更新日時 2014年04月19日

 呉市海事歴史科学館(くれし かいじれきしかがくかん)は、広島県呉市にある科学館。愛称は大和ミュージアム(やまとミュージアム)で、正式名称よりも愛称が広く定着している。明治時代以降の造船の街あるいは軍港・鎮守府としての呉の歴史や、基幹となった製鋼や造船などの科学技術を展示することを目的に、日露戦争・日本海海戦から100年目、太平洋戦争終戦から60年目にあたる2005年(平成17年)4月23日に開館した。開館から668日目の2007年(平成19年)5月20日に来館300万人目を、1443日目の2009年(平成21年)7月4日に来館500万人目を迎えた。呉市は「被爆地・ヒロシマ」に近接し、海上自衛隊と在日アメリカ陸軍の施設が現役で稼働している安全保障問題の現場としての土地柄、修学旅行生の平和学習の場としても活用されている。大和の模型の他、戦艦陸奥や重巡洋艦青葉に実際に搭載されていた主砲身、戦艦金剛の英ヴィッカース社から輸入した当時のボイラーや、戦艦陸奥の錨、航空戦艦日向のマストに掲揚されていた軍艦旗、零式艦上戦闘機六二型、“人間魚雷”回天10型(試作型)、特殊潜航艇「海龍」を展示の主体として、海軍兵器の実物が数多く展示されている。その他、実物の水中翼船である「金星」の屋外展示など、戦後の海事史についての展示物も充実している。
海上自衛隊呉史料館(鉄のくじら館)リンク
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)外観。
 戦艦陸奥の41センチ主砲身:戦艦「陸奥」に搭載された41センチ砲は呉海軍工廠で開発したもので「陸奥」の建造当時は世界最大の艦載砲であった。呉海軍工廠砲熕部が大正7年に量産初号砲を完成させ以降74門製造した。大正9年からは北海道室蘭において日本製鋼所も生産を開始し24門製造した。ここに展示されている砲は日本製鋼所の2号砲で大正10年に完成したもので戦艦「陸奥」には昭和11年に搭載された。この主砲の砲尾に「室2」が刻印されています。
戦艦陸奥のスクリュープロペラ。
 「しんかい HU-06」1977年に退役した後は、長らく「海上保安大学校」に保存展示されていましたが、2005年、「大和ミュージアム」に移設されました。最大潜航深度は600m。
 艦名「大和」は、旧国名の大和国に由来する。日本の歴史的原点として日本の代名詞ともなっている大和の名を冠されたことに、本艦にかかった期待の度合いが見て取れる。同様の名称として扶桑型戦艦がある。正式な呼称は“軍艦大和”。沈没してから半世紀以上が経過したが、本艦を題材とした映画やアニメが度々作られるなど、日本人に大きな影響を与え続けている。その存在が最高軍事機密であったうえ、戦争が始まってから完成したためにその姿をとらえた写真は非常に少なく、1941年(昭和16年)10月30日に撮影された「豊後水道で公試運転する勇姿」がもっとも有名である。当時の日本の最高技術を結集し建造され、戦艦として史上最大の排水量に史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した、桁外れの戦艦であった。建造期間の短縮、作業の高効率化を目指し採用されたブロック工法は大成功を納め、この大和型建造のための技術・効率的な生産管理は、戦後の日本工業の礎となり重要な意味をなす。戦艦大和の1/10模型。1/10模型ですが迫力有りますね。
企画特別展の大和艦橋を再現。 艤装中の戦艦「大和」
 零式艦上戦闘機は第二次世界大戦期における大日本帝国海軍の主力艦上戦闘機。零戦(ぜろせん)の略称で知られている。支那事変から太平洋戦争初期にかけて、2200kmに達する長大な航続距離・20mm機関砲2門の重武装・優れた格闘性能を生かして米英の戦闘機と優勢に戦い、戦局に寄与した。このため零戦は米英パイロットから「ゼロファイター」の名で恐れられた。大戦中期以降には、アメリカ陸海軍の対零戦戦法の確立やF4UコルセアやF6Fヘルキャットなど新鋭戦闘機の大量投入で劣勢となったが、後継機の開発の遅れによって、終戦まで日本海軍航空隊の主力戦闘機として運用された。また、用途も拡大して、爆撃、特攻といった任務でも使用された。開発元は三菱重工業。三菱のみならず中島飛行機でもライセンス生産され、総生産数の半数以上は中島製である。生産数は日本の戦闘機では最多の約10000機。
 特殊潜行艇「海龍」後期量産型。海龍は、大日本帝国海軍の特殊潜航艇の一種で、敵艦に対して魚雷若しくは体当りにより攻撃を行う二人乗りの有翼特殊潜航艇・水中特攻兵器である。海軍工作学校教官、浅野卯一郎機関中佐(海機)の発案で開発された。SS金物とも呼ばれた。本土決戦用の特攻兵器として開発され、飛行機の部品などを使って横須賀の海軍工廠などで、1945年(昭和20年)に全部で200隻が建造された。通常の潜水艦と異なり、翼を有し、飛行機のように上昇と下降を行うため、構造が単純で建造を短期間に行うことができた。終戦により、本土決戦が回避されたため実戦に投入されることはなかったが、海龍が攻撃された例はある。
 「回天」十型。試作型。回天(かいてん)は、太平洋戦争で大日本帝国海軍が開発した人間魚雷であり、最初の特攻兵器。1944年7月に2機の試作機が完成し、同年8月1日に正式採用され、11月8日に初めて実戦に投入された。終戦までに420機が生産された。回天は超大型魚雷「九三式三型魚雷(酸素魚雷)」を転用し、特攻兵器としたものである。九三式三型魚雷は直径61cm、重量2.8t、炸薬量780kg、時速48ノットで疾走する無航跡魚雷で、主に駆逐艦に搭載された。回天はこの酸素魚雷を改造した全長14.7m、直径1m、排水量8tの兵器で、魚雷の本体に外筒を被せて気蓄タンク(酸素)の間に一人乗りのスペースを設け、簡単な操船装置や調整バルブ、襲撃用の潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5tとした場合、最高速度は時速55km/hで23キロメートルの航続力があった。ハッチは内部から開閉可能であったが、脱出装置はなく、一度出撃すれば攻撃の成否にかかわらず乗員の命はなかった。靖国神社の「遊就館」にも展示されている。
二式魚雷。 九三式魚雷のエンジン部分。
砲弾と砲身。
番組撮影用甲標的内部セット。 潜水艦の艦橋模型。
30万トン級タンカーの1/10船体模型。 子供の遊び場もあります。
三式13mm機関銃。 長官艇(15m内火艇)
 戦艦「金剛」に搭載されたヤーロー式ボイラー:戦艦「金剛」では、日本が技術導入のために外国に発注した最後の主力艦で、イギリスのヴィッカース社において大正2年(1913年)8月16日、巡洋戦艦として竣工しました。当時、「金剛」には重油と石炭混焼のヤーロー式ボイラーが36基搭載されていました。ヤーロー式ボイラーは、イギリスのヤーロー社が開発したもので、20世紀初頭の世界の代表的な艦艇用ボイラーでした。昭和3年(1928年)12月〜昭和6年(1931年)3月の横須賀海軍工廠における近代化改装のおり、戦艦「金剛」より撤去され戦前は東京の海軍技術研究所、戦後は科学技術庁の金属材料研究所の建物の暖房用ボイラーとして平成5年(1993年)まで使用されていたものです。
技術習得の時代。 軍縮条約の終わり。
呉鎮守府。 海軍により敷設された水道管の一部。
玄関昇降口正面に使われた赤煉瓦。 戦艦の主砲塔。
戦艦「レッドノート」 戦艦「金剛」
戦艦大和の海底の状況。 呉市街電車。
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出典: 呉市海事歴史科学館
呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)