更新日時 2013年11月02日

足尾銅山観光
 足尾銅山観光がオープンしたのは、1980年(昭和55年)4月。400年続いた銅山の閉山を機に、その内部を開放し、そこで働いた人々の姿をとおして、銅山の歴史や仕組みを知ることができます。平成13年4月14日、トロッコも新しく生まれ変わり、リニューアルオープン致しました。全長700mの坑内は400年間の歴史がそのまま生きている博物館。足尾銅山観光は“日本一の鉱都”とよばれた足尾銅山の再現をはかって始められた国内最大の坑内観光です。
 足尾銅山(あしおどうざん)は栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山(鉱山)。「足尾銅山跡」として国の史跡に指定されている。明治期には亜砒酸も産出し、世界恐慌時代には硫酸も産出した。1550年(天文19年)に発見と伝えられているが、本格的に採掘が開始されたのは江戸時代からである。当時、足尾銅山は大いに栄え、足尾の町は「足尾千軒」と言われるような発展を見せ、当時の代表的な通貨である寛永通宝が鋳造されたこともある。江戸時代にはピーク時で年間1,200トンもの銅を産出していた。その後一時採掘量が極度に減少し、幕末から明治時代初期にかけてはほぼ閉山状態となっていた。明治4年(1871年)には民営化されたが銅の産出量は年間150トンにまで落ち込んでいた。足尾銅山の将来性に悲観的な意見が多い中、1877年(明治10年)に古河市兵衛は足尾銅山の経営に着手、数年間は全く成果が出なかったが、1881年(明治14年)に待望の有望鉱脈を発見。その後探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見され、20世紀初頭には日本の銅産出量の1/4を担うほどの大鉱山に成長した。しかし、急激な鉱山開発は足尾鉱毒事件に見られる公害を引き起こし、下流域の住民を苦しめることとなった。これを見かねた田中正造は立ち上がり、この問題に対し懸命に取り組んだ。1973年(昭和48年)2月28日をもって操業を停止し閉山した。現在は足尾銅山観光などの観光地となっている。閉山後も輸入鉱石による製錬事業は続けられたが、1989年(平成元年)にJR足尾線の貨物輸送が廃止されて以降は鉱石からの製錬事業を事実上停止し、2008年(平成20年)時点では、製錬施設を利用しての産業廃棄物(廃酸、廃アルカリ等)リサイクル事業を行っているのみである。
足尾銅山観光入口。  通路に足字銭が・・・寛永通寶の裏に足の字が書かれているのは足尾銅山製。
入場料大人800円。年中無休。 足尾銅山観光トロッコは15分おきに出ている。
足尾銅山観光トロッコ乗り場。
先頭に牽引車が有るので、最後部のトロッコに景色を撮影出来るように乗った。
最後部で順調に撮影と思いきや・・・
中間駅で牽引車を切り離し、単独で坑内へ叫び・・・失敗ダウン
トロッコ列車で通洞坑内へ。
通洞坑内の降車場。
 坑道の長さは昭和の閉山までの間に、銅山内部には鉱石の採取のため縦、横に数多くの坑道が掘られました。通洞抗口からは、電車坑道のレールが奥へ6.5q続き、途中から様々な所へ坑道が続いていきます。坑道全体は上下に延びながら何層にもつながっていて、上に20番(約600m)、下に16番(約540m)もの高低差を持っています。また、全部の坑道をつなぎ合わせると「総延長は約1,200q」にもなり、これは東京から九州博多までの距離に相当します。
 江戸時代(1610年〜1867年)足尾銅山は慶長15年(1610年)足尾村の二人の農民によって発見された。後に江戸幕府直営の銅山として代官所が設けられ、代官の監督の下、銅山師が多くの労働者を使って採掘と精錬を行いました。坑内の作業者にはそれぞれの役割分担があり、槌とタガネで鉱石を掘る「堀り大工」、鉱石を選り分けて運び出す「手子」や「負夫」、坑道の支柱をする「留大工」などおよそ530名の労働者が働いていました。しかし、作業は全て手作業によるもので大変厳しいものでした。
手堀抗夫。 車を押す人夫。
負夫。 役人?
負夫。
自然の沈殿銅。 手堀抗夫。
水替人夫。
鉄さび地帯。 明治・大正時代
 明治10年(1877年)「古河市兵衛」により民営化され、最新の技術や設備によって鉱山施設の電化、近代化が進められ急速な発展を遂げました。明治20年代には国内全生産銅の40%以上を産出する日本一の銅山となり、日本の近代化に大きく貢献しました。しかし、一方では「公害問題」を起こし周辺地域に多大な被害を及ぼしてしまいました。大正時代になると「足尾式鑿岩機」が考案され、手堀から機械堀りへと変り、作業効率が上がりました。また、「桐生〜足尾間の鉄道」も開通し、馬車に代わる輸送機関として大きな役割を果たしました。
 沈殿銅の採取。地下水が鉱脈を通るときそこの含まれる銅分を溶かし、硫酸銅となってしみ出してきます。その濃度の高い硫酸銅溶液を集め沈殿銅を採取します。 車夫。
抗夫。
坑内。 岩肌青色地帯。
 昭和時代になると機械化、合理化がさらに進み、また労働環境も少しずつ改善されていきました。新しく坑道を切り開いたり、鉱石を採掘する作業には「新式鑿岩機」が採用されました。鑿岩機であけた穴に「発破」をかけて岩盤を砕きながら進み、砕かれた鉱石は鉱車で選鉱場へと運ばれました。昭和23年には「重液精錬法」を日本で最初に精錬所に取り入れるなど、技術の分野で大きく貢献しました。
実際に鉱山で使われていたトロッコの様ですね。現在は錆び付いて重くて動きません(笑)
新式鑿岩機を使って鑿岩している様子。
喫飯所で休憩する抗夫。 坑道内。
開運洞。当時からの神社それとも観光用? 右写真の白いのは幽霊?叫び
支柱夫(留大工)
坑内に銅資料館有る。
バッテリー荷取詰所。 横間歩立坑。
 足尾銅山では、1885年(明治18年)「本口抗〜精錬所」間にドゴビール式軽便鉄道を敷設し運搬作業の効率化を図りました。また、1891年(明治24年)には国内初の電気鉄道を「山本〜精錬所」間に敷設し、自家製の電車を使用し実用化させました。ドゴビール式軽便鉄道は鉄板の枕木とレールを固定した軌道を傾斜地に敷設し、上部に滑車を設けロープで荷物を積んだトロッコが自重で上下するものでした。この装置により地形の段差が解消されました。これはインクラインとも呼ばれ、現代のケーブルカーの一種です。
足尾銅山精錬所模型。 銅インゴット。純度99.9%前後で重量は20s。
資料館を見終わると出口へ。
江戸時代の選鉱・精錬作業。(屋外展示場)
足尾A型(架線式電気機関車)
蓄電池機関車(日本輸送機製造)
蓄電池機関車(日本輸送機製造)
バケットローダー(大空機械製造)
 鋳銭座。寛永通宝は江戸末期まで各地で造られましたそのうち足尾で造られた寛永通宝には全て裏に「足」の字が刻まれ、「足字銭」と呼ばれています。
出勤時の中門改め 量目改め・大吹所
種銭(母銭)づくり・小吹所 小吹所(銭型づくり)
小吹所(地金の流し込み) 小吹所(鋳放し銭づくり)
小吹所(切り離し) 選別場
ヤスリ場 煮洗い場(洗滌)
研場 検査場
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出典: 足尾銅山観光(足尾観光協会HP)