更新日時 2016年01月11日

 石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市にある、戦国時代後期から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山(現在は閉山)である。当時世界の銀の3割を産出したと推定される。大森銀山(おおもりぎんざん)とも呼ばれ、江戸時代初期は佐摩銀山(さまぎんざん)と呼ばれた。石見銀山の間歩群では、「龍源寺間歩」をはじめ、「釜屋間歩」、「新切間歩」、「大久保間歩」、「福神山間歩」、「本間歩」、「新横相間歩」の7つの間歩が国の史跡として登録されています。明治期以降は銅などの鉱物が主に採鉱された。鉱脈は石見国東部、現在の島根県大田市大森の地を中心とし、同市仁摩町や温泉津町にも広がっていた。日本を代表する鉱山遺跡として1969年(昭和44年)に国によって史跡に指定。2007年(平成19年)6月28日にニュージーランドのクライストチャーチで開催されていた世界遺産委員会でユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決まり、7月2日に正式登録された。一般に銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用木材が必要とされたが、石見銀山では適切な森林の管理がなされたことにより環境への負荷の少ない開発がなされ、今日に至るまで銀山一帯には広葉樹などを含む森林が残されてきている点が特に評価されている。2007年には日本の地質百選にも選定されている。初期には仙ノ山山頂付近から自然銀に富む福石(ふくいし)が主に産出し、開発が進行するにつれ地下深くなり、銀を多く含む黄銅鉱、黄鉄鉱、方鉛鉱などの永久鉱床(えいきゅうこうしょう)の採掘に移行していった。
城上神社。 城上神社相生の松。
基準点(第30号)昭和3年設置。全国に80点有る。 西南之役戦没者記念碑。
 石見銀山資料館(大森代官所跡)世界遺産石見銀山遺跡とその文化的景観:石見銀山は1526年(大永6年)に博多商人の神屋寿禎によって本格的に開発され、続く1533年(天文2年)には灰吹法という銀製錬技術を導入して銀生産を本格化させました。生産された銀はいちはやく海外に輸出され、大航海時代以降におけるアジアとヨーロッパとの経済的、文化的交流の礎となったと言われています。また銀生産の拠点となった銀鉱山とそれを繋ぐ街道や港などの遺跡は、当時の鉱山運営全体像を良好に残しており、それらが周囲の美しい自然と一体となって優れた文化的景観を形成しています。このような価値が評価され2007年7月2日、国内では14番目の世界遺産として登録されました。
石見銀山大森町の町並み。 郷原医院。現役の診療所です。
 熊谷家住宅:熊谷家は、文献によると17世紀に石見銀山の経営に携わり、その後掛屋や郷宿、代官所の御用達を勤めたことが知られている。当主は代々役人(年寄職)を勤めていた。主屋は寛政12年(1800年)の大火後の享和元年(1801年)の建築で、幕府巡見使の公用宿や町役人としての用向き、御用達などの商用や日常生活にあてたと考えられる。町並みの中で最も規模が大きく質の優れた民家建築で、有力商人の身分や生活の変遷をよく示した建物として高い価値が認められる。
山陰合同銀行。銀行も昔ながらの建物。 石見銀山御料郷宿田儀屋遺宅:青山家。
石見銀山大森町の町並み。 ひろた屋。
中村製パン店。 釜飯屋。
石見銀山大森郵便局。建物は新しそうだが、町並みに溶け込んでいる。
石見銀山大森町の町並み。
 石城山観世音寺:岩山の上にあり、江戸時代には大森代官所が銀山隆盛を祈願するための祈願時でした。本堂の他山門と鐘楼が残されています。町並みの大半が焼失した「寛政の大火」寛政12年(1800年)により観世音寺も全ての建物が焼失しました。その為、もとの創建年は不詳ですが、現在の本堂や山門は万延元年(1960年)に再建された物です。宝暦年間(1751年〜1763年)にこの観世音寺の住職であった月海浄印は、銀山で亡くなった人々の供養のため、五百羅漢を造営するとともに羅漢寺を建立し、自ら住職となりました。山門の仁王像は、江戸後期に造られた像が老朽化したため、昭和55年(1980年)に再建された物です。
旧大森區裁判所。 石見銀山鶴の石。
 石見銀山代官所地役人遺宅(旧河島家)建物は、代官所の銀山方役所に勤務する銀山附地役人河島氏の居宅であった。初代三郎右衛門は安芸国(広島県)出身で、慶長15年(1610年)初代奉行大久保石見守に銀山附地役人として召抱えられ、子孫は代々銀山の支配に携わった。建物は寛政12年(1800年)の大火以降の建築であるが、主屋を敷地奥に建て、通りに面して土塀を廻らせ前庭を設け、大戸口の右手に式台を設けるなど、武家の住まいの基本形をよく残している。大森町役場や警察所、農協支所などに利用された後、平成2年に大田市所有となり、半解体修理を行い平成4年(1992年)春に竣工した。
石見銀山大森町の町並み。 有馬光栄堂。
石見銀山大森町の町並み。
中国電力 古民家再 生石見あすみ館。築120年の古民家を再生しオール電化住宅として甦られました。
石見銀山代官所地役人遺宅(三宅家) 榮泉寺。
石見銀山代官所地役人遺宅(阿部家) 朝日屋。
銅工芸。 石見銀山御料郷宿泉屋遺宅(金森家)
自販機も町並みに溶け込んでいます。 石見銀山大森町の町並み。
堀越のり「田舎に泊まろう」、鶴瓶「家族に乾杯」撮影の店。ごま豆腐製造直売所。田中商店。
石見銀山代官所地役人遺宅(渡辺家)
 この建物は代官所の銀山方役所に勤務する銀山附地役人坂本氏の居宅であった。初代清左衛門は石見国出身で、慶長9年(1604年)初代奉行大久保石見守により銀山附地役人として召抱えられ、子孫は代々銀山の支配に携わった。通りに面して土塀を廻らせ前庭を設け、奥に主屋を配置する武家屋敷の特徴をよく伝えている。また大きな改造を受けておらず、大戸口の右手には式台が残されている。座敷は6間取りに裏座敷(小座敷)、廊下続きに土蔵がある。旧銀山町(銀山柵内)に残る唯一の地役人の居宅である。
大田市立大森小学校。
 西本寺山門:西本寺は元西本坊と称し、江戸時代初期の寛永年間に銀山の熊谷宗右衛門尉直政の請により六世空乗の代に出雲国神門郡白枝村から現在地に移転したと伝わる浄土真宗本願寺派の寺院です。この山門は、一対二本の丸い親柱と前後四本の角控柱からなる四脚門で、17世紀初頭の特徴をそなえた優品です。山門は銀山川対岸にあった曹洞宗龍昌寺にありましたが、昭和36年に現在地へ移築されました。龍昌寺は慶長9年(1604年)に伽藍を造営したとの記録があり、この門もこの時に新築されたものと推定されます。
豊栄神社:ご祭神は戦国時代石見銀山を14年間領有した安芸国(広島県)郡山城主元就です。
五百羅漢拝観受付所。 羅漢寺本堂。
 宝暦年間(一七五一〜六三)石見銀山付役人中山庄兵衛賀光と中場五郎左衛門定政は観世音寺の月海浄印に帰依し、浄印の発願による石窟五百羅漢を造営して銀山で亡くなった人々の霊と先祖の霊を供養するため当時の大森代官川崎平右衛門定孝及び代官所役人、銀山御料内の村々、更に八代将軍吉宗の次男、田安中納言宗武の援助をうけて江戸城大奥の女中など多くの人々の寄進により明治三年(一七六六)三月、二五年の歳月をかけて完成した。 完成に先立つ明治元年(一七六四)には石窟の正面に羅漢寺を建立して月海浄印が初代の住職となった。
 境内には、もと銀山にあった医王山歓喜院薬師寺を移し本尊をお祭りしている。 石工、坪内平七〔明和四(一七六七)〜寛政一〇(一七九八)〕 五百羅漢の作者、坪内平七は号を利忠という。邇摩郡福光(温泉津町福光)の石工で、大森石窟を始め反り橋など、すべて平七の設計により石像は主に本人が制作し、そのほかは坪内家一門とその弟子の手になると伝えられている。 坪内本家は屋号を面屋という。始祖を坪内弥惣兵衛、三代を経て平七は分家組屋を創設し現在九代を数える。 本家堂面家を始め一門は福光石工の中心的存在として代々栄えた。 反り橋(そりばし) 福光石を十五枚組み合わせて作られた三基の橋で、石窟の前を流れる銀山川の支流に架かっており当時のまま現在に至っています。
 羅漢寺と五百羅漢の由来 :石見銀山遺跡にユニークな雰囲気を作る石窟五百羅漢は、 1741年〜 1743年に月海浄印というお方が発願されました。 昔銀山で働いて亡くなった人々の霊を供養するためにと我々の祖先の人々、大森代官所の役人、当時の代官、八代将軍徳川吉宗の次男田安中納言宗武卿(むねたけきょう)の援助で田安家奥御殿の女中など多くの人々の寄進により明和 3年(1766) 3月、25年も掛けて完成しました。 また、これに併せて五百羅漢を護るために無量寿院(むりょうじゅいん)羅漢寺を建立し、御本尊阿弥陀(無量寿)如来、不動明王、愛染明王、過去・現在・未来の三世の悪因を断除される降三世(ごうさんぜ)明王(秘仏 / 文化財)、国家平安と衆生擁護をつかさどる大元師(だいげんすい)明王(秘仏 / 文化財)を安置しております。
 大宝筐印塔(だいほうきょういんとう) :国指定文化財 高さ三間余り(5.5m )五百羅漢建立に協力された田安中納言宗武卿の菩提を供養するために夫人とその子、田安斉臣卿が明和8年に建立したものです。宝筐印塔は、中国の呉越(ごえつ)王・銭弘俶(せんこうしゅく)が延命を願って、諸国に立てた8万4千塔の形をまねて簡略化したものだとされており、もともとは密教系の石塔でしたが、日本では鎌倉時代中期以降、宗派を超え各地で造立されるようになりました。滅罪や延命などの利益から、追善(死後に供養すること)・逆修(生前にあらかじめ供養を済ませること)の供養塔、墓碑塔として五輪塔と共に多く造立されたようです。宝筐印塔は、その形により関東形式、関西形式に分けられますが、羅漢寺に建立されているのは関西形式です。
 三百水 :この地に五百羅漢が建立されるはるか昔から流れ出る湧き水で、450年余りの歴史をもちます。当時、土地の人々はこの水を桶で担いで銀山に「一荷三百文」で売り歩いたことから三百水の名が付けられました。渇水時にも枯れることなく湧き出す清水は「島根の名水100選」にも選ばれている清冽無比の霊水です。 水の粒子(クラスター)が非常に細かく、体への浸透率が高いと言われます。容器はお寺でも販売しておりますが、お持ち帰りの容器(ペットボトル等)をご持参いただければご自由にお持ち帰りいただけます。
 五百羅漢建立の由来 :天領期(江戸時代)、石見銀山御料四万八千石の中心地、大森町三百水の地に五百羅漢が出来上がったのは明和3年(1766年)3月である。 五百羅漢の発創は時期的には判然としないが、およそ元文年間(1736年〜1740年)の頃、大森代官所役人で同心を勤める中場五郎左衛門定政で、定政はある日、大森町の中心部の岩山にある観世音寺(真言宗代官所の祈願所)へ参詣し、そこの石像十六羅漢を拝んで、「これを生して五百躯の羅漢を安置したら、さぞ壮観であろう」と住職の月海上人に話したことから、数年を経て代官関忠太夫が赴任(1737年〜1744年)、亡夫の冥福を祈るためと一躯を寄進し、続いて関代官所係のもの三躯が寄進され、これが五百羅漢の発端となった。羅漢は正式には阿羅漢といい、佛教の究極の悟りに到達し、人々から尊敬・供養を受けるのに合いふさわしい境地に至ったものを言います。小乗佛教では佛弟子の最高の境地をさし、佛とは区別して使われていますが、中国や日本では十六羅漢などが知られています。 五百羅漢像はすべて福光産(現在の大田市温泉津町福光)の石像で笑っているもの、泣いているもの、説法をしているもの、天空を仰いでいるもの、布袋和尚に似ているもの、太っているもの、痩せているもの、等様々の面相と姿態は石見銀山御料内の福光村石工、坪内平七一門の手によって二十余年間の歳月が費やされて完成したものである。
 五百羅漢像 :羅漢像は現在の温泉津町福光の石工(いしく)坪内平七、その子及び一門の人々が約 20年の歳月をかけて彫像したもので、それぞれ背面または裏面に寄進された人の名と年月日が刻まれています。 さまざまな表情と姿勢をされていますが、当時の人々はここにお参りすれば亡くなった父や母、わが子の面影に会えるといって善男善女が近郷近在から集まったといわれています。 なお、五百羅漢とは、お釈迦様に従っていた五百人の弟子のことで、世間一般の感情や欲望はすべて超越しているが仏、菩薩の境地には未だ到達せず我々人間と仏との間の存在です。
石見銀山立体地図。 大田市観光協会。
行きは銀山川沿いの遊歩道を行きます。
遊歩道には昨日の雪が残っている。
 妙正寺:日蓮宗明覚寺派のお寺です。もと清水谷にあった本迹院を、永正11年(1514年)に本身山妙正寺と号し、この地に再興したと伝わっています。昭和18年(1943年)の大水害で本堂などの建物は倒壊しましたが、近年本堂が再建されました。境内地とその背後の丘陵斜面には墓地群が広範囲にあり、戦国時代から昭和初期にかけて559基の墓石が確認されています。江戸時代、石見銀山領内では、日蓮宗は商工業者を中心に信仰されたようで、寛政元年(1789年)の記録によれば、銀山町5ヶ寺の日蓮宗寺院がありました。
銀山川沿いの遊歩道。
 大安寺跡:浄土宗鎮西派のお寺です。大久保石見守長安の菩提寺として慶長10年(1605年)に建立されたと伝えられています。境内地の墓石は115基あり、寺の創建年と一致するものもあります。その後、建物は明治8年(1875年)に再建され、昭和18年(1943年)の水害で大破し、極楽寺に合併しました。石段を上がるとすぐに「大久保石見守墓所」と書かれた標石があり、石段の奥には「正覚山大安寺」の標石があります。境内の大久保石見守墓は、寛政6年(1794年)に長安の功績を讃える隣の石碑と共に再建されたものです。それ以前の墓は近くで破片になっている大型の宝篋印塔と推定され、復元すると高さおよそ2mとなります。
銀山川沿いの遊歩道。
 銀山大盛祈願道場碑:銀山では鉱山の発展を祈願する場所として佐昆売山神社と共に龍昌寺と観世音寺(大森町)が指定され、その石碑が左写真。石碑に向かって左側の面に「嘉永2年」(1849年)の銘があり、大盛祈願の大修法がこの年に行われたようです。いつから祈願時となったのか不明ですが、祈祷は毎年正月20日の大般若経転読をもって行われていました。この場所から右に続く道を上がって行くと、祈願道場に指定された龍昌寺があります。
 龍昌寺跡:龍昌寺は曹洞宗のお寺で山号を玉峰山といいます。応永年中(1394年〜1438年)に仙ノ山山中に開かれ、寛正年中(1460年〜1466年)に山吹城中の内寺になったと伝えられています。大永7年(1527年)に「瀧照寺」となり、さらに慶長9年(1604年)にこの境内地に移され、翌慶長10年(1605年)「龍昌寺」と改めたといわれています。(現在は久利町に所在)奉行代官墓所ともなり、境内に存在しています。また、石見銀山の墓石でも古い部類の元亀3年(1572年)の銘をはじめとする墓石群が確認されています。龍昌寺の由緒には龍昌寺境内における殺生、竹木伐採、放火の禁止を内容とする大久保長安が発した制札の写しがあり、龍昌寺が石見銀山のなかでも有力寺院の一つであったことを物語っています。
安養寺。 製錬所跡入口。
 徳川幕府が崩壊し、明治時代になると、石見銀山では、一部の既存の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採鉱がかろうじて続いていましたが、本格的な銀生産の再開は、明治19年(1886年)に萩出身の藤田伝三郎たちが起業した大阪の藤田組(現在の同和鉱業株式会社の前身)による採掘権(借区権)の入手をまちます。藤田組は、仙ノ山の南側の本谷地区の福石鉱床の金銀含有率と量に着目し、それによる銀生産を計画、明治27年(1894年)に武田恭作氏(当時東京帝国大学冶金学科学生)の設計による近代的な銀の製錬所の建設を開始し、20万円の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始しました。この製錬所には、下記写真のような施設群があり、福石鉱床で採掘した原料の鉱石は、新たに掘削した金生坑と拡張した既存の蔵之丞間歩を通って製錬所の最上段までトロッコで運んでいた状況をうかがい知ることができます。鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の精錬能力も充分でなかったことから不採算となり、明治29年10月に開始からわずか1年半で操業を停止しました。その後、藤田組は柑子谷に永久製錬所を新たに建設し、銅生産を中心に大正12年(1923年)まで操業しました。
製錬所遠景。 当時の清水谷製錬所。
清水谷製錬所跡。
選鉱場と清水谷製錬所間のトロッコ軌道跡。
選鉱場と清水谷製錬所間のトロッコ軌道跡。
駒沢坑。間歩番号不明。
 選鉱場跡:石見銀山は明治時代になると民間会社藤田組による鉱山経営が行われます。明治28年(1895年)には清水谷に製錬所、選鉱場が建設されそれらを結ぶトロッコ道がつくられました。仙ノ山・本谷にある大久保間歩で採掘された銀鉱石は、トロッコで蔵之丞坑道を通ってこの選鉱場に運ばれました。ここでは鉱石を機械で砕き、鉱石とズリ(不要な石)に選別する作業が行われました。そして選鉱された鉱石はシュート(鉱石を落とす装置)によって斜面下の平坦地に落とされ、そこで再びトロッコに積まれて製錬所に運ばれ精錬が行われました。選鉱場跡には機械を設置したレンガ造りの土台、シュートを設置した平坦地、石垣などが良くのこっています。また、東側には、石見銀山の開発と関わり有る清水寺の跡があります。
シュート跡。
蔵之丞間歩と選鉱場間のトロッコ軌道跡。
選鉱場上の間歩番号508。水が溜まっている。
清水寺跡。
銀山川沿いの道。
 元神宮寺(佐昆売山神社の別当寺)の山門であったが、昭和6年3月に清水寺と合併し移築したものである。山門の正面の桁にかかる偏額は57代目の代官加藤餘十郎の筆によるもので「銀華厳」「万延元年12月、加藤清風書」と刻んである。
 山門の左脇(向かって右側)に石造不動明王立像、右脇(向かって左側)に石造毘沙門天立像が安置してある。これらはいづれも福光石彩色がほどこしてあり、江戸末期のものと推定される。
銀山川沿いの道。
 新切間歩:江戸時代、採掘操業の場所を「山」、坑道を「間歩」と呼んでいました。石見銀山の間歩(坑道)は、元禄4年(1691年)には92箇所でしたが、文政6年(1823年)の古文書によると新旧併せて279箇所とされ、最近の現地調査では、、空気抜きなどを合わせると、500箇所を超える坑道を確認しています。この新切間歩は、幕府代官所直営の「御直山」と呼んだ間歩の一つで、正徳5年(1715年)、代官鈴木八右衛門のときに開発し、最初は疎水坑(水抜き坑)として掘ったもののようです。江戸時代後期には、坑口から520mまで掘り進んでいましたが、、その後休山となりました。銀山の間歩の中では、最も大森町に近く、標高も低い場所にあったものです。現在、中に入ることは出来ませんが、常時出水していることからも水抜き坑であったことがわかります。
 吉岡出雲墓:戦国時代毛利家の銀山付役人だった吉岡隼人は慶長5年(1600年)11月、徳川家康の命令で石見へ下った代官頭大久保十兵長安に切米百俵で召し抱えられ、銀山の採掘を担当することになった。慶長6年(1601年)関東へ帰国する大久保長安に伴われて江戸に着いた隼人は11月に15人扶持が与えられ家康にお目見得して銀杏葉雪輪散辻が花染胴服と惟子(国指定重要文化財)を拝領「出雲」の称号を与えられた。慶長8年(1608年)7月になり、長安は初代奉行石見守となって2万石を拝領したが、その内から500石を吉岡出雲の知行地として預けられた。吉岡出雲は銀山担当者として石見、伊豆、佐渡などの銀山鉱脈の発見、採掘技術の普及指導 に敏腕を震った。 吉岡出雲の墓は石見銀山仙ノ山山麓、旧極楽寺の境内地にある。墓石は宝筐印塔で高さ79p、塔身の幅は55p、塔身の正面には「先雲州信広院殿大譽宗弼居士」と刻んでいる。この墓は吉岡家8代目の幡五郎良勝が文化10年(1813年)200回忌にちなんで再建したものである。
義二郎武田君之碣。 平坦地。瓦や流しが残る。
間歩番号562。
福神山間歩。 間歩番号459。
 福神山間歩。間歩番号460。この間歩(坑道)は、採掘にあたった山師個人が経営した自分山(じぶんやま)のものですが、一時期、代官川崎市之進(かわさきいちのしん1767〜1778年)のころには、代官直営の御直山(おじきやま)の坑道になったこともありました。御直山は天保15年(1844年)には23か所まで増えますが、自分山は享保14年(1730年)に55か所もあったものが、天保15年には9か所となってしまいます。石見銀山には主な鉱脈が23本あったと伝えられおり、そこから岩盤の亀裂に沿って30p前後の幅で鉱石を含んだ支脈が延びていました。 この間歩は坑口が3か所あって、上段の坑は空気抜(ぬ)き坑、下段の2坑は中でつながり、説明板のある道路の下2mほどのところを通って銀山川の下をくぐり、後ろにそびえる銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に堀り進んだと伝えられ、仙山(せんのやま)の逆方向へ向かって坑口が開いている珍しい間歩です。
間歩番号461。
銀山茶屋。 輪タク。
 石見銀山御料銀山町年寄山組頭遺宅(高橋家):文献によれば天保10年(1839年)頃、当家の高橋富三郎が町年寄山組頭を勤めたことが分かっている。山組頭は、代官所と鉱山経営者である銀山師の中から選ばれました。また、町年寄は、周囲に拡がっていた銀山経営に携わる人たちが住む町の運営に係る役職であった。建物は通りに面して主屋があり、北側に茶室、南側に離れ座敷を設けている。
甘南備坑。間歩番号468。
 間歩番号475。この間歩を覗いた後、気を失いそうになった。硫化水素か一酸化炭素DASH!でも充満していたのだろうか?間歩を覗く時は注意してください。叫び
龍源寺間歩を出たところの遺跡。 石見銀山 石州堂。
文禄銀。
灰吹銀。これ買いました。 丁銀。
銀製小判のレプリカ(銀の小判は実在しない)
間歩番号477。
間歩番号229。
新横相間歩と周辺の平坦地。
 新横相間歩。間歩番号230。「横相」は、鉉と呼ばれた鉱脈を追いかけて掘り進む「ひ押し」という技術に対して、鉱脈の方向をあらかじめ調査して、鉉の方向に直行するように横から坑道を堀り、坑内で掘り当てた鉉を掘り進む採掘の技術です。「ひ押し」は、地中深く掘るにつれ地下水が湧き上がり、作業が出来なくなりますが、「横相」は、排水を兼ねた水平坑道なので、坑内にたまった地下水が処理できるようになりました。
 石見銀山遺跡佐昆売山神社:別名で「山神社」といい鉱夫たちや里人からは「山神さん」と呼ばれて親しまれています。このご祭神は鉱山の護り神様である金山彦命です。永享6年(1434年)室町幕府6代将軍足利義教の命によって周防(山口県)国守大内時世は美濃郡益田(益田市)からご分霊を移し祀ったと伝えられています。戦国時代鉱山を領有した武将大内氏、尼子氏、毛利氏などは崇敬して数々の寄進や社殿建立を行い武運長久と銀山の盛山を祈願しました。江戸期に入って徳川家康の石見銀山奉行として入山した大久保石見守長安は50石の社領を寄進して毎年正月10日には銀山の大盛を祈願して崇敬しました。社殿は文政元年(1818年)の大火で焼失しましたが、翌2年(1819年)には代官所の援助を得て、本殿、幣殿、拝殿、神楽殿などが再建されました。特に拝殿の重層屋根は天領特有なのです。
大久保間歩 龍源寺間歩 石見鉱山
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
出典:島根県大田市教育委員会石見銀山課
出典:大田市観光協会事務局
出典:高野山真言宗 石室山 無量寿院 五百羅漢 羅漢寺
世界遺産石見銀山遺跡とその文化的景観