更新日時 2010年10月30日

 富津列車砲基地専用線は千葉県の富津射撃場に置かれた九〇式24センチ列車加農(きゅうまるしきにじゅうよんせんちれっしゃかのう)を内房線青堀駅の先から分岐し富津列車砲基地までの専用線である。大日本帝国陸軍が1930年(昭和5年)に制式化した列車砲(カノン砲)で、東京湾の防備に充てられていたが、太平洋戦争開始後、改軌されたのち満州に送られ、北部の虎頭要塞に配備されてソ連赤軍に備えることとなった。第一次世界大戦中、鉄道網の発達したヨーロッパでは、長射程の海岸砲や旧式となった海軍砲を鉄道車両に搭載し、そのまま動く砲台(=列車砲)として各国で使用されていた。日本陸軍では、当時は鉄道網がそれほど発達していなかった日本国内よりも、広大な満州方面において短時間で移動し、遠距離から大射程の砲で当時の仮想敵国ロシア(のちにソビエト連邦)の拠点を攻撃しうる兵器として列車砲に着目し、研究を開始していた。戦後、フランスのシュナイダー社から新型列車砲の売り込みがあり、陸軍は兵器技術向上のための特別研究費で1門の購入を決定。1926年(大正15年)に契約が締結され、本砲が製造された。フランスで製造されたのは砲身部分で、車体などは日本国内で開発・製造された。本砲は、射撃に際しては線路の両側に砲架から支柱を張り出し、これを木製の台で固定した。砲の操作は砲車に随伴する電源車から供給される電力によって行われた。また、水圧と空気圧の二重後座方式を採用しており、射撃直後に砲身が後退するとともに、砲を支える小架が大架に対して後退する設計となっていた。
上記写真はフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より。
@青堀駅(あおほりえき)は、千葉県富津市大堀にある東日本旅客鉄道(JR東日本)内房線の駅である。
 @青堀駅構造は島式ホーム1面2線の地上駅である。特急さざなみで、当駅を通る定期列車のすべてが停車する。ホームは嵩上げされていない。トイレは男女別の水洗式。国鉄時代は貨物の取り扱いもあり、駅舎の脇(君津寄り)に貨物用ホームが存在していた。また、ホームを挟んだ反対側にも機回し線と思われる線路が存在していた。現在はともに撤去されており貨物ホームのあった場所付近に線路を渡るための跨線橋が設置され、機回し線跡も自転車駐輪場として整備された。君津駅管理の有人駅であるが、みどりの窓口は2006年4月1日に「もしもし券売機Kaeruくん」(営業時間:6:00〜21:00)の設置に伴い閉鎖となった。自動券売機2台(うち1台がSuica対応)、簡易Suica改札機設置。
A内房線大堀踏切より撮影。この辺から分岐していたと思われる。
A内房線大堀踏切から青堀小学校へ行く道が富津列車砲基地専用線の廃線跡と思われる。
B内房線と平行している廃線跡と思われる道が青堀小学校のどんぐりの小径へ。
Bどんぐりの小径が富津列車砲基地専用線の廃線跡。
C築堤跡が残っている。唯一の富津列車砲基地専用線の廃線跡と解る場所である。
C青堀小学校裏門辺りの富津列車砲基地専用線の廃線跡。
C青堀小学校裏門辺りの富津列車砲基地専用線の廃線跡。
D富津列車砲基地専用線の廃線跡。道路に転用されている。
E富津列車砲基地専用線の廃線跡。ここから先の廃線跡は痕跡がほとんど無い。
 F明石石材の工場が有る場所が富津列車砲基地専用線の廃線跡と思われるが痕跡は見当たらない。
G富津列車砲基地専用線の廃線跡。この斜めの部分が廃線跡と思われる。
H富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
I富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
J富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
K富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
L富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
M富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
N富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
O富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
P富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
Q富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
R富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
S浅間神社。
S貴布称神社。 S御嶽神社。
S御嶽神社。 S御嶽神社。九頭龍大神。
@富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
 A中の島の由来:富津公園一帯は、明治14年、時の明治政府により砲台と海堡が築かれました。ここ中の島は元州砲台として同年8月に起工し、約3年の歳月をかけて築造されたものです。築造の方法は、幅20m〜30mの外濠を掘り、海水を引き入れ砲台の整備として、濠の砂を盛り、崩れを防ぐために外面を富津市二間塚の土で覆ったといわれ、現在もその痕跡を留めています。明治28年には東京湾要塞司令部が発足し、守備隊がおかれました。元州砲台には歩兵中隊446名が守備についたが、、幸いに富津の砲台は1弾も発射されることが無く、日露戦争には一部攻城砲として、旅順に送られたものもありました。大正4年9月に旧式として除籍され、陸軍技術本部の大砲試射場となり後に24センチ列車砲も設けられ、その試射もありました。軍の占拠は終戦まで続きましたが昭和26年に県立公園に指定され、昭和28年に鉄筋コンクリート三層造最上階高さ11mの中の島展望塔ならびに中の島周辺に通称行幸橋を含む三橋が築造されました。その後、老朽により中の島展望塔、行幸橋が撤去されましたが、昭和55年に鉄筋コンクリート3階建、高さ9.1mの展望塔が築造され現在に至っております。
A中の島。 A鵜?
A中の島展望台より鹿野山方向を望む。 A中の島展望台より京葉地区方向を望む。
A中の島展望台より京浜地区方向を望む。 A中の島展望台より南を望む
A銃座でしょうか?
A待避場所でしょうか?
A石碑。 A銃座?
A階段下に弾薬庫? A記念碑?
A弾薬庫?
A弾薬庫?下の階段。 A煙突?中は埋まっていました。
A中の島。
B富津列車砲基地専用線の廃線跡。痕跡は全く見当たらない。
C富津列車砲基地専用線の廃線跡。道路部分が廃線跡と思われる。
D富津列車砲基地専用線の廃線跡。築堤が残る。
D富津列車砲基地のトーチカ(陸軍富津射場観測壕)が残る。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
廃線探索 富津列車砲基地専用線