)4月に開業。尼崎臨海工業地帯への足として運行。全線単線ながら、軌道敷は複線分確保されていた。車両は当初阪神本線の車両が入っていたが、3011形に始まる大型車の導入により1950年代後半にそれまで当線で使われていた両運転台の701形が他車に先駆け廃車の対象となったことから、国道線の71形がパンタグラフ取り付けや尾灯の取り換えなど小規模改造の上投入され廃線まで走った。1951年(昭和26年)7月19日尼崎海岸線の高洲 - 東浜間(0.7km)が運転休止。1962年(昭和37年)12月1日国道43号(第二阪神国道)建設にあたり尼崎海岸線全線(1.0km)廃止。
2016年03月吉日 阪神武庫川線は、武庫川団地となっている西宮市高須町にあった軍需工場、川西航空機(現・新明和工業)への従業員および資材輸送のために建設された。廃止された区間のうち、武庫川 - 武庫大橋間1.5kmは、本線との合流のための引き上げ線の部分とその先の100mほどの敷地を除いて民間に売却され、駐車場や住宅となっているが、住宅が武庫川沿いに細長く均一に連続している状態から、往時の軌道敷の跡を想像することもできる。武庫大橋 - 西ノ宮間は、甲子園口駅東方の東海道本線(JR神戸線)との合流部であった場所までは空き地が目立つが、その合流部には阪神園芸所有の建物が建てられていた。現在は取り壊され、その跡地に分譲マンションが建っている。また、甲子園口駅では、武庫川線の廃線跡が下り外側線に転用され、内側線には折り返し設備が設けられている。
2016年03月吉日
2014年08月吉日
東塩尻信号場は、かつて長野県塩尻市に存在した日本国有鉄道(国鉄)中央本線の信号場である。電報略号は、ヒリ。1906年(明治39年)6月11日の小野 - 塩尻間開通後、1939年(昭和14年)に輸送力増強のためスイッチバック式の信号場を設置した。設置から10年後に、東塩尻地区の住民の利便性をはかるため、信号場のまま仮乗降場扱いで旅客扱いも行うようになり、信号場ながら乗車券の発売も行っていた。ただし、営業キロの表示は無く、「東塩尻から」ではなく、塩尻方へは小野駅からの扱いだった。1983年(昭和58年)7月、みどり湖(塩嶺トンネル)経由の新ルート開業、在来区間(辰野経由)の支線化に伴い、信号所の北東の新線上に開業したみどり湖駅にその役割を譲り同年10月に廃止された。
2016年03月吉日
2016年01月吉日
名古屋港線は、日本貨物鉄道(JR貨物)が保有する山王信号場 - 名古屋港駅間の東海道本線貨物支線の通称である。東港(貨物)線とも呼ばれる。名古屋港周辺に建設された貨物支線のうち、最も古い歴史を持つのがこの路線である。1911年(明治44年)に名古屋駅を起点として、名古屋港で船との提携による貨物輸送を行うために建設された。後には、名古屋市場駅(名古屋市中央卸売市場への輸送)への貨物支線や堀川口駅までの延伸もなされ、昭和半ばまで貨物輸送で賑わいを見せることになった。三井倉庫や大日本木材防腐名古屋工場、住友軽金属工業名古屋製造所への専用線も存在した。なお、大日本木材防腐線と三井倉庫線は、当駅廃止後の1983年(昭和58年)ごろまで名古屋港駅分岐扱いで存続していた。
2016年02月吉日 加悦鉄道は京都府与謝郡野田川町(現・与謝野町)の丹後山田駅(現・京都丹後鉄道宮津線与謝野駅)から、同郡加悦町(現・与謝野町)の加悦駅までを結んでいた私鉄である。1985年(昭和60年)5月1日に全線が廃止された。1985年(昭和60年)3月14日の国鉄ダイヤ改正で宮津線の貨物輸送が廃止され、同線でのニッケル鉱輸送が不可能となったため、丹後山田 - 大江工場間の専用線も廃止を余儀なくされた。これにより、鉄道収入の6割を占めていた専用線の輸送業務委託料が失われ、赤字額の大幅な増大が見込まれたため、同年5月1日に全線が廃止された。
2016年02月吉日 篠山線は、かつて兵庫県多紀郡丹南町(現・篠山市)の篠山口駅から同郡多紀町(現・篠山市)の福住駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。1972年に廃止された。太平洋戦争中、丹波地方で産出されるマンガンや硅石輸送と、海沿いを通るため海からの攻撃が懸念された山陽本線のバイパスとして福知山線の篠山駅(現・篠山口駅)と山陰本線の園部駅を結ぶ目的(改正鉄道敷設法別表第78号)で建設された。1944年に篠山口駅 - 福住駅間が開業し、同時に1913年から篠山駅と篠山町(当時)市街地を結んでいた篠山鉄道が廃止された。1968年に赤字83線に指定され沿線住民の反対にあったものの1972年に全線が廃止された。
2016年02月吉日 篠山鉄道は、かつて兵庫県多紀郡味間村(丹南町を経て、現在の篠山市)と同郡篠山町(同)の間を結んでいた鉄道路線、およびその運営会社である。国鉄篠山駅(現在の篠山口駅)が、篠山町の中心市街地から遠く離れた場所に位置したため、同駅と中心市街地を結ぶ交通機関として建設、1915年(大正4年)に開通した。しかし戦時中の1944年(昭和19年)、同じく篠山口駅を起点として篠山町を通る国鉄篠山線が開通したのと同時に廃止された。
2016年02月吉日 北丹鉄道は、かつて京都府福知山市の福知山駅から北へ河守駅までの路線を運営していた鉄道会社である。京都府北部、福知山市の福知山駅から加佐郡大江町(現在は福知山市の一部)の河守駅(現在の京都丹後鉄道宮福線の大江駅近傍)までを由良川沿いに結ぶ鉄道を運営していた。1969年(昭和44年)に沿線の河守鉱山が閉山したことによって北丹鉄道の貨物輸送は激減し、経営が成り立たなくなり、宮守線を待つことなく1971年(昭和46年)3月2日に由良川治水事業を名目に運行休止、程なくバス事業も営業休止に追い込まれた。1974年(昭和49年)に鉄道路線が正式に廃止されるとともに会社は解散、バス事業については京都交通株式会社に譲渡している。
2016年02月吉日 中舞鶴線は、日本国有鉄道が運営していた鉄道路線の通称。線路名称上は舞鶴線の支線であった。京都府舞鶴市にある舞鶴線東舞鶴駅からスイッチバックして入線し、同市の中舞鶴駅までを結ぶ路線であった。中舞鶴線の建設目的は、舞鶴鎮守府の兵員ならびに軍需資材の輸送を主な使命とし、舞鶴港線とともに国策として建設され、1919年(大正8年)に国鉄線として営業を開始した。戦後も特殊貨物輸送で賑わいを見せたが、その後に国道27号線が整備され、輸送量は減少、国鉄も鉄道の使命は終わったものとし、1972年(昭和47年)に廃止された。廃止当時の営業係数は934だった。旅客列車では福知山機関区所属のキハ17形気動車2両編成が使用され、宮津線と共通運用が組まれていた。貨物列車では西舞鶴機関区所属のC12形蒸気機関車が貨物列車を牽引していた。
2016年02月吉日 舞鶴港線は、京都府舞鶴市の西舞鶴駅から舞鶴港駅に至る日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線の通称。海舞鶴線とも呼ばれた。線路名称上は舞鶴線の支線であった。舞鶴港線は日本海側でも有数の良港をもち、また京阪神地区に近く、国際商業港として発展していた京都府舞鶴市にある舞鶴港を、鉄道網に組み込むために国鉄が1904年(明治37年)に建設した。国鉄は当初は大阪から舞鶴までの鉄道敷設を目指していた阪鶴鉄道に貸し出したが、1907年(明治40年)に阪鶴鉄道そのものを買収し、舞鶴港線は国鉄線となった。当初は貨物線として開業したが、1913年(大正2年)4月のダイヤ改正からは旅客営業も開始し、舞鶴市民の足としても活躍した。しかし高速網の発達や、鉄道貨物輸送の衰退により、舞鶴港線もその役割を終え、1985年(昭和60年)に廃止された。
2016年02月吉日 日之出化学工業舞鶴工場専用線は西舞鶴駅から一端南下し、Uターンする形で伊佐津川を渡り日之出化学工業舞鶴工場へ続いていた専用線。1950年(昭和25年):舞鶴工場を開設。日之出化学工業株式会社は、京都府舞鶴市に本社を置く日本の企業。1949年(昭和24年)、当時の国家的な最重要課題であった食糧増産政策に基づき、燐酸質肥料の一種である熔成燐酸肥料(通称「ようりん」)メーカーとして東京都港区に設立された。1970年(昭和45年)には販売等に関して三井グループの化学企業である電気化学工業(現・デンカ)と業務提携を行うが、現在に至るまで「ようりん」のトップメーカーとして知られる。なお、1985年(昭和60年)には本社機能を主力工場がある舞鶴市へと移転した。1984年(昭和59年)1月21日:貨物取扱廃止。
2016年02月吉日 日本板硝子舞鶴工場専用線は第二次世界大戦中には、第三海軍火薬廠鉄道側線(6.8 km)が火薬廠と松尾寺駅との間に敷設されていた。この側線は戦後連合軍に接収され、接収解除後は舞鶴市に譲渡されたが、1959年(昭和34年)4月以降は火薬廠跡の臨海部に誘致された日本板硝子舞鶴工場専用線となり、同工場の製品はこの側線を利用して松尾寺駅から送り出されていた。ピーク時の1968年(昭和43年)の松尾寺駅の貨物取扱量は板ガラスだけでも20万3,000トンに達し、福知山鉄道管理局管内で最大の貨物取扱駅であった。しかし専用線はのちに廃止され、廃線跡は1994年(平成6年)に自転車歩行者専用道として整備されている。1997年(平成9年)3月22日貨物列車の設定が廃止される。
2016年01月吉日 宮崎交通線は、かつて宮崎県宮崎市の南宮崎駅から内海駅までを結んでいた、宮崎交通が運営していた鉄道路線の通称である。日南線の前身にあたる。当初、宮崎軽便鉄道と称し、のち宮崎鉄道となった。陸路が不便な宮崎市の外港と目され、定期航路の寄港地であった内海港への連絡鉄道として大正時代初期に開業したが、内海港が堆砂しやすいなど港湾条件が悪かったことや、開業から10年後には国鉄日豊線が開通して海運からの輸送転移が生じたことから、経営難に苦しんだ。1962年(昭和37年)に全線が廃止され、跡地は大半が日本国有鉄道(国鉄)日南線の建設に利用された。このとき、田吉駅(初代)、飛行場駅、江佐原駅は廃止、白浜駅、内海駅(初代)はルート変更により放棄された。
2016年02月吉日 常磐共同火力発電所専用線:植田駅を出て常磐線と併走し、駅北側の渋川を越えた場所にあった石塚操車所よりスイッチバックをする形で駅東側にある常磐共同火力勿来発電所の石炭貯蔵施設まで専用線があり、主に南中郷駅や湯本駅など発着の常磐炭鉱で産出した石炭や発電所から出る石炭灰(フライアッシュ)の輸送を行っていた。その後、常磐炭鉱の相次ぐ閉鎖によって産出量が激減したうえに海上輸送に転換されたため1970年代前半からは石炭灰(フライアッシュ)のみの輸送を行っていたが、これもトラック輸送に切り替えられたため1981年(昭和56年)貨物列車の設定と専用線発着の車扱貨物の取扱を廃止。
2016年01月吉日 妻線は、かつて宮崎県宮崎郡佐土原町(現・宮崎市)の佐土原駅と同県西都市の杉安駅とを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。妻線は、宮崎駅に最初に乗り入れた鉄道である。宮崎駅へは1916年10月に宮崎線が到達、県営鉄道も1917年9月に買収・国有化され、妻軽便線(つまけいべんせん。1922年に軽便鉄道法廃止により妻線に改称)となった。1920年9月には、宮崎本線の高鍋延長にともない、広瀬駅を移転して分岐駅とし、宮崎 - 広瀬間を妻軽便線から分離して宮崎本線に編入した。1922年8月には妻 - 杉安間が開業し、全通した。1944年には、末端部の妻 - 杉安間が不要不急線として休止となったが、1947年に復活している。1980年の国鉄再建法施行にともない第1次特定地方交通線に指定され、1984年に全線が廃止された。
2016年01月吉日 油津線:1913年(大正2年)8月18日宮崎県営鉄道飫肥線 飫肥駅 - 油津駅(3.9M→6.4km)開業。油津駅(初代)、一里松駅、飫肥(初代)駅新設。1935年(昭和10年)7月1日に飫肥線と同線から分岐していた宮崎県営軌道線が国有化され国鉄油津線となる。油津線 飫肥駅 - 油津駅(6.8km)。1941年(昭和16年)10月28日油津線 飫肥駅 - 元油津駅(-6.8km)廃止。一部改築され日本国有鉄道・九州旅客鉄道日南線の一部となった。
2016年01月吉日 油津港貨物支線:油津港貨物支線は油津駅から元油津駅の油津港まで伸びていた貨物支線。1941年(昭和16年)10月28日油津駅 - 北郷間開業に伴い油津駅 - 元油津間貨物支線開業。港の南東部にあり日南市内の王子製紙工場で使用する木材チップを荷揚げ・保管するための集積、木材チップ及び紙製品は油津港で取り扱う貨物の運搬を行っていた。1960年(昭和35年)7月25日油津駅 - 元油津間貨物支線廃止。
2016年01月吉日 宮崎リニア実験線:リニア実験線は日本における磁気浮上式鉄道(超電導リニア)の実験用線路である。鉄道総合技術研究所(鉄道総研)と東海旅客鉄道(JR東海)が開発している超電導リニアの研究施設として宮崎県にリニア実験線が建設された。国鉄時代の1977年(昭和52年)に開設された宮崎実験線は、1996年(平成8年)に走行実験を終了し、その後はエアロトレインの実験や大規模な太陽光発電に使用されている。実験線は全線が単線で、終点付近に半径1万メートルというわずかな曲線があるだけでほぼ直線で、勾配も日豊本線を横断する部分に5 パーミルとわずかにあるだけである。この実験線でML500を用いて速度試験が行われ、1979年(昭和54年)12月に無人運転で517 km/hの速度記録を達成した。
2016年01月吉日 細島線は、宮崎県日向市の日向市駅から細島駅の間を結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。日向市駅(当線開業当時は富高駅)から東進し、現在の日向市東端部の海沿いにある細島港へ至る路線として建設され、宮崎本線(現・日豊本線)美々津 - 富高間と同時に開業した。戦後には区間内に新駅(伊勢ヶ浜駅)の設置も行われたが、1972年に旅客営業を廃止して日豊本線の貨物支線となった。国鉄分割民営化により日本貨物鉄道(JR貨物)に承継されたが、1989年に休止されたのち廃止となった。
2016年01月吉日 日本専売公社宮崎倉庫専用線:日本専売公社宮崎倉庫専用線は宮崎貨物駅から日本専売公社宮崎倉庫まで伸びていた専用線である。宮崎駅は1945年(昭和20年)8月12日に空襲を受けて被災したが、1950年(昭和25年)に建て替えられて本復旧した。この建物は昭和末期まで用いられた。1986年(昭和61年)11月1日 貨物取扱が廃止され、宮崎コンテナセンターが構内に設置される。延岡駅 - 宮崎コンテナセンター間でトラック便を運行。宮崎駅と線路が東西方向の交通を遮断している状態を解消するために高架化工事が1988年(昭和63年)10月に着工され、1993年(平成5年)10月1日に新駅舎が完成している。日本専売公社宮崎倉庫跡はガーデンテラス宮崎ホテル&リゾートになっている。
2016年01月吉日 宝酒造高鍋工場引き込み線:高鍋駅から宝酒造高鍋工場への引き込み線が存在した。1952(昭和27)年、官営アルコール工場の民間払い下げが実施され、入札の結果、TaKaRaは宮崎の高鍋工場(現黒壁蔵)を落札し、生産基盤はさらに拡充しました。黒壁蔵は、業界トップクラスの二万数千樽にも及ぶ貯蔵樽を保有し、百種類を超える焼酎原酒のブレンドで築き上げた、熟成技術や精製・ブレンド技術等、宝酒造が永年培ってきた焼酎の製造技術を集結させた南九州の焼酎蔵です。名称は、樽から揮発するアルコール分に集まり、日向灘からのミネラル豊富な潮風によって繁殖した、酒を好む微生物により、黒く染まった壁に由来しております。日向灘に抱かれた自然豊かな環境の中にある黒壁蔵で「熟」は、熟成の時を刻んでいます。
2016年01月吉日 近鉄志摩線旧線(白木駅 - 五知駅):志摩線は、三重県鳥羽市の鳥羽駅から三重県志摩市阿児町の賢島駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。海沿いの路線だが、海の見える区間は鳥羽駅や賢島駅付近のごくわずかであり、大半は山間を走る。そのような地形上の事情に加えて元々志摩電気鉄道という小私鉄のローカル線として開業したため、至る所に急勾配や急カーブがあり、特急と言えども高速走行の可能な区間は非常に限られているが、線形改良された白木駅 - 五知駅間の青峰トンネル下り線では特急の130km/h運転が許容されている。1993年(平成5年)9月11日:加茂駅 - 五知駅間複線化、青峰トンネル完成し白木駅 - 五知駅間の旧線廃止。
2016年01月吉日 近鉄志摩線穴川旧線:志摩線は、三重県鳥羽市の鳥羽駅から三重県志摩市阿児町の賢島駅までを結ぶ近畿日本鉄道(近鉄)の鉄道路線。穴川駅は、三重県志摩市磯部町穴川にある、近畿日本鉄道(近鉄)志摩線の駅で、1929年(昭和4年)7月23日志摩電気鉄道鳥羽 - 真珠港(現在は廃止)間開通時に開業。1958年(昭和33年)4月駅隣接地から近鉄志摩観光汽船が渡鹿野航路(穴川 - 的矢 - 三ヶ所 - 渡鹿野)の運航を開始。1970年(昭和45年)3月1日標準軌化に際し、約100m賢島寄りに穴川駅が移転して営業再開。1993年(平成5年)6月1日複線化により旧線を廃止し、新線は高架化。新駅の穴川駅賢島方に隣接して穴川トンネル開通。
2016年01月吉日 近鉄志摩線(賢島駅 - 真珠港駅):真珠港駅は志摩電気鉄道の路線計画には入っていなかった。着工直前までは3つ手前の鵜方浜(鵜方駅)を終点とする計画であったが、目黒蒲田電鉄幹部に参宮客を英虞湾まで誘致しなければ利益が見込めないと指摘され、重役会議で英虞湾岸のかしこ島の真珠港駅まで延長することとなった。当時のかしこ島は真珠養殖場はあるものの無人島であったが、鉄道駅開設を祝し土地が寄付されたことから観光地としての開発が始まり、賢島と漢字表記されるようになった。1929年(昭和4年)7月23日 - 志摩電気鉄道鳥羽 - 真珠港間開業。1965年(昭和40年)4月1日近畿日本鉄道との合併により同社の駅となる。1969年(昭和44年)7月1日 賢島駅 - 真珠港間廃止。
2016年01月吉日 南海和歌山港線(和歌山港駅 - 水軒駅):和歌山港線は、和歌山県和歌山市の和歌山市駅から和歌山港駅までを結ぶ、南海電気鉄道の鉄道路線。和歌山港駅で南海フェリーの四国航路「南海四国ライン」に連絡しており、大阪方面から徳島への連絡線の役目を果たしている。かつては沿線利用も考慮され、途中駅として久保町駅、築地橋駅、築港町駅があったが、いずれも一日の平均乗降客数が100人以下の無人駅だったため2005年(平成17年)11月27日に廃止、また終着駅だった水軒駅も2002年(平成14年)5月26日に廃止された。
2016年01月吉日 本州化学和歌山工場専用線:本州化学工業株式会社(ほんしゅうかがくこうぎょう、Honshu Chemical Industry Co.,Ltd.)は、液晶ポリマー用ビフェノール、フォトレジスト材料、ビタミンE原料等の製造を行う日本の化学会社である。三井グループと関係が深い。宮前駅 - 紀三井寺駅間には本州化学和歌山工場専用線があった。
2016年01月吉日 仙北鉄道登米線:仙北鉄道は、かつて宮城県栗原郡瀬峰町(現・栗原市)の瀬峰駅と同県登米郡登米町(現・登米市)の登米駅、瀬峰駅と栗原郡築館町(現・栗原市)の築館駅を結んでいた、2つの路線からなる軽便鉄道である。1968年に全線が廃止された。蒸気動力で開業したが、1934年からは旅客輸送にガソリンカーを導入。戦後はガソリンカーのディーゼル化と共に、ディーゼル機関車の導入を早くから進め、1953年に蒸気機関車を追放する無煙化と完全ディーゼル化を終えている。先進的かつ意欲的な措置であった。
2016年01月吉日 仙北鉄道築館線:仙北鉄道は、かつて宮城県栗原郡瀬峰町(現・栗原市)の瀬峰駅と同県登米郡登米町(現・登米市)の登米駅、瀬峰駅と栗原郡築館町(現・栗原市)の築館駅を結んでいた、2つの路線からなる軽便鉄道である。1968年に全線が廃止された。葉ノ木山隧道 は、日本の軽便鉄道では珍しく長いトンネルで、レンガ造りで全長は243mに達した。
2015年11月吉日 尾小屋鉄道は、石川県小松市の新小松駅から同市尾小屋駅までを結んでいた軽便鉄道である。尾小屋鉄道は、尾小屋鉱山の鉱山鉄道として建設された。尾小屋鉱山は、17世紀末 - 18世紀初頭に金山として開発された鉱山だが、その後廃鉱となっていた。明治時代になってから銅山として改めて注目され、細々とした採掘の末、1886年(明治19年)の新鉱脈の発見から大きく発展した。閉山は1971年(昭和46年)。尾小屋鉄道は、この尾小屋鉱山の鉱山鉄道として1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて開通した。全線非電化で762mm軌間を採用した軽便鉄道であった。当鉄道を経営していた尾小屋鉄道株式会社は、鉄道廃止後小松バス株式会社と社名を変更し存続している。
2015年11月吉日 北陸鉄道小松線は、石川県小松市内の小松駅 - 鵜川遊泉寺駅間を結んでいた北陸鉄道の鉄道路線。モータリゼーションの進行による利用者の大幅な減少により北陸鉄道の経営合理化の対象となり、1986年(昭和61年)5月31日限りで全線廃線となった。小松線の前身となる白山電気鉄道(免許時白山鉄道)は1926年(大正15年)3月に能美郡小松町-同郡中海間の敷設免許状が下付されたことに始まる。やがて戦時体制になり鵜川遊泉寺近くの洞窟に海軍軍需部の施設や中島飛行機の疎開工場が建設された。戦後は通勤・通学の足として1967年(昭和42年)には約212万6000人の利用客があった。しかし以降は並行道路の整備により利用客は急減。1986年(昭和61年)5月31日限りで小松線の運行を終了することになった。
2015年11月吉日 東洋紡績敦賀工場専用線:JR貨物敦賀駅の最後まで使用されていた専用線は、東洋紡へ続くものであった。この路線は、浮島町駅からJR貨物敦賀駅まで輸送されてきたエチレングリコールを輸送するために使用されていたが、1996年頃に廃止された。また、当駅東側にあるJX金属敦賀リサイクル(当時は日鉱亜鉛敦賀製錬所)へ続く専用線もあり、黒部駅へ輸送する亜鉛焼鉱の搬出に使用されていたが、亜鉛製錬終了に伴い1995年10月頃に廃止された。なお、日鉱亜鉛から東洋紡績へ、といった同一駅構内間の輸送が行われていたこともあった。
2015年11月吉日 日本専売公社仙台工場専用線:日本専売公社(にっぽんせんばいこうしゃ)は、1949年(昭和24年)に大蔵省の外局である専売局を大蔵省から分離独立させて発足した特殊法人であり、公共企業体である。1985年(昭和60年)に日本たばこ産業株式会社 (JT) が設立され解散した。いわゆる「三公社五現業」の一つ。単に専売公社とも呼ばれた。国鉄線から別れ、途中から分岐する仙台市ガス局 原町工場専用線の分岐点から専用線が始まる。 現 イオン幸町店裏に0qポストがあった。2003年3月仙台工場を閉鎖。
2015年10月吉日 三菱鉱業美唄鉄道線:は、北海道美唄市の美唄駅から三菱美唄炭鉱の事業所が存在した常盤台駅間を結んでいた三菱鉱業運営の鉄道路線である。1972年(昭和47年)に廃止された。炭鉱の隆盛により輸送量も増加したが、1955年(昭和30年)に石炭鉱業合理化臨時措置法が施行されると閉山や合理化が始まった。三菱鉱業美唄礦業所も縮小・合理化が進められ、1965年(昭和40年)には美唄炭礦株式会社として三菱鉱業より分離した。さらに、二度にわたる災害に見舞われた常盤坑を1970年(昭和45年)7月に閉鎖し、竪砿のみの単独操業となったことから経営が悪化、事業の効率化のため1971年(昭和46年)7月に同資本系列の三菱大夕張炭礦に吸収合併して同社美唄鉱業所となったが、翌1972年(昭和47年)4月には閉山、美唄鉄道線も5月31日限りで廃止された。
2015年10月吉日 函館本線南美唄支線は、1931年(昭和6年)から1973年(昭和48年)まで使用された、北海道空知支庁管内美唄市の美唄駅と南美唄駅を結ぶ日本国有鉄道(国鉄、当時)函館本線の支線である。石炭の輸送を目的に美唄駅から三井美唄炭鉱に引き込んだ、営業距離3.0kmの鉄道路線であった。石炭輸送手段として国鉄側に専用線の敷設を申請、1931年(昭和6年)12月1日に美唄から三井美唄炭鉱の膝元である南美唄を結ぶ貨物線の営業を開始した。その後、石炭需要の高まりとともに周辺人口が増加したことから、1944年(昭和19年)1月25日より旅客営業を開始した。三井美唄炭鉱の子会社である三美鉱業が1973年(昭和48年)に閉山したことにあわせ、同年9月9日に貨物営業も廃止され、廃線となった。
2015年09月吉日 札沼線廃止区間(新十津川駅 - 石狩沼田駅):札沼線(さっしょうせん)は、北海道札幌市中央区の桑園駅から北海道樺戸郡新十津川町の新十津川駅までを結ぶ、北海道旅客鉄道(JR北海道)の鉄道路線(地方交通線)である。「学園都市線」(がくえんとしせん)という愛称が付けられている。1968年(昭和43年)には「赤字83線」に廃止すべき路線としてその名をあげられ、その取組みの中で最初の開業区間である新十津川駅 - 石狩沼田駅間が1972年(昭和47年)に廃止された。この時の廃止区間は34.9kmで、赤字83線における1路線の廃止距離としては最長である。廃止区間の線路跡は農場の整備等の区画整理によってほとんど痕跡をとどめておらず、わずかに一部の駅の周辺に面影をしのぶのみとなっている。
2015年09月吉日 根室第二飛行場専用線:根室第二飛行場とは、根室市牧の内に存在した大日本帝国海軍の軍用飛行場。陸上飛行場であり、1200m×80mのコンクリート滑走路および1200m×80mの西側半分が未完成[1]の転圧滑走路面を持ち、格納庫を6棟、大型無蓋掩体18基、小型無蓋掩体6基及び小型有蓋掩体12基備えていた。根室第一飛行場との弁別を容易にするために根室牧ノ内飛行場と呼ばれることもある。1943年9月1日着工。1945年6月 一部完成、使用開始。1945年8月終戦。戦後は農地となるが、滑走路および掩体の一部は現存している。根室駅から根室港線と分岐し、根室第二飛行場まで線路が延びていた。
2015年09月吉日 留萠鉄道炭砿線は、北海道雨竜郡で鉄道路線を運営していた私鉄。沿線の炭鉱の閉山により、1969年に鉄道路線を休止、1971年に正式に廃止した。炭砿線は北海道雨竜郡沼田町の恵比島駅から同町内の昭和駅を結ぶ17.6kmの路線で、沿線の炭鉱(昭和炭鉱、浅野炭鉱)から産出される石炭を留萌港に輸送する使命を担った。1963年には九州鉱山太刀別炭鉱の開坑に伴い、太刀別駅が積出駅として復活した。 昭和30年代の営業係数が70 - 80代で、貨物は年間約45万トン、旅客は年間約45万人を数えるなど、輸送量は漸増傾向にあったが、1968年12月の第4次石炭政策答申で国内炭鉱の整理統合政策が明確に示されると、中小炭鉱は一気に閉山へとなだれ込み、沿線の炭鉱が消滅して留萠鉄道は存在理由を失った。1969年に営業休止、1971年に全線廃止を実施した。
2015年09月吉日 留萌豊平炭鉱鉄道は日本鉄道旅行地図帳に記載されている留萌本線の峠下駅と恵比島駅間のΩループ手前から分岐している路線を留萌豊平炭鉱鉄道と呼ぶ事にした。日本鉄道旅行地図帳には終点が天塩炭鉱と表記されているが、インターネットで調べても出てこなくて、どうやらその炭鉱はインターネットで調べる限り留萌豊平炭鉱と思われる。その為、留萌豊平炭鉱鉄道と呼ぶ事にしたが、留萌本線の踏切に炭鉱道路との記述があるが、本当に鉄道が通っていたかは定かでは無い。留萌豊平炭鉱をインターネットで調べたら、「大正8年から2年位の間、北炭が留萌炭鉱と採炭したのが始まりで昭和28年4月芦別高根炭鉱(株)、昭和28年10月留萌豊平炭鉱として採炭、昭和30年4月に留萌豊平炭鉱(株)が北炭の子会社として設立、昭和45年3月まで採炭、昭和45年10月に閉山している」との記述があった。
2015年09月吉日 天塩炭礦鉄道は、北海道北西部に鉄道路線を有した民営鉄道である。北海道炭礦汽船(北炭)が天塩炭礦で産出する石炭を運ぶために建設した。同じ留萌炭田に既に留萠鉄道があったため、旧国名の天塩を路線名に用いた。会社設立時は天塩鉄道と称したが、1959年(昭和34年)に改称。1967年(昭和42年)に鉄道路線を廃止し、バス部門を第二会社の天塩鉄道バス(現・てんてつバス)へ引き継いだ。天塩鉄道は、北海道炭礦汽船(北炭)天塩炭礦の石炭を、留萌に建設が予定された北海道人造石油第二工場へ運ぶために敷設されたものである。1967年(昭和42年)4月に両炭礦の採炭が終了すると同時に存在理由を失い、バス事業を新会社に引き継いで鉄道を廃止した。
2015年09月吉日 留萠鉄道臨港線は、留萠港からの石炭・木材の積み出しのために建設された貨物線で、北岸線と南岸線の2路線を有した。この貨物線こそが本鉄道の名称の由来であり、炭砿線の使命を補完するものであった。当初は北岸線のみの鉄道敷設免許を得て旅客貨物営業を目論んだが、留萌港の築港工事に伴って南岸でも石炭荷役を行うことになり、南岸線(旅客貨物営業)を追加した。1934年には北岸線より分岐し古丹浜に至る約1.2kmを着工したが、古丹浜駅設置予定地の土地買収が予定通りに進まず、その手前に設けた仮古丹浜駅で木材を中心とする貨物扱いを行った。臨港線は留萠駅の改良に伴って1941年に買収国有化され、国鉄留萠駅の構内側線となった。列車の運行管理については、開業から買収に至るまで鉄道省に委託されていた。
2015年09月吉日 日本タンニン工業専用線:現在の新富公園になっている場所は、かつての出光興産や共同石油などの油槽所へ続く専用線で、元は戦時中に軍需産業として操業していた日本タンニン工業の工場専用線だったものを工場敷地と共に再利用していた。第七師団が置かれた軍都旭川は、日華事変を境として市政や市民生活のうえに、いろいろな形で戦時体制の影響が強くあらわれるようになり、戦時統制経済のなかで、国策パルプ工業株式会社の旭川工場をはじめ、多くの軍需関係工場が設立された。昭和17(1942)年以降、日本タンニン工業株式会社の旭川工場等多くの軍需関係工場が設立されたが、それは旭川工業にとって大きな転機になったとともに、その後の工業発達を促進する要因となった。
2015年09月吉日 函館本線貨物支線(近文駅 - 旭川大町駅):この路線は、1899年(明治32年)に、日本陸軍第7師団への引込線として建設された。師団専用線、または師団の置かれた鷹栖村から鷹栖専用線と呼ばれたこの引込線は、その後、大正年間から周囲に多くの木工場や道立林業指導所が設置されて、軍用よりもその木材貨物専用線としての性格が既に大きくなっていたが、1950年(昭和25年)になって師団跡地手前までの2.9kmが残されて旭川大町駅が新設され、石炭や木材資源等の貨物支線として利用されるようになった。 その後、貨物駅の北旭川駅の整備が進められていること、当駅が主に扱っていた石炭や木材の需要が減少した事等により、昭和53年10月2日の白紙ダイヤ改正の貨物駅集約による削減対象となって廃止された。
2015年08月吉日 北陸本線旧線(浦本駅-直江津駅):明治時代に建設が開始、開通した糸魚川駅 - 直江津駅間は、フォッサマグナの西縁部にあたり、付近に存在する糸魚川静岡構造線の影響も相まって非常に複雑な地質条件を有する。このため、北陸本線は建設時から地すべり災害に悩まされてきた。浦本駅 - 能生駅間を浦本トンネルと木浦トンネル、能生駅 - 名立駅間を頸城トンネル、名立駅間 - 有間川駅間を名立トンネル、各地すべり土塊の下をくぐるルートが設定された。建設は、多くの破砕帯に直面し難航を極めた。突発的な出水はおろか石油が湧き出した地点もあったという。頸城トンネルをはじめとしたトンネルの工事及び電化複線工事は1966年(昭和41年)3月に着工、1969年(昭和44年)9月29日に供用を開始し旧線は廃止された。
2015年08月吉日 伯備線旧線(豪渓駅 - 美袋駅):伯備線(はくびせん)は、岡山県倉敷市の倉敷駅から新見駅を経て、鳥取県米子市の伯耆大山駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)。倉敷駅 - 新郷駅間は高梁川水系に沿って走行し曲線と急勾配が多い。豪渓駅 - 新見駅間は国道180号とともに高梁川の渓谷を眺める車窓が続く。このうち、井倉駅 - 石蟹駅間は高梁川が最も蛇行する区間で伯備線もその流れに沿って運転されていたが、複線化に伴い経路が変更された。旧線跡は自転車道に転用されている。1925年(大正14年)5月17日宍粟駅(現在の豪渓駅) - 美袋駅間が延伸開業。1970年(昭和45年)9月7日 豪渓駅 - 美袋駅間の複線化に伴い旧線が廃止。
2015年08月吉日
2014年08月吉日
中国稲荷山鋼索鉄道は、岡山県岡山市高松稲荷にある最上稲荷の境内(龍王山)を1944年(昭和19年)まで走っていたケーブルカーである。現在のJR津山線・吉備線を運営していた中国鉄道(現在の中鉄バス)の子会社の路線として、1929年(昭和4年)2月9日に、山下 - 奥ノ院間0.4kmが開業した。中国地方には他にケーブルカーが無かったため、この路線が唯一の存在であった。ケーブル全線の所要時間は4分、運転間隔は20分毎であった。戦時中に不要不急線に指定され、1944年(昭和19年)6月1日に鉄材供出の名目で撤去され、廃止された。戦後に復活計画が浮上し、1961年(昭和36年)に稲荷山観光ケーブルが設立され、同年7月11日に鉄道敷設免許を取得したが、1966年(昭和41年)11月10日に失効し実現しなかった。1925年(大正14年)8月29日 - 備中高松稲荷山鋼索鉄道に対し鉄道免許状下付。
2015年08月吉日 富山港線:元々は富岩鉄道が開業した路線で、その後富山電気鉄道を経て富山地方鉄道富岩線となり、私鉄の戦時買収により国鉄富山港線となった。2006年(平成18年)2月28日まで西日本旅客鉄道(JR西日本)が運営していた鉄道路線(地方交通線)を第三セクター会社の富山ライトレールに移管し路面電車 (LRT) 化した路線で、同年4月29日から富山ライトレールによる営業を開始した。蓮町駅貨車操車場の南側は、北陸本線の富山操車場へ延びる貨物線に接続しており、この線が城川原駅手前まで旅客本線の東側に並び、単線並列区間になっていた。蓮町駅操車場から本線東側に並走し、大広田駅付近にある小野田セメント富山サービスステーションへ続く専用線や、国道415号付近から分岐、西にカーブして県道30号を横断、クラレ富山工場(既に閉鎖)へ至る専用線が存在した。
2015年08月吉日 北陸本線貨物支線(富山操車場−蓮町駅):1958年(昭和33年)4月10日富山港線蓮町駅への貨物支線が開業。蓮町駅貨車操車場の南側は、北陸本線の富山操車場へ延びる貨物線に接続しており、この線が城川原駅手前まで旅客本線の東側に並び、単線並列区間になっていた。蓮町駅操車場から本線東側に並走し、大広田駅付近にある小野田セメント富山サービスステーションへ続く専用線や、国道415号付近から分岐、西にカーブして県道30号を横断、クラレ富山工場(既に閉鎖)へ至る専用線が存在した。1986年(昭和61年)11月1日蓮町駅への貨物支線が廃止。
2015年08月吉日 富山地方鉄道射水線は、かつて富山県の富山市と新湊市(現射水市)を結んでいた鉄道路線。富山から北の四方に至ったのち、富山湾沿いに新湊へ至っていた。一部分は加越能鉄道に譲渡されて現在も万葉線として残っているが、大部分は1980年(昭和55年)3月31日限りで廃止された。放生津潟を開削した富山新港の建設により射水線は分断されることになった。1966年(昭和41年)4月に放生津潟の入り口部分を渡る鉄橋を含めた堀岡駅 - 越ノ潟駅間が廃止となり、高岡側の越ノ潟駅 - 新湊駅間が加越能鉄道に譲渡されて新湊港線となった。分断された堀岡駅 - 越ノ潟駅間には、渡船連絡のために廃止区間上に新港東口駅を設置、堀岡駅 - 新港東口駅を進延して富山県営渡船との連絡を図ったが、乗り換えの不便のため射水線の乗客は6000人/km日から3000人/km日に半減した。
2015年08月吉日 新湊線(しんみなとせん)は、富山県高岡市の能町駅と高岡貨物駅とを結ぶ日本貨物鉄道(JR貨物)の鉄道路線である。貨物支線ではなく、独立した路線名を名乗る唯一のJRの貨物線である。2002年に新湊駅を能町駅側に移転して高岡貨物駅に改称し、以東の路線を廃止した。路線距離も1.7km短縮されて1.9kmとなった。これにより、全線が高岡市内に収まり、路線名にもなっている新湊市(現射水市)には届かなくなった。
2015年08月吉日 明星セメント田海鉱業所専用線:JR青海操車場から南東方向へ分岐し田海川沿いに南下して明星セメント糸魚川工場田海鉱業所へ至る専用線が存在した。明星セメントは1958年5月15日に設立され、2015年で57周年を迎えました。セメントの原料である良質で無尽蔵に近い石灰石大鉱床を背後に持ち、省エネルギーに優れた製造設備と高い技術力で各種セメントを生産し「太平洋セメント」の商標で販売しています。秋田、山形、福島、新潟、富山、石川の各県や長野、岐阜県北部へ専用タンカーおよびトラックにて出荷し、日本海側の重要な生産拠点として太平洋セメントグループの一翼を担っています。
2015年08月吉日 電気化学工業田海工場専用線:糸魚川方の貨車操車場から糸魚川方向へ北陸本線に沿って並走し電気化学工業青海工場田海製造所へ至る路線(通称・田海線)があり、主に化学品の発送が行われていた。電気化学工業株式会社(でんきかがくこうぎょう、英文名:DENKI KAGAKU KOGYO KABUSHIKI KAISHA)は、日本の総合化学品会社。化学肥料・セメントの商標は軍配印。通称は「デンカ」。1984年(昭和59年)2月1日専用線発着を除く車扱貨物の取扱いを廃止。
2015年08月吉日 明星セメント糸魚川工場専用線:1964年(昭和39年) 明星セメント糸魚川工場が操業を開始する。この頃、工場への専用線の運用を開始する。最後まで使用されていた専用線は、明星セメントが保有するものであった。同線は当駅から北陸本線の南に沿って西進、国道148号の高架橋下を通った後、南に方向を変え、明星セメント糸魚川工場へ至っていた。全長1.9kmでセメントの発送に使用されていたが、2003年(平成15年)3月15日限りで廃止された。明星セメントは1958年5月15日に設立され、2015年で57周年を迎えました。セメントの原料である良質で無尽蔵に近い石灰石大鉱床を背後に持ち、省エネルギーに優れた製造設備と高い技術力で各種セメントを生産し「太平洋セメント」の商標で販売しています。
2015年08月吉日 東洋活性白土専用線は工場から国鉄糸魚川駅からの引き込み線の積み換えホームまで敷設されており、その路線長は約700mである。この専用鉄道は1982年に工場が閉鎖されたために、同年10月で廃線となった。東洋活性白土は、新潟県糸魚川市で活性白土と酸性白土を製造販売していた企業である。本社と工場は同所にあった。1982年(昭和57年)10月に経営上の問題により会社は解散し、工場は閉鎖された。東洋活性白土は製品(活性白土)と重油の輸送に専用鉄道を使用し、蒸気機関車(2号機)が牽引する貨物列車を運行していたが、2号機は日本で最後の実用蒸気機関車である。
2015年08月吉日 伯備線ユニチカ専用線:伯備線の総社駅から南進し、ユニチカ総社常盤工場に分岐していた路線。工場設立時から引き込み線が建設された。昭和34年(1959年)2月常盤工場ビニロン紡績工場竣工式。ユニチカ株式会社(英称:Unitika Limited.)は、本店を兵庫県尼崎市 に、本社を大阪市中央区 と東京都中央区 に置く、繊維メーカーである。近年は繊維事業だけでなく高分子事業・機能材事業などにも進出している。三菱東京UFJ銀行系みどり会メンバー。
2015年08月吉日 紀勢西線由良内貨物支線:紀勢本線は、三重県亀山市の亀山駅から尾鷲駅・新宮駅・紀伊田辺駅を経て和歌山県和歌山市の和歌山市駅に至る鉄道路線(幹線)である。1928年、国鉄紀勢西線の紀伊湯浅駅(現在の湯浅駅)から紀伊由良駅までの開通と共に国鉄紀勢西線の終着駅として開業した。この日には同時に紀伊由良駅から由良内駅までの貨物支線も開業した。紀伊由良駅は、蒸気機関車に使用される石炭を配炭する拠点が海岸部にある由良港に設けられ、その配炭所を結ぶ目的で貨物線が分岐していた。由良内駅には港湾や配炭所が置かれ、近隣の各機関区へ蒸気機関車用の石炭を配送する拠点となっていた。のちに配炭所は桜島駅に統合されて廃止された。1968年(昭和43年)6月1日由良内駅までの貨物支線が廃止となる。
2015年08月吉日 南海鉄道北島支線は、かつて和歌山県和歌山市の北島駅から東松江駅までを結んでいた南海電気鉄道の鉄道路線。1966年(昭和41年)に廃止された。もともとはこちらが加太線の本線で、紀ノ川駅経由の現路線は松江線(まつえせん)という貨物線として、重量貨物列車運転のために戦時中に開業したものであった。過去には和歌山製鉄所への貨物輸送も行っていた。しかし1950年(昭和25年)には旅客列車も紀ノ川駅経由に運転系統が変更され、その直後のジェーン台風襲来による紀ノ川橋梁の倒壊が原因で、和歌山市 - 北島間は休止となり、1955年(昭和30年)には廃止された。この時に松江線が加太線に編入された。盲腸線となった残る北島 - 東松江間は北島支線と改称され、1966年(昭和41年)に廃止された。
2015年07月吉日 上田交通真田傍陽線 は、長野県上田市の上田駅と真田町(現・上田市)の傍陽駅、真田駅を結んでいた上田交通の鉄道路線。1927年に開通し、1972年(昭和47年)に廃止された。信越本線(現しなの鉄道線)上田駅を起点とし、市街地を時計回りの方向で進み、市街地の北東部にあった川原柳駅から国道144号線に沿う形で本原駅に達し、さらにそこから分岐して現在の長野県道35号線に沿って傍陽駅までを、さらに国道144号線に沿って真田駅を結んでいた。
2015年07月吉日 上田丸子電鉄西丸子線は長野県上田市の旧塩田町東部地区(東塩田村、富士山村)と丸子町の旧依田村地区 - 旧丸子町西部を結んでいた、上田電鉄の前身、上田丸子電鉄の鉄道路線。1963年(昭和38年)に廃止された。現在の上田電鉄別所線の下之郷駅を起点に南東へ進み、境界の二ッ木峠のトンネルと依田川の鉄橋を渡って丸子町の中心地の西、西丸子駅まで結んでいた。西丸子線は上田丸子電鉄の前身、上田温泉電軌(温電)によって開通した路線である。開業当時から赤字が続き、「四十雀(しじゅうから)電車」と馬鹿にされていたという。
2015年07月吉日 上田丸子電鉄丸子線は、長野県上田市の上田東駅から大屋駅を経て、同県丸子町(現・上田市)の丸子町駅までを結んでいた、上田交通の前身、上田丸子電鉄の鉄道路線。1969年(昭和44年)に廃止された。上田市の市街地の東部にあった上田東駅を起点とし、信越本線(現・しなの鉄道線)信濃国分寺駅の少し上田駅寄りにあった八日堂駅から、信越本線に並行して大屋駅まで東進し、そこから南進して千曲川を渡り、丸子町の北部地区を通って丸子町駅までを結んでいた。丸子線は郷土の製糸業者が中心になって1916年(大正5年)に設立した丸子鉄道(株)によって、1918年(大正7年)11月21日に大屋 - 丸子町間を、それから7年後の1925年(大正14年)に上田東 - 大屋間を開通させた。
2015年07月吉日 上田温泉電軌青木線は、長野県上田市と青木村を結んでいた、上田温泉電軌(温電、上田交通の前身事業者の一つ)の軌道路線。1938年に廃止された。青木線は開業した当初は上田市の千曲川左岸、上田橋から少し離れた三好町(初代)を基点とし、小県郡川辺村(現・上田市)の中心地にある上田原から、さらに現在の国道143号線に沿って西に進み青木を結んでいたが、千曲川鉄橋が開通すると起点は鉄道省線(現・JR東日本、しなの鉄道)上田駅に変更。さらに三好町 - 上田原間が路線変更・変則複線化されると上田 - 上田原間は専用軌道で、上田原 - 青木間は併用軌道で結ばれるようになっていた。上田交通の前身は上田丸子電鉄、さらにさかのぼると上田温泉電軌(のちに(株)上田電鉄)と丸子鉄道(株)となるが、2社は設立目的が違っていた。
2015年07月吉日 戸倉砕石工業引き込み線:戸倉駅東側に戸倉砕石工業株式会社砕石場へ向かう引き込み線があり、JR時代は貨物線として使用されていたが、しなの鉄道移管後は貨物輸送が廃止となったため、この引き込み線も留置線となっている。砕石場自体はその後も操業している。
2015年07月吉日 信越本線旧線(坂城駅-戸倉駅):元は国有鉄道(官設鉄道・鉄道院・鉄道省・日本国有鉄道)、国鉄分割民営化後は東日本旅客鉄道(JR東日本)の信越本線の一部で、1997年(平成9年)10月1日に北陸新幹線高崎駅 - 長野駅間(2015年3月14日の金沢延伸前は長野新幹線と通称)が開業した際に、JR東日本からしなの鉄道に経営分離された区間である。1970年(昭和45年)9月27日坂城駅 - 戸倉駅間が葛尾トンネル経由で複線化し、千曲川沿いの旧線と切り換えた。
2015年07月吉日
2013年12月吉日
志布志線は、かつて宮崎県都城市の西都城駅から鹿児島県曽於郡志布志町(現・志布志市)の志布志駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄再建法施行により第2次特定地方交通線に指定され、1987年に廃止された。都城から太平洋岸の志布志に向かい、軽便鉄道法により建設された鉄道で、1923年から1925年にかけて志布志までが開業した。1932年には、国都東・西線が連絡し、現在の日豊本線ルートが完成したのにともない、都城 - 西都城間が日豊本線に編入されている。現在は日南線となっている北郷 - 志布志間についても当初は志布志線として開業した区間で、1963年の日南線南宮崎 - 北郷間開業にともない、同線に編入された。こちらは大隅線とともに、改正鉄道敷設法別表第126号に規定する予定線である。
2015年07月吉日 鹿児島港線:鹿児島港線は鹿児島貨物ターミナル駅から分岐し中央市場付近まで単線非電化の貨物引込線が伸びていたが国鉄分割民営化までに撤去されている。1953年(昭和28年)5月1日鹿児島港駅までの貨物路線が開通。1984年(昭和59年)2月1日鹿児島港駅までの貨物路線が廃止されるまでの約31年間鹿児島の物流を支えた約1.6kmの貨物路線である。
2015年06月吉日 南海天王寺支線は、大阪府大阪市西成区にある南海本線の天下茶屋駅から分岐し、同市天王寺区にある天王寺駅までを結んでいた南海電気鉄道の鉄道路線。このうち天下茶屋駅 - 今池町駅間が1984年に廃止され、残る区間も1993年に廃止された。戦後も南海と国鉄の接続路線として重要な線区であったが、1961年に国鉄大阪環状線が開業した後、1964年に南海本線との交差付近へ新今宮駅が設置され、次いで1966年に南海も同所に新今宮駅を開業して国鉄との連絡が可能になると天王寺支線の利用者は激減した。貨物列車の中継線としての役割も1977年の貨物営業廃止によって終わった。
2015年05月吉日 新日本製鉄中津工場専用線:昭和20年(1945年)2月11日三機工業中津工場開設。昭和35年(1960年)7月1日鋼管部門を分離し富士三機鋼管株式会社設立(当社全額出資)鋼管関連部課および川崎工場・中津工場廃止、従業員約700名移籍(昭和35年10月および昭和36年4月に同社株式の95%を富士製鉄に売却し、鋼管事業より撤退)昭和46年(1971年)に八幡製鐵と富士製鐵が合併して誕生した新日鐵の八幡製鐵所中津工場となる。主に配管用の鋼管を製造していたが、昭和57年(1982年)に閉鎖。新日本製鉄中津工場専用線の詳細は解らないが、1947年の航空写真にも築堤が写っているので、三機工業中津工場開設と同時に専用線も建設されたと思われる。鋼管の材料や鋼管製品の運搬に使われていたと思われる。
2015年03月吉日 小山短絡線:小山駅は、上野方面から水戸線へ入るにはスイッチバックしなければならない配線となっているが、これでは貨物列車の直通に支障があるため、1950年(昭和25年)に東北本線の間々田駅方面から小山駅を経由せずに水戸線結城方面に直通可能な短絡線(小山駅の構内扱い)が新設された。県道339号線が水戸線を跨ぐ所から、南西に1kmほどの弧を描き東北本線に合流するこの短絡線は、貨物列車ばかりではなく上野方面から水戸線経由で水戸方面へ運転される急行「つくばね」などの運転にも活用されていた。この短絡線は、1986年(昭和61年)11月のダイヤ改正後は実質的に廃止状態となり、2006年(平成18年)2月頃から撤去工事が始まった。
2015年03月吉日 住友セメント四倉工場玉山鉄道専用線:1908年(明治41年)9月磐城セメント四倉工業所(後の住友セメント四倉工場)操業開始、専用線も開業。1986年(昭和61年)9月まで、四ツ倉駅の西側に隣接して住友セメント四倉工場が広がっていた。同工場への専用線が当駅から分岐しており、製品のセメント輸送、燃料の重油や石炭輸送などが行われていたが、工場閉鎖より一足先の1985年(昭和60年)に廃止された。また、八茎鉱山で採掘された石灰石を工場へ輸送するため、索道が鉱山と玉山鉱泉付近にあった積換所を、専用鉄道(玉山線、全長6.8km)が積換所と工場を結んでいた。
2015年02月吉日 名鉄三河線山線:2004年4月1日に西中金駅 - 猿投駅間が廃止された。これらの区間は閑散区間で、西中金駅 - 猿投駅間は1985年から合理化のため電気運転を廃止し、小型のディーゼルカーであるレールバスによる運転に切り替えていた。しかし乗客の減少は続き、名鉄は2000年に末端区間の廃止届を同年秋に提出することを表明した。沿線自治体による年間2億円の赤字補填で鉄道の延命が図られたものの、このまま赤字補填を続けても、近い将来、三河旭駅 - 中畑駅間の矢作川橋梁の架け替えに莫大な費用が掛かるとの懸念から、一部自治体が存続を断念する表明をしたことで海線側の廃止が決まり、山線側も追随する結果となった。
2015年02月吉日 陸軍造兵廠鷹来製造所西山分廠専用線:1945年ごろまで、春日井市西山町付近にあった名古屋陸軍造兵廠鷹来製造所西山分廠(跡地は陸上自衛隊春日井駐屯地など)へ続く専用線も存在した。路線跡の大半が道路に転用され、一部に鉄橋が残っている。
2015年02月吉日 新日本製鐵広畑製鐵所専用鉄道:日鐵住金広畑製鐵所(しんにってつすみきんひろはたせいてつじょ)は、兵庫県姫路市広畑区富士町にある新日鐵住金の工場である。1941年(昭和16年) 7月1日 国鉄飾磨駅への専用鉄道が開業。1986年(昭和61年)11月1日 - 専用鉄道廃止。この専用鉄道は、製品の発送や岡山県新見市にある鉱山からの生石灰搬入に使用されていた。
2015年02月吉日 飾磨港線は播但線の姫路駅から飾磨港駅までを結んでいた廃止された路線。1895年(明治28年) 4月17日:飾磨駅 - 姫路駅間(3M31C≒5.45km)。飾磨駅(のちの飾磨港駅)が開業。1915年(大正4年)9月21日:飾磨駅を飾磨港駅に、天神駅を飾磨駅に改称。1978年(昭和53年)3月24日:姫路駅 - 飾磨港駅間が自動信号化。1986年(昭和61年)11月1日:飾磨港駅 - 姫路駅間 (5.6km) が廃止。亀山駅・飾磨駅・飾磨港駅が廃止。全線で貨物営業が廃止。
2015年02月吉日 北沢産業網干鉄道は、兵庫県姫路市の網干駅から同市の浜田港駅までを結んでいた、北沢産業(厨房機器メーカーの北沢産業とは別会社)が運営していた鉄道路線の通称である。なお正式な路線名はない。国鉄山陽本線と、姫路木材港(姫路港浜田地区)を結んでいた貨物線である。沿線にあった東芝の工場(姫路工場・網干工場)に物資を輸送するため建設された専用線が発祥である。戦時中には貨車で通勤客を輸送していたこともあったという。戦後東芝が過度経済力集中排除法の適用を受け、網干工場が西芝電機として独立したことに伴い、専用線は北沢産業に譲渡された。北沢産業の運営となったあと専用線は1966年に地方鉄道に転換されたが、実態は従前とほとんど変わらなかった。
2015年02月吉日 別府鉄道は、かつて兵庫県西南部で鉄道事業を行っていた会社。1984年に鉄道事業から撤退した後は、タクシーならびに貸切バス事業者として営業を続けた。本社は兵庫県加古川市。鉄道事業は貨物輸送が主体だったが、旅客営業も行っていた。輸送量の減少により、1984年2月1日国鉄ダイヤ改正(操車場の廃止と貨物列車大整理)を機会に、貨物輸送の維持ができなくなり、全線が廃止された。戦時中は野口線が不要不急線として休止され、資材も供出させられたが、土山線は肥料輸送の重要性が認められ存続した(野口線は1947年運行再開)。なお、1946年に別府鉄道に社名変更している。また、1944年に別府港で操業を開始した製鉄化学工業(現・住友精化)の製品輸送を担うようになった。
2015年02月吉日 高砂線は、兵庫県加古川市の加古川駅から兵庫県高砂市の高砂駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。1980年(昭和55年)の国鉄再建法の施行により特定地方交通線に指定され、1984年(昭和59年)11月30日限りで廃止された。加古川の舟運を代替する目的で設立された播州鉄道が、舟運の物資集散地であった高砂と流域各地を結ぶ路線として開通させ、その後も貨物輸送を中心とした輸送体系が続いた。戦後は沿線に国鉄高砂工場も置かれ、貨物列車に加えて工場入出場のための回送列車も設定されており、高砂市中心部に乗り入れていたものの旅客列車は運転本数が少なかった(最末期は日中2時間毎)。
2015年02月吉日 鳥居松砂利採取線:旧日本陸軍造兵工廠鳥居松工場造成のため、庄内川からの砂利を採取するための砂利採取専用線が存在した。旧日本陸軍造兵工廠鳥居松工場跡地はその後王子製紙春日井工場に転用。現在の中央本線にあたる路線のうち、名古屋駅 - 多治見駅間の開業は、1900年(明治33年)であるが、当時勝川駅 - 高蔵寺駅間には駅が設置されなかった。その後、鳥居松村の林長三郎など村民の有力者を中心に駅の開設運動が起こり、1926年(大正15年)11月に、駅の敷地を地元の地権者が寄付することを条件に鉄道省から駅の開設が認可され、1927年(昭和2年)12月16日、現在地(当時は東春日井郡鳥居松村)に「鳥居松駅」(現在のJR春日井駅)を開業した。
2015年01月吉日 下津井電鉄線は、かつて岡山県都窪郡茶屋町(現:倉敷市)の茶屋町駅と倉敷市の下津井駅とを結んでいた下津井電鉄の鉄道路線である。モータリゼーションの進行による乗客の減少のために、1972年4月1日付で茶屋町 - 児島間14.5kmが廃止され、また1991年1月1日付で児島から下津井の間が廃止された。これにより、下津井電鉄は鉄道事業から撤退したが、企業名としての「下津井電鉄」の名称は鉄道事業撤退後も使用されている。1910年に国鉄宇野線が全通し、これに接続する形で宇野 - 高松間で宇高連絡船の運航が開始されると、下津井 - 丸亀間航路の利用者は激減した。そこで四国渡航客を取り戻すために、下津井から国鉄線までの鉄道路線が計画された。
2015年01月吉日 陸軍神野弾薬庫線:戦時中、1937年に開設された旧陸軍神野弾薬庫(現在の加古川刑務所)への爆弾や兵員を運ぶための延長3kmの引き込み線があった。加古川線・高砂線と一部線路を共用し、高砂線分岐地点より若干北側で加古川線と分岐していた。線路跡はほぼ道路に転用されており、緩やかなカーブから線路が引かれていたことを連想することができる。また、用水路に架かる橋には、専用線時代の橋を流用・改造して使用している。戦後に加古川刑務所となったためか、加古川刑務所専用線と呼称される場合もある。弾薬庫や工場など9棟が放置されていたが、2007年1月に加古川市によって解体・撤去された。
2015年01月吉日 井笠鉄道は、かつて岡山県笠岡市の笠岡駅と井原市の井原駅を結んでいた井笠鉄道の鉄道路線である。開業時は1日6往復、おおむね2時間から3時間間隔で運転され、所要時間は1時間22分であった。「軌道自動車」の導入開始時には従来の蒸気機関車牽引列車の運行本数はそのままに、その間隙を突く形で1日8往復を増発、この時代の非電化地方私鉄としては異例の高頻度運転を実現している。戦時中は燃料不足から気動車列車が減便され、1日8往復、所要時間は1時間9分から1時間11分であった。戦後の気動車化前は1日に旅客11往復、貨物1往復が設定されていた。これに対し、気動車化後は1日18往復前後、おおむね朝夕40分毎、日中60分毎の間隔で運転され、気動車の出力向上によるスピードアップもあって所要時間は41分から50分程度に短縮された。1971年(昭和46年)4月1日 全線が廃止。
2015年01月吉日 東武東上線旧線(東松山駅-武蔵嵐山駅):東武東上本線とは、東京都豊島区の池袋駅から埼玉県大里郡寄居町の寄居駅までを結ぶ、東武鉄道の鉄道路線。通常は東上線と呼ばれている。ラインカラーは紺色、駅ナンバリングの路線記号はTJ。1923年(大正12年) 10月1日11月5日 武州松山 - 小川町駅間開通。同時に菅谷駅(現・武蔵嵐山駅)開業。1945年(昭和20年) 1月17日: 武州松山駅(現・東松山駅) - 武蔵嵐山間が陸軍松山飛行場建設のため経路変更。
2015年01月吉日 玉野市営電気鉄道は、かつて岡山県玉野市の宇野駅から玉遊園地前駅を結んでいた玉野市運営の鉄道路線。玉野市電とも称されていたが、「市電」といっても熊本県荒尾市の荒尾市営電気鉄道同様、軌道法による路面電車ではなく、地方鉄道法による鉄道路線であった。なお、正式名称は「玉野市電気鉄道」である。元々、備南電気鉄道が国鉄宇野線から延びていた三井造船の工場への専用線を有効活用する形で、1953年(昭和28年)に開業させた。資金難から開業が遅れ、用意したモハ100形電車も山形県の蔵王高速電鉄(未成線)の注文流れであったという。1972年(昭和47年)の廃止まで一度も黒字になったことはなかった。
2014年11月吉日
2014年12月吉日
吾妻線旧線(岩島駅 - 長野原草津口駅):吾妻線(あがつません)は、群馬県渋川市の渋川駅から群馬県吾妻郡嬬恋村の大前駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。岩島駅から長野原草津口駅までの区間は、八ッ場ダム(やんばダム)の本体工事開始に伴い、吾妻線の付け替えのた。岩島駅 - 長野原草津口駅間の旧線区間は、断続的に続くトンネルの狭間で吾妻川が形成する吾妻峡の渓谷美を車窓から楽しむことができた。日本一短いトンネルであった「樽沢トンネル」は、この区間で通過していた。旧線の川原湯温泉駅はダムの完成とともに水没する区域にあり、吾妻線で唯一残っていた木造駅舎であった。川原湯温泉駅 - 長野原草津口駅間の車窓左手に丸い岩が見えた。
2015年01月吉日 伯備線旧線(井倉駅 - 石蟹駅):伯備線は、岡山県倉敷市の倉敷駅から新見駅を経て、鳥取県米子市の伯耆大山駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)。山陽地方と山陰地方を結ぶ陰陽連絡路線の一つであり、中国山地を越えて鳥取県(伯耆国)と岡山県(備中国)を結んでいる。陰陽連絡路線では初めて電化や改良工事が行われるなどし、陰陽連絡路線では最も運転本数が多い。倉敷駅 - 新郷駅間は高梁川水系、上石見駅 - 伯耆大山駅間は日野川水系に沿って走行し、曲線と急勾配が多い。井倉駅 - 石蟹駅間は高梁川が最も蛇行する区間で伯備線もその流れに沿って運転されていたが、複線化に伴い経路が変更された。1983年(昭和58年)7月26日:井倉駅 - 石蟹駅間経路変更により1.2km短縮。同区間のうち1.4kmが複線化。旧線跡は自転車道に転用されている。
2015年01月吉日 連合軍羽田空港専用線:第2次世界大戦後、連合軍に現在の羽田空港が接収され、羽田空港拡張工事に伴う、資材運搬用の路線が敷設された。一部は現在の京急空港線の路線を転用。旧国鉄の蒲田駅から、現京急空港線への渡り線が敷設された。その渡り線が連合軍羽田空港専用線の一部で、現在は廃線になり一部は道路に転用されている。現京急空港線接続以降は路線がそのまま継承されている。今回は、旧国鉄の蒲田駅から、現京急空港線への渡り線の廃線探索を行った。
2015年01月吉日 矢口発電所専用線:大正時代より矢口発電所・赤羽火力発電所という2つの発電所が運用されていた。旧国鉄の電化に備え多摩川沿いの矢口村に建設されたのが矢口発電所である。発電所には大量の冷却水が必要であるため、多摩川の水を利用するためにこの地が選ばれた。蒲田駅より引き込み線が敷かれ燃料として石炭を運び入れるためのものであった。その路線の一部は蒲田電車区に転用され1923年(大正12年)12月1日:品川電車区蒲田分庫にとして開設される。1930年に川崎火力発電所が稼働しその役目を終えた。
2015年01月吉日 南武線貨物支線:矢向駅を起点とする1.7kmの南武線の貨物支線。川崎河岸駅は主に砂利を取り扱っていた。この砂利は多摩川上流域の河床から採掘された物で、鉄道で輸送され、ここで艀に移し替えられ、東京湾岸の需要者へと運び出された。そのため川崎河岸駅には船溜が設置され、漏斗を使って砂利を艀に落とせるようになっていた。しかし他業者がより上流で盛んに採掘した結果、上流からの砂利の供給が不十分となって、1934年には当局による砂利の採掘制限が始まり、上流の青梅電気鉄道沿線での採掘に中心が移っていき、南武鉄道としての砂利採取事業の重要性は低下していった。1969年の東京製綱川崎工場の閉鎖と、東京湾岸地域の鉄道・道路網の整備による需要減少により、川崎河岸駅は1972年5月25日に廃止された。
2015年01月吉日 尻手短絡線(貨物線):どこか廃線探索をしようと日本鉄道旅行地図帳を見ていたら、尻手短絡線が廃線を示す青色になっていたため、廃線探索に行きましたが、レールの表面が削れていて、信号機も表示されています。これは間違いなく現役の路線で現在も使われている様だ。なので、廃線探索と書いたが、現役線探索になってしまた。なので撮影は踏切からの撮影となりました。尻手駅は南武線の本線のほか、浜川崎駅方面の支線(浜川崎支線、旅客案内では「南武支線」)、および新鶴見信号場への支線(尻手短絡線、貨物列車専用)が当駅から分岐している。4・5番線にはホームが設置されていないが、4番線が尻手短絡線の本線、5番線が尻手短絡線の待避線となっている。浜川崎支線・尻手短絡線経由で新鶴見信号場 - 浜川崎・川崎貨物・東京貨物ターミナル駅方面を結ぶ貨物列車が使用している。
2015年01月吉日 干俣鉱石輸送鉄道(未成線):群馬県吾妻郡嬬恋村干俣(ほしまた)に上信鉱山がありました。四阿火山から噴出した更新世後期の浦倉溶岩の安山岩が熱水変質を受けて生成したハロイサイト鉱床。 安山岩中の灰長石が酸性の条件で変質してハロイサイトが生成したと考えられる。太平洋戦争末期に飛行機の増産に伴い、アルミニウム原鉱を、嬬恋村大字干俣の上信鉱山からアルミニウム製造工場へ輸送するため、鉱石運搬鉄道を敷設しようという計画が立てられた。敷設計画の地形は吾妻川沿いで断崖が多く、長野原町内では線路敷にあたる家屋は既に移転を終り、市街地は南側吾妻川断崖上と決り、作道観音堂前国道下はトンネルで素掘りもほぼ貫通し、線路敷も完成したが間もなく終戦となり、戦力増強の輸送鉄道も日の目を見ることができず、空しく線路敷を残したまま中止となった。
2015年01月吉日 大阪窯業東京工場トロッコ軌道:この工場は、大正3年から昭和39年まで操業し、旧東京丸ビル、現東京駅などに、ここで製造された赤煉瓦(れんが)が使用されています。 草加松原の綾瀬川に架かっていた歩道橋。正式には「大阪窯業橋」。1921(大正10)年ごろ、大阪窯業(レンガ工場)がトロッコ用に架けた。5年後に改築され、永久橋に。当時、工場内にはトロッコ用の線路が10km分も敷かれ、数百台のトロッコが走っていた。1931(昭和6)年、大阪窯業のレンガ出荷のため草加駅と新田駅の中間、現在の松原団地のやや南側に草加荷扱所が開設され、同窯業までの引き込み線が敷設された。草加荷扱所は1973(昭和48)年に廃止された。トロッコ橋の上には線路が敷かれ、橋脚にはレンガが使われていた。
2015年01月吉日 三菱製紙中川工場専用線:金町駅では2003年までは専用線発着の車扱貨物を取り扱っていた。かつて駅北西に三菱製紙中川工場があり、そこへ続く専用線が存在していた。工場内にあった倉庫へ紙製品を輸送するため八戸臨海鉄道北沼駅 - 八戸貨物駅 - 当駅間に有蓋車(ワム80000形)で組成された貨物列車が運行されていたが、工場の閉鎖に伴い2003年3月18日限りで廃止された。それ以前は三菱製紙中川工場の北側にある三菱ガス化学東京工場へ続く専用線もあった。新金線を経由する貨物列車は側線で待機することがある。
2015年01月吉日 JX日鉱日石・関東分岐器専用線:JR貨物の岡部駅は、専用線発着の車扱貨物の取扱駅となっている。当駅の東側にかつてJX日鉱日石エネルギー岡部油槽所があり、油槽所へ専用線が続いていた。ここへJX日鉱日石エネルギー根岸製油所のある根岸駅から1日2本の石油輸送列車が到着していた。専用線内では日本通運が所有するL字型のスイッチャーが入換を担当していた。このスイッチャーの側面には、新日本石油のブランドマーク「ENEOS」のステッカーが貼られていた。到着する列車はタキ1000形貨車で統一された高速貨物列車であったが、返送列車は専用貨物列車となっていた。また、駅北側の関東分岐器岡部工場へ続く専用線もあり、レール輸送が行われることがある。
2015年01月吉日 神流川砂利運搬専用線:西武建材はかつて神流川から砂利を採取し、専用線にて新町駅経由で運んでいた。かつて活発に行われていた河川での砂利採取は、河床低下による堤防や橋梁等への影響から、昭和61年に制定した許可方針により原則として禁止されました。西武建材は西武安比奈線の砂利採取の廃線でも有名。西武建設の子会社。西武建設株式会社(せいぶけんせつ、Seibu Construction Co., Ltd.)は、西武グループの建設会社。西武鉄道を中心とした駅舎などの建築をはじめ、全国各地のプリンスホテル・苗場スキー場・横浜八景島・別荘地など西武グループでの大規模施設の建設や公共工事受注、注文住宅、建売住宅の建築などを行っている。かつては西武所沢車両工場の経営母体企業となっていた時期があり、西武鉄道の車両製造も行っていた。
2015年01月吉日 日本肥糧新町工場専用線:日本肥糧は昭和20年代初頭、創設者である森山静記は肥効促進材として効果の高い天然の腐植物質(木質泥炭)を活かした固形肥料を発明し、その販売会社として日本肥糧株式会社を設立した。肥料原料であるりん鉱石や加里鉱石などの天然資源をほとんど持たない我が国において、りん酸、加里の利用効率が高い天然腐植入り肥料は、限りある肥料資源を有効活用し、生産者が安心して使える肥料として、今後ますます必要とされます。1966年(昭和41年)群馬県藤岡市に新町工場完成(東京工場移転) 1997年(平成9年)頃新町駅にて貨物列車の発着がなくなる。
2015年01月吉日 大同特殊鋼渋川工場専用線:大同特殊鋼株式会社(だいどうとくしゅこう、英: Daido Steel Co., Ltd.)は、量産型特殊鋼企業特殊鋼専業メーカーである。事業は、特殊鋼鋼材、機能材料・磁性材料、自動車部品・産業機械部品、エンジニアリング、流通・サービスの5部門に分かれている。主力の特殊鋼は構造用鋼、軸受鋼、ステンレス鋼、チタン合金などを製造しているがどれをとってもトップなれないのが投資家から指摘されるところである。渋川駅南東にある大同特殊鋼渋川工場へ至る専用線が分岐していた。
2015年01月吉日 関東電化工業渋川工場専用線:関東電化工業株式会社(かんとうでんかこうぎょう、英文社名:Kanto Denka Kogyo Co.,Ltd)は、曹達化学やフッ素化学、有機溶剤の製造などを行う古河グループの化学会社である。渋川駅では関東電化工業の石油・化学薬品荷役線などがあった。ホームでは横浜本牧駅発送で関東電化工業渋川工場で使用する工業用塩化ナトリウム(化学薬品の原料となる)を降ろしダンプカーに移し替えていた。しかし同工場で苛性ソーダや塩酸などを生産する電解事業が中止されたため、通称:塩コキ、JR貨物UM30S形コンテナ使用(かつては塩トラ、国鉄トラ70000形貨車使用)と呼ばれた塩の運搬は廃止された。
2014年12月吉日 名鉄三河線(碧南駅-吉良吉田駅)
名鉄三河線は、愛知県豊田市の猿投駅から愛知県碧南市の碧南駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。路線の前身は三河鉄道で、知立駅の配線がスイッチバック形状に変更されるまでは海線、山線ともに一体となって運行されていた。2004年4月1日に(碧南駅 - 吉良吉田駅間)が廃止された。これらの区間は閑散区間で、碧南駅 - 吉良吉田駅間は1990年から合理化のため電気運転を廃止し、小型のディーゼルカーであるレールバスによる運転に切り替えていた。しかし両区間の乗客の減少は続き、名鉄は2000年に末端区間の廃止届を同年秋に提出することを表明した。
2014年12月吉日 名鉄西尾線旧線:現在の西尾線は、碧海電気鉄道が開通させた区間と、西尾鉄道が開通させた区間から成り、元々の生い立ちはまったく別である。1944年以前は西尾鉄道が開通させた愛知県岡崎市の岡崎新駅から西尾駅を経て三河吉田(現在の吉良吉田)駅までの区間を西尾線と称していた。西尾鉄道は、岡崎新 - 西尾 - 港前間と西尾 - 吉田港間の路線を開通させた軌間762 mmの軽便鉄道であった。東海道本線の岡崎駅と西三河南部の西尾、平坂、吉田といった街を結ぶべく、1916年までにこれらの路線を全通させた。1943年に、旧・西尾線の岡崎新 - 西尾間が戦時不急不要路線として休止された。このうち岡崎駅前 - 福岡町間は1951年に福岡線として再開したものの、直通運転していた岡崎市内線とともに1962年に廃止された。
2014年12月吉日 衣浦臨海鉄道碧南線は、愛知県知多郡東浦町にある東浦駅と碧南市にある碧南市駅までを結ぶ衣浦臨海鉄道の鉄道路線である。かつては権現崎駅まで路線が伸びていた。衣浦湾沿岸の工場への原材料、製品輸送のほか、地元で生産されている三州瓦を輸送することが目的だったが、輸送量が伸びず、社会情勢の変化の影響で開業後早くに瓦の輸送が打ち切られ、廃止が噂されていた。しかし、碧南市に石炭を燃料とする火力発電所(中部電力碧南火力発電所)が開設されたことにより、現在は、同発電所の副生成物でセメントや建築材料の原料として使われる石炭灰(フライアッシュ)と、発電所の脱硫用資材として到着する炭酸カルシウムの輸送を行っている。
2014年12月吉日 名鉄三河線大浜口支線:名鉄三河線は、愛知県豊田市の猿投駅から愛知県碧南市の碧南駅までを結ぶ名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。碧南駅から先、分岐していた支線。2004年(平成16年)4月1日碧南駅 - 吉良吉田駅間廃止に伴い、名鉄三河線大浜口支線も廃止。
2014年12月吉日 仙石河岸線:東武小泉線は、群馬県館林市の館林駅と群馬県邑楽郡大泉町の西小泉駅及び群馬県太田市の太田駅と群馬県邑楽郡大泉町の東小泉駅を結ぶ東武鉄道の鉄道路線である。沿線の大泉町には工場が多く、東武佐野線同様沿線工場への通勤者がメインの客である。西小泉駅から旧仙石河岸駅まで貨物線の仙石河岸線があった。小泉町駅と仙石河岸駅を結ぶ仙石河岸貨物線が開業し、途中に新小泉駅が開設された。軍の要請によって仙石河岸線の新小泉駅から分岐させて東武熊谷線と接続する予定であったが、第二次世界大戦後に工事は停止され、また仙石河岸駅と新小泉駅も相次いで閉駅され、西小泉駅以南は廃線となった。
2014年12月吉日 徳川河岸線(とくがわがしせん)は、かつて群馬県新田郡木崎町および同郡尾島町(いずれも現・太田市)にあった東武鉄道の貨物線である。利根川で採取した砂利を伊勢崎線木崎駅へ運搬するために、徳川河岸に設置された貨物専用駅であった。1925年(大正14年)11月27日(貨)徳川河岸間に徳川河岸線開業。1968年(昭和43年)6月11日徳川河岸線廃止。
2014年11月吉日 第2海軍火薬廠専用線:平塚駅から第二海軍火薬廠専用線が伸びていた。平塚駅構内北側を西へ出てすぐに北進して築堤で追分へ向かう通称第二海軍火薬廠線で、廃止後は市内の開発により築堤を失い、駅から旧東海道付近のみが市道・錦町1号線として再利用されている。1898年(明治31年)5月15日専用線の供用を開始する。第二海軍火薬廠は神奈川県旧平塚市・中郡大野町にまたがる約38万坪の敷地に存在した、大日本帝国海軍の兵器に使用する爆薬・火薬を製造していた海軍省直属の兵器工場(工廠)。現在、この地には横浜ゴム平塚製造所が存在している。跡地には正門門柱・奉安殿・地下壕入口・貨車引込線・鉄筋コンクリート建屋など一部現存する。
2014年11月吉日 第1海軍燃料廠専用線:第1海軍燃料廠は、かつて神奈川県鎌倉郡本郷村にあった大日本帝国海軍の工廠(海軍工廠)である。海軍で使用する燃料・潤滑油等、石油製品関係の研究・実験を行う施設として、1938年(昭和13年)に建設された。建設決定は1937年(昭和12年)であり、短期間に建設された。用地買収は半強制的に行われたといわれている。海軍の重要拠点である横須賀港に近く、海軍の要請により建設された横須賀線があったことからこの地が選ばれた。燃料廠の周辺には、大船海軍共済組合病院(現在の横浜栄共済病院)をはじめとする関連施設が設置され、燃料廠から大船駅にかけて専用鉄道や、鉄道に並行する道路や水道、電力なども整備された。1950年(昭和25年)12月25日大船PX(旧第1海軍燃料廠)専用線使用開始。
2014年11月吉日 田奈弾薬庫専用線:神奈川県と東京都にまたがる、こどもの国の場所は戦時中、旧陸軍田奈弾薬庫補給廠として、旧陸軍田奈部隊の管理のもと、戦地に送る弾薬を保管・発送したり、製造したりしていました。弾薬庫は計33基つくられましたが、土に埋まったり湖に沈んだりして、今確認できるのは10基だけです。この場所は細い谷が入り組んだ谷戸(やと)と呼ばれる地形で、13戸の農家が暮らしていました。1938年、国家総動員法で住民は強制的に退去させられ、弾薬庫工事が始まりました。41年に旧陸軍田奈部隊が発足してから、弾薬庫の本格的な利用が開始しました。弾薬庫時代には、旧・日本国有鉄道(国鉄)横浜線長津田駅より引き込み線が引かれていた。引き込み線の一部経路は東急こどもの国線として現在も利用されている。
2014年11月吉日 大阪窯業八王子工場専用線:1881年(明治14年)1月設立された大阪窯業株式会社(設立当初は硫酸壜製造会社)が事業拡張のため、1912年(明治45年)関東煉瓦株式会社を併合し、同社の長沼工場(もと八王子煉瓦株式会社長沼工場=長沼レンガ工場)を改造、操業を開始した。1923年(大正12年)の関東大震災の結果,地震には煉瓦造の建築物は弱いという世評を受け、1925年5月から舗道レンガに切り替えた。1932年(昭和7年)6月10日工場火災を起こし全焼。これを機会に八王子工場を東京工場に併合して長沼工場の歴史を閉じた。火災前の工場規模は工場敷地19,082坪、工場建物面積1,670坪。従業員70名、年間生産能力1,000万個、工場間口36間、奥行4間(2棟)。八王子駅から大阪窯業八王子工場専用線が出ていた。
2014年11月吉日 茨城交通茨城線は、かつて茨城県水戸市の赤塚駅と茨城県東茨城郡桂村(現在の城里町)の御前山(ごぜんやま)駅を結んでいた、茨城交通の鉄道路線である。終着駅の名から御前山線の別称もあった。1971年(昭和46年)に全線が廃止された。終点は御前山駅を名乗っているが、これは御前山の麓という立地と、御前山という地名が城里町(鉄道建設当時は東茨城郡沢山村)に存在するからである。那珂川対岸に東茨城郡御前山村(現在の常陸大宮市)があったため誤解されることがあるが、御前山村は昭和の大合併でできた自治体名であり、御前山の山頂と御前山の地名が桂村に存在するにもかかわらず命名されたものである。駅名の御前山は自治体の御前山より古い。
2014年11月吉日 日立製作所水戸事業所専用鉄道:日立製作所水戸事業所へ続く専用鉄道(4.4km)も存在した。この専用線は公式には1942年9月5日運輸開始とされ1993年9月20日まで従業員専用列車が運行されていた。駅西口の構内の外れにホームがあり、通勤時にはバッテリーロコに牽引された客車(最後は東急6000系電車 (初代)6104・6003)が運行されていた。従業員専用列車ホーム跡地にライフイン勝田駅西(ビジネスホテル)が建設されたため、ホームは跡形なく取り壊されたが、専用線の線路がわずかに残されている。
2014年11月吉日 新潟交通電車線は、かつて新潟県新潟市の白山前駅と燕市の燕駅とを結んでいた、新潟交通の運営による鉄道・軌道路線である。沿線住民からは「電鉄」の愛称で親しまれていたが、1999年4月5日に全線が廃止され、同社グループによる路線バスに転換された。1933年4月1日の東関屋 - 白根間を皮切りに順次開通し、同年8月15日に全線が開通した。燕市から西蒲原郡中之口村、月潟村、味方村、黒埼町と、対岸の白根市から新潟市街地を結ぶ重要な交通として、沿線住民の足となり、また周辺町村からは米や野菜などの農作物が、燕からは金物・食器などが輸送され、沿線住民からは「電鉄」の愛称で親しまれた。新潟電鉄は1943年暮れ、戦時統合により新潟合同自動車などと合併し、会社組織は新潟交通となった。
2014年11月吉日 日本軽金属新潟工場専用線:1982年(昭和57年)頃まで、日本軽金属新潟工場、東洋瓦斯化学工業の鉄道輸送のために専用線が存在した。この専用線は越後線の新潟 - 白山間に並走する形で敷設され、信濃川橋梁の東詰側(右岸、新潟方)手前付近から分岐し、信濃川に沿って日本軽金属新潟工場の敷地を通り、現在の平成大橋付近まで敷設されており、東洋瓦斯化学工業、次いで日軽新潟工場が1980年(昭和55年)までに操業を停止したため廃止された。
2014年10月吉日 越後交通長岡線は、新潟県長岡市に本社を置く越後交通が運行していた、三島郡越路町(現長岡市)の来迎寺駅から西長岡駅、大河津駅(現JR越後線寺泊駅)を経由して、三島郡寺泊町(現長岡市)の寺泊駅(前出の現・寺泊駅とは異なる)までを結んでいた鉄道路線。1928年(昭和3年)には日本で初めてディーゼルカーを導入している。長岡市中心部への接続がない当線は、自家用車の普及や需要の減少により乗客数は減り続け、1975年(昭和50年)3月31日には旅客営業が廃止された。その後は貨物専業に転換、区間を縮小しながらも営業を続けたものの、こちらも既に需要が頭打ちであった。そして1995年(平成7年)3月31日、全線が廃止となった
2014年10月吉日
2014年11月吉日
越後交通栃尾線は、新潟県長岡市に本社を置く越後交通が運営していた、長岡市の悠久山駅から長岡駅、見附市の上見附駅を経由して、栃尾市(現・長岡市)の栃尾駅までを結んでいた軽便鉄道路線。長岡駅を中心に長岡市東部を結ぶ軽便線。前身の栃尾鉄道の名から、通称 栃鉄(とってつ)と呼ばれ、小さな車両は「マッチ箱」の愛称で親しまれた。栃尾鉄道は、軽便鉄道としては全国でも例が少ない急行列車を運行しており、また全線電化やCTC化(一部区間)、カルダン駆動の新車の導入などの近代化にも中小私鉄としていち早く着手した。新潟県中越地方の電車・バス3社合併により越後交通となってからも、沿線住民からは引き続き「栃鉄」と呼ばれて親しまれていたが、1975年に全線が廃止され、同社の路線バスに転換された。
2013年12月吉日
2014年10月吉日
高千穂鉄道未成線区間: 1966年に日本鉄道建設公団によって日ノ影 - 高千穂間の敷設工事が着工され1972年に完成、残る高千穂 - 高森間27.0kmの工事も1973年に着工、1977年完成を目指して工事が進められた。ところが1977年2月、掘削中の高森トンネル(予定延長6500m)の入口から2050m地点の坑内で、地下水の水脈を切断してしまったために毎分36tの異常出水が発生、これにより高森町内の湧水8か所が枯れ、井戸水を使用していた約1,000戸もの家庭で水道が断水するという事故が起きた。この出水事故が最大の要因となり鉄道敷設工事は中断されたまま、その後のモータリゼーションにより鉄道の必要性そのものが小さくなり、1980年国鉄再建法成立により工事予算が凍結され全面的に中止となった。
2014年10月吉日 黒崎港貨物線:黒崎駅 - 黒崎港駅間を結ぶ2.1kmの貨物支線が1953年に開通。黒崎駅の北側から安川電機本社の裏側をカーブして通り、道路の西側に沿って洞海湾に向かって北に延びていた。取扱の貨物はハッキリ解らないが、周辺は現在でも石炭の貯炭場があり、石炭も運搬していたと思われる。当時の航空写真も周辺は貯炭場であった。1984年(昭和59年)2月1日 コンテナ貨物の取扱を廃止。廃止はこの前後と思われる。
2014年10月吉日 三菱マテリアル九州工場黒崎専用線:黒崎駅のJR貨物の駅は、専用鉄道発着のコンテナ貨物・車扱貨物の取扱駅となっている。旅客ホーム北側にある側線群から分岐し、西側へ向かい三菱化学黒崎事業所へ至る専用鉄道と、東側へ向かい新日本製鐵八幡製鐵所へ至る専用鉄道が存在する。三菱化学専用鉄道は、有蓋コンテナやタンクコンテナによる製品の輸送や、タンクコンテナを用いた大牟田駅への濃硝酸輸送に使用されている。1999年9月までは、北岡崎駅へのテレフタル酸発送もあった。かつては三菱マテリアル九州工場黒崎製造課への専用線もあり、石灰石輸送などが行われていた。貨物列車は、1日2往復北九州貨物ターミナル駅との間に専用貨物列車が運行されている。その他、上り列車(北九州貨物ターミナル駅方面行き)が専用貨物列車・高速貨物列車ともに1本ずつ停車する。
2014年10月吉日 豊国セメントの専用線:苅田駅から苅田港に面する豊国セメント苅田工場(現・三菱マテリアル九州工場)までの専用線があった。苅田駅西側の採石所は日本セメントと豊国セメントの共有(後に宇部興産との三者共有となる)であったため、豊国セメントの工場へは日本セメント専用線から貨車がそのまま豊国セメントの専用線に入って輸送していた。豊国セメントは機関車を所有しており、地元の足として貨車を使って一般客の輸送も行っていた。レールは撤去されたが豊国セメントの専用線跡はその大部分が舗装された道路になっており日豊本線との分岐部分は公園になっている。なお豊国セメントは1972年(昭和47年)9月18日に専用線で使用していた5号機関車を教材用として苅田小学校に寄贈、現在も学校敷地内に静態保存されている。
2014年10月吉日 日本セメント苅田専用線:苅田駅西側の採石所から苅田駅までを結ぶ日本セメント(現・太平洋セメント)の専用線があった。この採石所は日本セメントと豊国セメントの共有(後に宇部興産との三者共有となる)であったため、日本セメントの工場へは隣の小波瀬西工大前駅から苅田港駅を経てさらに分岐する専用線を通って輸送していた。日本セメントは貨車牽引のための機関車を所有していなかったため国鉄の機関車を有償で借りて輸送を行っていた。レールは撤去されたが日本セメントの専用線跡はほとんど未舗装道路で残っており橋脚も残っている。
2014年10月吉日 苅田港線:日本貨物鉄道日豊本線貨物支線(通称・苅田港線)。苅田港線(小波瀬西工大前 - 苅田港間)は日本では珍しい存在である連査閉塞装置を使用していた。2005年1月末より貨物列車の運行がなくなっている。苅田港線は列車の運行がなくなっているが、運行終了後も九州運輸局に事業休止届けが出されず、踏切の一時停止義務が残っていた。踏切は生活道路のみならず、国道10号上にも存在することから渋滞の発生や追突事故の懸念(地元住民は列車がないことを知っているため一時停止をしないことがある)があり、沿線住民や地元企業等から苅田町を通じ、休止届出の要望が強く出されていた。そのためJR貨物は2008年11月ようやく事業休止届けを提出、2009年3月5日から21日にかけて踏切の撤去工事を行った。
2014年10月吉日 田野浦公共臨港鉄道:外浜駅から周防灘に面する田野浦駅に至る、北九州港管理組合(一部事務組合。現在の北九州市港湾空港局)が管理していた全長3.4kmの専用鉄道。門築土地鉄道の前身である門司築港が1929年(昭和4年)2月13日に門築大久保駅までを開業させ、1960年(昭和35年)4月15日まで門築土地鉄道が運営していたが、その後門司市(現・北九州市)がその路線と門築大久保駅 - 田野浦駅までの側線を「田野浦公共臨港鉄道」として引き継ぎ貨物列車を運行した。この路線からは多くの専用線が分岐していた。かつての門築大久保駅にあたる地点からは農林水産省福岡食糧事務所門司政府倉庫への専用線が、田野浦駅からは伊藤忠飼料門司工場への専用線も分岐していた。
2014年10月吉日 山田弾薬庫専用線:山田緑地は旧帝国陸軍(後に占領米軍)の山田弾薬庫跡地で、1972年(昭和47年)に米軍より大蔵省(当時)へ返還された。その後、敷地は大蔵省(現財務省)・自衛隊・北九州市の管轄区域に3分割され、1983年(昭和58年)3月に一部敷地にて「北九州やまだ子供広場」を開園、その後大蔵省管轄分の払い下げを受けたうえ、1987年(昭和62年)より公園整備開始、1995年(平成7年)に山田緑地として開園した。戦前・戦中は旧日本陸軍により弾薬等の填薬所として使用された。戦後から1972年の間は在日米軍が弾薬等の填薬作業を行っており、そこでの弾薬がベトナム戦争で使用されたとして国会で取りざたされた事がある。旧日本陸軍・在日米軍の地内の活動については不明。日豊本線南小倉駅との間に山田弾薬庫への専用線(1941年南小倉火薬線として敷設、1970年使用中止、1973年廃止)があった。
2014年10月吉日 宮田線とは、福岡県鞍手郡小竹町の勝野駅から福岡県鞍手郡宮田町(現・宮若市)の筑前宮田駅までを結んでいた九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。全線が福岡近郊区間に含まれていた。1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行により第3次特定地方交通線に指定され、1989年(平成元年)に廃止された。九州では最後まで残った特定地方交通線であった。宮田線は、筑豊地区有数の炭鉱であった貝島炭鉱からの石炭積み出しのため、1902年(明治35年)に九州鉄道の手により貨物線として開通した。しかし、国の石炭政策の変化とともに衰退し、1976年(昭和51年)8月に最後の炭鉱が閉山したことにより、1世紀に及ぶ筑豊炭田の歴史は終焉を迎えた。それとともに宮田線も貨物輸送を失い、また宮田町の衰退とともに旅客輸送も減少していった。
2014年10月吉日 筑豊本線新多貨物支線:筑豊本線は、福岡県北九州市若松区の若松駅から福岡県筑紫野市の原田駅に至る九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。鹿児島本線との短絡線と篠栗線を含めた黒崎駅 - 折尾駅 - 桂川駅 - 博多駅間には「福北ゆたか線」、若松駅 - 折尾駅間には「若松線」、桂川駅 - 原田駅間には「原田線」の愛称が付けられている。かつては石炭輸送が盛んであり、炭鉱などに通じる多くの貨物支線を有していたが、現在はすべて廃止されている。1913年(大正2年)7月1日小竹駅 - 新多間貨物支線(筑豊本線)開通。1969年(昭和44年)10月1日 : 小竹 - 新多間の貨物支線を廃止。(貨)新多駅・本城信号場を廃止。
2014年10月吉日 幸袋線は、かつて福岡県鞍手郡小竹町の小竹駅と飯塚市の二瀬駅の間を結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線。赤字83線に指定され1969年に廃止された。1968年9月4日の国鉄諮問委員会から提出された意見書により赤字83線に指定された幸袋線は、飯塚市中心部ではなく小竹・直方方面へ路線が延びていたため、地域交通の流動の主要ルートからも外れており、1967年度の収支係数は740、つまり100円の収入を得るのに740円かかるという大幅な赤字路線であった。幸袋線は赤字83線の中で最初に廃止された線路となり、この廃止までの動きはその他の線路廃止の取り組みのモデルともなった。
2014年10月吉日 香月線とは、福岡県中間市の中間駅と同県北九州市八幡西区の香月駅とを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。1985年に全線が廃止された。石炭輸送のための貨物線として開業した。一時は、中間 - 新手間が3線化(旅客列車用の単線+貨物列車用の複線)されるなど活況を呈したが、周辺炭鉱の閉山により輸送量は激減し、最終的には全線が単線化された。1980年の国鉄再建法の施行を受け、第一次特定地方交通線として廃止対象路線となった。末期には、坑道が原因による地盤沈下から、鉄道が道路をまたぐ立体交差地点では自動車の通行ができなくなるなどといった事態も発生し、また中間市の都市開発の阻害ともなるため、市や住民から廃止運動が起こっていた。
2014年10月吉日 筑豊鉱業鉄道:筑豊鉄道は、かつて福岡県北九州市に存在した鉄道事業者である。1915年(大正4年)に鞍手軽便鉄道が開業させた国鉄香月線の香月駅から分岐して野面(のぶ)駅に至る3.8kmの鉄道路線を、帝国炭業、九州鉱業、筑豊鉱業鉄道を経て継承した会社である。1954年(昭和29年)に路線は廃止となった。鞍手軽便鉄道は木屋瀬炭鉱の産出する石炭を輸送することを目的として当時電気王と呼ばれた才賀藤吉が1910年(明治43年)9月に出願したものである。1908年(明治41年)になって香月線が開通したのであるが香月駅までの輸送手段は無かった。工事は才賀電機商会が請負い、蒸気機関車も才賀電機商会が伊勢鉄道用に輸入したもののキャンセルされ保管していた車両を流用した。
2014年10月吉日 弥彦線とは、新潟県西蒲原郡弥彦村の弥彦駅から三条市の東三条駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)である。このうち、通称「弥彦東線(やひことうせん)」と呼ばれていた東三条 - 越後長沢間は、沿線の人口密度が低かった上、終点の越後長沢駅も当時の長沢村(のちの下田村、現在の三条市)の中心地から若干離れていたこともあり、太平洋戦争以前の段階から利用客数は低迷。太平洋戦争中は不要不急線となり、軌道が撤去され営業休止に追い込まれている。戦後に営業を再開するものの同区間は、通学客以外は乗客も少なく赤字続きであり、またこの区間に並行する県道(のちの国道289号)を経由する越後交通の路線バスが運行されていることもあって、1968年にいわゆる赤字83線に指定された。1985年に廃止された。
2014年10月吉日 紀勢本線旧線(南部駅 - 芳養駅):紀勢本線(きせいほんせん)は、三重県亀山市の亀山駅から尾鷲駅・新宮駅・紀伊田辺駅を経て和歌山県和歌山市の和歌山市駅に至る鉄道路線(幹線)である。亀山駅 - 新宮駅間は東海旅客鉄道(JR東海)、新宮駅 - 和歌山市駅間は西日本旅客鉄道(JR西日本)の管轄で、JR西日本の区間のうち新宮駅 - 和歌山駅間には「きのくに線」という愛称が付いている。1932年(昭和7年)11月8日:南部駅 - 紀伊田辺駅間 (9.1km) が延伸開業し、芳養駅・紀伊田辺駅が開業。1978年(昭和53年) 1月24日:芳養駅 - 南部駅間が複線化され、紀伊田辺駅 - 和歌山駅間の複線化(第三芳養トンネル)が完成し芳養駅 - 南部駅間の旧線が廃止。
2014年10月吉日 紀勢本線旧線(印南駅 - 切目駅):紀勢本線(きせいほんせん)は、三重県亀山市の亀山駅から尾鷲駅・新宮駅・紀伊田辺駅を経て和歌山県和歌山市の和歌山市駅に至る鉄道路線(幹線)である。亀山駅 - 新宮駅間は東海旅客鉄道(JR東海)、新宮駅 - 和歌山市駅間は西日本旅客鉄道(JR西日本)の管轄で、JR西日本の区間のうち新宮駅 - 和歌山駅間には「きのくに線」という愛称が付いている。1931年(昭和6年)9月21日:印南駅 - 南部駅間 (14.8km) が延伸開業し、切目駅・岩代駅・南部駅が開業。1977年(昭和52年)11月15日:切目駅 - 印南駅間が複線化し旧線が廃止。
2014年10月吉日 南海電気鉄道高野線貨物支線南海電気鉄道高野線は、大阪府大阪市浪速区の汐見橋駅から和歌山県伊都郡高野町の極楽橋駅までを結ぶ南海電気鉄道の鉄道路線。一般的には、帝塚山駅以南発着の列車がすべて乗り入れる南海本線難波駅から極楽橋駅までの運行系統を指す(運行形態を参照)。汐見橋駅 - 岸里玉出駅間には汐見橋線(しおみばしせん)という通称がある。路線シンボルマークは、高野杉の林をイメージしたもので、ラインカラーは緑。橋本駅 - 鋼索線高野山駅間にはこうや花鉄道という名称を付けて、観光列車「天空」を運行するなど様々な取り組みが行われている。かつては、紀伊清水駅から紀の川にかけて貨物線が分岐していた。当初はこの紀伊清水駅付近に車両基地を設置する計画だったが、都合により取りやめになり、御幸辻駅 - 橋本駅間に小原田検車区が設置された。
2014年10月吉日 和歌山線川端貨物支線:大和二見駅より五条側で川端へ至る貨物線が分岐して、駅舎より南側を通過して川端へ向かっていた。川端駅(かわばたえき)は、かつて奈良県五條市二見に所在していた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道駅である。開設当初は二見駅(ふたみえき)という名前で、後の和歌山線の高田 - 五条間を建設した私鉄の南和鉄道の終点駅であった。その後やはり私鉄の紀和鉄道が和歌山(後の紀和駅)まで和歌山線の西側の区間を建設し、南和鉄道から紀和鉄道が分岐する地点に新たに二見駅(後の大和二見駅)が設置され、当駅は川端駅に改称して、二見で分岐する貨物線の終点駅となった。大和二見駅で分岐して川端へ至る貨物線は、1982年(昭和57年)10月1日に廃止となった。
2014年01月吉日
2014年10月吉日
五新線(未成線)は、かつて、奈良県五條市の西日本旅客鉄道(JR西日本)和歌山線の五条駅と、和歌山県新宮市の紀勢本線新宮駅を結ぶ計画だった日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(未成線)。五条駅 - 大塔村阪本(現・五條市大塔町阪本)間を阪本線として、先行開通させる予定だった。五新線の沿線は吉野杉などの木材の産地で、その木材を鉄道で輸送させる構想で1939年に建設に着手した。しかし、二見 - 富貴ルートや橋本 - 阪本の橋新線、吉野口 - 多気の吉相線、吉野口 - 熊野市の吉木線などルート決定までに衝突がおきたり、太平洋戦争のため工事が中断したりするが、1957年に工事を再開し、1959年に五条駅から西吉野村城戸(現・五條市西吉野町城戸)まで路盤が完成した。
2014年09月吉日 羽越本線酒田港支線:羽越本線の酒田駅から分岐し酒田港に至る日本貨物鉄道(JR貨物)の羽越本線貨物支線(通称:酒田港線)2008年3月までは東北東ソー化学(旧・鉄興社)酒田工場へ至る専用線が分岐し、化学薬品の発送が行われていた。また、食糧庁酒田倉庫や帝石テルナイト工業(現・テルナイト)酒田工場、小野田セメント(現・太平洋セメント)酒田サービスステーション、広島燃料興業などへ至る専用線も分岐していた。そのほか、食糧庁倉庫や花王酒田工場の脇を通り大浜埠頭へ至る全長2.2kmの山形県営公共臨港線もある。かつては、花王酒田工場専用線や日新電化酒田工場(現・東北東ソー化学酒田西工場)専用線、米田物産酒田防腐工場専用線などを分岐させ、通路線としての役割を担っていたが、現在公共臨港線から分岐する専用線はない。公共臨港線自体も、撤去される予定である。
2014年09月吉日 羽越本線旧線(三瀬駅-羽前水沢駅):羽越本線は、新潟県新潟市秋葉区の新津駅から秋田県秋田市の秋田駅までを結ぶ東日本旅客鉄道の鉄道路線(幹線)。このほか、酒田駅から酒田港駅までの日本貨物鉄道の貨物支線を持つ。太平洋戦争中は、日本海岸を縦貫する幹線ルートの一部として輸送力増強の要請から信号場が数多く追設され、戦後も部分的にではあるが複線化が行われている。海岸線を走るという特徴のため、従来線(単線)に増設して複線にしただけでなく、内陸に複線の新線を建設し従来線を廃止するといった手段も取られた。このため村上・三瀬間には旧線の遺構が数多く見られる。1922年(大正11年)5月22日:羽前大山駅 - 三瀬駅間 (10.2km) が延伸開業。三瀬駅が開業。1967年(昭和42年)10月17日三瀬駅 - 矢引信号場間が複線化に伴い旧線廃止。
2014年09月吉日 田川炭鉱専用線:田川炭鉱(たがわたんこう)は、かつて山形県西田川郡温海村(現在の山形県鶴岡市五十川字田川)にあった炭鉱。ラサ工業が経営していた。下記慰霊碑の前の「田川鉱山坑口跡入口」と案内のある小橋を渡り、林の中を100mほど進んだところに、坑口跡(五十川坑)がある。 周囲にも煉瓦造の遺構が若干残っている。 また、専用線で使用されたと思われるホッパが山中に残っている。1945年(昭和20年)12月16日石炭不足対策の為、国鉄が職員挺身隊66名を派遣。1947年(昭和22年)9月、月産2万2900トン(戦後最高)で、戦中からこの頃までで、県内石炭生産の62%を占めた。1960年(昭和35年)11月10日 閉山。離職者434名。
2014年09月吉日 羽越本線旧線(五十川駅-小波渡駅):羽越本線(うえつほんせん)は、新潟県新潟市秋葉区の新津駅から秋田県秋田市の秋田駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。海岸線を走るという特徴のため、従来線(単線)に増設して複線にしただけでなく、内陸に複線の新線を建設し従来線を廃止するといった手段も取られた。このため村上・三瀬間には旧線の遺構が数多く見られる。1923年(大正12年)3月18日三瀬駅 - 温海駅間 (13.4km) が延伸開業。五十川駅・温海駅が開業。1977年(昭和52年)10月18日:五十川駅 - 小波渡駅間が複線化に伴い旧線が廃止。
2014年09月吉日 長門鉄道は、かつて国鉄山陽本線小月駅より分岐して西市駅までの18.2kmを結ぶ鉄道路線を有していた鉄道事業者である。企業自体は、1942-1949年の間に戦時体制に基づく交通統制のため、下関市における路面電車を運営していた山陽電気軌道に統合されていた事があったが、1956年(昭和31年)に鉄道路線を全廃した後もバス会社となって1975年(昭和50年)まで残り、山陽電気軌道改めたサンデン交通に再合併された。もともと、西市からの木材輸送を目的に建設されたのが同線である。そのため、鉄道省線(国鉄)との貨車直通を考慮し、軌間は1067mmを採用していた。最盛期は、年間100万の旅客利用があったともいわれるが、戦後にバスの方が至便だという理由によってそれに転換し、廃止された。
2014年09月吉日 羽越本線旧線(鼠ヶ関駅-小岩川駅):羽越本線(うえつほんせん)は、新潟県新潟市秋葉区の新津駅から秋田県秋田市の秋田駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。このほか、酒田駅から酒田港駅までの日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物支線を持つ。1923年(大正12年)11月23日国鉄陸羽西線の駅として、温海(現あつみ温泉) - 鼠ヶ関間開業。1969年(昭和44年)9月19日:鼠ヶ関駅 - 小岩川駅間が複線化。この時に旧線が廃止。
2014年09月吉日 宇部線貨物支線:宇部線は、山口県山口市の新山口駅から山口県宇部市の宇部駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(幹線)である。かつては石炭輸送などの貨物輸送が盛んであり、沿線の工場などへの支線が数多く存在したが、主力であった宇部興産向けやセントラル硝子宇部工場向け(2009年10月18日限りで廃止)の石灰石輸送は宇部興産専用道路を使用したトラック輸送に切り替えられている。宇部興産は自社の専用道路である宇部興産専用道路の使用を開始するまでは、宇部地区と伊佐地区との間の物資輸送に鉄道貨物を多用していた。両地区を結ぶ美祢線・宇部線には石灰石を満載した石炭車を長く連ねた専用貨物列車が昼夜を問わず多数運転されており、宇部本社前には事実上自社専用の貨物駅となっていた宇部港駅が設けられていた。
2014年09月吉日 美祢線大嶺支線:美祢線大嶺支線は美祢線の南大嶺駅から分岐していた路線で、1905年9月13日に山陽鉄道・厚狭〜大嶺間が開通した。沿線の過疎化や大嶺炭鉱の閉山などで需要が減り、1997年4月1日JR美祢線大嶺支線(南大嶺〜大嶺間、2.8km)廃止。
2014年09月吉日 羽越本線旧線(間島駅-村上駅):羽越本線(うえつほんせん)は、新潟県新潟市秋葉区の新津駅から秋田県秋田市の秋田駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)。このほか、酒田駅から酒田港駅までの日本貨物鉄道(JR貨物)の貨物支線を持つ。1924年(大正13年)7月31日 村上駅 - 鼠ヶ関駅間 (41.6km) が延伸開業。村上線を羽越線に編入して新津駅 - 秋田駅間・酒田駅 - 最上川駅間が羽越線として全通。間島駅・越後早川駅・桑川駅・越後寒川駅・勝木駅・府屋駅が開業。1964年(昭和39年)7月7日:国鉄理事会にて村上駅 - 間島駅間の線増工事決定。1967年(昭和42年)10月14日:村上駅 - 間島駅間が複線化。
2014年08月吉日 日鉄鉱業喜茂別鉱山専用鉄道胆振線喜茂別駅から日鉄鉱業喜茂別鉱山専用鉄道が分岐していた。喜茂別駅を称した駅は、2つ存在した。ひとつは胆振鉄道が開業した際に終着駅として設置した喜茂別駅(初代)。もうひとつは胆振鉄道を合併した胆振縦貫鉄道が、伊達紋別方面に路線を延長する際に、喜茂別駅(初代)と留産駅の間に新設した西喜茂別駅(にしきもべつえき)を国有化時に改称したものである。胆振縦貫鉄道開業後は、西喜茂別駅 - 喜茂別駅(初代)間は貨物支線(キロ程0.7km)となっていたが、国有化の際に喜茂別駅(初代)は旧・西喜茂別駅構内に併合され、廃止となった。1938年(昭和13年) 喜茂別駅(初代)-字福島の日鉄鉱業上喜茂別鉱山間に専用鉄道6.6kmが開通。1957年(昭和32年)日鉄鉱業喜茂別鉱山専用鉄道撤去。
2014年08月吉日 胆振線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道伊達市(胆振支庁管内)の伊達紋別駅で室蘭本線から分岐し、虻田郡倶知安町(後志支庁管内)の倶知安駅で函館本線に接続する。国鉄再建法の制定に伴い、第2次特定地方交通線に指定され、1986年に廃止された。1944年には、胆振縦貫鉄道が戦時買収され、京極線と合わせて胆振線となっている。枝線となった京極 - 脇方間については、鉱山の閉山により輸送量が減少し、赤字83線の取組みの中で1970年に廃止された。残った伊達紋別 - 倶知安間についても、1980年に国鉄再建法が成立すると、有珠山噴火による運休のあった昭和52年度を含む54年度までの3カ年の輸送密度をもとに、第2次特定地方交通線に指定され、1986年に廃止された。
2014年08月吉日 寿都鉄道は、北海道寿都郡黒松内町の黒松内駅から同郡寿都町の寿都駅を結んでいた鉄道路線、およびそれを運営していた鉄道会社。寿都町は、ニシン漁のおかげで明治の頃からにぎわった町であった。そのため、町に函館 - 小樽間鉄道(函館本線)に連絡する支線を敷設して欲しいという要望があり、ことあるごとに関係機関に要請が行われていた。しかし、鉄道敷設に必要な国会の議決が早急には得られなかったため、民間で設立した後に政府に買い上げてもらうこととした。1968年に豪雨による河川増水で路盤が流出し、同年8月14日に運行休止に追い込まれた。休止中の路線は1972年5月11日付けでに正式に廃止許可となり、会社も清算されることとなった。
2014年08月吉日 茅沼炭鉱専用鉄道:茅沼港は港が小さいため大型船が接岸できず、艀荷役により岩内港へ石炭を運んでいた。戦後になって炭鉱に近い平野部の発足(はつたり)に貨物駅を設けて岩内駅から専用鉄道を敷設し、選炭場から発足駅までは索道で搬出する形に切り替えられた。この山側に残った索道については、1948年(昭和23年)7月から、選炭場から発足駅近傍まで隧道を掘削して、駅から隧道出口まで側線を延伸するという切り替え工事に着手したが、進捗の遅れと会社経営悪化により、当初の竣工予定年であった1950年(昭和25年)になって工事半ばで中止された。
2014年08月吉日 国富鉱業所精錬所専用線岩内線の国富駅から国富鉱業所精錬所への専用線が分岐していた。国富鉱山(くにとみこうざん)は、北海道共和町にかつて存在した鉱山である。グリーンタフ活動により生じた黒鉱鉱床から金・銀・銅・亜鉛など、多様な金属を産出していた。1908年(明治41年)に操業開始、1935年(昭和10年)には現在の住友金属鉱山が買収し、全盛期を迎える。1948年(昭和23年)には資源枯渇から採掘を中止、鉱山の精錬施設だけを利用した総合精錬所として特化した。更に1973年(昭和48年)には精錬需要も低下したことから電子部品の製造工場(住友金属鉱山国富事業所(電子・機能性材料事業部))として衣替えしており、鉱山や精錬所としての機能は消失している。
2014年08月吉日 岩内線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道岩内郡共和町の小沢駅で函館本線から分岐し、同郡の岩内町の岩内駅までを結んでいたが、1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)に廃止された。岩内線は、岩内と函館本線を接続する目的で、軽便鉄道法に則って建設され、岩内軽便線(いわないけいべんせん)として1912年(大正元年)に全線が開業した。岩内はニシン漁で栄えた日本海に面した良港で、岩内線沿線にも茅沼炭鉱や、銅を産出する国富鉱山があり、海産物や石炭、鉱石の輸送で活況を呈した。1980年に国鉄再建法が成立すると第1次特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。
2014年08月吉日 美幸線(未成区間)は計画では、美深より仁宇布を経てオホーツク海沿岸枝幸町の興浜北線北見枝幸駅に至る予定で、仁宇布から枝幸方にかけて一部工事が行われたものの、1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)9月17日に全線廃止された。線名は予定線の起終点から採られており、「美」は起点の美深、「幸」は終点の北見枝幸(枝幸郡枝幸町)である。枝幸へは興浜北線が浜頓別で天北線に接続、予定線の興浜線が雄武で興浜南線に接続し、興部で名寄本線に連絡する予定であったが、大消費地である旭川、札幌に出るには遠回りとなることから長年にわたって請願が続けられていたものである。1964年(昭和39年)に第1期線である美深 - 仁宇布間が部分開業し、以遠も日本鉄道建設公団によって建設が進められた。
2014年08月吉日 美幸線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道中川郡美深町の宗谷本線美深駅を起点とし、同町内の仁宇布駅に至る路線であった。計画では、美深より仁宇布を経てオホーツク海沿岸枝幸町の興浜北線北見枝幸駅に至る予定で、仁宇布から枝幸方にかけて一部工事が行われたものの、1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)9月17日に全線廃止された。枝幸へは興浜北線が浜頓別で天北線に接続、予定線の興浜線が雄武で興浜南線に接続し、興部で名寄本線に連絡する予定であったが、大消費地である旭川、札幌に出るには遠回りとなることから長年にわたって請願が続けられていたものである。
2014年08月吉日 室蘭本線旧線(大岸駅 - 豊泉駅 - 豊浦駅):1928年(昭和3年)9月10日:静狩駅 - 伊達紋別駅間が延伸開業し、長輪西線・長輪東線を併せて長輪線とする。延伸開業区間に礼文駅、小鉾岸駅(現在の大岸駅)、弁辺駅(現在の豊浦駅)、虻田駅(現在の洞爺駅)、有珠駅、長流駅(現在の長和駅)を新設。1931年(昭和6年)4月1日長万部駅 - 岩見沢駅間と東輪西駅(現在の東室蘭駅) - 室蘭駅間を区間統合し、室蘭本線とする(長輪線を室蘭本線に編入し、東輪西駅 - 室蘭駅間を支線とする)。1968年(昭和43年)9月25日室蘭本線の大岸駅 - 豊浦駅間複線化に伴う経路変更により廃止。
2014年08月吉日 興浜線(未成線)は、日本国有鉄道(国鉄)が計画していた北海道紋別郡興部町の興部駅と枝幸郡浜頓別町の浜頓別駅間の鉄道路線である。一部区間が興浜南線興浜北線として開業したものの、全通することなく1985年に廃止された。改正鉄道敷設法別表第145号前段に規定された「北見国興部ヨリ幌別、枝幸ヲ経テ浜頓別ニ至ル鉄道」である。このうち、興部 - 雄武間が1935年(昭和10年)に興浜南線として、北見枝幸 - 浜頓別間が1936年(昭和11年)に興浜北線として先行開業したが、開業区間も太平洋戦争の激化により1944年(昭和19年)11月に不要不急線として休止された。未成区間のうち、雄武 - 北見音標間はほぼ路盤も完成した。
2014年08月吉日 室蘭本線旧線(礼文駅-大岸駅):1928年(昭和3年)9月10日:静狩駅 - 伊達紋別駅間が延伸開業し、長輪西線・長輪東線を併せて長輪線とする。延伸開業区間に礼文駅、小鉾岸駅(現在の大岸駅)、弁辺駅(現在の豊浦駅)、虻田駅(現在の洞爺駅)、有珠駅、長流駅(現在の長和駅)を新設。1931年(昭和6年)4月1日長万部駅 - 岩見沢駅間と東輪西駅(現在の東室蘭駅) - 室蘭駅間を区間統合し、室蘭本線とする(長輪線を室蘭本線に編入し、東輪西駅 - 室蘭駅間を支線とする)。1975年(昭和50年)10月22日礼文駅 - 大岸駅間複線化に伴う経路変更により廃止。
2014年08月吉日 興浜北線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道枝幸郡浜頓別町の浜頓別駅で天北線から分岐し、オホーツク海沿岸を南下して枝幸郡枝幸町の北見枝幸駅に至っていた。 1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。改正鉄道敷設法別表第145号に規定する予定線の一部で、本来は興浜南線と結んで興部 - 浜頓別間のオホーツク海沿岸を縦貫する鉄道(興浜線)の一部となる計画であった。1936年に北見枝幸までが開業したが、太平洋戦争末期の1944年には不要不急線として全線が休止、全線路が撤去された。終戦の翌9月には枝幸村から政府への復旧陳情が行われるとすぐに許可が下り、全道から工事作業者を募集して2ヶ月で復活させた。
2013年11月吉日
2014年05月吉日
2014年08月吉日
名寄本線は、北海道旅客鉄道/日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道名寄市の名寄駅で宗谷本線から分岐し、紋別市を経て紋別郡遠軽町の遠軽駅で石北本線に接続する本線と、湧別町の中湧別駅で分岐し湧別駅に至る支線からなっていた。1980年に国鉄再建法が成立すると、第2次特定地方交通線に指定されたが、冬季の代替輸送に問題があるとして他の3線(天北線、池北線、標津線)と共に一時、廃止承認が留保された。しかし、結局1985年に問題がなくなったとして追加廃止承認された。廃止された特定地方交通線の中では唯一、「本線」を名乗っていた。
2014年08月吉日 東北肥料秋田工場専用鉄道:JR東日本羽越本線の羽後牛島駅から分岐していた。1938年11月朝日化学工業株式会社として設立1943年1月東北肥料株式会社に社名変更。1983年4月株式会社サン化学と合併。同時にラサ工業と日東化学工業(現三菱レイヨン)のリン酸肥料事業の譲渡を受け、コープケミカル株式会社に社名変更。1994年(平成6年)3月東北肥料秋田工場専用鉄道廃止、貨物列車の発着がなくなる。 この他、専用線より帝国石油秋田油槽所や三菱マテリアル秋田製錬所に至る専用線も分岐しており、貨物輸送を行っていた。コープケミカル株式会社(英文名称Co-op Chemical Co.,Ltd.)は、東日本地区を地盤とする肥料メーカー。リン酸系化学肥料を主力とするほか、鉱物系の新素材も製造している。
2014年08月吉日 国立新屋食糧倉庫専用線:JR東日本羽越本線の新屋駅から分岐していた。1934年(昭和9年)秋田県販売購買組合連合会が食料倉庫として建設。1939年(昭和14年)農林省食糧庁へ寄贈し、国立新屋食糧倉庫となる。1986年(昭和61年)11月1日車扱貨物の取扱いを全廃。 この頃まで、当駅から国立食糧倉庫へ至る専用線があった。国立新屋食糧倉庫への専用線は1970年代に貨物列車の設定が無くなったものの、1990年3月の倉庫の用途廃止まで線路が残っていた。
2014年08月吉日 十條製紙秋田工場専用線:JR東日本羽越本線の新屋駅から分岐していた。1940年(昭和15年)12月東北パルプ秋田工場操業開始。1968年(昭和43年)3月31日十條製紙に合併。1980年(昭和55年)5月1日 秋田工場を分社化、十條パルプ株式会社を設立(1986年(昭和61年)3月19日工場操業停止、同年5月31日会社解散)。1986年(昭和61年)11月1日車扱貨物の取扱いを全廃。 この頃まで十條パルプ工場(旧・十條製紙秋田工場)への専用線があった。パルプ工場からは数多くの貨物列車が設定されていたが、1986年3月19日に工場が閉鎖されたために廃止された。跡地は解体されて更地になり、現在はその一部が西部工業団地になっている。
2014年08月吉日 中央線旧線(甲斐大和駅-勝沼ぶどう郷駅):大日影トンネルは、1896年(明治29年)に始まった中央本線八王子駅 - 甲府駅間建設に伴い掘削された。レンガ積みで造られた同トンネルは1902年(明治35年)に貫通、1903年(明治36年)に同区間は単線で開通し、勝沼・塩山・甲府などの甲州街道沿いの町々と八王子・東京との間の物流の所要時間は短縮され、ぶどうやワインの輸送量が爆発的に増加するなど、鉄道とトンネルの開通は地域の経済発展に大きく寄与した。輸送量の増大に合わせ1931年(昭和6年)に同区間は電化、1968年(昭和43年)に複線化され、複線化の際に、単線で作られた大日影トンネルは下り専用とされた。1997年(平成9年)に、線形改良等のため隣に新大日影トンネル上下線が開通、大日影トンネルは用途を廃止された。
2014年08月吉日 中央本線旧線(富士見駅-信濃境駅):中央本線の富士見駅-信濃境駅間には曲線緩和を含めた複線化新線建設のため、廃止された区間(旧線跡)がある。1904年(明治37年) 12月21日:韮崎駅 - 富士見駅間(21.5M≒34.60km)が延伸開業。日野春駅・小淵沢駅・富士見駅が開業。1980年(昭和55年)9月25日:信濃境駅 - 富士見駅間が複線化。線路付け替えにより改キロ (-0.2km)。この時に旧線が廃止。旧線は3つの旧隧道や立場川橋梁が残る。
2014年08月吉日 中央本線旧線(穴山駅-日野春駅):中央本線の穴山駅-日野春駅間には曲線緩和を含めた複線化新線建設のため、廃止された区間(旧線跡)がある。1904年(明治37年)12月21日:韮崎駅 - 富士見駅間(21.5M≒34.60km)が延伸開業。日野春駅・小淵沢駅・富士見駅が開業。1971年(昭和46年)9月28日:穴山駅 - 日野春駅間が複線化。この時旧線が廃止した。
2014年08月吉日 中国鉄道稲荷山線:中国鉄道時代の1911年(明治44年)から1944年(昭和19年)まで、備中高松駅から最上稲荷門前の稲荷山駅へ至る稲荷山線(2.4km)が分岐していた。1911年(明治44年)5月1日 - 中国鉄道稲荷山線が開業る。1944年(昭和19年) 1月10日 - 中国鉄道稲荷山線休止。6月1日 - 中国鉄道の鉄道部門が国有化され、国有鉄道吉備線の駅となる。同時に稲荷山線が正式に廃止される。終点稲荷山駅から徒歩で中国稲荷山鋼索鉄道に連絡していた。当初はこの路線のみ762mm軌間であったが、のちに吉備線と直通できるよう1067mmに改軌されている。
2014年08月吉日 羽後交通横荘線は、秋田県内陸南部の横手盆地を走っていた羽後交通の鉄道路線。横手市の横手駅と由利郡東由利村(現・由利本荘市)の老方駅を結んでいたが、1971年(昭和46年)に全線が廃止された。通称「横荘っこ」と呼ばれていた。大正時代に「釜石 - 横手 - 本荘間」を結ぶ“陸羽横断鉄道構想”で建設が始まったが、昭和恐慌や戦争、水害などの度重なる天災により、最後まで目的を果たせず「壮大な構想」で終わった。現在、由利本荘市の羽後本荘 - 矢島を結んでいる由利高原鉄道鳥海山ろく線のうち羽後本荘 - 前郷間は、横荘鉄道西線として建設され、本来は横荘線(東線)「老方駅」と連絡する計画であった。
2014年08月吉日 羽後交通雄勝線は、秋田県湯沢市と同県雄勝郡羽後町を結んでいた羽後交通の電気鉄道路線。近在の林産、農産物を県内外に運ぶ目的で雄勝鉄道(おがちてつどう)として建設された。1928年(昭和3年)の開通以来、苦しい経営が強いられ、電気代が払えず肝心の電気が止められたりしたが、住民の強い要望により西馬音内 - 梺間が延長開業された。モーターリゼーションなどによる営業成績の悪化に伴い、1967年(昭和42年)の部分廃線を経て1973年(昭和48年)に全線廃止となった。
2014年08月吉日 秋田中央交通線は、かつて秋田中央交通が運営していた、秋田県南秋田郡八郎潟町の八郎潟駅と同郡五城目町の五城目駅とを結んでいた鉄道路線。僅か3.8kmと短い路線だった。一時は五城目から上小阿仁村、鷹巣町(現北秋田市)方面へ抜ける路線網を延伸する構想もあったものの実現には至らず、1969年(昭和44年)夏に全線が廃止された。 代替輸送として、同社が路線バスを運行している。開業時に用意された車両はガソリン機関車2両客車2両貨車4両。ガソリン機関車は同年に開業した仙台軌道(仙台鉄道)と同じアメリカミルウォーキー社製で一般営業した鉄軌道では最も早いガソリン機関車導入とされる。ただ非力であり脱線もすることから1925年から蒸気機関車が導入され置き換えられた。
2014年07月吉日 日本鉱業佐賀関鉄道(通称 佐賀関線)は、かつて大分県北海部郡佐賀関町(現・大分市)の日鉱幸崎駅から日鉱佐賀関駅までを結んでいた、日本鉱業(日鉱、現・JX日鉱日石金属)が運営していた鉄道路線である。佐賀関半島北岸に太平洋戦争中から軍需輸送のために建設が進められた鉄道であったが、開業は終戦後になった。戦後の九州では唯一の軽便鉄道(762mmゲージ路線)として珍しい存在であったが、開業から僅か17年の1963年(昭和38年)に廃止された。廃線跡の大半は、地元の生活道路や遊歩道・サイクリングロード等として活かされている。廃止直前は全線の所要が25 - 30分、区間列車含め20往復の本数が確保されていた。
2014年07月吉日 大分交通豊州線は、かつて大分県宇佐郡高家村の日本国有鉄道(国鉄)日豊本線豊前善光寺駅から同郡四日市町の豊前四日市駅を経て同郡東院内村の豊前二日市駅までの間(走行区間はすべて現・宇佐市)を結んでいた、大分交通の鉄道路線である。当初から経営は苦しく、少ない客貨の輸送量の上に自動車の攻勢と久大本線の開通で収入は減少、さらに自然災害にも苦しめられた。元々、玖珠郡玖珠町まで路線を延ばす予定であったが、経済的理由から放棄された。累積赤字を抱えバス代行にした矢先のルース台風の被害により廃止を迎えた。
2014年07月吉日 日鉄鉱業赤谷鉱業所専用鉄道は、かつて新潟県北蒲原郡赤谷村内にあった専用鉄道。日鉄鉱業赤谷鉄山から産出される鉄鉱石を運搬するために日本国有鉄道(国鉄)赤谷線東赤谷駅 - 赤谷鉄山間に敷設されていた。鉱石の輸送手段として各坑口(簀立沢、水無、源兵エ野巣、場割澤)より索道を使い袖上平に集め袖上平(赤谷鉄山) - 東赤谷間に鉄道を再び敷設し、赤谷 - 東赤谷間は国鉄が建設することとなった。 1941年(昭和16年)4月に赤谷鉄山は採掘を開始。鉄道の開通をまち6月15日開山式を挙行した。昭和17年からは強制徴用により増産体制を整え18-19年度と年間10万トンの生産を達成した。ところが終戦後は生産量が激減。規模を縮小することになった。
2014年07月吉日 赤谷線は、日本国有鉄道が運営していた鉄道路線である。新潟県新発田市の新発田駅と同市内の東赤谷駅を結んでいたが、1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1984年に廃止された。新発田 - 赤谷間は、赤谷付近から産出する鉄鉱石の輸送のため、官営製鉄所の専用線として1920年(1922年(大正11年)12月とする説もある)に敷設されたものであるが、第一次世界大戦後の不況のため使用されることなく放置されていたものを、地元の請願によって鉄道省が1925年に無償譲渡を受けて、赤谷線として開業したものである。末端の赤谷 - 東赤谷間は、鉄鉱山の再開発のため1941年に延長されたもので、東赤谷には鉱山からの積み出し施設が設置された。東赤谷駅は、33‰の急勾配を登ったところにあり、国鉄唯一のスイッチバックの終着駅であった。
2014年07月吉日 電気化学工業新発田サービスステーション専用線:新発田駅は現在、JR貨物の駅は臨時車扱貨物の取扱駅となっており、貨物列車の発着がなくなっている。かつては、3番線外側にある側線から駅の東にある電気化学工業新発田サービスステーションへ至る専用線が分岐していた。そのため当駅には青海駅からセメントが到着していたが、2002年(平成14年)3月ごろに廃止された。
2013年08月吉日
2014年07月吉日
大分交通宇佐参宮線は、かつて大分県豊後高田市の豊後高田駅から日本国有鉄道(国鉄)日豊本線の宇佐駅を経て、宇佐神宮のある宇佐八幡駅までを結んでいた大分交通の鉄道路線である。元々、日豊本線から宇佐神宮へのアクセス路線として建設され、大分交通の経営するバス路線と競合するため廃止された。東方面へ更に延伸し、国東線と共に国東半島一周鉄道を形成する計画もあったが、実現せず終わった。
2014年07月吉日 九州石油大分製油所専用線:日豊本線の鶴崎駅から九州石油(現・JX日鉱日石エネルギー)大分製油所へ専用線が延びていた。1964年(昭和39年)九州石油(現・JX日鉱日石エネルギー)大分製油所への専用線が運行開始。1997年(平成9年)2月28日廃止。貨物列車の最終運行日。末期は、九州石油専用線から神埼駅への石油輸送列車のみ運行されていた。
2014年07月吉日 信越本線貨物支線:新潟貨物ターミナル駅から沼垂駅、焼島駅へ分岐する貨物支線。かつては、焼島駅周辺にある北越紀州製紙新潟工場へ専用線や日本鋼管新潟製造所や旭カーボン本社工場などへ続く専用線もあった。旭カーボン線からは、小川駅(ブリヂストン東京工場)向けのカーボンブラックが発送されていた。また2010年10月4日発の列車まで有蓋車ワム80000形を使用した輸送が行われていたが、コンテナ輸送に切り替えられて廃止となった。1997年まではワキ5000形も使用されていた。2004年(平成16年)ごろまでは、新日本石油加工新潟工場へ至る専用線が沼垂駅から分岐し、沼垂駅には根岸駅より石油類が到着していた。また濃硫酸の到着もあり、沼垂駅でタンク車からタンクローリーへの詰め替えを行っていた。
2014年07月吉日 新潟臨海鉄道:新設された新潟港東港区(新潟東港)の輸送手段として貨物鉄道を敷設するため、1969年4月、旧国鉄、新潟県、新潟市、荷主企業などの共同出資により第三セクターによる貨物専業の鉄道会社「新潟臨海鉄道」が設立された。まず1970年10月に、黒山 - 藤寄間が開通。更に1972年3月に藤寄 - 太郎代間が開通して全通した。この路線が、新潟臨海鉄道太郎代線である。非電化で全線単線。同線は、太郎代埠頭からの化学薬品などの輸送などにあたり、保有するディーゼル機関車は線内の他、新潟貨物ターミナル駅や中条駅などJR線内でも入換作業等に充当された。新潟臨海鉄道は会社としても2002年10月31日を以って解散した。
2014年07月吉日 米原蒸気機関車避難壕:ここに存在する2つの洞窟(左側は奥行52m止め、右側は130mで貫通)は、太平洋戦争末期に、日本の輸送の大動脈である東海道線及び北陸線の列車を引っ張る蒸気機関車を連合国軍の空爆から守るために掘られた防空壕跡です。この岩脇山は岩盤が固くその上当時は物量が乏しく、火薬、スコップ、ツルハシ、トロッコなどの手作業のため難工事であったことがうかがえます。しかしながら、完成することなく終戦となったが、作業に従事した人たちの汗と涙の結晶である防空壕跡が、長い間ゴミ捨て場として放置されたままになっていました。そこで「岩脇まちづくり委員会」では戦争の悲劇を風化させないために戦争の遺跡として保存するため整備した。
2014年06月吉日 坂川鉄道は、かつて岐阜県恵那郡坂下町(現・中津川市)の新坂下駅と、恵那郡川上村(現・中津川市)の丸野駅を結んでいた鉄道路線(軽便鉄道)を運営していた鉄道事業者である。本社は岐阜県恵那郡川上村170番地にあった。木曽川の支流川上川沿いに存在した。木材運搬を目的とした森林鉄道であるが、トロッコを利用して旅客営業が行なわれ、一日3往復程度運行されていた。丸野駅から先には坂下森林鉄道、途中駅の奥屋駅からは田立森林鉄道が接続していた。運営は川上村と宮内省(株式の過半を保有)が行なっていた。これは周辺の森林が神宮林(神宮備林)の一部であったことによる。1956年(昭和31年) 坂川鉄道線廃止。
2014年06月吉日 本州製紙中津工場専用線:中央本線中津川駅から本州製紙中津工場(現王子エフテックス中津工場)へ延びていた。本州製紙中津工場引込線は中津川駅から西へ向かい、貯木場(現在は本町公園)から木曽川の支流の中津川沿いに南下し、本州製紙中津工場に至る。1948年(昭和23年):本州製紙中津工場貨物専用線1067mmに改軌。国鉄中央本線中津川駅と直接乗り入れを開始。B6形が使用される。1969年(昭和44年):本州製紙中津工場貨物専用線廃止。
2014年06月吉日 神鋼造機引き込み線:昭和40年代まで、養老鉄道養老線美濃青柳駅から、イビデン青柳事業所及び神鋼造機へ貨物引込み線があり、大垣駅経由で当時の日本国有鉄道へ貨物輸送をしていた。現在も美濃青柳駅構内の支柱や駅東の空き地にその名残がある。神鋼造機株式会社は、岐阜県大垣市本今町1682番地の2に本社を置く日本の重機械メーカーである。1943年に開設された神戸製鋼所大垣工場を母体とし、1950年に同社から分離する形で設立された。1950年代以降に製造した気動車用ディーゼルエンジンと変速機は日本国有鉄道(国鉄)にDMH17系エンジンおよびTC2系変速機として制式採用されており、国鉄時代に製造された気動車の多くがこのエンジンと変速機を使用している。
2014年06月吉日 三興製紙祖父江工場専用鉄道:かつては、森上駅から木曽川沿いにある旧三興製紙(現王子マテリア祖父江工場)までの専用鉄道が分岐していた。三興製紙は、段ボール原紙や白板紙などを生産していた板紙メーカーである。1999年10月1日高崎製紙が三興製紙を合併し、高崎三興株式会社に社名変更。大手製紙会社王子製紙の傘下にあった板紙メーカーで、2002年に王子板紙(現・王子マテリア)に吸収された。
2014年06月吉日 倉吉線は、かつて鳥取県倉吉市の倉吉駅から東伯郡関金町(現在は倉吉市の一部)の山守駅まで結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄再建法の施行により、1981年に特定地方交通線第1次廃止対象線区として承認され、1985年4月1日に全線廃止された。表定速度が時速20km以下の列車が9本あり、「日本一の鈍足列車運転線区」とも評された。「424列車」は西倉吉から倉吉までの6.8kmに27分もかかっており、表定速度は15.1km/hで「マラソンランナーより遅い」と評されていた。これは、当線の線路等級が低く(簡易線)、30kgレールが用いられており、その後の高規格化工事も行われなかったため、軸重の大きいDE10形ディーゼル機関車が牽引する列車は、高速で運転することができなかったためである。
2014年05月吉日 戸井線は、北海道函館市の函館本線五稜郭駅から戸井町(現函館市)の戸井駅までを結ぶ計画であった鉄道未成線である。函館 - 戸井 - 椴法華 - 川汲 - 砂原間の鉄道敷設運動の結果、改正鉄道敷設法別表第128号に「渡島國凾館ヨリ戸井ニ至ル鐵道」として規定された予定線であった。戦時中の1937年に、船舶輸送の短絡化(戸井町から青森県大間町への航路を利用)や、戸井町に要塞を建設するといった軍事的な目的で建設が開始された。9割方の路盤が完成していたものの、戦時中ということもあり資材不足のため1943年(昭和18年)に工事を中断。結局建設は再開されないまま中止となった。駅は終点の戸井駅を含めて9駅が予定されていた。
2014年05月吉日 大東糖業南大東事業所砂糖運搬専用軌道は沖縄県南大東島にあった大東糖業が所有するサトウキビを運搬する為敷設された軌道。島内に張り巡らされていたが、トラック輸送に切り替えられ廃止された。戦後1947年に宮城仁四郎は琉球列島米国軍政府より大東島における甘藷栽培の許可を得て1950年に大東糖業株式会社を設立し、廃墟となった大日本製糖の工場施設を復旧し1951年3月に南大東事業所として操業を開始した。時代とともに蒸気機関車からディーゼル機関車にかわりサトウキビの収穫作業も機械化がすすめられてきたが、西港への砂糖や糖蜜の輸送は1980年頃トラック輸送に切り替えられ、工場へのサトウキビ輸送は1983年の収穫を最期にトラック輸送に切り替えられ軌道は9月に廃止された。
2014年04月吉日 大隅線は、かつて鹿児島県曽於郡志布志町(現・志布志市)の志布志駅から同県国分市(現・霧島市)の国分駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄再建法施行により第2次特定地方交通線に指定され、1987年(昭和62年)に廃止された。線路跡はほとんどのところで道路化されたり遊歩道、農道になっていて、数ある廃線跡の中では比較的訪ねやすい。道路化された部分でも勾配標などがそのままになっている箇所も多い。トンネル部、橋梁部、論地 - 吾平間の一部(圃場整備によって田圃になっている)、大隅高須 - 古江間のフィットネスパース未完成部分などをのぞいて、全線に渡ってほぼたどることができる。大隅高須駅の鹿屋方にあるトンネルはフィットネスパースの一部として利用されている。
2014年04月吉日 可部線は、広島県広島市西区の横川駅から同市安佐北区の可部駅に至る西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。可部駅から旧・河戸駅周辺まで1.6kmの延伸(電化復活、2駅新設)が予定されている。可部駅以北は国により建設された。1968年に国鉄諮問委員会が提出した意見書で、可部駅 - 加計駅間が鉄道としての「使命を終えた」路線、いわゆる赤字83線に挙げられ廃止勧告を受けた一方で、建設は続けられ、翌1969年に三段峡駅までが開通した(新規開業区間は非電化)。2003年には非電化区間の可部駅 - 三段峡駅間が廃止された。なお同区間内には、1954年の布駅 - 加計駅開業により国鉄路線延長が2万kmに達した地点(坪野駅 - 田之尻駅間。坪野寄り500m)が含まれており、位置を示す記念碑だけが取り残されることとなった。
2014年04月吉日 宇品線は、広島県広島市の広島駅から南下し宇品駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。現在は廃止されている。戦後は沿線の学校、大学病院、県庁仮庁舎、工場などへの通勤・通学および貨物輸送を行っていた。定期券客をのぞいて旅客営業は1966年(昭和41年)限りで廃止(同時に広島駅0番線も廃止され、市販の時刻表にも非掲載となる)。その定期券旅客扱いおよび貨物扱いも1972年(昭和47年)に廃止され、国鉄の営業線としては使命を終えた。その後は「宇品四者協定線」として通運業者四者(広島県経済連・日本通運・トナミ運輸・広島運輸)が、広島駅東側に位置する貨物駅の東広島駅(現在の広島貨物ターミナル駅) - 宇品駅間の国鉄側線扱いとして使用していたが、1986年(昭和61年)に廃止された。
2014年03月吉日 常磐線旧線(桃内駅-鹿島駅):常磐線は、東京都荒川区の日暮里駅から千葉県北西部、茨城県、福島県の太平洋側を経由して宮城県岩沼市の岩沼駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。2011年に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)による被害と、それに起因した福島第一原子力発電所事故による帰還困難区域(事故発生当初は警戒区域)設定のため、広野駅 - 原ノ町駅間および相馬駅 - 浜吉田駅間が運休となっている。桃内駅からは畑が多い小さな街の駅を過ぎ、やがて民家が目立ってくると、「雲雀原」の異名を持つ原町の中心駅・原ノ町駅に至る。原町は、東洋一の高さを誇ったラジオタワー・原町無線塔で知られる街である。原ノ町駅を過ぎ、鹿島駅に到着する。この区間には常磐線の旧線のトンネルが幾つか存在する。
2014年03月吉日 中央線旧線(小淵沢駅-信濃境駅):中央本線は、東京都千代田区の東京駅から新宿区の新宿駅、長野県塩尻市の塩尻駅を経由して愛知県名古屋市中村区の名古屋駅までを結ぶ鉄道路線(幹線)である。このうち東京駅 - 塩尻駅間は東日本旅客鉄道(JR東日本)、塩尻駅 - 名古屋駅間は東海旅客鉄道(JR東海)の管轄となっている。小淵沢駅を過ぎると長野県に入る。この周辺区間では白樺林が絶景であり、標高も900mを越えて夏でも比較的涼しい高原地帯である。1928年(昭和3年)11月1日信濃境駅は国鉄の駅として開業。旅客および貨物の取扱を開始。駅名は開業当時の村名である長野県諏訪郡境村に由来する。1983年(昭和58年)6月21日:小淵沢駅 - 信濃境間が複線化。小淵沢駅 - 信濃境間の旧線が廃止になる。
2014年03月吉日 土佐電気鉄道伊野線(とさでんきてつどういのせん)は、高知県高知市のはりまや橋と同県吾川郡いの町の伊野を結ぶ、土佐電気鉄道の軌道路線である。伊野停留場(いのていりゅうじょう)は、高知県吾川郡いの町にある土佐電気鉄道伊野線の電停。はりまや橋方面に向かって左方の少し奥まった場所に伊野車庫が設置されていた。現在はすべて折り返し運転となり、跡地はパークアンドライド用の駐車場に転用された。車庫時代には台車を7形に転用した旧300形321号の廃車体が長らく置かれていたが、車庫廃止とともに解体された。その後は線路1本だけの留置線となっていたが、待合室改築時に線路は残したままの状態で本線との間のポイントを撤去、舗装で完全に分離された。
2014年03月吉日 鹿児島交通枕崎線は、かつて鹿児島県日置郡伊集院町(現・日置市)の伊集院駅から同県枕崎市の枕崎駅までを結んでいた鹿児島交通の鉄道路線である。1984年(昭和59年)に廃止された。南薩線(なんさつせん)と呼ばれ親しまれていた。枕崎線からは、支線として万世線および知覧線が分岐していた。1914年(大正3年)に南薩鉄道によって開業して以来、薩摩半島の重要な交通機関として役割を果たしてきたが、1960年代に入ると南薩鉄道は経営難に陥り、1964年(昭和39年)9月に大隅半島でバスを営業していた三州自動車に合併され鹿児島交通が成立した。以降も鉄道部門は貨物輸送の廃止などの合理化を進めたが、沿線人口の減少や自動車の普及に加えて、沿線から鹿児島に向かう客も同社のバスに流れるようになった。
2014年03月吉日 岩日北線:旧岩日線のうち、錦町駅以北の区間については日本鉄道建設公団が岩日北線として1967年11月19日から建設が行われていたが、同駅以南の特定地方交通線指定に伴って建設が凍結された。建設中だった錦町 - 日原間のうち錦町から六日市までの区間は大半の路盤が完成していた。この路盤の有効活用策として、旧錦町により錦町駅から雙津峡温泉近くの周防深川付近までを「岩日北線記念公園」として整備、2002年からタイヤ付き遊覧車(愛称:とことこトレイン)が運行されている。周防深川駅 - 高根口駅間にある第三須川トンネルは、現在防災科学技術研究所の錦地震観測施設として活用されている。六日市駅付近は六日市温泉「ゆらら」が建設されており、六日市トンネル(高根口 - 六日市間)から六日市温泉にかけては遊歩道として整備されている。
2014年03月吉日 セントラル硝子宇部工場専用線:宇部岬駅の西にあるセントラル硝子宇部工場へ続く全長1キロメートルほどの専用線があり、この工場へ石灰石を輸送するため、美祢線重安駅(太平洋セメント重安鉱業所最寄り駅)と当駅の間に専用貨物列車が運行されていた。宇部駅以東の区間の有効長の制約から、厚狭駅で編成を分割し荷役を2回に分けて行うため、宇部線内は2往復の運転となる。なお、当駅では貨物列車の牽引機関車は上下本線を機回し線として使用していた。貨物列車は、2009年(平成21年)10月18日をもって運行終了している。かつてはセントラル硝子宇部工場への専用線の途中から、UMG ABS宇部工場(旧・宇部サイコン宇部工場)へ至る専用線が分岐していた。この専用線はコンテナ貨物の輸送にも使用されていたが、1987年(昭和62年)に廃止された。
2014年03月吉日 東ソー南陽事業所専用線:新南陽駅南側に広がる側線群の西端から南側に分岐し東ソー株式会社南陽事業所へ至る専用線がある。かつてはタンク車による化学薬品輸送が行われていたが、その後タンクコンテナによる輸送となった。またセメントもかつては取り扱っていた。この専用線は、2007年4月27日をもって運行休止となった。また、上記の東ソー専用線から分岐し日本ポリウレタン工業株式会社南陽工場や信越化学工業株式会社(現・信越ポリマー株式会社南陽工場)へ至る専用線や、当駅東側から分岐し駅南東の徳山曹達専用線もあったが、いずれも廃止された。
2014年03月吉日 徳山曹達専用線:新南陽駅東側から分岐し駅南東の徳山曹達株式会社(現・株式会社トクヤマ徳山工場)(昭和19年10月開通)へ至る専用線もあったが廃止された。また、新南陽駅南側に広がる側線群の西端から南側に分岐し東ソー株式会社南陽事業所へ至る専用線がある。かつてはタンク車による化学薬品輸送が行われていたが、その後タンクコンテナによる輸送となった。またセメントもかつては取り扱っていた。この専用線は、2007年4月27日をもって運行休止となった。また、上記の東ソー専用線から分岐し日本ポリウレタン工業株式会社南陽工場や信越化学工業株式会社(現・信越ポリマー株式会社南陽工場)へ至る専用線もあった。
2014年03月吉日 鹿児島交通知覧線は、かつて鹿児島県日置郡金峰町(現・南さつま市)の阿多駅から同県川辺郡知覧町(現・南九州市)の知覧駅までを結んでいた鹿児島交通の鉄道路線である。1965年(昭和40年)に廃止された。薩南中央鉄道がこの線を建設した時、当初は加世田駅を起点とする計画があった。しかしながら当時の加世田駅は南薩鉄道の終点駅で、知覧、川辺、枕崎方面からの旅客・貨物が離合集散する拠点となり、周辺の旅館・商店・馬車業者などが大変潤っていた。
2014年03月吉日 南薩鉄道万世線は、かつて鹿児島県加世田市(現・南さつま市)の加世田駅から同市の薩摩万世駅までを結んでいた南薩鉄道(鹿児島交通の前身)の鉄道路線である。1962年(昭和37年)に廃止された。「軌跡-南薩鉄道70年」によると1960年(昭和35年)当時は17往復の列車が走っていた。朝ラッシュ時20分、日中と夜間は60分おきに加世田 - 薩摩万世間をピストン輸送する運転形態をとっていた。その他、数往復の貨物列車も運転されていた。路線跡はサイクリングロードとして整備され、2007年(平成19年)に全線が完成した。
2014年02月吉日 東急東横線は、東京都渋谷区の渋谷駅と神奈川県横浜市西区の横浜駅を結ぶ東京急行電鉄(東急)の鉄道路線である。路線図や駅ナンバリングで使用される路線カラーは赤色、路線記号はTY。2004年(平成16年)1月31日 東白楽駅 - 横浜駅間を高架線から地下線に切り換え、反町駅と横浜駅が地下ホームとなる。跡地は緑地・遊歩道化された。東横フラワー緑道は、東急東横線の地下化により生じた東白楽駅 - 横浜駅間の線路跡に横浜市によって整備された全長1.4kmの緑道(公園)である。
2014年01月吉日 国見山石灰鉱業専用線:南伊勢町の旧南島町では国見山石灰鉱業株式会社の石灰鉱山から港まで国見山石灰鉱業専用線が運用されていたため、国道260号に踏み切りが設置されていた。この鉱山は1934年(昭和9年)に大阪セメント株式会社により開かれ、昭和54年6月に国見山石灰鉱業株式会社に譲り渡された。1985年(昭和60年)には51名の従業員により564,000トンの石灰石が船に積込まれた。鉱山から吉津港までの約3Kmを結んでいた。運転は平日のみで1時間間隔で往復していた。2001年1月からベルトコンベア輸送が開始され、国見山石灰鉱業専用線は廃止されました。
2014年01月吉日 奥多摩湖ロープウェイ:小河内観光開発株式会社は、東京都西多摩郡奥多摩町にある奥多摩湖を横断する奥多摩湖ロープウェイ(正式名称:川野ロープウェイ)を運行していた索道事業者である。2006年(平成18年)度鉄道要覧によると、現在の会社名は奥多摩湖観光株式会社となっているが、経営実態は不明。2007年(平成19年)度鉄道要覧には、この索道の記載は無い。奥多摩湖上遊覧、登山客の利便等を目的とし、1962年(昭和37年)1月に営業運転を開始。折りしも高度経済成長期、1964年東京オリンピックの開催を控え希望に満ちた時代でもあり、営業当初は主に関東方面から多くの観光客を集めたものの、数年後に湖上横断の橋梁が敷設されると自動車やバスで簡単に対岸まで通行が可能になり、乗客が激減。1975年(昭和50年)3月に正式に運行休止申請が出されている。
2013年12月吉日 魚梁瀬森林鉄道は、かつて高知県にあった森林鉄道である。「日本三大美林」の一つといわれる魚梁瀬杉を運搬することを主目的として開業したが、陸上交通網が整備されつつあったことに加えて、魚梁瀬ダムの完成により軌道が水没したことから廃止となった。魚梁瀬森林鉄道とは安田川線、奈半利川線の両幹線に加え、各支線を含めた総称である。安田川線は1910年(明治43年)に着工し、1919年(大正8年)に田野貯木場 - 石仙間41.6kmが完成。軌間762mm、9 - 10kg/mレールを使用し、最急勾配は逆31.3パーミル、順13.3パーミル、最小曲線半径21.8mであった。一方、奈半利川線は1929年(昭和4年)着工、1942年(昭和17年)に奈半利貯木場 - 釈迦ヶ生間41.9kmが完成した。10kg/mレールを使用し、最急勾配は順16.5パーミル、最小曲線半径30mであった。
2013年12月吉日 篠ノ井線旧線(西条駅-明科駅):篠ノ井線は長野県長野市の篠ノ井駅から長野県塩尻市の塩尻駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。事業基本計画および国土交通省監修『鉄道要覧』では篠ノ井駅を起点としているが、JR線路名称公告では塩尻駅を起点としており、また列車運行上は塩尻から篠ノ井へ向かう列車が下り、逆が上りとなっている。潮沢川に沿う地すべり地帯を通過していた在来線を新線に切り替える工事は、1988年(昭和63年)9月10日に完成した。昭和63年に新線が開通したため、廃線になった旧国鉄篠ノ井線がトレッキングコースとして整備されました。明治時代の面影が残るレンガ造りの漆久保トンネルや約3万本のケヤキを楽しむことができます。
2013年12月吉日 青森県営専用線八戸臨海鉄道線):馬淵川沿いにさらに北上する青森県営専用線が存在した。八戸工業港にあるこの路線の終点から、米軍油槽所へ至る専用線が分岐し三沢駅へ石油輸送貨物列車が運行されていた。さらに以前には、出光興産・新日本石油(現・JX日鉱日石エネルギー)・コスモ石油・ジャパンエナジー(現・JX日鉱日石エネルギー)の八戸油槽所への専用線もあり、航路継走石油輸送の拠点となっていたほか、大平洋金属八戸製作所への専用線もあった。
2013年11月吉日 根室本線旧線(新得駅−落合駅間)根室本線・落合 - 新内 - 新得間には狩勝峠があり、急勾配・急カーブが多く、狩勝トンネル内での蒸気機関車の煤煙など輸送の障害となっていた。これらを解消するため新狩勝トンネルを含む新線が建設され、同区間は1966年(昭和41年)9月30日に切り替えられた。1966年10月1日廃止区間落合駅 - 狩勝信号場 - 新内駅 - 新得駅 (27.9km) 日本新八景や鉄道省が選定した日本三大車窓の一つでもある狩勝峠を含んでいた。峠は最大勾配25‰、最小半径180mのカーブが連続する難所で、峠のすぐ落合側の狩勝信号場はスイッチバックとなっていた。峠付近のS字大カーブ築堤や橋梁、隧道などの鉄道施設群は2003年に土木学会選奨土木遺産に選定されている。
2013年11月吉日 小松島線は、かつて徳島県小松島市の中田駅から同市内の小松島駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄路線として最も営業キロが短い路線として知られていたが、1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)に廃止された。1916年(大正5年)に、途中の中田を起点にして阿南鉄道(現・牟岐線)が開業。その翌年には、小松島軽便線は正式に買収・国有化され、1922年(大正11年)の軽便鉄道法廃止とともに徳島 - 小松島間が小松島線となった。廃線跡は中田駅から小松島駅跡地の小松島ステーションパークまで遊歩道として整備され、遊歩道脇の中継信号機に往時の面影を見ることができる。
2013年11月吉日 鍛冶屋原線とは、かつて徳島県板野郡板野町の板野駅から同県板野郡上板町の鍛冶屋原駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線。1972年(昭和47年)1月16日に廃止された。1923年(大正12年)に阿波電気軌道の手で池谷 - 阿波大寺 - 鍛冶屋原間が開業し、1935年(昭和10年)の高徳本線全通と同時に、板西 - 鍛冶屋原間が鍛冶屋原線として分離され盲腸線となった。戦争中は不要不急線に指定されて1943年(昭和18年)11月より営業休止となったため、国鉄は代替に国鉄バス(当初は鍛冶屋原線、1946年(昭和21年)に穴吹駅まで延長されて阿波線となる)を運行した。戦後、1947年(昭和22年)に営業を再開したが、徳島バスの路線と競合する関係となった。廃線跡の大半は県道鳴門池田線に転用されている。
2013年11月吉日 興浜南線は、日本国有鉄道が運営していた鉄道路線(地方交通線)である。興浜線の先行開業部分として、北海道紋別郡興部町の興部駅で名寄本線から分岐し、同郡雄武町の雄武駅まで開通していたが、1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。終点の雄武駅の読みは「おむ」であるが、所在地の自治体名は「おうむ」である。改正鉄道敷設法別表第145号に規定する予定線の一部で、本来は興浜北線と結んで興部 - 浜頓別間のオホーツク海沿岸を縦貫する鉄道の一部(興浜線)となる計画であった。1935年に雄武までが開業したが、太平洋戦争末期の1944年には不要不急線として全線が休止、戦後すぐに復活した。
2013年11月吉日 十勝鉄道株式会社は、かつては、帯広市や清水町で軽便鉄道を運営していた。砂糖の原料であるビートを輸送するために1924年敷設された軽便鉄道が始まり。帯広市から南部の町村に至る北海道最大の鉄道網を有する私鉄であった。また地域からの要望により混合列車が走るようになり、トテッポの愛称で地域の足として親しまれた。1945年に清水町に同様の理由で敷設されていた河西鉄道を合併したが、その後のトラックの普及により貨物輸送の意義が急速に失われ、1951年に旧河西鉄道線である清水部線を全廃、1959年に旅客営業を廃止し、工場前駅(日本甜菜製糖 帯広製糖所の前) - 帯広駅間をのぞいて、廃止された。残りの区間も工場が閉鎖されたことから1977年に廃止された。
2013年11月吉日 陸軍帯広第一飛行場引き込み線:1940年(昭和15年):陸軍航空隊が創設され、それと同時に陸軍帯広第一飛行場引き込み線が敷設され、軍用物資が運ばれたと思われる。設置期間は戦後の昭和20年代後半頃迄と推測される。1951年(昭和26年):警察予備隊帯広駐屯地として創設され、第5管区隊が設置される。帯広駐屯地は、北海道帯広市南町南7線31番地に所在し、現在は第5旅団等が駐屯している陸上自衛隊の駐屯地である。平成15年度末に第5師団を総合近代化旅団として改編された。駐屯地内には通称十勝飛行場があり、北部方面隊及び第5旅団のヘリコプター部隊が使用している。帯広空港が開港するまでは、民間機の運行も行われていた。
2013年10月吉日 日本煉瓦製造専用線:日本煉瓦製造で製造された煉瓦は当初は利根川を利用して運んでいたが、輸送力向上を目的としてに日本鉄道の深谷駅から工場までの約4.2kmにわたって専用鉄道が敷かれた。本路線は廃線となった。その後線路が撤去され、歩行者と自転車が通れる遊歩道「あかね通り」になっている。近くにあるブリッジパークには、この路線で使用されていた福川鉄橋が保存されている。日本煉瓦製造(にほんれんがせいぞう、日本煉瓦製造株式会社)は、かつて存在した日本の煉瓦製造・販売会社である。本社を東京に置き、埼玉で煉瓦製造工場を操業していた。
2013年09月吉日 名鉄谷汲線は、岐阜県揖斐郡大野町の黒野駅から同郡谷汲村(現揖斐川町)の谷汲駅までを結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。 1926年(大正15年)4月6日 谷汲鉄道が黒野 - 谷汲間を開業。1944年(昭和19年)3月1日 名古屋鉄道が谷汲鉄道を合併。谷汲線となる。かつては、名鉄揖斐線の黒野駅から分岐して谷汲村(現揖斐川町)にある谷汲駅までを結ぶ谷汲線が延び、谷汲山華厳寺への参詣の足となっていたが、揖斐線黒野 - 本揖斐間とともに2001年に廃止された。
2013年09月吉日 名鉄揖斐線は、岐阜県岐阜市の忠節駅から岐阜県揖斐郡大野町の黒野駅を経て岐阜県揖斐郡揖斐川町の本揖斐駅までを結んでいた名古屋鉄道(名鉄)の鉄道路線。2005年4月1日に全線が廃止された。この日廃止された名鉄の600V電化区間で唯一の鉄道事業法適用区間であった。宅地化が進む岐阜市西郊の通勤・通学路線であった。その後も車社会の進展で利用客の減少に歯止めがかからず、2004年に名古屋鉄道は岐阜市内線・揖斐線・美濃町線・田神線の600V電化区間について運営撤退を正式に表明。軌道法に基づく廃止許可申請書と鉄道事業法に基づく廃止届を同年3月に提出し、2005年4月1日に廃止された。
2013年09月吉日 紀州鉄道線は、和歌山県御坊市にある御坊駅から西御坊駅までを結ぶ紀州鉄道の鉄道路線である。街外れにある紀勢本線御坊駅と御坊市街地とを結ぶ目的で、1928年12月24日に御坊臨港鉄道が設立され、1931年に御坊駅 - 御坊町駅(現在の紀伊御坊駅)間が開業、1934年に日高川駅まで開業し全通した。1973年に紀州鉄道が事業を買収したが、今でも地元では「りんこう」と呼ぶ人が多い。1955年から1984年までの間、西御坊駅から西方の大和紡績和歌山工場までの引込線(専用線)があり、貨物輸送を行なっていた。貨物の専用線で、この軌道跡も半分ほどの部分に線路(レール)が残っている。また、ダイワボウマテリアルズ和歌山工場の正門横には、この専用線が通っていたゲートの跡が確認できる。1989年に、末端の西御坊駅 - 日高川駅間0.7kmが廃止された。
2013年09月吉日 中央線旧線(南木曽駅 - 田立駅間)は1909年(明治42年)7月15日に官設鉄道 三留野駅(現・南木曽駅) - 坂下間延伸開業。1973年(昭和48年)5月25日 - 複線化により、田立駅が旧位置よりも1.5km坂下駅寄りの現在地に移転。その時に旧線が廃止された。マンホールの写真撮影の為、南木曾町を訪れた時に、ナビにSL公園と表示が有ったため、行ってみたら偶然に発見した廃線跡です。
2013年09月吉日 京福電気鉄道越前本線(勝山駅 - 京福大野駅間)は福井県で電源開発を行っていた京都電燈の手により、1914年に越前電気鉄道として新福井 - 市荒川(現在の越前竹原)間が開業したのが始まり。福井県下初の電気鉄道であった。 同年中に大野口まで開業し、福井と大野が結ばれた。配電統制令により、解散することになった京都電燈の鉄軌道事業を1942年に京福電気鉄道が継承。同社福井支社の越前本線となった。自家用車の普及などで1960年代以降になると不採算区間の合理化が行われ、国鉄越美北線とも競合する越前本線の勝山 - 京福大野間が1974年に廃止される。
2013年08月吉日 両備軽便鉄道(福塩南線)1914年(大正3年)両備軽便鉄道が、福山と府中の間に開通した。軌間762mm。横尾駅からは田んぼの盛り土路線を南に進み、奈良津トンネル〜北吉津〜胡町を経て福山駅に到着していた。この路線は後に国鉄福塩線となり、塩町から延びる路線(吉舎〜田幸間10.7q)が軌間1067mmで開業し、その路線は「福塩北線」 と呼ばれ、福山〜府中間は「福塩南線」に改称された。1935年(昭和10年)12月14日、芦田川沿いの西回り、横尾駅 - 府中町駅間を軌間1067mmに改軌 し、福山駅 - 横尾駅間を新線に付け替え 、既設の福山駅に乗り入れ。両備福山駅・胡町駅・吉津駅が廃止。現在はその福塩南線跡を拡張しトンネルを切り開いて、国道313号線として利用している。
2013年08月吉日 岡山臨港鉄道は、かつて岡山県岡山市の大元駅と岡山港駅を結んでいた鉄道路線。1951年(昭和26年)8月1日に鉄道運輸事業を開始し、1984年(昭和59年)12月30日に廃止された。貨物ヤード方式を廃止し、全国の貨物取扱駅を半減した1984年(昭和59年)2月1日の国鉄ダイヤ改正の影響で鉄道の存続が困難になり、同年12月29日を最後に列車運行を休止。翌12月30日付で廃止された。開業から廃止までの34年間の累計輸送実績は貨物564万トン、旅客1,262万人だった。
2013年05月吉日
2012年09月吉日
神岡軌道は、かつて富山県上新川郡大沢野町(現・富山市)の笹津駅(後に猪谷駅に変更)と岐阜県吉城郡神岡町(現・飛騨市)の神岡駅を、神通川沿いに結んでいた鉄道路線(軽便鉄道)の通称である。法的な種別は、専用鉄道から軌道法による軌道、地方鉄道法による地方鉄道と推移した。昭和に入ると、現在の高山本線の元となる鉄道省飛越線の工事が進展するようになった。神岡軌道では、それに伴い並行区間となる笹津 - 猪谷間の軌道を撤去するとともに、神通川に鉄橋(水面からの高さ57m、全長294m)を架橋し、飛越線猪谷駅に乗り入れるための工事を実施、1931年に完成させた(富山鉄道の廃止も、飛越線の延伸に伴うものである)。
2013年05月吉日 北陸鉄道能登線は、石川県羽咋市の羽咋駅から同県羽咋郡富来町(現・志賀町)の三明駅の間を結んでいた北陸鉄道の鉄道路線である。もともと沿線の人口が少ない路線ではあったが、1960年代には沿線の過疎化やモータリゼーションの進行により累積赤字が膨らみ、北陸鉄道の経営合理化のため1972年(昭和47年)6月25日全線廃止となった。能登線は北陸鉄道の鉄道線で唯一の非電化路線であった。廃線後、廃線跡のほとんどの区間は自転車道(石川県道293号羽咋巌門自転車道線)として整備されている。車両基地は羽咋駅構内にあり、1969年時点で気動車5形式7両とディーゼル機関車1両が所属していた。列車は羽咋 - 三明間に14往復(1往復は急行)、羽咋 - 能登高浜間に4往復が設定されていた。ラッシュ時には2両編成が走るが、その他の時間帯は単行での運転であった。
2013年05月吉日 北陸鉄道金石線は、石川県金沢市の中橋駅から大野港駅間を結んでいた北陸鉄道の鉄道路線。軌道法による軌道である。北陸鉄道の経営合理化と金沢市内の交通渋滞常態化解消を理由として1971年(昭和46年)9月1日、全線廃線となった。交換駅は畝田と金石の2つだったが、通常は畝田で上下列車が交換する30分毎の運行で、貨物列車は旅客列車の続行で運転されていた。交換駅は畝田と金石の2つだったが、通常は畝田で上下列車が交換する30分毎の運行で、貨物列車は旅客列車の続行で運転されていた。
2013年05月吉日 北陸鉄道浅野川線は、石川県金沢市の北鉄金沢駅から同県河北郡内灘町の内灘駅間を結ぶ北陸鉄道の鉄道路線。浅野川電気鉄道を前身とすることから今でも浅電(あさでん)の愛称で呼ばれている。戦後の1952年、粟ヶ崎遊園前 - 粟ヶ崎海岸駅間の線路は復旧され、北鉄金沢市内線(1967年廃止)との直通運転も行われた。同時期に内灘砂丘に米軍試射場が作られる計画があがり、物資・人員輸送の専用線として粟ヶ崎遊園前駅から内灘砂丘方面に延伸された。しかし、内灘闘争の結果、1957年に返還となり専用線も廃止された。この路線は、後に移設する内灘駅に利用された。その後、1974年に港湾整備などのため内灘駅 - 粟ヶ崎海岸駅間が廃止された(ただし、粟ヶ崎遊園前(内灘) - 粟ヶ崎海岸駅間は夏季の海水浴シーズン中のみであり、1972年8月31日が最終運転である)。
2013年05月吉日 羽幌線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道留萌市の留萠駅で留萠本線から分岐して日本海に沿って北上し、天塩郡幌延町の幌延駅で宗谷本線に接続する。国鉄再建法の施行により特定地方交通線(第2次)に指定され、北海道旅客鉄道(JR北海道)に継承されることなく、国鉄分割民営化直前の1987年3月30日に廃止された。国鉄における最後の路線廃止であった。留萠 - 羽幌間は、軽便鉄道法により計画され、留萠線の支線として開業した路線である。もともとは羽幌町の炭鉱開発と運炭、そしてニシンの輸送を主な目的として建設された路線だったが、炭鉱の閉山とニシン漁の不振、沿線人口の減少によって貨物・旅客の輸送量が減り、道路(国道232号)もよく整備されていたため存在意義を失い、第二次廃止対象路線となった。
2013年06月吉日
2011年01月吉日
相模運輸倉庫専用線(米軍田浦専用線)は田浦駅から横須賀駅方面へ向けて、相模運輸倉庫が保有する専用線が分岐している。この路線は長浦港に張り巡らされており、一部は在日米軍の施設である田浦送油施設へ続いている。その施設から発送されるジェット燃料や周囲の倉庫からの飼料輸送などを行っていたが、1998年より使用されていない。現在、路線は撤去されないまま存置されているが、朽ち果ててしまった場所も多く、使用に耐えない。また、この場所にあったディーゼル機関車2両はなくなっている。なお、2007年11月20日と21日に行われたリフレッシュ工事で本線への連絡線と下り本線から上り本線に行くレールとポイントが撤去されている。
2013年05月吉日 松前線は、北海道旅客鉄道(JR北海道)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道上磯郡木古内町(渡島支庁管内)の木古内駅で江差線から分岐し、松前郡松前町の松前駅を結んでいたが、1988年に廃止された。海峡線がほぼ並行して建設されており、福島町吉岡付近で交差している。青函トンネルが在来線規格で建設されていれば、松前線がこれに接続するはずであった。なお松前線のルートの一部は、木古内駅を出て、江差線の分岐点まではそのまま海峡線の上り線として路盤・軌道強化を施した上で転用されている。
2013年05月吉日 天北線は、日本国有鉄道(国鉄)が運輸営業していた鉄道路線(地方交通線)である。北海道中川郡音威子府村の音威子府駅で宗谷本線から分岐し、枝幸郡浜頓別町等を経て稚内市の南稚内駅で再び宗谷本線に接続した。日本国有鉄道経営再建促進特別措置法(国鉄再建法)により第2次特定地方交通線に指定され、北海道旅客鉄道(JR北海道)に承継後の1989年に廃止された。線名は、敷設されていた地域の旧国名、「天塩国」と「北見国」から採られている。日本統治下の南樺太への連絡鉄道として建設された宗谷本線の当初のルートである。1922年に稚内まで全通した。
2013年05月吉日 加越能鉄道加越線は、かつて富山県砺波地方にあり、小矢部市の石動駅と東礪波郡庄川町(現砺波市)の庄川町駅を結んでいた鉄道路線。1972年9月16日に全線が廃止された。1915年に福野駅 - 青島町駅(後の庄川町駅)間が開業。1919年に、金沢と福野を結ぶ目的で設立された金福鉄道を合併し、加越鉄道に改称した。加越線の廃線跡は富山県に買い上げられ、現在はほぼ全線が自転車専用道路(富山県道370号富山庄川小矢部自転車道線のうち、小矢部市石動町 - 砺波市庄川町青島間)となっている。ゴールデンウィークには、砺波地方の小学生が一堂に会してサイクリングロードを舞台に駅伝大会が開かれる。
2013年05月吉日 瀬棚線は、日本国有鉄道(国鉄)が運営していた鉄道路線(地方交通線)。北海道渡島支庁管内の山越郡長万部町の国縫駅で函館本線から分岐し、渡島半島を横断して檜山支庁管内の瀬棚郡瀬棚町(現・久遠郡せたな町)の瀬棚駅に至る。1987年に廃止された。改正鉄道敷設法制定以前に軽便鉄道法により計画された路線で、1929年から1932年にかけて全通した。改正鉄道敷設法には、函館本線八雲から分岐して今金に至る鉄道も規定されていたが、こちらは全く手が付けられなかった。線内は各駅停車のみで、原則的に長万部駅から発着していた。全線を通して運転する列車のほか、終点側の今金 - 瀬棚に区間列車が設定されていた。1日に1往復函館駅に直通する急行(のち快速)「せたな」が運転されていたが、廃止時点で瀬棚線内は普通列車であった。
2013年05月吉日 羽幌炭礦鉄道は、かつて北海道苫前郡羽幌町に鉄道路線を有した民営鉄道。札幌証券取引所に上場していた。羽幌炭鉱から産出される石炭を搬出するために建設された鉄道で、1941年に開通したが、1970年の炭砿の閉山とともに廃止された。一時期は、国鉄羽幌線に気動車が乗り入れ、国鉄車とほぼ同仕様の気動車を保有していた。国鉄羽幌線が留萠より順次開業し、1932年(昭和7年)9月には羽幌まで到達しており、さらに北上を続ける予定であった。太陽曹達は羽幌鉄道を設立し、1938年(昭和13年)に国鉄駅予定地の築別一線(築別)と築別本流(築別炭鉱)を結ぶ17.2kmの本線、および途中の曙より三毛別を経由して上羽幌に至る10kmの支線を含む鉄道敷設免許を申請した。1940年(昭和15年)5月に築別 - 築別炭鉱間の免許を受けた。
2013年04月吉日 室蘭本線陣屋町臨港線:陣屋町臨港駅は、室蘭市崎守町にあるJR貨物の施設である。陣屋町駅から分岐する1.5kmの側線の終端にある。この側線は室蘭本線の旧線を転用したものである。正式には陣屋町駅の構内の扱いである。 駅東側に崎守埠頭を発着する船舶に向けたコンテナを扱うためのコンテナホームがあるが、一度も使用されたことがない。また、駅西側に室蘭開発が室蘭市から運営を委託されている約1.5kmの専用線(崎守埠頭公共臨港線 海手線)があり、室蘭港で陸揚げされる木材チップを貨車に積み込む設備を有する。 さらにその専用線から西側に分岐する一切使用されたことのない、韓国と結ぶ貨物船用の線路(崎守埠頭公共臨港線 山手線)が設置されているが計画は白紙になり、線路は放置されたままである。
2013年04月吉日 敷生鉱山専用線:敷生鉱山は、第一次世界大戦の軍事的な要求から室蘭の北海道製鐵輪西製鉄所(現在の新日鐵住金室蘭製鐵所)へ鉄鉱石を運搬するため、1918年(大正7年)に国鉄によって当駅から飛生地区まで(一部砂利線と兼用)専用線が敷かれて蒸気機関車が乗り入れた。埋蔵量が少なかったことと、戦争終結のために、結果的にたった3年でこの専用線の公的な運用は廃止されたが、その後1921年(大正10年)から民間に10年間程貸し出され、トロッコ貨車(動力は機関車ではなく農耕馬)により、また勾配がきつかったためにインクラインを設けて運用されていた。その後レールが撤去されて砂利線が残るが、こちらも1944年(昭和19年)には砂利が少なくなったことで廃止となり、1950年(昭和25年)頃には当駅までの全てのレールが撤去された。
2013年04月吉日 白老砂利支線は1917年(大正5年)頃、白老駅裏から白老川まで砂利採取用の砂利岐線敷設した。1968年(昭和43年)頃まで運用の後、当駅構内線を残して撤去。構内線は1984年(昭和59年)の3月撤去。作業距離1.3km〜1.8km。1950年(昭和25年)頃から1955年(昭和30年)頃は複数の業者参入により計3本もの砂利専用線が敷設されている。砂利採取事業は主に冬期の農閑期失業対策として町が補助をしていた。
2013年04月吉日 日本硫黄沼尻鉄道(磐梯急行電鉄)は、かつて福島県耶麻郡猪苗代町の川桁駅と沼尻駅とを結んでいた鉄道路線およびその運営会社。東京証券取引所に上場していた。1969年(昭和44年)に全線が廃止された。一般には沼尻鉄道(ぬまじりてつどう)の名前で呼ばれ、耶麻軌道(やまきどう)という名称でも呼ばれていた。本鉄道は硫黄鉱山から採掘した硫黄鉱石を国鉄磐越西線まで輸送するために敷設された貨物輸送主体の鉄道で、旅客輸送は片手間に行ってたが、硫黄鉱山閉山後は観光鉄道として脱皮を図って旅客輸送で経営を維持しようとするが休止となり、その後廃線になった。旅客輸送では磐梯山やスキー場へ行く観光客に利用されることもあり、観光シーズンの夏は学生の旅行者が多く、冬はスキー客と彼らの荷物で車内は混雑した。
2013年03月吉日 紀州鉱山鉄道:紀州鉱山は昭和9年(1934年)石原産業がこの地域に多数の鉱脈があることに着目して、鉱山事業を始めるために鉱区買収をしたことから始まります。以来、閉山の昭和53年(1978年)に至るまでの44年間、開発初期段階や太平洋戦争後の数年間を除き、年間2,000トン以上の銅を産出し、全盛期の昭和40年(1965年)前後には、その産銅量が3,000トンを超える国内屈指の銅鉱山でした。三重県熊野市(旧・紀和町)にある湯ノ口温泉には、かつての紀州鉱山の鉱山鉄道を利用したトロッコ列車が走っている。国道311号線沿いにある「瀞流荘駅」と湯元である「湯ノ口温泉駅」の約1kmを結んでおり、旧紀和町が観光客誘致のために旧鉱山鉄道を観光鉄道として再生させたものである。
2013年02月吉日 油須原線(ゆすばるせん)は、かつて福岡県嘉穂郡稲築町(現・嘉麻市)にあった漆生駅(漆生線、現・廃止)と、同県田川郡赤村の油須原駅(現・平成筑豊鉄道田川線)を結ぶ計画に基づく日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(一部未成線)である。1922年(大正11年)に公布された改正鉄道敷設法別表に掲げられた「福岡県油須原ヨリ上山田ヲ経テ漆生附近ニ至ル鉄道」がこの油須原線であり、漆生線と田川線を結び、豊前川崎・大任・行橋を経由して筑豊炭田の石炭を周防灘に面した京都郡苅田町の苅田港に輸送するための短絡線として計画された路線である。未開業区間である豊前川崎駅から油須原駅間の工事は、用地取得93%、路盤63%、軌道敷設42%が完了していたものの、それ以後工事が再開されることはなかった。
2013年02月吉日 上山田線(かみやまだせん)は、福岡県飯塚市の飯塚駅から田川郡川崎町の豊前川崎駅までを結んでいた、九州旅客鉄道(JR九州)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄再建法施行により第2次特定地方交通線に指定され、国鉄分割民営化後の1988年に廃止された。上山田線は歴史的に、明治時代に筑豊炭田から産出される石炭の輸送のため、筑豊鉄道・九州鉄道が建設し、鉄道国有法により国有化された飯塚 - 上山田間と、油須原線構想により太平洋戦争後に建設された上山田 - 豊前川崎間に分かれる。筑豊地区の石炭を苅田港に輸送するために計画された油須原線の一部であり、1966年に同計画の一部として建設された漆生線漆生 - 下山田(嘉穂信号場)間と同時に開業した。
2013年02月吉日 漆生線とは、福岡県嘉穂郡稲築町(現・嘉麻市)の下鴨生駅から福岡県山田市(同じく現・嘉麻市)の下山田駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。全線が福岡近郊区間に含まれていた。1980年の国鉄再建法施行により第2次特定地方交通線に指定され、1986年に廃止された。当初は、第1次廃止対象であったが、漆生駅 - 才田駅間のやや才田駅寄りの沿線に建設される住宅団地(大坪団地)によって乗降客の増加が見込まれるとして第2次廃止対象とされた経緯がある。漆生線は、明治時代に建設された漆生以北と、太平洋戦争後に建設された漆生以南に分かれる。
2013年02月吉日 添田線は、かつて福岡県田川郡香春町の香春駅から同郡添田町の添田駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。北海道の美幸線と並び称された赤字ローカル線の横綱格で、1980年の国鉄再建法施行により第1次特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。1960年に、日田線(現在の日田彦山線)の一部を分離したものである。もともとは、石灰石や石炭を輸送するため小倉鉄道が建設した鉄道路線であったが、1943年に戦時買収され国有鉄道添田線(初代)となった。
2013年02月吉日 日本セメント香春工場専用線:1935年(昭和10年)6月、香春駅の西に浅野セメント(後の日本セメント)の香春工場が建設され、操業を開始した。専用線の敷設時期は不明だが、1951年(昭和26年)8月に、バラ積みセメントの専用貨車を用いたセメント輸送が日本セメント門司工場(葛葉駅隣接)との間で開始された。さらに、1955年(昭和30年)11月には東小倉駅との間でもセメント輸送が開始された。専用線では、D51形蒸気機関車やDD51形ディーゼル機関車が乗り入れてホキ3500形貨車などの貨車を牽引していた。駅の貨物取扱量は1979年(昭和54年)をピークに徐々に減少。1986年10月3日限りで日本セメント専用線からの貨物輸送は廃止された。なお、香春工場は2004年(平成16年)に閉鎖されている。
2013年02月吉日 室木線とは、福岡県遠賀郡遠賀町の遠賀川駅から鞍手郡鞍手町の室木駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。1980年(昭和55年)の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年(昭和60年)に廃止された。沿線の中小炭鉱から産出する石炭を輸送するために敷設された運炭鉄道であったが、1960年代以降はその使命を失い、晩年は典型的な通勤通学路線となっていた。終点の室木駅は山陽新幹線の線路に程近い場所にあることから、当線は山陽新幹線の建設時、室木トンネルまで延伸されて資材運搬用の路線として使われたことがある。
2013年02月吉日 芦屋線は、かつて福岡県遠賀郡遠賀村(現・遠賀町)の鹿児島本線遠賀川駅より分岐し、同郡芦屋町の筑前芦屋駅までの間を結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。その複雑な経緯から「国鉄の営業路線であるが国鉄線ではない」と呼ばれたり、営業期間が短かったため「幻の路線」と呼ばれることもある。営業時の写真もきわめて少ない。芦屋町に建設された日本陸軍芦屋飛行場を第二次世界大戦後に進駐軍が接収し、米空軍芦屋基地としたが、この芦屋基地へ建築資材、燃料、ジープ、トラックなどの物資を輸送するために建設された路線(進駐軍専用側線)が芦屋線である。
2013年01月吉日 淡路鉄道は、かつて兵庫県淡路島において鉄道路線を運営していた会社である。会社は1914年(大正3年)に設立され、1922年(大正11年)に鉄道路線の一部区間営業を開始し、1943年(昭和18年)に戦時中の交通統制で全淡自動車と統合されて淡路交通となった。運営していた鉄道路線は、1966年(昭和41年)に廃止されている。路線は淡路島を東西に横断する形で敷設された。日本の北海道・本州・九州・四国の主要な四島をのぞいた島における鉄道路線は第二次世界大戦後はこの淡路島のみであった。廃線跡は1980年代前半まで線路と橋脚が取りのぞかれた程度であったが、現在は大部分が道路となって整備されている。現在の淡路交通宇山車庫(バス)は当時は鉄道の車庫で、淡路交通の本社がある旧洲本バスターミナルは当時の洲本駅であった。
2010年12月吉日 住友別子鉱山上部鉄道は標高800メートル以上の地点を、急峻な断崖の等高線にほぼ沿う形で敷設されていた。路線は急カーブが連続し、線路用地は石垣を築き確保されていた。伊予鉄道に続く愛媛県で2番目の鉄道として下部鉄道と共に1893年(明治26年)に開業した。別子銅山で採掘された鉱石は、角石原駅で積み込まれ、途中交換駅の一本松駅を経由し、石ケ山丈駅で降ろされ、索道で下部鉄道の端出場駅に輸送された後、港へ運搬されていた。採掘技術の進歩により坑道から直接鉱石を下部鉄道に運搬できるようになると役目を終え、1911年(明治44年)10月7日廃止された。
2013年01月吉日 神津島採石運搬トロッコ軌道:神津島最北端の高い山を神戸山と呼び、山全体が抗火石で形成されている。昭和17年頃、建築材料等に利用するため、当時、島外資本による日産化学工業株式会社により、この地に採石運搬の施設が建設された。当時は、道路も無かったので、目印に山の上の支柱が立っている場所より、この名組湾まで索道を張り、採石された石が降ろされた。そして更にこの湾の先にある、ボンブと呼ばれる所までトロッコに載せて運び、運搬船に荷積みされた。今では残されているトロッコ橋や付近に散在している採石・トロッコの車軸などが、当時を思い出す名残となっている。
2013年01月吉日 麒麟麦酒取手工場専用線:麒麟麦酒株式会社(キリンビール、英記表記:Kirin Brewery Company, Limited)は、日本の大手酒造メーカー。1870年(明治3年)にノルウェー系アメリカ人ウィリアム・コープランドが、日本で初めて大衆向けにビールを醸造・販売した企業「スプリング・バレー・ブルワリー(コープランドビール)」を起源とする、日本のビール事業の草分け的企業である。1970年(昭和45年)6月取手工場完成 。1972年(昭和47年)12月取手工場専用線開通。ビールは典型的ヤード貨物であり、麒麟麦酒は国鉄最大の荷主の1つであった。従って国鉄の操車場から専用線を通じて原料・製品の入出荷を行っていた各工場の物流は、この合理化計画の影響をまともに受けることとなった。1984年(昭和59年)2月1日専用線からのビール輸送が廃止。
2013年01月吉日 丹那トンネル工事用軌道:三島口の坑門は海抜約70mの高さがあり、三島町から修善寺温泉に通う駿豆鐵道の大場駅から鉄道を引くのが最も便利なことから最初は1/40勾配、762mmゲージの軽便鉄道を引いて材料を坑門まで上げました。その鉄道は後に1,067mmの本線並みに改築しました。延長は7.8qでした。1925年(大正14年)の完成予定で着工され、鉄道院は設計、監督にあたり、工事作業は民間企業に委託されることが決定し、鹿島組と鉄道工業会社がそれぞれ三島口、熱海口から掘削を開始した。工事の環境は三島口の方が良く、どちらが請け負うかもめたため、くじ引きで決定した。
2013年01月吉日 沼津港線/蛇松線は1888年に東海道本線の建設資材を沼津港から陸揚げし輸送するために開設されたのが始まりである。当時は正式な駅ではなかったが、1899年に正式に駅として開業した。当初、狩野川の右岸(現・港大橋付近)に駅があったが、沼津港(現在の沼津港内港)の完成に伴い、1947年に移転した。但し、移転前の駅も引き続き構内側線として廃止時まで使用されていた。貨物輸送は、構内側線が引かれていた沼津魚市場からの海産物の発送や、漁船の燃料輸送、木材輸送などがあった。しかしトラックが普及し、貨物輸送の多くがそれに切り替わったことにより輸送量が減少。1974年(昭和49年)9月1日廃止。廃線後この貨物支線跡は沼津市によって蛇松緑道という遊歩道として整備されている。
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