更新日時 2010年06月22日

廃線探索 京王御陵線
 京王御陵線(けいおうごりょうせん)は、1931年(昭和6年)から1945年(昭和20年)まで営業されていた、京王電気軌道→東京急行電鉄(現在の京王電鉄)の鉄道路線。大正天皇崩御により造営された天皇家初の関東地区での多摩御陵が話題となり、多くの参拝者の移動手段として京王電気軌道の手により敷設された。普段は北野 - 多摩御陵前の折り返し運転であったが、全盛期の頃は土日になると新宿からの直通運転が行われ、省線電車との熾烈な輸送競争を行っていた。しかし、戦局の悪化に伴い不要不急線として1945年1月21日に休止。後に、北野駅 - 山田駅が京王高尾線の一区間に取り込まれる形で復活した。残りの山田 - 多摩御陵前間は高尾線新設区間の山田 - 高尾山口間の免許認可後の1964年11月26日付で正式に廃止となった。御陵線の面影を残す痕跡として、長房団地近くの住宅街に橋脚がひっそりとたたずんでいる。京王御陵線のルートには、二つの案があった。一つは当時の東八王子駅(現在の京王八王子駅)を高架化して、八王子市街地北部と同市横川町付近を経由し、多摩御陵付近へ京王線を延伸するいわゆる北回り案。もう一つは北野駅から分岐して片倉を経由し、国鉄中央本線と甲州街道を高架でオーバークロスして、多摩御陵付近へ至るいわゆる南回り案である。北回り案については、市街地が路線で分断されるとの理由で八王子市議会が反対したために、御陵線は最終的に南回り案で建設された。
路線データ 路線距離:6.2km 軌間:1372mm 駅数:5駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線) 電化区間:全線(直流600V)- 営業当時、京王線も直流600V電化。
駅一覧
北野駅 - 片倉駅(現、京王片倉駅) - 山田駅 - 武蔵横山駅 (休止のち廃止) - 多摩御陵前駅 (休止のち廃止)
 北野駅(きたのえき)は、東京都八王子市打越町にある、京王電鉄の駅。駅構造は島式ホーム2面4線を有する高架駅。京王線と高尾線は高架上で平面交差する。1・2番線からの同時発車は可能だが、3・4番線への同時到着は配線の関係上できない。バリアフリー対応昇降設備として、ホームと改札口を結ぶエスカレーター・エレベーターと、改札口と地上を結ぶエレベーターが設置されている。トイレは2階改札内にあり、ユニバーサルデザインの一環として「だれでもトイレ」を併設している。2008年春に改修工事が行われた。平日日中に高尾山口発着の各駅停車と接続するために京王八王子始発の当駅折り返し列車が設定されているが、同じ折り返し列車を設定している調布駅などと同様に引き上げ線(留置線)がないため、当駅折り返し列車は、上り4番線に入線してホームで乗客を降車させた後、新宿方面の上り本線上に一旦引き上げ、分岐器を通過し下り線へ転線し、下り2番線に入線してホームで乗客を乗車させた後、京王八王子へ向かう。高尾線内には待避駅がないため、当駅を発車した高尾山口方面の列車はそのまま同駅への先行到着列車となる。
 京王片倉駅(けいおうかたくらえき)は、東京都八王子市片倉町にある京王電鉄高尾線の駅。駅構造は相対式ホーム2面2線を有する地上駅。傾斜地に立地するため、線路は高尾山口寄りは地平、北野駅寄りは高架となる。改札口は上りホームから一段下にあり、改札口から下りホームに行くには高架下の通路を経由する(エレベーターは専用の跨線橋を設置して整備)。横浜線片倉駅方面から来ると駅舎入り口が見つかりにくいため、高架下をくぐって10数m進んで左折するよう案内を掲示している。かつてトイレは上りホームにあり、ユニバーサルデザインの一環としての「だれでもトイレ」は女性用トイレと兼用になっていたが、2008年度に改札口を入って左手に移転し、「だれでもトイレ」は独立した形で設置された。駅名の由来は所在地の地名による。地名の由来は古来よりカタクリの群生地であったことから。現駅名は、御陵線休止中の1957年12月28日に当時の日本国有鉄道(国鉄)横浜線に片倉駅が開設されていたため、1967年に高尾線として再開した際に京王片倉駅と改称された。
 @山田駅(やまだえき)は、東京都八王子市緑町にある、京王電鉄高尾線の駅。駅名の由来は臨済宗の古刹である「山田の広園寺」が近くにあることから、「山田」と名づけられる。なお駅名は「やまだ」だが、広園寺および町名は「やまた」である。
 @山田駅構造は相対式ホーム2面2線を有する地上駅。線路は掘割部に位置することから、駅舎の構造は橋上駅舎のようになっている。車椅子用スロープは2番線にのみある。ホームと駅舎とを連絡するエレベーターが設置されている。トイレは改札口内にある。かつてはユニバーサルデザインの一環としての「だれでもトイレ」は女性用と兼用となっていたが、2008年度に施工された改修の際に「だれでもトイレ」は男女トイレから独立した形とされた。
@京王線の境界杭。 @京王御陵線のこの辺は高尾線に転用されている。
A京王御陵線のこの辺は高尾線に転用されている。跨線橋より撮影。
B京王高尾線の橋梁。
C京王高尾線の橋梁。
D京王御陵線はここで分岐していた。
Dここから先は京王御陵線跡は一般道に転用されている。
E京王御陵線跡は中央分離帯の有る一般道に転用されている。
F京王御陵線の廃線跡。
G京王御陵線の廃線跡。
H京王御陵線の廃線跡。市立散田小学校歩道橋より撮影。
I京王御陵線の廃線跡。
I京王御陵線の廃線跡。中央本線を跨ぐ高架橋が有った。
I京王御陵線の廃線跡。現在は散田架道橋(アンダーパス)になっている。
I京王御陵線の廃線跡。ここから左方向へ向かい南浅川を渡る。
 J国道20号線を渡る場所は高架橋になっていて、武蔵横山駅が有った。武蔵横山駅 (むさしよこやまえき)は、東京都八王子市にあった、京王帝都電鉄(現、京王電鉄)御陵線の駅である。甲州街道を立体交差した上に位置(並木町交差点北側)した高架駅。戦時中に御陵線が不要不急路線として休止された後、長らく「休止」扱いであったが、1964年に正式に廃止となった。また、武蔵中央電気鉄道線に「横山駅前駅」があり、乗り換えが可能であった。
J国道20号線を渡り、ガソリンスタンドが有る場所辺りが京王御陵線の武蔵横山駅周辺。
Kガソリンスタンド裏の駐車場辺りが、京王御陵線の廃線跡。
K駐車場の一角に橋台の基礎が残る。
K南浅川を渡る場所に橋梁が架かっていた。
L南浅川を渡り、小道の右側が京王御陵線の廃線跡。
L民家の境界の部分に南浅川を渡る京王御陵線の橋脚が残る。(1本目)
L民家の境界の部分に南浅川を渡る京王御陵線の橋脚が残る。(2本目)
L京王御陵線の廃線跡は民家に転用されている。
M駐車場部分が京王御陵線の廃線跡。 Mアパートの部分が京王御陵線の廃線跡。
M京王御陵線の廃線跡。
N京王御陵線の廃線跡。
O京王御陵線の廃線跡。
O京王御陵線の廃線跡。
P左の民家辺りが京王御陵線の廃線跡。
P京王御陵線の廃線跡。
 Q多摩御陵前駅 (たまごりょうまええき)は、東京都八王子市にあった、京王帝都電鉄(現、京王電鉄)御陵線の終着駅(現在の陵南公園付近)である。1945年に御陵線が不要不急線として休止された後、長らく「休止」扱いであったが、1964年に正式に廃止となった。駅舎は豪華な建物(神社の神殿の様な形)であったが、営業休止中の1945年8月2日の八王子大空襲で焼失した。
R多摩御陵前駅跡から武蔵陵墓地へ続く通り。 R武蔵陵墓地。
 R武蔵陵墓地(むさしりょうぼち)は、東京都八王子市長房町にある皇室墓地。大正天皇・貞明皇后陵・昭和天皇・香淳皇后陵の4陵が造営されている。昭和天皇陵が造営される以前は多摩御陵(たまごりょう)と称していたが、現在でも通称として使われている。八王子八十八景のひとつ。宮内庁書陵部多摩陵墓監区事務所がある。
R武蔵陵墓地内の池。 R武蔵陵墓地へ続く参道。
 S武藏野東陵(むさしののひがしのみささぎ)は香淳皇后の陵。香淳皇后は平成12年(2000年)6月16日に崩御し、7月25日に斂葬の儀が行なわれ、埋葬された。昭和天皇陵の南東に接して位置しておりほぼ南面している。おおよそ東方にあることから「武蔵野東陵」と名付けられた。拝所などの構成は他の陵と同様である。毎年6月16日に陵および皇居宮中三殿で香淳皇后例祭が行なわれている。当日には陵所に幔幕が巡らされ、皇族拝所に仮屋が設置されて祭祀が行なわれる。
 S武藏野陵(むさしののみささぎ)は昭和天皇の陵。昭和天皇は1989年(昭和64年)1月7日に崩御した。同年1月17日には陵所地鎮祭が行なわれ、造営が始まった。同年2月24日に斂葬の儀が行なわれ、造営中の陵所に埋葬された。同月27日に「武蔵野陵」と命名された。なお、陵の命名に先立ち、昭和天皇の柩に添えられた陵誌(墓碑)には、礼宮文仁親王(後の秋篠宮文仁親王)の揮毫により「昭和天皇 武蔵野陵 昭和六十四年一月七日午前六時三十三分崩御 平成元年二月二十四日斂葬」と刻まれている。また、この昭和天皇陵の造営により、墓地の名称が「武蔵陵墓地」と改称された。大正天皇陵の北東に位置し、ほぼ南面している。陵の形態は大正天皇陵などと同じく、上部2段・下部3段の上円下方墳である。陵の形や拝所の構成などは一般拝所に段がないことを除けば大正天皇陵とほぼ同じだが、大正天皇陵より上円部の丸みがなだらかになり、また一般拝所から墳丘がある段までの高さが低くなっており、威圧感を減らす試みがなされている。毎年1月7日に陵および皇居宮中三殿で昭和天皇祭が行なわれている。当日には陵所に幔幕が巡らされ、皇族拝所に仮屋が設置されて祭祀が行なわれる。
 S多摩陵(たまのみささぎ)は大正天皇の陵。大正15年(1926年)12月25日に崩御した大正天皇は、翌昭和2年(1927年)2月7日に新宿御苑において斂葬の儀(葬場殿の儀、大葬)が行なわれ、翌8日に陵所に埋葬された。陵墓は、前年10月に公布された皇室陵墓令に基づいて当時の東京府南多摩郡横山村から浅川村、元八王子村の御料地内に造営され、1月3日に日枝神社宮司による陵所地鎮祭が行なわれた。横山村の地が選ばれた理由は、地震を考慮して地盤が強いこと、万葉集に「多麻の横山」と詠まれたことなどによる。また墳丘の型式などは明治天皇の伏見桃山陵が参考にされた。[1]敷地内には数戸の農家や東照寺や長泉寺などの寺社、民間墓所などがあり、交渉をして移転が行われた。こうして武蔵陵墓地および多摩陵(たまのみささぎ)が始まった。陵域の面積は2,500平方メートルあり、陵の形態は上部2段・下部3段の上円下方墳で南面している。上円は直径15メートルで高さは10.5メートルあり、一番下部の段は一辺27メートルの正方形で多摩川の石が葺き石として用いられており、南面は前方部の形をとっているので前方後円墳のような形をしている。これは奈良県桜井市の伝舒明陵古墳の形状に酷似している。鳥居を隔てて、陵の正面に皇族拝所がある。階段を下ったところに特別拝所があり、さらに下ったところに一般拝所がある。皇族拝所と一般拝所には鳥居が設けられている。毎年12月25日には陵および皇居宮中三殿で大正天皇例祭が行なわれている。当日には陵所に幔幕が巡らされ、皇族拝所に仮屋が設置されて祭祀が行なわれる。
 S多摩東陵(たまのひがしのみささぎ)は貞明皇后の陵。昭和26年(1951年)5月17日に崩御した貞明皇后は、6月22日に斂葬の儀が行なわれ、陵所に埋葬された。陵は大正天皇陵のほぼ東に位置し、そのため「多摩東陵」と命名されている。陵の構成は一般拝所に段がないことを除けば、大正天皇陵とほぼ同じである。毎年5月17日には陵および皇居宮中三殿で貞明皇后例祭が行なわれている。当日には陵所に幔幕が巡らされ、皇族拝所に仮屋が設置されて祭祀が行なわれる。
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