更新日時 2010年11月01日

旧富岡製糸工場
 富岡製糸場(とみおかせいしじょう、Tomioka Silk Mill )は、群馬県富岡市にある日本初の器械製糸工場。官営模範工場の一つであり、明治5年10月4日(1872年11月4日)に操業を開始した。開国直後の日本にとって、利益が期待された輸出品は茶と絹(生糸)であった。だが、繭から生糸をつくる製糸工程は人力や前近代的な小規模な器具によるところが大きく、生産量が少ないフランスやイタリアよりも製品の質の面で大きく劣ると評されていた。このため、これらの国々と同様に大規模な器械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが殖産興業推進のためには欠かせないと考えられるようになっていった。明治政府は、お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナ(Paul Brunat)の指導でフランスから繰糸機や蒸気機関等を輸入し、養蚕業の盛んな富岡に日本初の器械製糸工場を設置した。日本側の責任者となって資材の調達や建設工事の総指揮をとったのは、初代所長になる尾高惇忠であった。当時は世界でも有数の規模であり、和田英ら数百人の工女が日本全国から集められた。工女の労働環境は充実しており、六工社など後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たした。ただし、当時大蔵民部省官吏として建設に尽力した渋沢栄一は後年自己批判も込めて、富岡の製糸は官による経営で採算性を無視できたから成功した側面もあり、日本の製糸の近代化に真に貢献したのは、富岡に刺激されて近代化を志した民間の人々であると書き記している。当初は民部省が設置し、大蔵省、内務省、農商務省と所管が移った。明治8年に日本人による操業が始まったが、大規模すぎたために十分な機能が果たされず、官営工業の払い下げ令により、明治26年(1893年)に三井家に払い下げられた。この間、日本で初めての洋式器械製糸場を前橋に作った速水堅曹が内務省に移り、2度、所長に就任、民営化されるまで操業を支えた。明治35年(1902年)には横浜の生糸商原合名会社(原富太郎)に渡り、昭和14年(1939年)、片倉製糸紡績会社(片倉工業)の所有となると昭和62年(1987年)3月5日まで約115年間操業を続けた。
富岡製糸場正門。
 操業翌年の明治6年(1873年)、明治天皇の要請により、皇后、皇太后ご一行が富岡製糸場を行啓なされた。それから70周年に当たる昭和18年(1943年)に、この行啓記念碑を建立した。高さ4.6m、重量5.34t、台石は女工が皇后から賜った扇をかたどっている。台石の上に置かれている台座の石は山波石である。「いと車 とくもめくりて大御代の 富をたくする道ひらけつつ」皇后が詠まれたこの歌には、製糸場の発展が日本の繁栄につながるへの期待感が表されている。
 東繭倉庫(東置繭所)(ひがしまゆそうこ(ひがしちさんじょ))「明治5年(1872)建築 長さ104.4m 幅12.3m 高さ14.8m「木骨レンガ造」という西洋レンガ積みの技術と、木で骨組みを組むという日本の建築方法を組み合わせ、建てられた建物である。使用されているレンガは、日本の瓦職人が隣町の甘楽町福島に窯を築いて焼き上げたもので、目地には下仁田の青倉、栗山で採取された石灰で作った漆喰が使用された。一階は事務所などに使用し、二階には乾燥させた繭を保管した。倉庫一棟には最大で2500石の繭を貯蔵することができる。
富岡製糸工場の煉瓦積み。 富岡製糸工場の全体模型。
東繭倉庫内の展示。
東繭倉庫内で繭から生糸を取り出す実演風景。
 生糸を作るために大量の繭を買い入れ、運ばれてきた繭を1階からベルトコンベアで2階に上げて乾燥させていた場所です。建物は最も古い部分が大正11年(1922年)に完成しており、その後昭和17年まで増築・改装が行われました。乾燥の目的は、繭の長期保存に備え、繭からカビが発生するのを防ぐことと、繭の中の蛹を殺すことである。建物の中には繭を乾燥させるための機械が6台設置されており、約5〜7時間かけて乾燥させた。繭の乾燥は115〜120℃ほどの高温から始め、徐々に温度を下げて最後は50℃程度で仕上げる。乾燥された繭は繭倉庫に運ばれて保管された。  西繭倉庫(長さ104.4m、幅12.3m、高さ14.8m、柱の一辺30.3cm)、木材で骨組みを作りレンガで壁を作る木骨レンガ造り、土台は石積み、レンガはフランス積み、東側側面にはバルコニーがあるモダンな建物です。1階は石炭置き場や糸取扱い、選繭場、2階は繭の保管庫として使われてきました。当時のまま、寸分のくるいもない状態で保存されています。
倉庫。 撮影に使われた椅子?
 煙突:昭和14年(1939年)建設 高さ37.5m 直径2.5m 現在の煙突は昭和14年に建設された鉄筋コンクリート製のものである。明治5年には高さ36mの鉄製の煙突が建てられた。現在の煙突と位置は異なる。4.4mのレンガ積みの上に、高さ1m 直径1.3mほどある鉄製の筒を積み上げ、四方に鎖を張って支えていた。この初代の煙突は、明治17年に暴風によって倒壊した。高い煙突が設けられたのは、石灰を燃やす際に発生する煙対策である。明治時代に使用された鉄製の煙突基部が、現在は井戸の囲いとして残されている。
 3号館:明治6年(1873年)建築 生糸や機械の検査を担当したフランス人男性の住居として建築された 木骨レンガ造二階建てベランダ付きの住宅である。後に改修され、現在は事務所として使用されている。二階には、皇族や明治政府の役人がここを訪れた際に使用したと言われている「貴賓室」がかつての状態のまま残されている。隣の2号館との連結部は当初のものではなく後に付設されており、元々この二棟は独立して建てられていた。
 富岡製糸場・2号館、当初はフランス人女子技術者の宿舎でしたが、その後は食堂や休憩室として使われてきました。赴任してきたフランス人は、ブリューナ首長はじめ土木技師、検査技師、機械技師、銅工技師、医師、指導女工など12名でした。全国から集められた日本人伝習工女は13歳〜25歳の若き優秀な子女、労働は日の出から日没までの8時間、週1日は休日、女工哀史に見られるような過酷な労働ではありませんでした。
繰糸場。
 繰糸場(そうしじょう)明治5年(1872年)建築 長さ140.4m 幅12.3m 高さ12.1m 富岡製糸場は、良い生糸を大量に生産できる器械製糸の技術を全国に広めるという役割を果たした。この繰糸場は、明治5年から操業停止の昭和62年(1987年)まで115年間に渡り生糸を生産した工場である。木骨レンガ造で内部に「トラス構造」という従来の日本にはない造り方が用いられている。窓はフランス製で、採光のために多く取り付けられている。創業当初はフランス製の繰糸器300台が設置され世界最大規模の工場であった。富岡製糸工場では、全国から集められた女性たちが働きながら器械製糸工業の発展に大きく貢献した。
倉庫。 糸の倉庫。
 ブリュナ館(首長館)「 明治6年(1873年)建築広さ約320坪の木骨レンガ造平屋建ての住宅である。高床で廻廊風のベランダを持つこの建物は、首長ボール・ブリューナ一家とそのメイドが住んでいた。ブリューナは明治8年(1875年)末の任期満了までここで生活していた。その後工女の夜学校や片倉富岡高等学園の校舎として利用された。そのため、内部は大幅な改造が加えられおり、当初の面影が少ない。現在の講堂となっている床下には、食料品貯蔵庫に使用したと思われるレンガ造りの地下室が三室残されている。
ブリュナ館(首長館)
片倉診療所。
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出典: 富岡市 富岡製糸工場 世界遺産推進ホームページ