更新日時 2016年02月07日

北海道開拓の村〜馬車鉄道他
 北海道開拓の村(ほっかいどうかいたくのむら、英称:Historical village of Hokkaido)は、北海道札幌市厚別区厚別町小野幌(野幌森林公園内)にある野外博物館。「財団法人北海道開拓の村」が管理運営している。1983年(昭和58年)4月16日に開村した北海道開拓時代の博物館相当施設であり、54ヘクタールの敷地に52棟の歴史的建造物が移築又は再現されている。また、夏季は馬車鉄道、冬季の土日祝日は馬そりを運行している。開拓時代当時の年中行事の再現や、当時の遊戯文化や伝統技術の伝承活動も行っている。なお、村内の解説ガイドやぞうりなどのわら細工制作演示には、ボランティアが活動している。
 森林公園駅(しんりんこうえんえき)は、北海道札幌市厚別区厚別北一条4丁目3にある北海道旅客鉄道 (JR北海道)函館本線の駅。駅番号はA05。電報略号はシコ。
 北海道百年記念塔(ほっかいどうひゃくねんきねんとう)は、野幌森林公園の一角にあり、1968年に北海道開道百年を記念し着工、竣工は1970年9月。全長100mの塔である。外壁は茶色の厚さ4.5〜6.0mmの耐候性高張鋼板で覆われていて、鉄骨等も含めた鋼材の総量約1500tによるものである。総工費は約5億円を要している。展望室は入場無料であるが、冬季期間(11月上旬〜4月上旬)は閉鎖される。野幌森林公園にあるため、北海道開拓記念館と北海道開拓の村とは隣接している。階段で塔に登ることができ、高さ23.5mの展望台からは、札幌・江別などが見える。
 北海道開拓の村はおもに明治、大正期の北海道開拓の歩みの中で残された建物及び歴史的資料を収集展示し先人の苦労を再現した未来への文化遺産である。
 旧札幌停車場は外壁工事のため仮設足場が架かっていた。  @旧札幌停車場:この建造物は、明治41年(1908)に建てられた札幌停車場の正面外観を縮小再現したもので、昭和27年(1952)まで使われてきた。外観は、米国の同じ頃の木造建築に用いられたスティックスタイルと呼ばれる形式が取り入れられ、下見板と棒(スティック)による模様付けが特徴である。(ホームページ写真転用)
馬車鉄道客車。 馬車鉄道線路。ポイント部は枕木が有る。
馬車鉄道客車及び車掌さん。 北海道開拓の村 馬車鉄道車輌第1号
製造年月日 昭和56年11月
製  造  所 日本車輌製造株式会社
全     長 4130mm  全     巾 1712mm
自     重 2t      定     員 18人
馬車鉄道客室内。 昭和56年に日本車輌が製作した。
道産子の馬がこちらを向いて笑っている(笑) 客車内から馬車鉄道のすれ違い風景。
車輪止めはゴムを利用している。 道産子は一時休憩。
馬車鉄道は前後に道産子を付け替えて動くので転写台は要らない。
馬車鉄道車輌第2号車 北海道開拓の村 馬車鉄道車輌第2号
製造年月日 昭和56年11月
製  造  所 日本車輌製造株式会社
全     長 4130mm  全     巾 1712mm
自     重 2t      定     員 18人
馬車鉄道車輌第2号車 馬車鉄道が交差点ですれ違い。
馬車鉄道車輌第2号車 レールエンド。
 A旧開拓使札幌本庁舎:外観は明治6年(1873)に建てられた開拓使札幌本庁舎を再現したものである。開拓使札幌本庁舎は開拓使顧問ケプロンの構想に基づき、開拓使工業局営繕課が担当した。築後5年目の明治12年、火災のため焼失した。建物の内部は総合案内・情報サービスコーナー、講堂、研修室があり、見学の事前事後の学習・休憩などに利用できる。
三越ブランドの三輪車 小倉百人一首
 B旧手宮駅長官舎:明治13年(1880)北海道で初めての鉄道として、幌内鉄道が敷設された。その職員官舎として建てられたのがこの建物である。骨組みや上げ下げ窓など外部の意匠に洋式の手法が用いられている。手宮官舎5号と呼ばれていたもので、同じ形式のものが6棟建てられていた。
 B建物は洋式の技術が用いられているが、奥の台所(板の間)には炉を設け、上部には煙出しの窓があり、間取りなどにも、伝統的な和風のかたちがうかがえる。
 明治期の小樽港は手宮を中心として、石炭や木材の積み出し港として賑わっていた。本州からの移住者でここから幌内鉄道に乗りかえ、札幌や奥地に向かう人々も多かった。
 内部には、大正初期の駅長家族の生活を展示している。
B二階。 B昔の電話。
 C旧開拓使爾志通洋造家:この建物は開拓使の官舎として建てられたが、完成後、順次払い下げられた。アメリカ中西部の建築様式を模範とし、外観は洋風だが、内部は座流し・畳敷きなどの和風で、和洋折衷である。外観に白ペンキが塗られていたことが、俗称「白官舎」の由来で、1棟2戸建ての建物が4棟並んで建てられていた。
 Cここでは、建物にちなんで、開拓史の事業と明治年間の札幌をテーマにした展示を行っている。
 明治2年(1869年)の設置から同15年に廃止されるまでの開拓史の機構や建築物・施設の建設事業、廃止に伴う官有物払い下げ事件、開拓史以降の北海道行政と官営事業を示し、一方で、行政の中心地となった札幌の街並みが、開拓史の時代から明治の終わりにかけて、どのように整えられていくかを紹介している。
 D旧福士家住宅:幕末から明治期にかけて、造船・通訳・気象観測・測量など広い分野で活躍し、北海道開拓に貢献した福士成豊〔天保9年(1838)〜大正11年(1922)〕が、明治半ばから大正11年まで居住した建物である。明治前期の洋風建築と明治後期の和風住宅を接続した特異な建物である。
 D福士成豊は、明治8年(1875年)から大正11年(1922年)の死去まで札幌で暮らした。彼は日本の近代化に尽くした人物の一人で、仕事面や公的な生活においては早くから欧米文化を身につけていた。しかし私的生活においては、この家屋にみられるように和風を基調とし、これに欧米の生活文化の一部を加えていくという生活をしている。当時の札幌など都市部に定着しつつあった和洋折衷型生活様式の典型的な例となっている。
 D明治中期頃までの札幌の一般的な食事は飯、味噌汁、漬物に魚や野菜の煮付といったもので、台所用具も鉄鍋、釜、水がめ、かまどなど本州とあまり変わらないものである。しかし明治初期に開拓史が行った洋食の奨励の一部がうけつがれ、トマト、キャベツなどの西洋野菜や肉、さらにバターなど乳酪製品を用いる料理が明治後期頃から次第に普及する。一般家庭でフライパン、西洋皿、スプーンを使い始めたのもこの頃からである。
 E旧松橋家住宅:明治・大正・昭和にわたる都市生活者の住宅で、大正7年(1918)以来松橋家が居住していた。松橋家は、明治初期に秋田県から札幌に移住し、農業及び土地会社経営に従事した。建築以来数度の増改築が見られるが、大正7年の状況に復元した。
 Eこの建物には、違い棚のある床の間、回り縁つきの離れや、3畳の女中部屋があり、古いしきたりの残っていた明治・大正時代の家族制度と住宅のつながりを知ることができる。
 E 展示資料の中で、精神療法関係をはじめとする多くの書籍は、会社経営のかたわら宗教や哲学の研究を続けた松橋吉之助「明治8年(1875年)〜昭和18年(1943年)」の残したものである。
 F旧有島家住宅:日本近代文学史上の代表作家の一人である有島武郎〔明治11年(1878)〜大正12年(1923)〕が明治43年(1910)5月から翌年7月頃まで住んだ建物である。一般の住宅にも、上げ下げ窓などの洋風意匠を取り入れ始めた頃の建物である。
 F有島の作品「生れ出づる悩み」の中に、豊平川右岸の、1町歩ほどもある大きなりんご園のなかにあった借家とあるのが、この家である。
 F当時の有島は、母校の東北帝國大学(札幌農学校の後身、現在の北海道大学)の英語教師で、働く若い人達のための遠友夜学校の代表者でもあった。
 この家で有島は「或る女のグリムプス」を書き、雑誌「白樺」に連載を開始した。
 G旧浦河支庁庁舎:明治30年(1897)、北海道庁が郡区役所を廃止し支庁制度を設けた結果、浦河支庁が置かれた。この建物は、大正8年(1919)に地元の浦河村および道庁の費用で建築され、昭和7年(1932)日高支庁と改称。昭和31年(1956)浦河町に払い下げられた後は、堺町会館や博物館として利用されていた。
 Gこの建物は、玄関ポーチ、窓廻り、軒廻りの装飾や、柱型を強調するなど、基本的には洋風古典様式を取り入れているが、通常、左右対称に設けられる翼棟の左側がないなど変則的である。
 室内は、階段手摺、腰壁の羽目板張り、壁の漆喰塗りなどの当時の雰囲気を良く残している。
 内部には支庁長の執務状況、書く支庁のあゆみ、道内各地を走った馬車鉄道の様子などを展示している。
 G北海道における家庭のあかりは粗末な開墾小屋の炉の火に始まる。まさしく苦難に満ちた開拓の火であった。
 開拓が進む明治中期頃になるとローソクによる燭台や行灯が使われ、次第に石油を燃料とするランプやカンデラが普及する。明治後期になると、札幌、函館などの都市部の家庭に電灯がともるが、広い北海道では、昭和20年代になって、やっと電灯がついた地方も多い。
 G北海道で迎賓馬車が使用されたのは明治20年代からで、使用者も官庁や牧場主に限られていました。ここに展示されている馬車は、明治39年(1906年)から札幌の鉄道作業局北海道出張所において使用されていたものを、大正10年(1921年)に王子製紙江別工場が購入し、工場長や事務長の公務、来客の送迎に昭和20年代まで使用されていました。  G人力車は明治の初め頃、日本人が考え出した乗り物で、現在のタクシーやハイヤーの役目を果たしてきました。北海道でも明治の中頃から函館、札幌、小樽を中心に利用されてきました。ここに展示されている人力車は、明治40年(1907年)頃、士別において、商店を経営していた西条武平氏が商用に使用していたものです。
 H旧小樽新聞社:小樽新聞社は明治27年(1894)に創立された。函館毎日新聞、北海タイムスとともに道内の代表的新聞の一つであった。この建物は、木造の骨組みに札幌近郊で産出する札幌軟石(溶結凝灰岩)を外壁に積み上げた構造で、明治期石造建築の特徴を示している。
 H明治末期の小樽の代表的な洋式建造物の一つで、丸藤留治の設計施工である。石材は札幌軟石を使用し、石厚は約30p。構造は石壁の内側に木の柱を建てた木骨石造形式である。庇とそれを支える円柱を持つ玄関や屋根に突き出た社章付半円形の飾りの意匠に特徴が見られる。
H名刺の印刷サービスをやっていました。
 I旧開拓使工業局庁舎:明治6年(1873)に設置された開拓使工業局は、道路・橋梁・官庁・学校などの施設をはじめ、家財、機械・農具・車両などの製造事業を行い、本道開拓の発展に大きな業績を残した。この建物は明治初期の洋風事務所建築の特徴を示し、開拓使関係庁舎としては現存する唯一のものである。
 I明治2年(1869年)北海道の開拓政策をすすめるために設置された開拓使は、北海道の寒冷な風土に適した建築の改良をはかるために洋風建築の導入につとめた。この建物はその一例で、屋根、大棟の端にみられる飾り、西洋下見板張り、ペンキ塗りの壁、正面ポーチなどに洋風建築の特色が見られる。内部は、開拓使の官営工業について展示している。
 J旧北海中学校:この校舎は、明治41年(1908)から翌年にわたって建築された本館部分である。創立は明治38年(1905)で、前身は札幌農学校第三期生らが中心となり明治18年(1885)に設立した私立北海英語学校である。外観の意匠は、明治半ばから大正期の官庁や学校の木造建築によく見られる様式である。
 J北海中学校の前身、私立北海英語学校は、札幌農学校へ優れた人材を送り込む目的で始められた。その後、浅羽靖校長をはじめとする教師達の理想に燃えた教育活動は独特の校風となって受けつがれ、社会に多くの人材を送り出し、北海道の中等教育の先駆けであった。
J内部では、校長室、教室を再現、北海中学校史、北海道教育史の展示をしている。
J校長室。 J教室。
 K旧龍雲寺:篠路山龍雲寺は明治19年(1886)頃、村民の努力によって創建された浄土宗の寺である。この建造物は、明治28年(1893)頃に新築落成した本堂で、開拓期の農村の寺院建築の様式をよくあらわしている。正面入り口の向拝部分は大正年間に増築されたものである。
 L旧札幌警察署南一条巡査派出所:明治18年(1885)、札幌創成橋の脇に最初に建てられた交番は木造で、札幌創成橋交番所と呼ばれていた。同じ木造で一度改築されたが、その後個人の篤志寄付で建てかえられたのがこの建物である。壁のレンガは、小口面と長手面を交互に表して積むイギリス積み手法を用いている。
 M旧島歌郵便局:北海道で近代郵便の取り扱いが始まるのは明治5年(1872)で、島歌には明治19年(1886)に郵便局が設置された。明治26年(1893)には畑野清治が2代目局長として就任し業務を取り扱った。以後この局は畑野家により引き継がれてきた。この建物は業務用だけで、局長や職員の住居は別棟であった。
 M明治末期の島歌地域は、鰊漁や昆布の生産などで活況を呈していた。このため道内の大きな町や本州からの郵便物の取り扱いが多く、この頃の島歌郵便局は三等級の地方局であったが、局長をはじめ、事務雇員3人、集配人2人逓送人2人が働いていた。このほか、区内の部落ごとに切手売下所を置き、医師や商人に業務を委託した。
 N旧山本理髪店:傾斜の急な切妻屋根、妻軒の棟折れマンサード、玄関の雨よけアーチなど、大正期の洋風建築の特徴を残したスマートな外観は理髪業とよくなじみ、北海道神宮裏参道沿いの「床屋さん」として長く親しまれてきた。
 O旧渡辺商店:明治30年代には砂金掘りでにぎわい、大正5年の鉄道開通後は交通の要所として発達した中頓別市街に建てられた雑貨店である。漆喰仕上げの土蔵造りは、石造やレンガ造とともに耐火・耐寒を目的とした構造であるが、北海道では建築例が少ない建物である。
 Oこの建物は、1階が店舗、2階が座敷として使用され、店主の住宅と商品の倉庫は別棟となっていた。店舗内左手のレールはトロッコで倉庫の商品を出し入れするためのものである。
 内部の展示は、大正末期の新学期をひかえた時期の店舗の様子を示している。当時の雑貨店の中には、日用品などのほか、書籍や教科書なども取り扱うところがあった。
 P旧浦河公会会堂:明治13年(1880)、神戸において北海道開拓会社「赤心社」が設立され、翌14年から西舎村や荻伏村に結社移民として入植した。「赤心社」の指導者の多くはキリスト教徒で、明治19年「浦河公会」が組織された。この会堂は、2代目の礼拝・集会所として明治27年(1894)に建てられたものである。
 Q旧来正旅館:東永山兵村に屯田兵として入植した来正策馬は、明治13年(1898)退役後、開通直後の宗谷本線の永山駅前に移り、待合所を開業した。大正7年(1918)に大水の被害を受けたため、翌年に旅館兼待合所を新築し営業を再開した。当時は、旅人の宿泊や汽車の待合などに利用されてにぎわった。
 Q1階は客馬車と汽車利用者の待合室と家族の居室、2階は客間6室に分かれている。
 駅前に位置していたことから、当初鉄道が未開通だった愛別や上川方面への旅行者、後には行商や造材の人達、そして北海道庁立上川農業試験場へ役人の人達が多く利用した。ここでは大正時代の駅前旅館の内部を家族の生活の様子とともに再現した。
Q1階家族の居室。 Q1階待合室。
Q台所。 Q廊下。
Q大部屋。 Q一人部屋。
Qお風呂。ちっちゃい(笑) Qぽっとん便所(笑)
Q流し。 Q2階居間の休憩の風景。
 R旧三ます河本そば屋:この建物は、明治18年(1885)頃に石川県から小樽へ移住した河本徳松(当時18歳)が、そば屋の修行を積み、三ますそば屋ののれんを継いで新築した店である。小樽市街の中でも最も栄えた地域にあったこのそば屋は食事や宴会の場として多くの人々に利用されていた。
 R建物内部の間取りは、1階が調理場とそば粉をこねて麺を造るそば部屋、家族のための居間・座敷・台所、2階がおよそ50人の客が入る座敷と女中部屋からなっていた。客は2階に案内され、女中が座布団と煙草盆の他に、冬は火鉢を1階から運んだ。食事や宴会を終えた客は居間にある帳場で料金を払った。内部の様子は大正時代の様子を再現している。
 S旧武井商店酒造部:この建物は、茅沼で石炭荷役、回船業を営んでいた武井家が、明治19年(1886)頃建てたものである。酒造業は9年後の明治28年(1895)頃から始められ、永く親しまれた清酒「松の露」や「玉の川」の製造は、戦時下の統制で酒造中止命令が出された昭和19年(1944)まで続けられた。
 S建物は主屋、帳場、酒蔵(工場)、土蔵からなる。主屋は武井家の人々の生活の場であった居間・座敷・台所からなる。台所では杜氏たちと家族の夕食の情景を、帳場では酒を小売りしていた情景、工場では酒を製造するにあたって使用していた道具を工程ごとに展示した。
 S土蔵では道内での酒場の分布や各種酒器の展示を行っている。内部の展示は、大正時代初期の様子を再現している。
 S貯蔵:滓引きされた新酒は4月頃に「火入れ」を行う。「火入れ」は新酒の殺菌と、残存酵素を破壊して熟成させるため、釜で55℃前後で加熱させる。火入れした新酒は20石から30石の大桶(貯蔵桶)みいれて蓋をし、隙間に目張りをして密封貯蔵され、熟成させる。
 21.旧近藤医院:この建物は、明治33年(1900)に函館病院から古平病院長として招かれ同35年に古平町で開業した近藤清吉が建てた病院で、昭和33年(1958)まで使われた。石造2階建の倉は明治後期に建てられた文庫倉で、清吉の書庫及び研究室として使われた。
 21.この医院は玄関先のポーチ、バルコニー、下見板張の外壁、上げ下げ窓などに、当時の洋風木造建築の特色が見られ、地方の医院建築としては斬新なものである。1階の受付・薬局、診察室、手術室、茶の間などは大正10年(1921年)頃の様子をしめしている。2階には洋室2間、和室1間がある。裏の文庫庫木骨石張りで明治30年(1897年)頃の建築である。内部には近藤医院の歴史と1万冊の蔵書が展示、収納されている。
21.さすが医者だ、書籍の数がすごい量だ。 21.旧近藤医院のトイレは建物外観からは想像できないほどモダンだ(笑)
 22.旧近藤染舗:近藤染舗は、明治31年(1898)に創業された旭川で最も古い染物店である。
 22.この建物は、店の繁盛に伴い大正2年(1913)に地元の建築業者によって新築された店舗兼住宅である。外観や内部の間取りは、当時の店舗建築の様子をよくあらわしている。
 23.旧武岡商店:武岡家は、旧徳島藩家老稲田邦植に従い明治4年(1871)に淡路島から静内郡に移住し、明治15年(1882)から米穀、雑貨、荒物などを扱ってきた商家である。町の発展に伴い本格的な店舗兼住宅を新築し、明治34年(1901)には郵便局を開設するなど、この地方の商業の中心的役割を果たした。
 23.この建物は東静内(旧捫別)の商業の発展に伴い、明治31年(1898年)に本格的な店舗として建てられたものである。地元産のカツラやエンジュの良材を用い、窓の部分などに一部洋風を取り入れた和洋折衷の様式で、当時の流行を繁栄した北海道的な建物である。ここでは明治40年頃の初冬の商業風俗と商家の生活様式を、店舗及び居間を中心に展示している。
 23.明治30年代後半になると、開拓が進み交通輸送網の整備によって北海道の商業は大きく発展する。海路による物資の輸送が発達した静内地方では、この頃になると商品が豊富に出回り店頭を飾るようになる。
 23.どこの町でも市街地の中心は、米穀、雑貨、荒物、衣類など日常生活に必要なものを一店でそろえることのできる万屋的な店が存在し、秋になると冬支度の買い物客で賑わっていた。東静内の武岡商店もこのような店の一つである。
 24.旧大石三省堂支店:札幌で家業である菓子製造の技術を習得した大石泰三が、大正14年(1925)帯広町の繁華街電信通りに店舗を求め、菓子の製造販売を始めた建物である。
 24.親子二代にわたり、昭和30年まで続いた。店舗兼住宅の母屋とそれに併設する工場とを再現したものである。
24.お菓子の製造場所と型。
 25.旧太田装蹄所:大正13年(1924)から昭和20年(1945)まで、札幌市街の江別方面に通じる幹線道路(今の国道12号)沿いで営業していた装蹄所を再現した。蹄鉄屋の名で親しまれていた装蹄所は、馬が物資運搬や農耕の主役であった時代にはどこの町や村にもみられ、馬蹄の保護には欠かせない職種であった。
 25.装蹄師の資格は、蹄鉄工と呼ばれていた明治時代から免許制であった。その仕事は、蹄鉄を製作する造鉄と爪切り(削蹄)、蹄鉄を蹄に合わせて釘付けする装蹄が中心である。この装蹄作業は、馬を木枠につないで行われた。この展示は、大正末期の初冬の仕事場を再現したもので、独立して間もない20代の若い親方とその弟子が蹄鉄を夏用から冬用に取り替える作業を行っている。
 26.旧藤原車橇製作所:明治31年(1898)、兵庫県出身の宮大工藤原信吉が深川に入植し、同36年(1903)には妹背牛で車橇製造を開業した。以後3代にわたり営業を続けた。この建物は、開業以来使われてきた車橇製作所を再現したものである。作業場と住宅から成り、木造切妻平入りの構造である。
 26.馬橇の台木曲げ:この倉庫の内部では、明治後期から昭和30年代にかけて、北海道で最も多く使われた柴巻馬橇の台木の鼻曲げ作業を再現している。まず、下ごしらえした太くて堅いミズナラの材を蒸籠でふかして柔らかくし、曲げ型に固定する。次にロクロで巻いて先端を曲げ、弦をかけて乾燥する。この後、曲がり具合の似たものを2本選んで1組とし仕上げる。この鼻曲げは、馬橇の製作工程の中で、最も高度な技術を必要とする作業である。
 27.旧本状鉄工場:明治30年から2代にわたって営業した本庄鉄工場の仕事場として、大正14年(1925)から昭和50年代まで使用されていた。石狩川河口にひらけた旧市街にあって、漁具や漁船の付属品のほか、農具などを作っていた。開拓地に欠かせなかった鍛冶屋のようすがしのばれる建物である。
 27.大正14年当時、この鉄工場には親方と小学校を出たばかりの弟子が1人いた。子供が多く、13人家族であった。春先には農具を、夏から秋にかけては石狩川河口での鮭刺網漁に使う錨や和船の船釘の製造を家族も手伝いながら行った。火床の中で材料を熱し、金敷の上で鍛造作業を繰り返す鍛冶職人の仕事は、全てが勘に頼る手仕事であった。ここでは鮭漁期を迎える時期の鍛冶屋の様子を再現した。
 28.旧広瀬写真館:この建物は、大正末期から昭和33年(1958)まで岩見沢市街で営業した写真館を再現した。外観は洋風であるが、内部の多くは和風で、和洋折衷の建物である。撮影には自然光を用いたため、写場は2階に設け、北側の屋根をシングルスラントと呼ばれた斜めのガラス張りとしている。
 28.建物内部の間取りは、1階が受付と家族の居間や台所など、2階が写場・待合室・暗室などである。内部の展示は大正末期の一般的な写真館の様子を示している。
 28.当時の写場はスラント式で、白布・黒布の多段カーテンを開閉したり、反射板や調光器を用いたりして、光を調節した。
 29.旧札幌拓殖倉庫:札幌軟石を使用したこの倉庫は、五十嵐倉庫合名会社より明治45年創立の札幌拓殖倉庫株式会社に引きつがれた。この建物は札幌駅北側に隣接し、線路に直角に位置していた6棟の内の一番西側の棟である。開拓期の農産物の集散に大きな役割を果たし、地域の発展に貢献した。
 29.改造も少なく、建築当時の形態をよく保っていたこの倉庫は、砂利を敷いた地中に丸太を打ち込み、その上に軟石を組み、さらに直方体の軟石を壁石として積み重ねている。木骨の石造倉庫は明治時代から倉庫建築を代表とする建造物で、耐火性、耐久性、耐寒性にすぐれ、建築にあたっての工期が短くてすむなどの利点があった。内部には札幌拓殖倉庫関連資料や産業技術記念物を展示する。
 29.産業技術記念物の収集と保存:戦後、産業開発と都市化がかってない勢いで進行する中で、多くの生活文化財とともに貴重な産業技術記念物や産業遺跡が失われてきた。北海道内にも農業、林業、水産業をはじめ鉱業、地場産業の発展を生産の現場で支えてきた古い産業機械・装置や工作機械がまだまだ各地に残されていると思われる。 これらを将来的に収集、保存することは北海道にとっての重要な課題と言える。
 29.北海道の農機具:北海道の農業開拓が組織的・計画的に行われるようになるのは、明治期後期であるが、その初期の段階では鍬・鋤に代表される在来農具によって開墾、耕作が行われた。
 一方、開拓使はアメリカから招聘した開拓使最高顧問であったケブロンの開拓構想に基づいて、欧米の畑作品種や家畜、畜力農機具を導入した欧米農法の定着に取り組み、ブラウ、ハローなどのさまざまな農機具が輸入された。
 30.旧札幌農学校寄宿舎:開拓使仮学校に始まる札幌農学校(現北海道大学)は、明治9年(1876)現在の時計台付近に開学した。明治36年に現在の大学の位置へと移転して寄宿舎も新築され、同40年に“恵迪寮”と命名された。当時は玄関棟と2棟36室および厨房棟があったが、ここでは玄関棟と2棟12室を復元した。
 30.旧札幌農学校寄宿舎(恵迪寮)この寄宿舎は、明治38年(1905年)に開寮した建物の一部を再現した物である。内部の展示は、玄関棟と右手に南寮を中心に、電灯が導入された明治42年頃を想定している。
 30.南寮1階は、明治期の寮室を再現し、委員室に開拓使仮学校や札幌農学校、東北帝国大学農科大学などの資料を展示している。2階は、大正〜昭和初期の寮室を再現し、北海道帝國大学や北海道大学と寮関係の資料を展示している。
 31.旧札幌師範学校武道場:この建物は、北海道教育大学札幌校の前身である北海道札幌師範学校の武道場として昭和4年(1929)に建設された。入母屋造り、平入りの和風建築意匠を強調した木造平屋建ての建物で、剣道、柔道場として使用されたが、戦後昭和24年(1949)からは一時図書館、ついで第二体育館として利用された。
 31.この建物内部は、約400uの道場と二つの支度室からなっている。柔道と剣道の稽古や試合に使われた道場は、板敷きのままの部分が剣道用で、104枚の畳を敷き詰めた部分が柔道用である。
 この展示では、道場は昭和7、8年(1932、3年頃の様子を再現し、支度室では、明治19年(1886年)の北海道師範学校創立から、戦後の昭和24年(1949年)北海道学芸大学に改まるまでの変遷と、柔道部・剣道部の活動の様子を紹介している。
 32.旧土谷家はねだし:はねだしは、鰊漁家の付属施設として海岸の地形に合わせ海側へ跳ね出す形で建てられた倉である。床には開口部が設けられており、直接荷物の出し入れを行うこともできる。この倉は漁具、漁穫物、魚粕・身欠鰊・数の子などの加工品を収納するために使用された。
 33.旧青山家漁家住宅:青山家は、安政6年(1859)山形県から渡道し、小樽沿岸を中心に鰊建網などを経営した漁家である。建網経営には番屋をはじめ網倉、船倉のほか海産干場、船入澗など多くの施設、設備を必要とした。鰊漁場の建物が、このように集約的に保存されているところは少なく、貴重な遺構の一つである。
 33.母屋:この母屋は、建網2ヵ統、およそ60名の漁夫が寝泊まりした建物で、中央の土間を挟んで、右側が親方の住まい、左側が漁夫の生活の場所である。間取りは、明治20年頃の建築で大正8年(1919年)に焼失した番屋がモデルといわれ、軟石を積んだ背面の防火壁は当時の教訓によるという。焼失直後、総工費およそ2万5千円で建てられたものである。
 33.文庫倉:文庫倉は、上等な家具、調度、日常使用しない衣類、予備の寝具、祭礼用具、書籍、そのほかの漁場経営の記録資料など漁家にとって重要な家財を収納していた建物である。この建物は「土蔵」とも呼ばれ、外壁や入口の扉は土塗りで漆喰仕上げとなっている。解体時には、屋根構造の部分に焦げ跡が認められたが、これは大正8年、母屋が焼失したときのものと考えられている。
 33.石倉:石倉は、大正時代には酒倉のほか文庫倉の一部として使用していたが、後には船具や漁具なども収納した。漁場では網おろしや漁場切揚げ、また、廊下洗いと称して鰊加工作業が一段落した際にも漁夫に酒が振る舞われた。その為にここは漁場全体の酒倉として、最盛期には20〜30の酒樽が収納されていたという。右側の一番倉には親方の日常生活用具、左側の二番倉には酒樽などのほか生活用具を展示している。
 33.板倉:板倉は「雑倉」とも呼ばれ、内部は右側から、味噌蔵・漬物倉・雑倉の三つに仕切られていた。味噌は、大正時代には数俵の大豆を大釜で煮た後臼でつき、3年間ほど熟成させてから用いた。漬物には水漬け、糠漬け、すし鰊などがあり、元場のほか出張漁場も含めた数百人の漁夫の分もここで準備していた。雑倉には鰊釜や錨など大型の漁具や製造加工具、そのほか薪なども収納されていた。
 33.米倉:大正時代の青山家は、小樽や雄冬沿岸に18ヵ統の建網を経営していた。建網1ヵ統漁夫は25〜30名で、1日に消費する米は約3斗(約45s)であった。これらの漁場で働く漁夫の食糧を調達するため、青山家では旭川近郊の比布村に129町歩(約128ヘクタール)の小作農場をもち、そこから上る年間1,200俵(約72トン)ほどの小作米をこの米倉に収納した。
 33.網倉:網漁具は漁期が終えると解体、修理、乾燥した後、網倉の1階に格納した。2階には未使用の網地やロープ、縄類などを収納していた。網倉は、漁場では最も火気に注意した建物で、その場所も類焼を避けるために他の建物から離して建てることが多かった。高床式の構造は通風を良くして湿気を避けることのほか、ネズミの害を予防する目的もある。この網倉は出張漁場があった祝津の豊井地区から移築した。
 33.便所。  33.釜炊き作業(鰊搾粕)
 34.廊下:廊下は、陸揚げしたニシンを一時収蔵するための施設であるが、漁期後は船・櫂・櫓などの大型の漁労具や加工用具を収納する倉としても利用された。壁の落とし板構造は、魚の搬入や建物の周囲で行われた「ニシンつぶし」と称した加工作業に便利なように工夫したものである。
 34.枠船:鰊建網漁では、大量に漁獲した魚を、枠船につり下げた枠網によって海岸近くまで運搬した。この漁法は、安政年間(1854年〜1860年)に積丹半島の東岸で考案され、以後、本堂沿岸での鰊漁が終わる昭和30年頃まで続けられてきた。枠舟・枠網の名称は、はじめ船の代わりに木枠を利用したことによる。左側は明治44年、右側は大正13年に建造された枠舟で、高島郡祝津村(現在の小樽市祝津)沿岸でしようされた。
 35.旧秋山家漁家住宅:秋田県男鹿半島から明治末期に移住した秋山嘉七が、ニシン漁で繁栄していた時期に建てた住宅である。同家では三代にわたり、ニシン刺網漁のほか磯廻り漁などを続けながら、昭和53年(1978)まで住んでいた。建物は洋風の棟飾りをもつ、ヨツヤと呼ばれる寄棟造りである。
 35.旧秋山家漁家住宅:焼尻島の漁民にとって最も重要な漁業は、鰊漁であった。漁具には建網と刺網があったが、秋山家では刺網を使い、鰊が海岸近くまで押し寄せると一斉に投網した。大正末期の秋山家は、二世代同居十数名の家族であったが、漁期ともなれば、さらに郷里の秋田から2、3名の漁夫も出稼ぎに来ていた。ここには、本格的な漁期に入る前の漁労の準備に忙しい3月下旬の様子が示されている。
 36.旧山本消防組番屋:水田農村であった山本地区の消防用具の格納庫である。消防組織は、大正8年(1919)頃からの地区の自衛団を前身とし、のち山本消防組となる。昭和45年(1970)まで消防活動を続けた建物を再現した。火の見櫓を持つ番屋は、道内農漁村の小規模な消防組織に多く見られ、防災や治安の中心となった。
 37.旧若狭家たたみ倉:たたみ倉は主に道南の上ノ国町周辺においてみられる。倉は長方体の角材を積み重ねて外壁を作り、屋根をかけたセイロウ倉と呼ばれる構造で、北海道の建物としては特殊なものである。近在の漁家や農家が、家具調度、漁具、農具などを収納するのに用いた。
 38.旧ソーケシュマベツ駅逓所:喜茂別村と徳舜瞥村(現在の大滝村)の中間地点で、明治42年(1909)から昭和9年(1934)まで営業していた官設駅逓所で、他に現存するものは少ない。駅逓は、明治・大正・昭和にかけて、荷物の搬送や郵便・宿泊などの業務を行い、北海道の開拓に大きな役割をはたした。
 38.駅逓では、人や荷物の運搬、農作業に馬が使われたので、付属する建物として厩舎(馬小屋)が設けられていた。この駅逓では、明治44年頃、50町歩(約50ヘクタール)の牧場と、8頭の官馬を持っていたという。
 38.厩舎:厩舎の中には通路を挟んで馬房、飼料室、産室が向かい合わせで並んでいる。場夫休憩所は馬が病気の時などに場夫が寝泊まりするのに使った。飼料は主に燕麦であるが豆の殻なども食べさせた。馬房の敷わらは常に取り替えられ清潔に保たれた。汚れたわらは外に積まれ、堆肥として使われた。内部には、馬の飼育の様子、馬具類などを展示している。厩舎は大正4年(1915年)に建てられたものを再現した。
 39.旧田村家北誠館蚕種製造所:絹(糸)の原料になる蚕の卵(蚕種)をとる建物で、浦臼村養蚕伝習所教師であった田村忠誠が、当時模範とされた東京蚕業試験場の蚕室を参考に、明治34年(1901)から同38年にかけて建築したものである。ここでは蚕種の製造販売を行うかたわら、多くの養蚕技術者を養成した。
 39.蚕の飼育から産卵まで作業には1、2階の室温を一定に保つ必要から、1階の各作業室には炉が設けられ、天井には開口部が取り付けられている。良質な蚕の卵を生産するには、卵を産ます蛾の管理に特に注意が払われ、作業は朝早くから夜遅くまで行われた。
39.内部には貯桑室、作業室、蚕室などがあり、養蚕の技術を展示している。
 40.旧農商務省滝川種羊場機械庫:この建物は農商務省の技師が北欧の建築様式を取り入れて設計した農業機械庫であり、大正中期に建築された種羊場の代表的な施設である。基礎には自然石を積み、小屋組は洋風構造のキングポスト・トラス組で、建物の正面と左右には下屋が設けられている。
 40.農商務省滝川種羊場では、メリノー種やサウスダウン種など約750頭の緬羊を試験飼育していた。この機械庫には、緬羊の飼料となる牧草の栽培に使用するヘイモーアー・テイヘッダー・ヘイレーキなどの大型農機具が収納されていた。ここでは、機械庫と下屋に大型農機具を中心とした農業機械を展示し、農具庫ではこれら農業機械の技術発達について示した。
 40.収穫の農機具、耕起と砕土の農機具、播種・除草・防除の農機具。
 40.農用動力機と農用トラクター類。
 41.旧納内屯田兵屋:納内に屯田兵が入地したのは、明治28・29年である。明治8年(1875)に始まった北海道の屯田兵は、家族とともに兵村で暮し、北辺の警備と農業開拓に従事した。当初は士族を募集したが、明治23年からは主力を平民に移し、空知・上川・北見地方など北方内陸部に屯田兵村が作られていった。
 41.屯田兵は、郷里から様々な生活用具を持参したほか、開墾・農耕具、あるいは台所用具・夜具などが新たに官給された。土間に並べられた鍬や鋸などや、台所、炉端、奥の畳敷きの四畳半間にみられる生活用品・調度品・衣類などから開墾期にあった屯田兵の家族生活に触れることができる。また、六畳間の銃台付きの被服棚に整頓して置かれた兵服は、北辺の防備をになった屯田兵の一面を物語っている。
 42.旧山田家養蚕板倉:開拓使は、屯田兵の授産事業として養蚕を奨励し、琴似兵村ではその成果が実って、屯田兵のなかに独自の養蚕施設を持つ人も現れた。この板倉は、屯田兵として入植した山田家のもので、草創期の暮らしぶりを伝える数少ない遺構の一つである。
 43.旧信濃神社:間口が2本の柱で構成される、「一間社流れ造り」という様式で、神社建築によく用いられる。旧所在地は、長野県諏訪地方の出身者が中心となって開拓されたので信州開墾地とも呼ばれた。神社には信濃国一ノ宮諏訪大社の祭神である建御名方命を祀り、信濃神社と命名した。
 43.開拓のために入植した移住者達は数年の間苦しい開墾生活に耐えなければならなかったが、信濃神社は、建立以来長い間、移住者の心の支えとなり望郷の思いを慰めてきた。春祭りは5月15日、秋の例大祭は9月15日だった。穫り入れが一段落した秋のお祭りは、つらい農作業を過ごした村人にとって、数少ない娯楽の場でもあり盛大に行われた。内部には神具・祭具などを展示している。
 44.旧岩間家農家住宅:岩間家は旧仙台藩亘理領(宮城県亘理町)の士族移民団の一員として、明治4年(1871)2月に入植した畑作農家である。この建物は明治15年(1882)に郷里の大工によって建築され、構造・間取り共に仙台地方の特徴を受け継いでいる。旧領主が時おり立寄った由緒ある家である。
 44.旧岩間家農家住宅:小屋組は、太いヤチダモ材を多く用い、井げた状に交互に5段に組合わせて構成する形式である。間取りは、向かって左半分を土間、板間として広く取り、右側を「田の字形4間取り」とする。客間として使われた奥座敷は、旧藩主の伊達邦成が視察のために立寄った祭に休憩を取った部屋で、普段は殆ど使用していなかったとという。内部は明治後期における畑作農家の暮らしの様子を示している。
 45.旧河西家米倉:厚別地区での米作は、明治16年(1883)長野県からの移住者によって始められた。水田は付近の低湿地に造られ、明治20年代になり本格的に耕作されるようになった。この米倉は最初の移住者の一人である河西由蔵が建てたものを再現した。
 46.旧樋口家農家住宅:樋口家は富山県から移住した水田農家で、明治26年(1893)に入植し5年目にこの家を建てた。富山出身の棟梁に建築を依頼し郷里の建築様式であるワクノウチ造りを取り入れ、材料は近くの原始林から切り出したという。復元に際し、同じ建築様式の山口家の解体材もあわせて使用した。
 46.広間の天井に見られるように、太い木材を交互に組合せ、箱状の強固な骨組みを作る構造をワクノウチ造りという。客は表玄関から広間に案内され、家人は裏玄関から入る。納戸は寝室として使われ、ダシヤは味噌、漬物、農具などを収納するのに使われた。玄関を北側に向けることが多かった。内部には、大正期の水田農家の暮らしを展示している。
 47.旧小川家酪農畜舎:この畜舎は、大正末期に札幌農学校出身の小川三策がアメリカから取り寄せた設計図を参考に建築したもので、19世紀のアメリカで発達したバルーンフレーム構造が特徴である。また、軟石サイロはのちに厚別の農家より譲りうけて移築したものである。
 47.北海道で酪農業が盛んになった大正末期ごろの牛舎の内部である。早朝の乳搾りと餌を与えて乳牛を舎外へ放した後の様子が見える。牛の寝床は牛房と呼ばれ、ここでは前列に9頭、後列に3頭を搾乳牛と育成牛にわけてつながれた。牛飼いは乳牛の腹の下に入り、手搾りでバケツに搾乳した。生乳は綿布で漏され、輸送缶に詰め直ちに冷却された。敷きわらや糞はマニュアフォークで孤輪車に積み、舎外へ積んだ。
 50.森林鉄道機関庫:北海道庁は、大正8年度から拓殖計画に国有林の直営伐採事業を加え、木材搬出のための森林鉄道の敷設に着手した。その後、道内各地で建設が進められ、昭和初期には従来の流送にかわって鉄道運材が主流となり、機関車や貨車のほか、機関庫、貯木場も整備された。
 50.森林鉄道機関庫。
 50.森林鉄道ディーゼル機関車 形式:野村プリモス型 イスズDA43型エンジン 重量5t 製作昭和25年
 野村組工作所 履歴:大夕張営林署管轄の下夕張森林鉄道(昭和16年〜昭和41年)及び夕張岳森林鉄道(昭和18年〜昭和41年)で昭和41年の廃止まで稼働していた。
 50.森林鉄道ディーゼル機関車 形式:酒井F42型ボギー式 UD6型エンジン 重量:10t 製作:昭和31年
 履歴:昭和36年に上芦別営林署から大夕張営林署に移動し、同署管轄の下夕張森林鉄道(昭和16年〜昭和41年)で昭和41年の廃止まで稼働していた。
 50.森林鉄道貨車 製作:昭和28年 中川機械(株)
 履歴:昭和28年に上芦別営林署で購入、昭和34年に大夕張営林署へ移動し、同署管轄の下夕張森林鉄道(昭和16年〜昭和41年)及び夕張岳森林鉄道(昭和18年〜昭和41年)で昭和41年の廃止まで稼働していた。
 50.???
某所機関庫に眠る機関車(ネットには殆ど出てこないレアものです。)
 51旧平造材部飯場:この建物は、大正後期に下川村奥名寄の御料林内に建てられた造材飯場を再現した。造材飯場は、伐木・造材に携わった山子や集・運材作業に従事した藪出し、馬追いなどが山中で寝泊まりした小屋である。この飯場には山子と藪出しが生活し、馬追い飯場は別棟になっていた。
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出典: 北海道開拓の村ホームページ