更新日時 2010年06月22日

 野田人車鉄道(のだじんしゃてつどう)は、千葉県東葛飾郡野田町(現・野田市)に1900年から1926年まで存在した人車軌道、およびその経営会社である。町内の工場と江戸川や野田町駅(現・野田市駅)とを結び、醤油の輸送を行なっていた。野田は江戸時代から醤油醸造が盛んな土地であり、その出荷は上河岸と下河岸という2地点から江戸川の水運が使われていた。醤油工場から両河岸までの輸送は馬に依っていたが、1897年(明治30年)ごろになると、野田醤油醸造組合の中で、人車鉄道を整備することで工場-河岸間の輸送力を上げようという動きが起こる。こうして、1900年(明治33年)1月28日、資本金30,000円で野田人車鉄道株式会社が設立された。取締役社長は茂木七郎右衛門であり、本社は監査役の中川仲右衛門の自宅に置かれた。線路用地の買収などは地区の有力者があたったことからスムーズに進み、同年3月にはこれを完了し、工事開始となった。同年12月8日、醤油工場が並ぶ野田町の目抜き通り上に敷設された本線格である野田下町-郵便局前と、下河岸へ向かう支線である野田上町-今上、その途中から分岐して上河岸とを結ぶ野田栄町-中野台が開業し、これに合わせて工場・蔵への引き込み線も敷設された。軌間は762mm、途中に4箇所の交換所が設けられており、上河岸・下河岸にはループ線が設けられていた。1908年(明治41年)5月になると、野田町醤油醸造組合は当時の県知事である有吉忠一に、野田-柏間の県営鉄道敷設を請願する。有吉は鉄道敷設を大いに推進していたため、1910年(明治43年)8月31日、千葉県は同区間への千葉県営鉄道野田線(現・東武野田線)の敷設を軽便鉄道法によって出願した。これに伴い、野田人車鉄道も接続のため路線の延長を図る。しかし、手続きの遅れからこの延長はなかなか進まず、県営鉄道が野田町駅まで開通したのは1911年(明治44年)5月9日だったのにもかかわらず、人車鉄道が同駅まで開通したのは1913年(大正2年)6月18日であった。また、県営鉄道の建設をきっかけに上河岸・下河岸・人車の業務統一が図られ、1912年(明治45年)7月には丸三運送店(現・総武物流株式会社)が設立される。野田人車鉄道という会社自体は存続したが、以後の実質的な運営は丸三運送店によって行なわれることとなった。開業当初はあまり輸送量が伸びず、組合の臨時会で利用を促す決議がされるほどであった野田人車鉄道だが、県営鉄道の開業前後からは輸送量も伸び経営も安定していた。そんな野田人車鉄道の転機となったのは、1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災であった。直接の被害こそなかったが、東京へ入る鉄道が止まってしまったことから、トラック輸送が初めて使われるようになったのである。これ以降、輸送におけるトラックの優位性が認められるようになり、人車はその必要性を急速に失っていった。こうして、1925年(大正14年)9月1日、野田人車鉄道は全線が廃止される。なお、この時点では正式な廃止の認可を得ておらず、書類上での廃止認可・届出はそれぞれ1926年(大正15年)8月25日・9月13日であった。ただし、野田人車鉄道の廃止後も、人力による醤油の運搬が野田町内から完全に消えたわけではなく、各工場内の引き込み線が構内運搬用に使用されていたほか、工場と野田町駅を結ぶ軌間600mmの専用線が新たに敷設されるなどしていた。また、野田人車鉄道本社社屋は、後に総武通運(現・総武物流)株式会社本店として使用された。車両はすべて無蓋車で、年度によって多少上下するが、25両前後が存在した。側板などが一切ない簡易なもので、積載重量は2トン(醤油樽70樽分)。これを人夫2人で押した。
上記写真はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
 @野田町駅跡:明治44年(1911年)野田・柏間に県営軽便鉄道が開通、そのころ野田町駅が有ったところである。また、当時の千葉県知事・有吉忠一氏の功績をたたえて新設駅前通りを有吉町と命名した。
@野田市駅からの県道46号線の街灯には機関車のモニュメントが施されている。
@総武物流のこの辺が野田人車鉄道の野田町駅跡になる。
A野田人車鉄道跡。道路は舗装されていて痕跡は見当たらない。
B野田市下町交差点で右折し愛宕神社方向へ。 B須賀神社猿田彦神。
C野田人車鉄道跡。道路は舗装されていて痕跡は見当たらない。
Cキッコーマン本社。
D野田人車鉄道が下河岸・上河岸へ分岐していた場所。
 E【旧野田商誘銀行(現千秋社)】(近代化産業遺産)株式会社千秋社社屋は1926(大正15)年に野田商誘銀行として建てられたものであり,戦時中の金融統制により千葉銀行となった後,1970(昭和45)年にキッコーマンの会計業務などを行う現会社の施設となった。「商誘」の名の由来は「醤油」とのことであり,まさに野田の地域性をあらわす建物といえよう。これらキッコーマン関連の施設には,醤油醸造との直接のつながりはないものの,地域の産業やその資本との密接な関わりが見られ興味深い。
E野田人車鉄道跡。
E人車鉄道の支線が有りそうな雰囲気ですね。 E野田市商工案内図。
F野田人車鉄道跡。
F野田市立中央小学校。 G野田人車鉄道跡。
Gキノエネ醤油の野田人車鉄道の支線があった場所。
 H愛宕神社:野田開墾の後、火の災難を防御せんが為、山城国愛宕郡愛宕(現在の京都市右京区)の里からこの地に迦具土命の御分霊を遷奉りて氏神とした。時に延長元年(923年)であります。依って野田郷開墾後、郷内に勢力を伸ばしはじめた土豪(農兵)等の間に争いなどがあり、山火事ばかりでなく兵火の心配も多く故に火伏の神を祀ったと伝えられています。迦具土の「カグ」とは火の輝くこと、「ツチ」とはその霊力のことであり、この神名は火の輝くお力について言ったものであります。また、火霊神とも言われ、火が万物を生み育てる力の根源である霊力を称えた名であります。古代の農耕守護、五穀豊穣の神様でもあります。他に、愛児(あたご)様とも申しまして安産、子供の成長育成の神様でもあらせられます。
 H手水石:文政11年(1828年)正月
寄進者・江戸菓子屋講中他
手水の作法:初めに左手を洗い、つぎに右手を洗う、つぎに左手に水を受け口を濯ぎ再び左手を洗う、最後に水の入った柄杓を立て柄に水を流してから伏せておく。
 H力石:野田に醤油が発祥した永禄時代から醤油圧搾に重石が使われました。宝暦6年(1756年)飯田氏奉納の石は、千葉県で一番古いものです。昔、力自慢の若衆が石を肩まで持ち上げて競い合い、誰が持ち上げたかを石に名前を刻んで奉納したものだと伝われています。
 H磐境(いわさか):神社と言えば鳥居があり、本殿、拝殿があるのが今日普通の姿であります。しかし、この様な形式は、太古の昔からあったわけではありません。神社の原始的な姿として、磐境、神籬があります。この磐境は石を並べて立て、あるいは円形になり、方型なりに敷き並べて祭場とし、このころに神を招き迎えたものです。
D野田人車鉄道が下河岸・上河岸へ分岐していた場所。
I野田人車鉄道跡。
J野田人車鉄道跡。右写真の割烹レストラン紫乃が有る右の道が上河岸へ分岐する人車鉄道の跡。
 K野田人車鉄道の上河岸と下河岸の分岐部に倉があるが、そこには野田人車鉄道の石製の枕木が残っている。この事は、野田市郷土資料館のボランティアの方が教えてくれた。そのボランティアの方は元総武物流の専務さんらしい。
K野田人車鉄道跡。上河岸方面。
K野田人車鉄道跡。上河岸方面。 L野田人車鉄道跡。ここで右方面へ。
L野田人車鉄道跡。上河岸方面。
L野田人車鉄道跡。上河岸方面。
M野田人車鉄道跡。上河岸方面。
M野田銀座商店街の左側から出てきた野田人車鉄道は野田中野台県営住宅脇を通る。
N野田人車鉄道跡。上河岸方面。
O野田人車鉄道跡は再び県道19号線に合流。上河岸方面。
 P野田人車鉄道跡。上河岸方面。 Q野田人車鉄道跡。上河岸方面。 
Q野田人車鉄道跡。上河岸方面。 R野田人車鉄道はここで左右に分岐していた。
S上河岸 戸邉五右衛門家住宅 S野田人車鉄道跡。上河岸荷下ろし場。
 江戸川沿いで上河岸の戸邉家・下河岸の桝田家が河岸問屋として回漕業を営んでいたが、1900 年に、各醸造場と製品を積み出すこれらの河岸を大型トロッコで結ぶ野田人車鉄道を敷設、同年、事業の近代化や関連事業の資金調達手段として野田商誘銀行を設立して、物流・金融基盤の強化を図った。その後陳情が実り、1911 年に野田―柏間に千葉県営軽便鉄道が開通すると、同時に陸送会社を設立し、常磐線を利用して短時間で東京へ出荷できる鉄道輸送が行われるようになった。さらに、1913 年には人車鉄道を野田町駅(現:東武鉄道野田市駅)構内へと延伸した。
K野田人車鉄道跡。下河岸方面(直進)と上河岸方面(右)の分岐点。
@野田人車鉄道跡。下河岸方面の県道19号線交差点付近。
A野田人車鉄道跡。下河岸方面の上花輪香取前バス停付近。
B野田人車鉄道跡。下河岸方面。
C香取神社。
D野田人車鉄道跡。下河岸方面。
E上花輪歴史館の角に置いてある石は野田人車鉄道の石製の枕木だそうだ。平成23年3月31日迄休館。
 E高梨氏庭園(上花輪歴史館):高梨本家は代々高梨兵左衛門を名乗り、寛文元年(1661年)に醤油の醸造を始めた旧家で、江戸時代を通じ上花輪の名主を務めてきた。屋敷内は、明和3年(1766年)に建てられた門長屋をはじめ、文化3年(1806年)の書院などが現存し、居住部分の中央に主屋を配し、前方には門、馬廻し等、後方には神楽殿、土蔵、茶室等の建物が庭園と屋敷林に囲まれている。背後には構堀が巡り湧き水があって、船着場を設けている。また、枯山水と築山の築造による書院の庭は、県下でめずらしい貴重な庭園であるとともに、これらの堀や屋敷林、主屋を中心に渡廊下で連絡された多くの建物で構成され、保存状態が良好である。庭園は、西に屋敷林、北にある三本のタブの大木は山に見立てられ、江戸時代の風水思想に従って配置されている。
 Eキッコーマン煉瓦蔵  昭和7年建築の大きな煉瓦造りの建物です。醤油の街の歴史的建造物です。平成9年(1997)から内部の様子が公開され、昔ながらの杉桶仕込みの伝統的な醤油醸造が見学できます。現在、休館中。
E野田人車鉄道跡。下河岸方面。
F野田人車鉄道跡。下河岸方面。道路脇の石は野田人車鉄道て使われていた石の枕木。
F野田人車鉄道跡。下河岸方面。勾配が有るが、昔も勾配が有ったのか?
G野田人車鉄道跡。下河岸方面。県道5号線と交差する部分。
H下河岸にある古い倉庫。この倉庫が人車鉄道で運ばれてきた醤油を一時保管していた倉庫か?
H下河岸の倉庫は現在は使われていない様だ。
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野田人車鉄道の社旗。 野田人車鉄道路線平面図。
駄賃札。 野田人車鉄道のレール。
野田人車鉄道の社紋入り鬼瓦。 野田人車鉄道の株券
人車鉄道株式会社職員。
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廃線探索 野田人車鉄道