更新日時 2011年11月22日
南武鉄道是政多摩川砂利線は府中本町駅−旧是政多摩川駅間から分岐し、現在の府中市郷土の森公園まで延びていた砂利採取線である。日本鉄道旅行地図帳に載っていたので、廃線探索をして、インターネットで文献等を調べたが詳細は不明である。南武線は、私鉄の「南武鉄道」により開業した路線である。免許の出願は「多摩川砂利鉄道」として行われており、多摩川の川原で採取した砂利を運搬するのが目的であった。1920年1月29日に免許が交付された後、3月1日に会社を設立し、社名を「南武鉄道」に改称した。3月17日には終点を立川まで延長、府中町 - 国分寺町間の支線の敷設を追加で申請した。これらは単に砂利を運搬するだけでなく、多摩地域と川崎とを結ぶ交通路線となることも目指したものであった。大正9年(1920)に設立され、昭和2年(1927)に川崎−大丸間が開通した多摩川砂利鉄道(のちの南武線)、大正5年(1916)に調布−多摩川原間の営業がはじまった京王電気軌道(のちの京王線)の多摩川原線、大正11年(1922)に中央線の武蔵境から是政までが開通した多摩鉄道(のちの西武多摩川線)、明治43年(1910)に国分寺−下河原間の営業がはじまった東京砂利鉄道(国鉄下河原線)などがあります。敷設された時期をみると、いずれも明治時代末期から昭和初期にかけての、わずか20年たらずの間に建設されており、これらの鉄道は昭和4年(1929)にはすでに完成していたことになります。昭和20年代には戦後復興が徐々に進み、多摩川の砂利採掘も、ふたたび戦前の活況を取り戻しはじめました。しかし乱掘による砂利公害も進行したために、日野橋から下流の多摩川について、昭和27年には「多摩川砂利採集取締りに関する協定」が締結され、規制が強化されることになります。昭和30年代に入ると規制はさらに強化され、昭和39年には青梅市の万年橋までの商業的な採掘が全面禁止になります。翌昭和40年には多摩川全域で全面禁止になり、砂利採掘の歴史は幕を下ろすことになりました。 | |
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@府中本町駅(ふちゅうほんまちえき)は、東京都府中市本町一丁目にある東日本旅客鉄道(JR東日本)の駅である。 | |
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@府中本町駅構造は3面6線のホームを有する地上駅である。南武線は相対式ホーム2面2線で、のりばの番号は1・4番線である。南武線の相対式ホームの間に武蔵野線の島式ホーム1面2線が挟まれる形になっており、のりばの番号は2・3番線である。さらに1番線と2番線、3番線と4番線の間にそれぞれ武蔵野貨物線が通過する。武蔵野線が貨物バイパス線目的で敷設された事情によって貨物優先の構造となっているゆえ、南武線と武蔵野線とを乗り換える利用客は一度コンコースに出る必要が生じている。コンコースの改札向かい側に巨大な臨時改札口が設置されており、土曜・休日の東京競馬場での競馬開催時のみ営業する。 | |
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A南武線の府中本町−南多摩間。東京砂利鉄道(国鉄下河原線)東京競馬場線との交差部。 | |
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B南武線から分岐直後で、茶色い家左側から、ビニールハウス方向が南部鉄道是政多摩川砂利線の廃線跡。 | |
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C縁石から住宅間の畑が南武鉄道是政多摩川砂利線の廃線跡。 | |
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D細い水路に南武鉄道是政多摩川砂利線の廃線跡と思われる位置に境界杭を発見。 | |
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Eここから府中市郷土の森公園内の南武鉄道是政多摩川砂利線の廃線跡。 | |
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Fここから府中市郷土の森公園内の南武鉄道是政多摩川砂利線の廃線跡。 | |
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Gここから府中市郷土の森公園内の南武鉄道是政多摩川砂利線の廃線跡。 | |
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H都電6000型:この電車は、昔「チンチン電車」の愛称で親しまれていた都電で昭和28年までの間に290輌製造されました。昭和30年頃には東京都内では40路線の系統の電車が運転されていましたが、自動車の普及に伴いだんだんその数が減って東京都内では現在、三ノ輪橋から早稲田までの区間の荒川線だけとなりました。この電車は荒川線を最後に28年間も休まずに働き続けてまいりました。1日最高2300人位、1日平均1000人位の人々に利用され、任務を終えて荒川の車庫で休んでいるのを府中市が、よい子の皆さんに利用していただくために、昭和56年7月東京都交通局より買い受けました。 | |
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ID51-296:D51型蒸気機関車は「デゴイチ」の愛称で親しまれ昭和11年から昭和20年までに1115輌も製造された日本の代表的な蒸気機関車であります。このD51-296は国鉄の発注により昭和14年10月川崎車輌株式会社が製造し、新潟、長野、東京、仙台、秋田各鉄道管理局に配属され、青森県内の奥羽本線を最後に引退するまで客貨輸送に活躍し、関東、東北地方の産業、経済、文化の発展に多大の貢献をしました。この間30余年約242万q(地球を60周)を走行しましたが、昭和45年から青森機関区に所属し、国鉄の動力近代化にともなって昭和47年3月引退したものです。府中市では引退後のこの機関車が市民健康センターで静かな余生を市民に愛されながら送りつつ子供達の科学への夢を育てるようまた教材として生かすため国鉄から貸与を受けここに展示したものであります。 | |
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Iここから府中市郷土の森公園内の南武鉄道是政多摩川砂利線の廃線跡。府中市郷土の森公園に保存しているEB10形電気機関車は1931年(昭和6年)に日本国有鉄道(国鉄)の前身である鉄道省が改造により製作した直流電気機関車である。1927年(昭和2年)に2両製造された国鉄唯一の蓄電池機関車であるAB10形を改造した。AB10形は1927年(昭和2年)に2両製造された蓄電池機関車である。同年に東北本線の貨物支線(通称、須賀線)として開業した王子 - 須賀間2.5km、および王子 - 下十条(現在の北王子)間1.2kmで使用するために製造された。須賀線は全線が東京市王子区(現在の東京都北区)にあり、須賀駅で大日本人造肥料(後の日産化学工業)などの側線と接続していたが、途中には陸軍の火薬製造工場があり、その側線も接続していた。蓄電池機関車を導入した理由としては、架線と集電装置の間に生じたスパークによる引火の危険性を考慮したことや、線路が王子電気軌道(のちの東京都電)と平面交差していたためといわれるが、結局、須賀線は1931年(昭和6年)には電化され、AB10形も電気機関車に改造された。製造当時は10形(10・11)と称したが、翌1928年(昭和3年)に実施された車両称号規程の改正により形式がAB10形となり、10→AB101、11→AB102に改番されている。製造は機械部分を汽車製造、電気部分を芝浦製作所が担当している。蓄電池は湯浅製作所製造のものを使用した。また充電のため田端機関区構内に安川電機製の電動発電機を設置している。AB10形は1931年、須賀線の電化にともない、芝浦製作所で架線から集電する電気機関車に改造され、形式がEB10形に改められた。蓄電池の代わりに抵抗器などの機器を搭載して機械室部上面に通風口を新設し、運転室屋根上にはパンタグラフを設置した。これにより前照灯は庇の下に移設している。制御方式は主電動機2個永久直列接続、抵抗制御のみとなった。 | |
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Perry-Castaneda 図書館所蔵の地図に南武鉄道是政多摩川砂利線と東京砂利鉄道(国鉄下河原線)が記載されている。 | |
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