更新日時 2011年02月03日

 山下臨港線は昭和30年代、山下公園の東側に山下埠頭が造成されることから既に新港埠頭(当時)の横浜港駅まで敷かれていた高島線(通称)の線路を山下埠頭まで伸ばして貨物駅を設置し貨物輸送を行う計画が持ちあがった。しかし線路が山下公園内の敷地内を通過することから景観を理由に地元で反対の声が起こったため公園の道路側に景観への配慮を重視した構造の高架を建設することになり、1961年から工事が着手され1965年に完成した。位置付け的には東海道本線の貨物支線であったが、名称については「山下埠頭線」「臨港貨物線」「公共臨港線」などの様々な通称がつけられた(本項では以降「山下臨港線」と表記する)。なお横浜港駅からの線路の所有は横浜市で、山下埠頭駅の業務運営は神奈川臨海鉄道が行っていた。しかし開通後の本牧埠頭および大黒埠頭の造成で山下埠頭の重要度が低下していき、またモータリゼーションにより鉄道輸送から自動車輸送へシフトしたことから貨物列車の運行頻度が低下していったため山下臨港線は1986年に廃止されることになった。しかし廃止後も山下埠頭駅にあったキョクレイの麦芽積込施設が本牧埠頭駅に移転するまでの間、輸送が続けられていた。だが横浜博覧会の開催に合わせて会場近辺から山下公園までの線路を旅客輸送に再活用するために追って廃止された桜木町側の線路と共にそのまま残され、1989年には桜木町駅近辺に設置された日本丸駅から山下公園駅まで気動車が運行された。この列車については当時の鉄道ファンから恒常的運行を希望する声もあったが、営業収支が芳しくなかったことから運行は横浜博覧会の会期中にとどめられた。なおこの時運行された2編成4両の気動車は博覧会終了後に岩手県の三陸鉄道へ譲渡されて36-300形・400形となり、それぞれ2006年、2004年まで運行された後、ミャンマーへ売却された。その後しばらく山下臨港線部分の線路と高架脚は放置されていたが地元から山下公園内の景観復活を求める声が強くなったため、公園敷地内の高架については撤去する工事が開始され2000年までに撤去を完了した。しかし1997年に桜木町から新港までの旧高島線が遊歩道の「汽車道」として整備され好評を得ていたことから山下公園より西側に残されていた山下臨港線跡の高架については汽車道同様に遊歩道とされることになり、整備の後2002年に「山下臨港線プロムナード」として一般開放された。なお現在も山下埠頭の道路上には山下臨港線の線路跡が残存している。
@高島線から分岐後の山下臨港線の廃線跡。
A山下臨港線の廃線跡。
 B日本丸(にっぽんまる)は、1930年(昭和5年)1月27日、兵庫県神戸市の川崎造船所で進水した、日本の航海練習船で大型練習帆船。その美しい姿から、「太平洋の白鳥」や「海の貴婦人」などと呼ばれている。日本丸は約半世紀にわたり活躍し、1984年(昭和59年)に引退した。1927年(昭和2年)3月、鹿児島商船水産学校の練習船「霧島丸」は千葉県銚子沖にて暴風雨のため沈没、乗組員および生徒の合計53名が全員死亡するという惨事が発生した。この事故が契機となり、1928年(昭和3年)大型練習帆船2隻の建造が決定された。2隻の建造費は合計182万円、当時の国家予算(軍事費および国債費を除いた一般会計予算:約8億7千万円)からすると破格の大型プロジェクトであった。設計はスコットランドのラメージ・エンド・ファーガッソン社、建造は神戸の川崎造船所が担当した。1930年(昭和5年)1月27日に進水した第1船は「日本丸」、同年2月14日に進水した第2船は「海王丸」と名付けられた。同年3月31日には艤装を終え、文部省に引き渡された。同年にはミクロネシアのポナペ島へ初の遠洋航海を行った。その後、太平洋を中心に訓練航海に従事していたが、太平洋戦争が激化した1943年(昭和18年)に帆装が取り外され、大阪湾、瀬戸内海にて石炭などの輸送任務に従事した。戦後は海外在留邦人の復員船として25,428人の引揚者を輸送した。1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争では米軍人や韓国人避難民の輸送といった特殊輸送任務に従事した。1952年(昭和27年)、ようやく帆装の再取り付けがなされ、翌年春にはハワイに向け、戦後初の遠洋航海を行った。1984年(昭和59年)9月16日の退役まで、約183万kmを航海し、約11,500名の実習生を育てた。その後、海洋練習船としての役割は後継の日本丸II世(現・日本丸)が担っている。現在は横浜市の日本丸メモリアルパークにて展示公開されている。
 Cこのエアー・コンプレッサー(空気圧縮機)は、横浜船渠(後の三菱重工(株)横浜造船所)が造船事業に進出する際にアメリカから購入したものです。造船所構内のほぼ中央にあった動力室に4期設置され、1983年(昭和58年)に造船所がここから移転するまでの約65年間使われました。リベットハンマーを始め、所内各工場の様々な機械の動力となる圧縮空気をこのコンプレッサーから送りました。横浜船渠の造船部門を象徴する設備として保存・展示します。
C日本丸メモリアルパーク地図。
C山下臨港線跡の汽車道。
C山下臨港線跡の汽車道。
D港1号橋梁。
 Dこの橋は、明治42年(1909年)に鉄道院によって架設されました。2連の30フィート鈑桁橋と100フィートの鋼プラット・トラス橋(クーパー型トラス橋)からなっています。100フィートのトラス橋は、明治40年(1907年)にアメリカン・ブリッジ・カンパニーで製作され、港2号橋梁と同形のものです。
E山下臨港線跡の汽車道。
F港2号橋梁。
 Fこの橋は、明治40年(1907年)にアメリカン・ブリッジ・カンパニーで製作され、明治42年(1909年)に架設された100フィートの複線トラス橋です。重量機関車の出現により、それまでのイギリス系トラス橋にとってかわり、明治30年代から主流となったアメリカ系トラス橋の遺構として貴重なものです。
G山下臨港線跡の汽車道。
 H港3号橋梁(旧大岡川橋梁)大岡川橋梁は北海道の夕張川橋梁「明治39年(1906年)架設」と総武鉄道江戸川橋梁「明治40年(1907年)製作」を転用し、3連の100フィート・ポニー形ワーレン・トラス橋として、昭和3年(1928年)に旧生糸検査所引込線に架設されました。この橋は、そのうちの旧夕張川橋梁の橋長を短縮し、平成9年(1997年)に移設したもので、イギリス系トラス橋の遺構として貴重なものです。
I山下臨港線跡の汽車道。
I山下臨港線跡の汽車道。
J山下臨港線跡。
K新港埠頭の山下臨港線跡。
K新港埠頭の山下臨港線跡。 L1号倉庫。
 L横浜赤レンガ倉庫(よこはまあかレンガそうこ)は、神奈川県横浜市中区新港一丁目の横浜港にある歴史的建築物の愛称であり、正式名称は新港埠頭保税倉庫である。2号館は1911年(明治44年)、1号館は1913年(大正2年)に竣工。保税倉庫としての役割は1989年(平成元年)までに終え、しばらく放置されていた。2002年(平成14年)に、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設となり、付近一帯は広場と公園を備える赤レンガパークとして整備され、横浜みなとみらい21地区の代表的な観光施設となっている。第45回BCS賞 (2004年) 受賞。
 L赤レンガ倉庫(新港埠頭保税倉庫)は、明治時代の終わりから、大正時代の初めにかけて建設された。当時の横浜港は、1859年(安政6年)の開港から半世紀を経て、近代的な港湾の整備が横浜市にとって急務となっていた。1889年(明治22年)には第1期築港工事が始められ、大桟橋、東西防波堤などの整備が進められた。これに続く1899年(明治32年)には、横浜税関拡張工事の名目で大蔵省が主導して、第2期築港工事が始められた。第2期築港工事は、前期と後期に分かれる。前期工事は、税関前の海面を埋め立てて、係船岸壁を有する埠頭の建設を主に進めた。係船岸壁とは、船が直接接岸できる岸壁で、その建設は日本初の試みであった。引き続いて1905年(明治38年)に始められた後期工事は、埠頭の拡張と陸上設備(上屋、倉庫、鉄道、道路)の整備を目指した。赤レンガ倉庫は、後期工事の中で、国営保税倉庫として建設された。後期工事には、日清戦争後に急伸し東洋最大の港となっていた神戸港や大阪港に対抗するため、横浜市も約270万円の費用を負担して、築港の完成を急いだ。これは横浜市が国に働きかけて実現させた事業であり、国と地方の共同事業の嚆矢となった。赤レンガ倉庫の設計は、妻木頼黄・部長率いる大蔵省臨時建築部。妻木頼黄は、馬車道にある横浜正金銀行本店(現、神奈川県立歴史博物館)の設計もした、明治建築界三巨頭の一人である。2号倉庫が1911年(明治44年)、1号倉庫が1913年(大正2年)に竣工した。第2期築港工事は1914年(大正3年)までに完成し、ここに税関埠頭、現在の新港埠頭が生まれた。全長約150メートル、背面に鉄骨造ベランダを持ち、日本初のエレベーターや避雷針、消火栓を備える赤レンガ倉庫は、国営保税倉庫建築の模範となるとともに、組積造技術の最高段階を示す建築とされる。レンガとレンガの間に鉄を入れる補強が施されていたことで、1923年(大正12年)に発生した関東大震災でも、被害は1号倉庫の約30%損壊にとどまった。
L1号倉庫と2号倉庫の間に残るレール。
 M赤レンガ倉庫を含む新港埠頭は、第二次大戦終戦後の1945年(昭和20年)に、連合国軍に接収され、横浜税関に連合国軍最高司令官総司令部が置かれた(後に第一生命ビルへ移転)。新港埠頭のほかにも、横浜港は大部分が連合国軍に接収されて使用不能となり、横浜の復興を遅らせる原因となった。新港埠頭は、1954年(昭和29年)に商船の臨時使用が許可され、1956年(昭和31年)に1号から6号岸壁と赤レンガ倉庫を含む上屋の接収が解除された。接収解除後は、貿易の急増によって入港船舶トン数、取扱貨物量など、すべての数値が戦前の記録を更新した。しかし、貨物のコンテナ化が進展して他の埠頭に主役が移り、1976年(昭和51年)には取扱貨物量が激減した。1986年(昭和61年)から翌年にかけて放送されたテレビドラマ「あぶない刑事」のエンディングで、赤レンガ倉庫がロケ地とされた事により注目を浴び、倉庫への落書きなども横行した。1989年(平成元年)には、倉庫としての役割も終え、その後しばらく放置された。
M2号倉庫内のスライドドアのレール。
M震災後の新港埠頭の様子。 M海側から見た創建直後の2号倉庫。
N飛鳥U。 N工作船展示館(改装中で休館)
O山下臨港線跡。新港橋梁。建造年1912年(大正元年)
O山下臨港線跡。新港橋梁。建造年1912年(大正元年)
P山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。
Q山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。 Q開港50周年ごろの横浜「横浜桟橋」
Q山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。第1山下架道橋。
Q山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。第1山下架道橋。
R山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。第1山下高架橋。
 R明治33年(1900年)に発行された「横浜税関一覧」の付図には、横浜税関の上屋や倉庫の背後に、縦横に走る鉄軌道(線路)やその交差部に設置された転車台(ターンテーブル)が描かれています。展示されているのが、象の鼻パークの整備工事中に発見された4連の転車台です。これらの鉄軌道や転車台は概ね明治20年代後半に整備されました。明治40年代の写真には鉄桟橋(現在の大桟橋)方向に向かって敷かれた鉄軌道、転車台、鉄軌道の上を走る台車状の車両が写っています。鉄軌道の幅員は、1.06mあり、我が国の一般的な鉄道の車軸幅と同じです。また、転車台は、鉄部の直径が約2.5mありました。この大きさでは回転の出来る車両の規模も限られることから、発見された鉄軌道は敷地内での荷役作業を行うために設けられたものであると考えられます。当時の工事記録によれば、当初は、鉄桟橋からの鉄軌道は税関敷地内を通って海岸沿いに大岡川河口部に至り、横浜停車場(初代の横浜駅、現在の桜木町駅)に連絡する計画であったようです。
R明治30年代の横浜税関施設。
R山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。第2山下高架橋。
R山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。第2山下高架橋。
S山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。第2山下架道橋。
S山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。第2山下架道橋。
@山下臨港プロムナードの山下臨港線跡。第3山下架道橋。
A山下公園内の山下臨港線跡。
B山下公園の水の女神像。 B有名な氷川丸は改装中の様です。
B観光船マリーンルージュ。 B海洋調査船「かいよう」
C山下埠頭内の山下臨港線跡。
D山下臨港線の線路跡が残る。山下埠頭入口。
D山下臨港線の線路跡が残る。山下埠頭入口。
E山下埠頭内の山下臨港線跡。
F山下埠頭内の山下臨港線跡。
G山下埠頭内の山下臨港線跡。
H山下埠頭内の山下臨港線跡。
戻る Copyright (C) 2008-2016 hotetu.net All Rights Reserved
外部から直接リンクで飛んできた方は右ホームページリンクへ http://www.hotetu.net/
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
廃線探索 山下臨港線