更新日時 2011年11月24日
立川陸軍航空工廠線は昭島市の中神駅から分岐し、昭島市中神(一部立川市)にあった陸軍航空工廠へ続いていた。廃線跡は整備され名称を一般公募し中神引き込み線通りと呼ばれている。引込線が敷設されたのは昭和18年(1943年)といわれ、陸軍唯一の飛行機製造部門として昭和15年(1940年)4月1日に設置された工廠への資材運搬用路線でした。昭和20年(1945年)太平洋戦争が終わると航空工廠を含む立川飛行場一帯はアメリカ軍に接収され、立川基地となりました。工廠線は、そのままアメリカ軍専用線(1.9km)として使用され、主に航空機燃料や重油が運ばれました。立川基地は、昭和52年(1977年)11月30日、日本に全面返還され、引込線も昭和53年(1978年)7月1日付けで正式に廃止されました。立川飛行場は、1922年に帝都防衛構想の陸軍飛行戦隊の中核拠点として開設された。航空基地用地として立川駅北口に広大な土地があり、燃料輸送や兵員輸送に好都合だった為である。前年に岐阜県各務原で開隊した飛行第五大隊が立川へ移駐し、同隊は1925年に飛行第五連隊へと昇格した。1938年に飛行第五連隊の戦闘中隊は飛行第五戦隊に改編され、翌年には柏飛行場(千葉県)へ移駐したため、太平洋戦争中は実戦部隊こそ置かれていなかったが、陸軍航空の研究・開発・製造の一大拠点として重要な地位を占めていた。立川陸軍航空廠や陸軍航空工廠、陸軍航空技術研究所(1928年移駐)、陸軍獣医資材本廠の他、周辺には軍用機を製造する立川飛行機や日立航空機、昭和飛行機工業など多くの工場が建てられ、これらは戦争末期には連合軍による爆撃の標的となった(立川爆撃)。陸軍航空工廠跡地はは米軍から返還された後も30年以上実質放置されていたので、自然な森と化し、近年では稀少動植物の存在が確認されている。 そのような中、2007年9月に東京都、神奈川県にある数箇所の刑務所関連施設を統合した「国際法務総合センター」の建設案が法務省から昭島市へ要請され、北川穰一・昭島市長は要請を受理する意向を示した。法務省からのこの要請に一部の市民が刑務所施設建築反対運動を行い、27,000人を超える署名を集めて昭島市へ陳情したが、市議会で不採択となった。その後、2008年6月に東京都が利用計画を財務省に提出した。なおこの土地には、松任谷由実の「LAUNDRY-GATEの想い出」で歌われた、陸軍航空廠の煙突も戦後の佇まいを残している。 | |
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@中神駅(なかがみえき)は、東京都昭島市朝日町一丁目にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線の駅である。 | |
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@中神駅構造は相対式ホーム2面2線の地上駅で、橋上駅舎を有している。自動券売機・自動改札機・自動精算機が設置されている。かつては自動券売機に隣接してみどりの窓口が設置されていたが、それが2005年(平成17年)に廃止されたため、跡地にはもしもし券売機Kaeruくん(営業時間:6:30 - 22:00)が設置された。なお、初電 - 6:30は無人駅となるため、乗車券を購入する場合は乗車駅証明書を取って乗車し、着駅で精算しなければならない。業務委託駅(東日本環境アクセス委託)。橋上駅舎化された際に北口と南口とを結ぶ自由通路が設けられたが、階段であるため、車椅子や自転車などでの通行はできない。1978年(昭和53年)6月まで貨物営業も行っていたため、その跡地が北口に残っている。現在その跡地は再開発中となっている。 | |
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@中神駅貨物営業跡地。 | |
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A青梅線砂川街道踏切より撮影。立川陸軍航空工廠線は一旦本線に合流し直ぐに分岐していた。 | |
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B立川陸軍航空工廠線この辺から青梅線と分岐していた。 | |
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C立川陸軍航空工廠線跡。Bからここまでは区画整理が進み廃線跡の痕跡は辿れない。 | |
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C立川陸軍航空工廠線跡は整備され、中神引き込み線通りと名称が付けられている。 | |
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D立川陸軍航空工廠線跡。廃線跡はこちら側の歩道部分。 | |
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E立川陸軍航空工廠線跡。廃線跡は南側側の歩道部分。 | |
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F立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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G立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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H立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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H立川基地引込線跡:この道路は、青梅線中神駅から敷設されていた貨物専用の引込線廃線跡で、ここから北は2路線に分岐していました。引込線は、この地域の歴史を物語るように工廠線、あるいは立川基地引込線と呼ばれました。引込線が敷設されたのは昭和18年(1943年)といわれ、陸軍唯一の飛行機製造部門として昭和15年(1940年)4月1日に設置された工廠への資材運搬用路線でした。昭和20年(1945年)太平洋戦争が終わると航空工廠を含む立川飛行場一帯はアメリカ軍に接収され、立川基地となりました。工廠線は、そのままアメリカ軍専用線(1.9km)として使用され、主に航空機燃料や重油が運ばれました。立川基地は、昭和52年(1977年)11月30日、日本に全面返還され、引込線も昭和53年(1978年)7月1日付けで正式に廃止されました。このほど道路として整備したもので、レールや転轍機(ポイント変換機)は当時のものです。平成12年(2000年)3月昭島市。 | |
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I立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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J立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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K立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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L立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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M立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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N立川陸軍航空工廠線跡。残堀川の松風橋付近が終端。 | |
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O立川陸軍航空工廠線跡の終端部分にレールが残っている。 | |
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P立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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Q立川陸軍航空工廠線跡。 | |
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R立川陸軍航空工廠跡。2本の煙突が残る。火葬用の煙突か? | |
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R碑誌:陸軍航空工廠は この地昭島に 昭和15年4月開設され 従業員1万80余名が航空機生産に従事し 昭和20年8月終戦により解体せり 昭和48年8月初代工廠長陸軍中将猿谷吉太郎氏をはじめとして旧従業員有志により航友会を設立 親睦を旨とし 年一回当地に集い旧交をあたため今日に至る 今ここに当時をしのぶよすがとして記念の碑を建立す。平成2年9月吉日 航友会有志一同。 | |
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