更新日時 2010年09月26日

 稲田人車軌道は稲田駅周辺で産する御影石(学名花崗岩)を採石場から駅まで運搬するためのトロッコが初めて運転されたのは、明治29年(1896年)であった。東京で石材問屋を経営していた鍋島彦七郎は、稲田に進出し、無尽蔵に存在する御影石を消費地に運搬するために、採掘場のある堂峰・西沢と稲田駅間に2km余に及ぶトロッコ軌道を敷設した。明治40 年(1907年)には、土屋大次郎の土屋線が9ポンドレールを使用して茅場−大広間に開通した。長山左七は、土屋線軌道の茅場集石場の下から分岐し、鏡ケ池を通って茨城と栃木の県境の奈良駄峠を越えて、仏頂山の裏側の採石場に至る長さ7kmにも及ぶ軌道を敷設した。これが長山線で、稲田人車軌道の中では最長を誇った路線である。しかも途中の茅場−鏡ケ池間の峠と県境の奈良駄峠にトンネルを掘削するという難工事の末に開通した。長山線は主に東京市電の敷石用の石材を運搬したが、路線の高低差が大きく、長距離の路線であったため、運搬のための時間や人件費が嵩み、収支が悪化して、開通から数年足らずで閉山の止む無きに至った。せっかく敷いた軌道は撤去のための費用も莫大で大変な苦労があったという。道路の整備が進むに従って、石材を稲田駅に集積して鉄道で貨車輸送するよりも、トラックが直接採石場まで乗り入れて輸送する方が便利になり、順次軌道の撤去が始まった。昭和27年(1952年)ごろ、大広・茅場の土屋線が廃止されて撤去された。
上記写真は中野組石材工業株式会社 代表取締役 中野剛弘様のご厚意により転載させて頂きました。
 @稲田駅(いなだえき)は、茨城県笠間市稲田にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)水戸線の駅である。かつては石材の積み出しで栄えた。石材を積み出すために、稲田人車軌道が、駅北側に敷設されていた。稲田人駅は東京市の鍋島彦七郎氏が稲田花崗岩開発に際し輸送の不便を痛感し日本鉄道輸送株式会社に敷地1553坪を提供し稲田駅の開設を要請したことにはじまる。同社は先ず、貨物線を布設し明治30年6月8日稲田花崗石初めてこの貨物線から発送された。即ちこの貨物線こそ稲田駅発祥の起源である。
 @稲田駅構造は相対式2面2線のホームを持つ地上駅である。簡易Suica改札機が設置されている。ホーム間は跨線橋で移動する。簡易委託駅。
@水戸線開業100周年記念碑。 @稲田駅開業70周年記念碑。
 @稲田駅は東京市の鍋島彦七郎氏が稲田花崗岩開発に際し輸送の不便を痛感し日本鉄道輸送株式会社に敷地1553坪を提供し新駅の開設を要請したことにはじまる。同社は先ず、貨物線を布設し明治30年6月8日稲田花崗石初めてこの貨物線から発送された。即ちこの貨物線こそ稲田駅発祥の起源である。翌31年5月8日駅は一般営業を開始したので石材業は急速に発展し地元民も交通に便益をえて稲田繁栄の基を開いたのである。昭和42年12月。
@稲田人車軌道土屋軌道線の石材積み替え場所と思われる場所。
A小川を渡る場所で、小川の石垣の造りが違うところが、稲田人車軌道土屋線の廃線跡と思われる。
B稲田人車軌道土屋軌道線の廃線跡。
C稲田人車軌道土屋軌道線の廃線跡。
D稲田人車軌道土屋軌道線の廃線跡。築堤の石垣が残る。
E稲田人車軌道土屋軌道線の廃線跡。築堤の石垣が残る。
E稲田人車軌道土屋軌道線の廃線跡。築堤の石垣が残る。
F稲田人車軌道土屋軌道線の廃線跡。
F日本一の採掘場 中野組石材。
F中野組石材工業(株)前山採掘場は階段状に御影石を掘り下げて行った様だ。
G稲田人車軌道土屋軌道線の廃線跡。
H稲田人車軌道土屋軌道線の廃線跡。 I稲田人車軌道土屋軌道線の廃線跡。
I稲田人車軌道土屋軌道線の廃線か?築堤らしきところが残る。
I稲田人車軌道土屋軌道線の廃線か?築堤らしきところが残る。
 J稲田人車軌道土屋軌道線の廃線か?常陸大理石株式会社稲田採石場入口手前に廃線跡らしき場所がある。
J稲田人車軌道土屋軌道線の廃線か?羽黒石材工業採石場入口付近。
K稲田人車軌道長山軌道線の廃線跡と思われる。
L稲田人車軌道長山軌道線の廃線跡と思われる。桜川市との市境。
 M鏡ヶ池:謡曲「桜川」で知られる桜川の水源地であって、いかなる日照りが続いても水の涸れることがないという。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典:稲田御影石材史 小林三郎著
出典:中野組石材工業株式会社
廃線探索 稲田人車軌道(土屋軌道線)